お屋敷の母屋取り壊しについて、11月の本部月次祭の神殿講話で話が出た。
その時に「復元」のお屋敷建物変遷図があった事をおもいだしたので、
ここに記しておく。
「復元」2号 教祖御伝稿案1 p59
庄屋敷図1部(明治10年頃)
ここに春日大社と池が書かれてあるが、これは現在の東礼拝場のすぐ東にあった三島神社と宮池である。
かんろだいの場所は動かないので、神殿(御神座)と北礼拝場のあたりが元々の中山家の土地と分かるだろう。
今回、この図を思い出したのは、「母屋取り壊し」についての話を聞いた事からであるが、母屋があった頃の図面が探せないので、まず、その経緯を知るために、年表を表示しておく。
教祖が月日の社になられて、2年後の天保11年、教祖43才の頃に「貧に落ちきれ」との思し召しにより施しが始まった。
その翌年、天保12年教祖44才の頃に「おびや試し」をされ、それからずっと施しを続けて、ついに、嘉永6年教祖56才の年に「母屋を取り壊して」売り払われた。
施しを始めてこの間が13年間、教祖が「月日の社」となられてからは15年目である。
この時、教祖は「世界の普請に取り掛かる祝って下され」と言われるが、周囲の人々はそのようには思えず、悲しんだのであった。
ここに親神様と人間との考えの違いが現れている。
どうして親神様は「祝ってくれ」と言われたのだろうか?また、母屋が存在するままで「世界の普請に取り掛かる」ことは出来なかったのだろうか?と思える。
この母屋が取りこぼされたのが、嘉永6年教祖56才の年で、次の年に、おびや許しを出されて、不思議を見せられるようになる。
それまでには、不思議は見せられておらず、常人が考えられない施しばかりをされて、気が狂ったかと思われており、そうではない事の証明をして、51才の時にお針子を取り、秀司先生は読み書きを教えている程度であった。
そしてまた、母屋を取払ったら住む場所はどうしたのか?という疑問も出てくるはずである。すべてを失くしたならば、露天で生活をする事になるからである。隠居所としていた離れだけは残されて、そこで生活をされていたとの事である。
そして不思議な助けによって、人々が段々と集まり、つとめ場所が出来るのが、元治元年、教祖67才の時であり、母屋が無くなってから11年が経っているのである。
つまり、母屋や蔵などがあった主な場所には何もなくなり、これから建つ「つとめ場所」や「ぢば定め」が行われる場所が確保されたと思われるのである。
次に示す元治元年の図をを見ると、「つとめ場所」以外の建物は、
(イ)初代管長様のご住居 建築年限 不明・・・1棟(隠居所)と
(ロ)6畳1間(ひとま) 艮(うしとら)の柱は堀立なり(4坪)・・・1棟
で、結構な空き地が出来ていた事が分かる。
ちょっと話がそれるが、
この隠居所で、教祖・秀司様・こかん様は生活をされて、人々に神様の話しを取り次ぎおたすけをされていたと思う時、普通の民家で、おたすけ人が神様のお話を取り次いで、不思議な助けを見せて頂く事と同じように思えて来た。
実は、この変遷図を思い起こすきっかけとなった神殿講話を、私は中庭のパイプ椅子で聞いていた。
このコロナ禍という事で、参拝者が減っていると言いながらも、中庭中に並べられたパイプ椅子にどれだけ多くの人がいた事だろか。
この元治元年の時のお屋敷に、これだけの人々が集う事が出来ただろうか。と思った時、これだけの境内地に拡張されていて本当に良かったと思った。
神殿・礼拝場にしても、「つとめ場所」のままであったら、どれだけの人も入れないだろう。畳一畳に一人ずつと、感染対策のために間隔を開けても、全礼拝場には3000名ほどの人が入れるのである。
境内地以外の神苑をも合わせたら、すごい人が集える状況になっていると思えたのである。
つとめ場所が出来る時、棟上げの時に、「大和神社のふし」が起こり、神社からの訴えで当時の警察の役をしていた者に捉えられて、せっかく集まった信者もいなくなったのである。
