あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

今朝の「おふでさき」6-29から54 元はじまりの話。日本においては。。。

2021年07月31日 12時04分13秒 | 思った事

今朝のおふでさきは、元の理(元はじまり)のお話であった。

うちの「おふでさき」の区切りは、6号30からだったのだが、必要と思い、29から書いておく。(この「おふでさき」の後に思う事を書いておく。)

いまゝてにない事ばかりゆいかけて
よろづたすけのつとめをしへる (6-29)

このつとめ十人にんぢうそのなかに
もとはじまりのをやがいるなり (6-30)

いざなぎといざなみいとをひきよせて
にんけんはぢめしゆごをしゑた (6-31)

このもとハどろうみなかにうをとみと
それひきだしてふう/\はちめた (6-32)

このよふの元はじまりハとろのうみ
そのなかよりもどぢよばかりや (6-33)

そのうちにうをとみいとがまちりいる
よくみすませばにんげんのかを (6-34)

それをみてをもいついたハしんぢつの
月日の心ばかりなるそや (6-35)

このものにどふくをよせてたん/\と
しゆこふをしゑた事であるなら (6-36)

このどふくくにさづちいと月よみと
これみのうちゑしこみたるなら (6-37)

くもよみとかしこねへとをふとのべ
たいしよく天とよせた事なら (6-38)

それからハたしかせかいを初よと
かみのそふだんしまりついたり (6-39)

これからわ神のしゆごとゆうものハ
なみたいていな事でないそや (6-40)

いまゝてにない事ばかりはちめるわ
なにをゆうのもむつかしき事 (6-41)

このよふをはちめかけたるしんぢつを
たれかしりたるものハあるまい (6-42)

これからハとのよな事もたん/\と
ゆうてきかするうそとをもうな (6-43)

にんけんをはぢめかけたハうをとみと
これなわしろとたねにはじめて (6-44)

このものに月日たいない入こんで
たん/\しゆごをしゑこんだで (6-45)

このこかす九をく九まんに九せん人
九百九十に九人なるそや (6-46)

この人を三か三よさにやどしこみ
三ねん三月とゝまりていた (6-47)

それよりもむまれだしたハ五分からや
五分五分としてせへぢんをした (6-48)

このものに一どをしゑたこのしゆごふ
をなぢたいない三どやどりた (6-49)

このよふのしんぢつの神月日なり
あとなるわみなどふくなるそや (6-50)

にんけんをはぢめよふとてたん/\と
よせてつこふたこれに神なを (6-51)

いざなぎといざなみいとが一の神
これてしよこの大じんくゝなり (6-52)

またさきハなにかたん/\とくけれど
いまゝてしらん事ばかりやで (6-53)

このさきハなにをゆうてもにんけんを
はぢめかけたる事ばかりやで (6-54)

 

おふでさきの註釈を見ると、29から51をまとめて書かれてある。

「元はじまりの話」「こうき話」を読んでくださっている方には、良く分かる事だと思う。

その中で、

いまゝてにない事ばかりはちめるわ
なにをゆうのもむつかしき事 (6-41)

このよふをはちめかけたるしんぢつを
たれかしりたるものハあるまい (6-42)

これからハとのよな事もたん/\と
ゆうてきかするうそとをもうな (6-43)

として、「これまでこの世の中にない事を始める事は、とても難しい事」と言われている。

これが、どの宗派にも属すことなく、一人立ちする教えと言われるところだと私は思っている。

そして「この世を始め掛けた真実を、知った者はいないだろう」といわれて、「これからは、そうした知らない事を話すので、ウソと思うな」と断言されている。

これから先、というのを、「この歌の後」と読むか、「これから後に」と読むかによって異なってくるかとも思うが、

このお歌の後に、興味深いお歌が出てくるのである。

まずは、

このよふのしんぢつの神月日なり
あとなるわみなどふくなるそや (6-50)

