目次 |
(1)明治31年3月25日 (4巻2913頁) 『増野いと身上願』 『押して』 『押して、皆相談しましてと願』
(1)《大意》
|
(2)明治31年3月26日 (4巻2916頁) 【2003.10.27UP】 『前日増野いとのおさしづより、婦人会の事に付おさしづありしにより、以後の道筋心得事情申し立て願』 『暫くして』 『押して、元々艱難した者婦人会の中に古い者洩れ落ち有るか無いかという処話する処へ』 『又暫くして』 『又続いて』 『又続いて』 『又暫くして』 『又暫くして』 『上田ナライトの事でありますや』 『押して、おこと、おいゑの事でありますや』 『一寸してから』
(2)《大意》 [2003.10.27訂正]
|
(3)明治31年3月27日 (4巻2923頁)【2003.11.12UP】 『永尾よしゑ身上願』 『身上押して』
(3)《大意》
|
(4)明治31年3月28日 (4巻2925頁) 『前日おさしづにより教長へ御伺い申し上げ、その趣きは婦人会の処何か区域を立てゝ何とか名前付けますものやという願』 『おつとめに出る鳴物の御方の順序の願』 『押して、鳴物元の御方に習う事』 『押して、この御方と見分ける事』 『手打ってから又さしづ』 『又一寸してから』
(4)《大意》
|
(5)明治31年3月30日 (4巻2932頁) 『刻限』
(5)《大意》
|
(6)明治31年3月30日 (4巻2934頁) 『前日おさしづの婦人会内の事情に付一同話しの上願』 『増井りんの事で御座りますや』
(6)《大意》
|
(7)明治31年10月26日 (4巻3124頁) 『桝井安松身上歯の痛み願』「おさしづと婦人会」には以下のおさしづは掲載されず 『押して願、おことの事でありますや』 『教長へ別席の順序願』 『押して』 『押して』 『押して(女)』
(6)《大意》(1番目のおさしづのみ)
|
(1)
明治31年3月25日 (4巻2913頁) ()は大意での数字
『増野いと身上願』
(1)さあ/\尋ねる事情/\、尋ねる事情は身上、さあまあこの中良きかと思えば又身上に心得ん事情掛かり、善き事なら思う事無い。(2)身上もう一時ならん迫る事情尋ねるから、事情にはこれまでいろ/\諭したる。(3)どんな事にも諭し掛けたる。いかなる事情にも諭したる。(4)そんならめん/\身上、心にどうと又あろ。諭に、幾重諭したる。何処へ掛かるとも分からん。(5)事情はさあ女の道がある。皆惣計女の道あるなれど、女の道に男女とは言わん。(6)この道どうも分からん。そこでよう聞き分け。惣計の中談示の台に出す。よう聞き分け。(7)数々中ある。数々中ありて日々働いて居る。(8)この中一つ理という。道によって古い新しの理がある。新しい中にも古い中にも、どういう理もある。又古いだん/\の理もある。(9)一時女、婦人会として初め掛け。これ人間が始め掛けたのやない。神が始めさしたのや。これは古い道にこういう理がある、こういう事があると、互い/\研究始めたら、いかな理ある、どんな理もある。(10)元々一人から艱難苦労の道通り、又中に道始まる理に繋ぎ、事情から始め通りたる者ある。(11)たゞ年限ありて心にこう無くば古いとは言えようまい。こうのう無くば、まあそうかいなあというようなもの。よう聞き分けて内々迫れば、相談の芯という。芯から始めたら心分かる。(12)女研究、何ぼでもぢばという中に、これまでにも治まる理無くばどうもならん。刻限でも諭し、諭にもよう/\という。(13)婦人会始め掛け。始め掛けたらよう思やんせにゃならん。(14)道に艱難の道という、通りたる事情、(15)婦人会というは何のためにするのや。義理でするやない。又人間の体裁でするやない。又世上に対してするやなし。婦人会というは、道始めて互い/\の諭し合いの道治めてやれ。(16)今日入ったも女、古い理も女、艱難苦労通りたか通らんか分かる。入りた道ある。遠い所から来てる者もある。又近い所から来てる者もある。どうやろなあというような道から、へばり付いたような者もあれば、又運んだ道もあれば、道に染まりて入りた者あれば、今日入った者もある。婦人会という道聞き分けて、今日は一つ、埋もれ/\切ってあるという。
『押して』
(17)さあ/\会議というて話し掛けた処、(18)そんなら神の話、思う一条の話、十人なら十人出ける話とは言わん。数々中に突き合わせ、(19)世上男女言わん。(20)何程女でも道のため運んだこの事情聞き分けにゃならん。これ聞き分けにゃならんで。(21)そこで尋ねても、道だけ筋立てば同等のもの。よう聞き分けて通さにゃならん。互い/\道はどういう処から取りて居る。
『押して、皆相談しましてと願』
さあ/\よう思やんして、(22)皆それ/\身上迫れば心治まらん/\。(23)世界明るく、道にほこりありては、元ぢばと言えん。(24)女であれど、元々尽したこうのうという。元元女でもあれだけのこうのうあるか、と、知らさにゃならん。
明治31年3月25日 (4巻2913頁)
『増野いと身上願』【大意】
(1)さあさあ、尋ね出ているは、とかく身上が思わしくないからであろうが、そうした中にも調子がよい時も、また思わしくない時もあった。身上健やかであれば、何も思い患うことはない。(2)ところが、身体の具合が俄にさし迫った状態にでもなれば、当然、神の指図を尋ねることであろう。これまでもそうした場合、いろいろに諭してきた。(3)折にふれ、事に当たって、諭すべきことは、あらまし諭してきたはずである。だから、銘々が、身上勝れないという時にも、今までのところをよく思案すれば悟りがつく筈である。
(4)ところが、自らの事になった場合には、とかく、どのように思案したらよいのか思い迷ってしまうものである。(5)今の事情は女性としての道があることを教えたいから見せているのである。もとより、諭すところは女の道についてであるが、だからと言って、それは決して、男だから、女だからといった区別を諭すのではない。