これも一つの弾圧であり、その後も度重ねて弾圧の中を乗り越えて今日がある。
このコロナ禍も、政治によって制限が掛かり、自由に集えなくなっている。
まさしくこれも一つの弾圧と見ることが出来るだろう。
その中での人々の心根を、親神様は見定めているのである。
以下に資料を提示しておく。
教祖の時代を思い起こし、信仰の肥やしになればと思う。
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「復元」11号より、 お屋敷変遷図 p52~55と説明文 p48~51より、建物詳細を書き出しておく。
その後に、説明文すべてを記しておく。
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【元治元年 つとめ場所御建築当時の図】
敷地坪数 208坪5合
内 表前間口 6間半 奥行 9間(58坪5合) い印
同後間口 10間 奥行 15間(150坪) ろ印
但し 総奥行き 24間
建物
(イ)初代管長様のご住居 建築年限 不明・・・1棟
間口4間半、奥行き3間半(15坪7合5勺)
8畳6畳の2間(ふたま)
但し 竈(かまど)、洗元、厠(かわや)もこの棟内にあり
(ロ)6畳1間(ひとま) 艮(うしとら)の柱は堀立なり(4坪)・・・1棟
(ハ)おつとめ場所 元治元年の御建築 平屋 瓦葺・・・1棟
間口3間半奥行6間(21坪)
他に半坪の出べそ、東南には縁付8畳3間(みま)の内奥1間(ひとま)は上段の間にて、半坪の出べそ共、1坪の神床あるをもって、7畳となる。
後に半坪の出べそ取払い、神床を間中に2間(ふたま)の通しとなるをもって、6畳となる。
6畳の間3間(みま)、但し空風呂の当時、1間(ひとま)を庭となる。
・・・・・・・
【明治8年 門屋御建築当時の図】
(二)表門家 明治8年の御建築 平屋 瓦葺両妻入母屋建・・・1棟
間口6間半、奥行き2間半(16坪2合5勺)
附 1間に4間庇屋・2間に間中の縁側
教祖のお居間10畳の内3畳の2重台あり、他に床・押し入れ2カ所ある
但し つとめ場所への連絡に、長6間幅1間の渡り家あり
表門は間口2間の左右の引き戸なり
窓無し蔵 10畳なり、その翌9年に空風呂場
・・・・・・・・・
【明治9年から明治16年まで 二階客間及び土蔵、御教祖御休息所建築当時の図】
(ホ)小2階家 明治12年の建築 2階建 瓦葺・・・1棟
間口6間、奥行き2間、延べ坪(24坪)
但し 前に6間2間(ふたま)中の縁付く
(へ)土蔵 明治13年より14年に至る御建築・・・1棟
桁行4間弱、梁行き2間半弱、延べ坪(20坪弱)
(ト)御休息所 明治15年より16年に至る御建築 平屋 瓦葺妻入母屋建・・・1棟
間口2間半、奥行き3間半(8坪7合5勺)
附 東北に廻り縁側付けなり
上段の間は、長4畳にて他に床・袋棚あり、前8畳他に押入れ2カ所あり
但し 御風呂は押入れ中にありしも、後に持ち出すなり
・・・・・・・
【明治21年神床及び祭場御増築、事務所増築当時の図】
(チ)祭場 明治21年御建築 平屋 瓦葺切妻建・・・1棟
間口3間半、奥行き4間半(15坪7合5勺)
神床1間に間中に祭段2間に1間なり
(リ)事務所 建て増し平屋瓦葺・・・1棟
間口2間、奥行き1間半(3坪)
但し 6畳1間(ひとま)に押入れ打回り縁側なり
・・・・・・
図の説明文「復元」11号 p48~51
「お屋敷建物変遷図について(自 元治元年 至 明治21年)
桝井孝四郎