にんけんをはぢめよふとてたん/\と
よせてつこふたこれに神なを (6-51)

真実の神は、月日様「くにとこたち」と「おもたり」様と言われて、「あとの者はすべて道具」と言われている。

そして、「人間を始めようとして、寄せて集めた道具に神名を授けた」と言われる。

50のお歌では、この「あとなるはみなどうぐなるぞや」のお歌を、月日以外のものすべてを道具と言っているのか、人間始め掛けた時の道具に対して言っているのかと、疑問が出て来るが、

51では、人間を始めた時の道具には神名を付けたと明言されている。

ここで、分かりやすいように、神名の覚え を表にして示しておく。

そして、問題に思うのは次のお歌である。

いざなぎといざなみいとが一の神
これてしよこの大じんくゝなり (6-52)

このお歌だけを見ると、「いざなぎ」と「いざなみ」が一番の神である。その他は違う。と読むことが出来る。しかしすでに、前のお歌を見て、ここでいう「一の神」という意味が、人間を創った一番の神という意味ではない事は分かると思います。

では、この「一の神」とはどういう意味だろうか。

次に52のお歌の註釈を書いておきます。

52 いざなぎのみこといざなみのみことは、人間創造の一の神であって、諾冊二尊からお生まれになった天照大御神は、天照皇太神宮にお鎮まりになる。

註 いざなぎのみことと、いざなみのみことは、父性神及び母性神として宇宙神であり宗教神であるが、この理は我が国にては伊弉諾尊、伊弉冊尊である。諾冊二尊の御子神、天照大御神は天照皇太神宮にお祀り申し上げる。

とある。

つまり、「宿仕込みをした一番の神」という事であり、この日本においては、「この理は我が国にては伊弉諾尊、伊弉冊尊である。諾冊二尊の御子神、天照大御神は天照皇太神宮にお祀り申し上げる。」という事になる。

蛇足になるが、

この52のおふでさきの読み方を、私自身いつも迷ってしまう。

それは、専修科の時に、「これでしょうこの」とでも読めるし、「これ、ていしょうこうの」とも読めると聞いたからある。

しかし、このおふでさき註釈からすると、「これ ていしょうこうの だいじんぐうなり」と読むのが良いかと思った。

 

朝づとめ後から書き出して、今お昼となった。調べながら書くととても時間がかかる。

しかし、うちには畑も草抜きをする土地もない。

そう思うと、時間はかかるが、このように調べ物をして、それをブログに記すのが私の訳目かなぁ。

と思う。

読んでくださる方の参考になれば幸いです。

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今朝、お墓地の掃除に。。。「土台が大事」「真実の心」

2021年07月30日 10時49分13秒 | 思った事

今日は朝づとめ前に、お墓地の掃除に行きました。

朝づとめは子供たちに頼んで。。。

熱田分教会としてのお墓地と長谷川家のお墓地がある。

熱田分教会の信者の墓は、私が会長になり数年後に、「子供がいない家があるので、その墓じまいをしたい」と信者さんから言われたのがきっかけで作らせて頂いた。

墓じまいをした信者さんのお墓の土を少し入れて、墓誌に名前を刻んであるのだけなので、お骨は入っていない。また、その後に墓じまいをした家があり、同じようにして、墓誌を置いてある。

 

長谷川家の墓は、私の父親が入っている。

私の父親は次男で、大教会で住み込みをしていた。長男は別にいて、その家が長谷川家歴代の墓を継いでいるだから、大教会の墓苑に新しく「長谷川家」として建てたのだった。

熱田分教会の墓より長谷川家の墓の方が早く作った。

 