(6)この道の通り方について、まだ十分にわかっていない。だから、これから諭すところをしっかりと聞きわけてもらいたい。これから諭すことは、あらゆる問題を解いていく場合の話し合いの台となるものである。だから、しっかり心に治めてくれなければならない。(7)これまで多くの者がこの道についてきている。この「やしき」の内にも、日々多くの者が働いているではないか。
(8)しかし、この道を通るかぎり、みな心に治めなければならない筋道がある。それぞれが通ってきた道すがらには、年限の上から古い者、新しい者がある。そうした年限の新しい古いということに関わりなく、通り方よって、どんな理も現われてくる。けれども、また、古い者には、その年限に相応しく、神が深い思いをかけているのである。この際、女としての通り方を明らかにするため、まず婦人会を創めかけるがよい。
(9)ところで、婦人会を創めると言っても、決して人間の思いによって創めるのではなく、神が創めさせたのであるということを心しておくがよい。婦人会は、それをたとえば、この道のかかりには、こんな神の守護があった、こんな事があったというように、互いに研究を始める場にして進めるならば、どのような実りも見ることができるであろう。
(10)もともと、この道は、教祖一人より始まり、教祖が幾重の艱難苦労の道を通って、今の道に出たのである。
また、そうした道中にあって、この道の初め、草生えの難渋な時に心をつなぎ、道の理を聞きわけて通ってきた者がある。
(11)ところで、ただ年限を重ねただけで、その年限に相応しい成人の姿を見ていなければ、古いとは言えないであろう。この道を通るかぎり、年限相応の「しるし」がなければ、ただ、古いということだけに終わってしまうものである。この点をよく聞きわけて、心を治めてくれるならば、内々の者の誰かが事情とか身上でせっぱ詰まった時、それをどのように悟り、どのように通りぬけるべきかの相談の芯となることができるのである。心の治まった者が芯となって研究を進めていけば、みんなの心も治まってくるのである。
(12)このように神の理を求めて、女同士研究をし合い、心を治めるということは、この人間創めた「ぢば・やしき」だからこそ、当然しなければならなかったのに、それができていなかった。そのために、心治まることがないというのでは、「ぢば・やしき」の理が立たなくなってしまうではないか。
(13)そこで、旬々の指図でも諭してきたが、その諭したところに、やっと目醒めるようになった。ここで婦人会を創めるがよい。婦人会を創めることになれば、さらにそこに寄せる神の思いを、よく思案しなければならない。
(14)これまでの道には難渋苦労のみちすがらがあった。そこを通り越してきたことを思えば、(15)婦人会を何のために創めるのかは、自ずからわかる筈である。それは人間の義理でするのでもなければ、体裁でするものでもない。また、決して、世上への見栄で創めるものではない。
婦人会の使命というものは、この道始まってから今日までの事を互いに諭し合い、心治めていくことにある。そのことを心に置いて事を進めるがよい。
(16)近々、この「やしき」に入ったのも女であるし、また、古くから「やしき」に詰めてきたのも女であった。長の年限、道を通った芯となるべき者からすれば、艱難苦労の道を通った者か、そうでない者かは自ずとわかる筈である。
人それぞれに、この道に入った次第というものがある。遠い所からきている者もあれば、ほんの近い所から出てきている者もある。また、「この道は信頼できるだろうか」などと半信半疑のまま道につき、ついには離れられなくなったような者もあるし、真実をはこんできた者もある。さらには、この道に染まって信仰するようになった者もあれば、今日はじめて道についたという者もあって、人それぞれに異なっている。そうした者たちに、まず芯となるべき者が、進んで婦人会にかける神の思いを聞きわけ、神の理を諭してやってもらいたい。
今日は、特に埋もれきって下積みになってしまっている婦人のことについて諭しておこう。
ーー押してーー
(17)さあさあ、婦人が寄り合い、会議をするように、と言ったのであるが、(18)「それなら神様のことを話し合おう」といっても、また、銘々の思いをのべるにしても、十人が十人とも、みんな十分に話ができるとは限らない。話し合えば、当然いろいろな話が出るであろうが、その数々の話を照らし合わせ、補い合っていくようにすれば、談じ合いの実りを得ることができよう。(19)世間ではとかく男と女を分けて考えがちであるが、この道の理には、決して男、女の区別はない。
(20)たとえ女であっても、道のために運んだ真実の事情については、しっかりと聞きわけていかなければならない。婦人会を創めるについては、ここをよく聞きわけることが大切である。
(21)そこで何の問題であろうと、道の筋道の立った話であれば、決して、男、女の隔てはない同等のものなのである。
だから、この点をよく聞きわけて、道の筋道を通してくれなければならない。そして互いに、道はどういう理に基づいているのかをよく諭し合ってもらいたい。
ーー押して、皆相談しましてと願ーー
さあさあ、よく思案してみるがよい。(22)人間誰しもみな、身上が迫ってくれば、なかなか、穏やかな心ではいられないものである。
(23)世界を明るく陽気にするのが、この道であるのに、この道を通る者の心にほこりがあるようでは、元なるぢばの理を示すことができないではないか。(24)女であろうと、表に出て光るのは当然である。もとはと言えば、それは道の上に心を尽くしたこうのうの理が現われたものである。だから、「女でも、あんなに素晴らしいご守護があるのか」と言われるような、当然の真実をみなに知らせなければならない。