このお屋敷の図面は、私が集成部におらせて頂いていた時に、小松駒吉先生と共に作製させて頂いたものです。と申しますのは、小松駒吉先生は、前に大工の経験のあるお方であり、教会本部設置当時にも、いろいろと御本部の大工仕事もして下された方でありました。私が集成部にて、お屋敷の間取りのお話を、御母堂様から聞かして頂いていた時に、大工の頭のない私共には、どうもうまく図面が書けませんし、「御母堂様が口でおっしゃるように、うまく間取りをいれるという事もなかなかむつかしいものです。」というような事を言いますと「小松さんに相談しいや、小松さんなら、おまはんの言うように上手に入れてくれるがな」と御母堂様がおっしゃって下されました事があって、幸いに私もその当時小松先生に、集成部の仕事の時にて、お邪魔をしたり、また集成部へ来てもらったりもしておりましたので、早速その相談を持ちかけました。先生も喜んで相談に乗って下されるし、いろいろその事についても研究もしていて下されていたので、良い具合に出来上がりました。もちろんこの図面の中には、御母堂様はもちろんのこと、当時おられた高井猶吉先生、宮森与三郎先生、その他いろいろと聞かせて頂ける古い方々には十分にお話も聞かせて頂いて、出来上がったものであります。
(この図面の直接の筆者は、御津大教会役員で建築技師の河尻五平氏である)
、
お屋敷建物説明書
自 元治元年、 至 明治21年お屋敷創造地絵図略記
敷地坪数 208坪5合
内 表前間口 6間半 奥行 9間(58坪5合) い印
同後間口 10間 奥行 15間(150坪) ろ印
但し 総奥行き 24間
建物
(イ)初代管長様のご住居 建築年限 不明・・・1棟
間口4間半、奥行き3間半(15坪7合5勺)
8畳6畳の2間(ふたま)
但し 竈(かまど)、洗元、厠(かわや)もこの棟内にあり
(ロ)6畳1間(ひとま) 艮(うしとら)の柱は堀立なり(4坪)・・・1棟
(ハ)おつとめ場所 元治元年の御建築 平屋 瓦葺・・・1棟
間口3間半奥行6間(21坪)
他に半坪の出べそ、東南には縁付8畳3間(みま)の内奥1間(ひとま)は上段の間にて、半坪の出べそ共、1坪の神床あるをもって、7畳となる。
後に半坪の出べそ取払い、神床を間中に2間(ふたま)の通しとなるをもって、6畳となる。
6畳の間3間(みま)、但し空風呂の当時、1間(ひとま)を庭となる。
(二)表門家 明治8年の御建築 平屋 瓦葺両妻入母屋建・・・1棟
間口6間半、奥行き2間半(16坪2合5勺)
附 1間に4間庇屋・2間に間中の縁側
教祖のお居間10畳の内3畳の2重台あり、他に床・押し入れ2カ所ある
但し つとめ場所への連絡に、長6間幅1間の渡り家あり
表門は間口2間の左右の引き戸なり
窓無し蔵 10畳なり、その翌9年に空風呂場
(ホ)小2階家 明治12年の建築 2階建 瓦葺・・・1棟
間口6間、奥行き2間、延べ坪(24坪)
但し 前に6間2間(ふたま)中の縁付く
(へ)土蔵 明治13年より14年に至る御建築・・・1棟
桁行4間弱、梁行き2間半弱、延べ坪(20坪弱)
(ト)御休息所 明治15年より16年に至る御建築 平屋 瓦葺妻入母屋建・・・1棟
間口2間半、奥行き3間半(8坪7合5勺)
附 東北に廻り縁側付けなり
上段の間は、長4畳にて他に床・袋棚あり、前8畳他に押入れ2カ所あり
但し 御風呂は押入れ中にありしも、後に持ち出すなり
(チ)祭場 明治21年御建築 平屋 瓦葺切妻建・・・1棟
間口3間半、奥行き4間半(15坪7合5勺)
神床1間に間中に祭段2間に1間なり
(リ)事務所 建て増し平屋瓦葺・・・1棟
間口2間、奥行き1間半(3坪)
但し 6畳1間(ひとま)に押入れ打回り縁側なり
以上。
世界はまだまだ混迷を続けるだろう。
世界には沢山の教えがある。宗教がある。
また、沢山の学者があり、研究が発表されている。
これらすべては「修理や肥に医者薬を」と言われた修理・肥と考えることが出来るだろう。
何のための修理・肥か。。
陽気ぐらしを実現できる人間にと成人するための「修理・肥」だと思う。
これらを「修理・肥」として吸収するためにも、教祖の教え「かしもの・かりもの」が重要だと思う。