お墓地の掃除に行くと、とてもきれいにしている墓もあるが、草ぼうぼうで全く参りに来ていない墓もあり、墓石が傾いている墓もある。

その傾いているお墓を見ていて、墓地を作る時の石材店の言葉を思い出した。

「お墓を作る時には土台が大切です。」との言葉である。八事霊園は山の斜面にお墓は作られている。

だから、場所によっては結構土台の石を積み上げなければならないところもある。

そこで、石材店の言われるように、既設のブロックを取り払って、土台から石を積んで作ってもらった。

上物の墓石は本当に小さなものである。

けれども、建ててから25年以上たったが、全く傾いていない。

「熱田分教会の墓」も同じようにしてもらった。

こちらも全く傾いていない。

見えないところをしっかりとつとめる事。これの大切さを改めて思った。

 

そして、この見えない所とは、心だと私は思う。

この心、その心の持ち方、動かし方。これがとても大切で、それによって、その先が変わってくる。

昨日アップした逸話編、『自分一人で』

自分一人で。。。逸話編 116 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

は、正しく心のあり方を教えられたものだと思う。

「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで。」

とのお言葉は、ただ話を聞きに行くだけの事ではない。

人が言うから、人が、人が、、、と人を当てにしていてはならないと思う。

人の中に神様を見て、神様が言うとするならば、自分で決めた事である。

または、ご恩があるからと「人は行かずとも、私は行く」という心も自分自身の心である。

ここでは、「真実に聞かしてもらう気なら」と言われ、また「自分一人で、本心から」と言われているのである。

そして、「真実の心」「自分一人で、本心から」の結果は、親神様から大きなものを頂戴できるのである。

 

ところが、

人は皆、親神様からの与えばかりを望む。与えをもらうためには、「真実の心」が必要なのだが、それを知らずに、欲しい欲しいという心ばかりが先に立ち、もらい損ねるのではないだろうか。

もし、すでに与えがあったとしても、考え違いをして「真実の心」を出せずに、その与えを失うのではないかと思う。

これは、逸話編『身上がもとや』

身上がもとや。。。逸話編 178 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

「命あっての物種と言うてある。身上がもとや。金銭は二の切りや。]

から、本当にそう思う。

身上が元であり、その元は心である。この心が金銭に囚われてはならない。

金銭はあくまでも、人と人または、人と物をつなぐためのもの、つなぐための道具である。

ここを勘違いするから、おかしくなってくる。

「真実の心」があるから、人と人は信用出来てつながるのである。

この真実の心が無いと分かれば、人は離れる。

信用できないから離れる。

これは当然のことである。当然の事、つまりは理である。

「真実の心」がないのに、あるように見せようとするから「ウソ」をつく事になる。

ウソによって人々の同情を得ようとするのも同じ事だと思う。

 

「真実の心」を培いたいと思う。

今日も一日頑張ります。

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身上がもとや。。。逸話編 178

2021年07月30日 10時28分05秒 | 逸話編

178
『身上がもとや』

 教祖の仰せに、
 「命あっての物種と言うてある。身上がもとや。金銭は二の切りや。今、火事やと言うたら、出せるだけは出しもしようが、身上の焼けるのも構わず出す人は、ありゃせん。大水やと言うても、その通り。盗人が入っても、命が大事やから、惜しいと思う金でも、皆出してやりますやろ。
  悩むところも、同じ事や。早く、二の切りを惜しまずに施しして、身上を救からにゃならん。それに、惜しい心が強いというは、ちょうど、焼け死ぬのもいとわず、金を出しているようなものや。惜しいと思う金銭・宝残りて、身を捨てる。これ、心通りやろ。そこで、二の切りを以て身の難救かったら、これが、大難小難という理やで。よう聞き分けよ。」
と。これは、喜多治郎吉によって語り伝えられた、お諭しである。

 註 二の切り 切りとは、義太夫などにおいて、真打ちが勤める最も格式の高い部分を言う。したがって、二の切りとは、一番にではなくて、二番目に大切なもの、という意。 (新村出「広辞苑」平凡社「世界大百科辞典」)

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おさづけ拝戴御礼の時の話から。。。

2021年07月29日 09時16分59秒 | 思った事

毎月27,28日は大教会の神殿当番。

うちの大教会では、神殿当番は、別席やおさづけのお願いやお礼などがあるとさせて頂き、一言の話を取り次がせて頂く。

近頃はそうしたお願いも少なく、もっぱら事務所当番になっている。

そうした中に、今回は、おさづけの理拝戴のお礼に巡り合った。

(その前に、うちの3男が先日おさづけを戴き、先日のオープンキャンパスの時におかきさげを持って来たので、私が代理で、構内の先生にお礼をしてもらった)

そして、思いつくままに、陰徳の話などをさせて頂いた。

たまたま、その子の両親が揃っていたので、その両親にも話を聞いてもらう事が出来た。

そして、その子と両親を考えあわせ、その子の言動を見る時、「君はすでにお道の信仰をしてきた人の生まれ変わりだと思う」と話をした。

この子の親は、アルコール中毒で何度も命を失いかけた。

それを不思議と何度も御守護を頂いて今ある。

それを見て育ち、おさづけを取り次ぐ時に「躊躇なく取り次げる」という

彼の言葉からそのように思ったのである。

そして、生まれ変わりの話もした。

 

書きながら次のような逸話を思い出した。

「一代より二代」

一代より二代。。。逸話編 90 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

 「人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」

 全くその通りだと思う。

 何代も信仰を重ねた家に生まれ出ても、一代目の信仰の者も、初代の信仰でも末代の信仰の者もあるという事である。

 この点を見誤ってはならないと思う。

この点を見誤るから、おかしな方向へと行ってしまう。

せっかく栄えたものも、つぶしてしまう事にもなりかねない。

大切なのは、人の魂・心である。

 

今日も一日頑張ります。

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一代より二代。。。逸話編 90

2021年07月29日 07時48分03秒 | 逸話編

90
『一代より二代』

 明治14年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せて頂いた時のお話に、
 「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」
 と、かようなお言葉ぶりで、お聞かせ下さいました。

 

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自分一人で。。。逸話編 116

2021年07月29日 06時57分02秒 | 逸話編

116
『自分一人で』

 教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに行こうやないか。」などと、居合せた人々が、二、三人連れを誘うて行くと、教祖は、決して快くお話し下さらないのが、常であった。
 「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで。」
と、仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話をお聞かせ下され、尚その上に、
 「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね。」
と、仰せ下され、いともねんごろにお仕込み下された。

 

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今朝の「おふでさき」から。。。

2021年07月27日 10時31分28秒 | 思った事

今日は午後から大教会の神殿当番である。

それまで、少しだけ今朝の「おふでさき」が気になったので書いておきたい。

 

けふの日ハなにがみへるやないけれど
八月をみよみなみへるでな (5-56)

みへるのもなにの事やらしれまいな
高い山からをふくハんのみち (5-57)

このみちをつけよふとてにしこしらへ
そばなるものハなにもしらすに (5-58)

このとこへよびにくるのもでゝくるも
神のをもハくあるからの事 (5-59)

その事をなにもしらすにそばなるハ
せかいなみなる事をふもをて (5-60)

なにゝてもせかいなみとハをもうなよ
なにかめつらしみちがあるぞや (5-61)

だん/\とこのよはぢめてひハたてど
たれかしんぢつしりたものなし (5-62)

いかほどに神の心わせゑたとて
みなの心ハまたうゝかりと (5-63)

はや/\としやんしてみてせきこめよ
ねへほるもよふなんでしてでん (5-64)

このよふのしんぢつねへのほりかたを
しりたるものハさらにないので (5-65)

このねへをしんぢつほりた事ならば
ま事たのもしみちになるのに (5-66)

このみちをほりきりとふりぬけたなら
上下ともに心いさむに (5-67)

これからハなんでもせかい一れつを
いさめるもよふばかりするそや (5-68)

だん/\となに事にてもにほんにハ
しらん事をわないとゆうよに (5-69)

なにもかもせかいぢうゝへをしへたい
神のをもわくふかくあるのに (5-70)

それしらすせかいぢうゝハ一れつに
なんどあぶなきよふにをもふて (5-71)

とのよふな事でも神のゆう事や
なんのあぶなき事があるそや (5-72)

なにもかもよろずの事をだん/\と
ゆうていながらわかりたるなし (5-73)

これからハどふぞしんぢつむねのうち
はやくすまするもよふしてくれ (5-74)

せかいぢうをふくの人てあるからに
これすまするがむつかしい事 (5-75)

いかほどにむつかし事とゆうたとて
わが心よりしんちつをみよ (5-76)

この心すむしわかりた事ならば
そのまゝみゑる事であるなり (5-77)

にち/\に神のしんぢつはたらきを
しりたるものハさらにあるまい (5-78)

なにゝても神のぢうよとゆうものハ
めづらし事をしてみせるでな (5-79)

とのよふなめつらし事とゆうたとて
神のする事なす事はかり (5-80)

いままでハなによの事もしれなんだ
一寸みへかけたほそいみちすじ (5-81)

このみちをだん/\しといいくならば
なんてもむこにみへるほんみち (5-82)

これまでにとふりてきたるみちすぢハ
からもにほんもわかりないので (5-83)

このさきハなんぼからやとゆうたとて
にほんがまけるためしないそや (5-84)

このよふのもとはじまりのねをほらそ
ちからあるならほりきりてみよ (5-85)

このねへをほりきりさいかしたるなら
どのよなものもかなうものなし (5-86)

しかときけくちでゆうてもをもふても
どこでゆうてもをもふたるとて (5-87)

そのまゝにかやしとゆうハこの事や
神がしりぞくみなしよちせよ (5-88)

 

このお歌は、高山に対して、布教を始めるという話しである。

それも親神様が段取りをして、進めて行くと言われている。

けれども、教祖のお側の人々は、それが分からないために、世界並みの事と思って、いずんだり不安になっていると言われている。

現に、高山からの取り調べや弾圧が行われたのである。

それに対して、心を澄ます段取りをすることを求められている。

そして「澄ましたならば危ない事はない」。とまで言われている。

 

ここには

はや/\としやんしてみてせきこめよ
ねへほるもよふなんでしてでん (5-64)

このよふのしんぢつねへのほりかたを
しりたるものハさらにないので (5-65)

このねへをしんぢつほりた事ならば
ま事たのもしみちになるのに (5-66)

と、

「根ほる模様なんでしてでん」と言われている。

この「根」という言葉は、とても深い言葉だと思う。

「むほんの根」「病の根」を切ろう。と言われている。

「根」とは根本であり、根本とは心であると私は思っている。

自分自身の心をしっかりと掘り下げる事。

そして澄ます事。

その方法を教えて下さっていると思うのである。

 

親神様は、天理王命(てんりおうのみこと)である。

この天理王命は「10の神様」の総称と言われたり、天理王命の守護が10あると言われたりしている。

以前にも書いたが、これは多神教として見るか、一神教として見るかの違いで言い方が変わるだけである。

大切な事は、全ての「神の元である月日」が、相談をして、人間またこの世界を守護する道具を見定めて、それらを神としたという事である。

この世界中に神や仏が沢山ある。そして教えも沢山あるが、それらすべては、人間を育てるために月日親神様が、道具衆をこの世に使わして、教え導き、その道具衆を神や聖人として拝み教えを実行するようにと導かれたのである。

そして、その遣わされた神々は、それぞれの道具の働きしかできない。けれども、親神天理王命となれば、すべての働きを持っているので、どんな事でも出来るのである。

だから、これまで天理教のおたすけの上には、目の見えないものが見えるようになり、足の立たない者も立てるようになるという、不思議な事ばかりが現れたのである。

この事については、逸話編「天が台」170 に書かれてある。

「何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え。」

「人詣るにより、威光増すのである。人詣るにより、守りしている人は、立ち行くのである。産土神は、人間を一に生み下ろし給いし場所である。産土の神に詣るは、恩に報ずるのである。」
「社にても寺にても、詣る所、手に譬えば、指一本ずつの如きものなり。本の地は、両手両指の揃いたる如きものなり。」
「この世の台は、天が台。天のしんは、月日なり。人の身上のしんは目。身の内のしん、我が心の清水、清眼という。」

とても重要なお言葉であり、各地にある詣り所との関係も良く分かると思う。

そして、

善も悪も見定めて、すべてを支配しているのが親神様である。

人間の心を澄まして、陽気ぐらしが出来る心へと立て替えたいのが親神様の思いである。

「いんねんならば、通らにゃならん。果たさにゃならん。」のである。

しかし、そのいんねんを切り替える方法があるのである。

それを教えられているのである。

それが、心の切り替えである。

どのように切り替えるか、それは自分中心の考えから、人に助かってもらいたいという考えに変える事である。

 

他宗教の言葉に「カルマ」という言葉が良く出てくる。これは「業」「宿業」と言われて、定められたことと言われて、逃れられない事。とよく言われている。

まさしく、「なりたくないと思っても、なってくるのもいんねん」これは、宿業と言えるだろう。

けれども、成って来た事をどのように受け止めて、どのような心で行うかで、次が変わるのである。

「宿業」を現れて来た事だけで見るから、そこで止まってしまうのである。

宿業の元となっている心。これをしっかりと考える事が大切なのである。

この心は、自分の心もそうだが、相手また周囲の心も考える必要があるのである。

今、世界中で起きている事、これもすべては元になる心がある。

人間は生まれ変わり出変わりしているので、前生、前々生の心によって今の状況にそれぞれが生きているのである。

これをしっかりと心に置かねばならない。

そのためには、日々現れて来ることと、自分の心を照らし合わせて、

自分が助かる、自分の思い通りになる事ばかりを考えるのではなく、親神様の視点から、自分の役割を自覚する必要があると思う。

心を澄ますということは、物事に囚われないという事にもつながる。

生かされている事だけでありがたいのである。

その中に様々な出来事が起こり、喜怒哀楽を感じて、様々な経験を魂に刻み込んでいるのである。

自分の事だけではなく、人の事も心配できる心になる事。

人も、自分の家族だけではなく、多くの人々の事を心配できるようになる事。

これが親神様の求められている事ではないだろうか。

そのために、かしもの・かりものの話を教えられた。

なんども、なんども聞いて、また、心に悟りがつくまで、昔の先生は話をされたと聞く。

 

思いつくままに書きました。

読みにくい所はお許しください。

今日も一日、親神様に凭れて頑張ります。

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天が台。。。逸話編 170

2021年07月27日 10時08分51秒 | 逸話編

170

【天が台】

 梅谷四郎兵衞が、教祖にお聞かせ頂いた話に、
「何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え。」
と。又、
「人詣るにより、威光増すのである。人詣るにより、守りしている人は、立ち行くのである。産土神は、人間を一に生み下ろし給いし場所である。産土の神に詣るは、恩に報ずるのである。」
「社にても寺にても、詣る所、手に譬えば、指一本ずつの如きものなり。本の地は、両手両指の揃いたる如きものなり。」
「この世の台は、天が台。天のしんは、月日なり。人の身上のしんは目。身の内のしん、我が心の清水、清眼という。」
と。

 

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ご本部の月次祭。。。私の身上は遺伝子の異常。。。

2021年07月26日 22時27分57秒 | 思った事

きのう、25日は講社祭と息子のオープンキャンパスの送り迎えをした。

そしてその後支部の会計さんとの話し合いの予定としていた。

時間的にどうなるかと思っていたが、オープンキャンパスの迎えから教会に帰ってきたら丁度、会計さんが来られたところだった。

すごい。何というタイミング。。

とありがたく思った。

 

さて、今日は26日。

ご本部の月次祭である。長男、次男、4男が一緒に出掛けた。また長女も仕事が休みで、一緒に参拝させて頂けた。

朝7時過ぎに教会を出て、9時半過ぎにおぢばに着いた。

中庭の木の陰で立って参拝させて頂いた。

以前は、神殿講話を聴いてから参拝場に上がっておつとめをしていたのだが、中庭にパイプ椅子があるので、

神殿講話が終わると北礼拝場の賽銭箱前で参拝をして、そのままパイプ椅子でおつとめをするようになった。

そして教祖殿の階段下の賽銭箱前で参拝、祖霊殿の階段賽銭箱前で参拝して、神殿を後にするようになった。

廻廊を廻らないだけ、時間短縮となった。

その後、法人課へ願書の提出などの用事をすませて教会へ戻った。

今月の中庭は、27日に行われる、3代真柱様の奥様の年祭のために、祖霊殿前にテントが張られており、

参拝者には、そこのパイプ椅子がとてもありがたかったと思う。

 

今月の大教会の月次祭は、前半の地方に当たっていた。

しかし、のどの調子が悪く、余り声が出なかった。

けれども、今日はとても調子が良く、マスクをしながらお歌を唱和させて頂く事が出来た。

 

今、様々な事が起きている。コロナだけではない。

世界中ではワクチンでの死亡者や水害での死亡者などなど、大変な中である。

みかぐらうたを歌いながら、すべてはそれぞれのいんねんで成ってくることだが、何とか大難は小難にとお守り頂けるように、少しでも親神様のお心が伝わるようにと願った。

そして、今日の祭典講話は、山本利彦本部員であった。

一つ上の先輩である。とても大きな声で張り切って話をされた。

こどもおぢばがえりが中止となって、今までどれだけこどもおぢばがえりに依存していたか、実感していると話された。

また、人助けの上に心を配る事、誠真実をつくす事の大切さを話された。

正しくと思う。直接おたすけに関わらなくても、誠真実をつくす。

これがすべての種であると私も思う。

教会に帰って来て、夕づとめをしながら、私の身上の事を思った。

 

私の身上は、遺伝性のもので、遺伝子が原因かもしれない病気なのである。

そして、私のこの身上は、今の医学では治療方法はないのである。

今のワクチンは遺伝子組み換えワクチンで、人間の細胞の遺伝子を変えてしまうワクチンである。

同じようなものだなぁと思ったのである。

私がこの難病を知って、治療法がないと聞いた時から、すべて親神様のなさる事と受け止めて、出来る事を出来るだけさせて頂こうと思って通って来た。

それ以前にも、椎間板ヘルニアの時にその心定めはしてあったのだが、それがより強いものになったのである。

私の身上はすぐさまに出直すという事ではない。段々と体が骨化して動けなくなるのである。

それがいつになるかは分からない。

また、突然のショックで首内の神経を切らないための、手術をしてもらったので、その後遺症で、肩や背中また頭の中が凝る。そのために、揉んでもらわないと動けなくなってしまう。

そんな状態なので、動けるだけありがたい。

私の首の手術は、東日本大震災の一年前に行った。

手術後1カ月もたたずに、教養掛をつとめた。30分の修練(おてふり)を立って教える事が出来なかった。

15分で終わりにして、あとはビデオで自習をしてもらって通った。

また、妻の運転で、末期がんの方のおたすけにも通わせて頂く事が出来た。

そして、東日本大震災の時には、まだまだ首もしっかりしておらず、冷やすといけない事も分からなかった時である。

しかし、何とか役に立ちたいと、救援物資を埼玉まで運んだ。

そして、何とかという思いを同級生が汲んでくれて、そのお陰で何度も被災地へ行かせて頂く事が出来た。

 

その数年後、ご本部の神殿奉仕のご命を頂いた。

当時、本当に終日神殿で勤める事が出来るかと心配だったが、かけて頂いた声を神様の声と思って勤め始めた。

今では寒さに気を付けながらすれば、普通のようにつとめさせて頂ける。

また、首が十分に回らずに、無理は効かないけれども、それなりに運転も出来る。

これが親神様の御守護でなくて何といえるだろうか。

だから、コロナであろうが関係ない。

けれども、周囲の目というものがある。相手の気持ちというものがある。

だから、相手に会わせて、来ても良いと言われるところならばおたすけにも行く。

ただし、自分が保菌者となった時に、他人にうつしてはならないとの思いからマスクはする。

 

そしてまた、いつも「癖性分」という事をここに書くが、

私の性分は「思い立ったら止まらない」というのがある。

私は丑年である。

日頃はのんびりで、ぐうたらである。けれども、いざ思い立ったら突っ走る。

先の手術後の事でもそうだが、どれだけ周囲に心配を掛けた事か。。。

だから、今では、少しでも体調が悪く感じると、神様が止められていると思い、心を落ち着けて、休むことにしている。

そして、出来なければ、それも一つ。と思うようにしている。

 

そのように思えるようになったのは、大教会の会報作成である。

首の手術の前、肩も目も痛み、辛い中でもやり続けた。

けれどもついに出来なくなって、休刊にした。

その時に、体が動くから出来るのだと思った。すべては神様の思召しの中と。

そして手術を受けた後、ある青年が会報を作成すると言い出した。

私は「別に会報は無くても良いと思う。神様が必要ならばさせてくれるだろう。」

「点検する事くらいならするけれども、パソコンの前での作業はしないよ。」と言って、点検だけを引き受けた。

その数か月後、その青年が「もうできません。間に合いません」と言ってきた。

私は、「折角そこまで作っておいて」と思い、パソコンの前に座った。

そのとたんに、肩が痛みだして作業が出来ない状態になった。

それから、大教会の会報については一切キーボードに触れる事はない。

今、このブログを書いているが、この作業が出来る事、これは親神様のお許しがあるからこそだと思う。

スマホで様々な情報を得て、フェイスブックで発信できる事。

これもお許しがあるから出来る事だと思っている。

また最近は、ブログやFacebookを見るのも見ないのも、人それぞれのいんねんによると思えるようになった。

すべては、親神様のお導きのままである。

いくら「あれもこれもしたい」「これもそれもしてあげたい」と思っても、親神様のお許しがなければ出来ない。

そう思い、自分の思いだけでしないようにしている。

これが、私自身の身上から学んだ事である。

そして「真のたすかり」の道中にあると思っている。

 

さて、今日はこれで終わりにする。

明日は何がさせてもらえるだろうか。

 

最後まで読んでくださった方、何かの参考になれば幸いです。

ありがとうございました。

 

 

 

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久しぶりに本をスキャンしたら。。。補修。

2021年07月24日 19時47分06秒 | 思った事

今日は、午後から「復元」の4号をスキャンした。

この本は、昭和22年に発刊された本で、表紙に「橋本兼正様」と鉛筆で書いてあった。

紙質がとても悪く、今にも破れそうなぐらい紙が弱って、変色している。

スキャンしている時に、背表紙が剥がれ落ちてしまった。

よくよく考えて見れば、昭和22年は、まだまだ物資も十分にない時だろうと思う。

その中、苦労して印刷をされたのだろうと思うと、とても貴重な本だと思った。

そして、その中の、「原初天理教における表明文書」は、お道の教えを対外的に説明するために、提出書類に添付されたお話であり、とても大切な資料だと思った。

そして、教祖当時の信仰に復元するためには重要なものと思う。

順次「グループ」で共有して、研究したいと思う。

しかし、久々にスキャンをしたが、本当に時間がかかる。1冊だけで半日かかってしまった。

しかし、データにしておけば、プリンとして読むことも出来る。

その為に、一応300dpi でスキャンするようにしている。

スキャンし終わって、最後に背表紙を補修した。

 

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