あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

3月26日 ご本部にて。。「元の理」パワー。。

2023年03月28日 11時01分19秒 | 思った事

3月26日 ご本部の月次祭は朝から雨。

東の山は雲の中。

このような月次祭は、私の記憶の中ではとても珍しい。

前日25日にお許し頂いたお運び教会の直会に同席させて頂いて、午前2時まで。。。

さすがに朝づとめは起きれず、朝食には間に合って支度を済ませて、ボーっとしながら9時前に歩いて詰所を出発した。

この調子では祭文には間に合わないだろうなぁと思いつつ、乗降場南の信号を渡ると雅楽の音が聞こえる。

間に合わなかったなと思って坂を上り、砂利を歩いていると、いつまでも雅楽が止まらない。

「???」

止まったと思ったら、「これの元のぢばに。。。」と聞こえてくる。

「あれま、間に合った」と思い、第三御用場の西側で、録画しながら拝聴する。

祭文奏上

こんな雨も珍しいからと、西礼拝場を撮影して、中庭へ。

祭典前の西礼拝場

中庭には西礼拝場前までパイプ椅子が並べられているが、ほとんど座っている人がない。

参拝者がとても少なく感じた。

しかし、西の楼門から中庭へ入る人々が続いている。

かぐらづとめ、前半下り、後半下りと中庭の中央から周囲を撮影したら、人の増え具合が分かるのではないかと思い、撮影を始める。

かぐらづとめの様子

かぐらづとめが終わり、よろづよが始まったので、撮影を開始したとたん「先生」と声が掛かる。

よろづよの様子

撮影を止めて、対応をする。

「いつも見ています。どこにいるか分かります。」「実は部内の会長から。。。」と相談を持ちかけられる。

中庭の中央で、傘を差しながら、前半下りを聞きながら、相談に乗る。

「話が出来て良かったです」と喜んでもらい、「これだけ相談に乗ったのは修養科以来だね」と話して分かれた。

後半下りになり、中庭を一周動画に納めた。

6下り目の様子

中庭で回廊の軒先で参拝される人々の数は変わらないが、西・北・東の回廊を歩く人々の数は、時間と共にとても増えている。

そんなところへ、妻から西礼拝場に座っていると連絡が入る。

合流しようと西礼拝場へ上がるも、人が一杯でどこにいるか分からない。

西北の回廊へ出ると、専修科を出たての親子に会う。

「専修科を終えて、こうして参拝すると、気分が違うだろう」と話しかけてその横で後半下りは参拝した。

知った顔が次々と前を通る。

みんなマスクを付けているが、「コロナ以前の様子に戻ったなぁ」と嬉しくなった。

後半下りが終わると、妻から「西礼拝場の○○にいる」と詳細が伝えられてきた。

西礼拝場内に入り、妻と長男の側で神殿講話を拝聴する。

講話が終わって、皆でおつとめをつとめる。

そして、教祖殿・祖霊殿と中庭を通って参拝に行った。

コロナ以前と全く同じ事をしている。

同じ事が出来る事が、どれだけありがたい事か。。。

 

おぢばの様子をFacebookで発信すると、なかなかおぢばへ帰れない人々からメッセージが届く。

雨のおぢば、雨だから各礼拝場はいっぱいの人だった。

マスクはつけていても、コロナ関係なく蜜の状態である。

すべては親神様の御守護のままに、それぞれの心通りに御守護を下さっている。

大難は小難に、小難は無難にと。。

そのお礼にと人々は足を運ぶ。

また、様々な身上の方の平癒を願い、おつとめをする。

私も、先日乳がんの手術を受けられた方の事を思っておつとめを勤めた。

帰りがけの車の中で妻から、「25日に乳がんの方へおさづけを取り次ぎに行って来た。」と報告を受ける。

言わずとも、自ら足を運んでくれたことを嬉しく思った。

祭典後の西礼拝場

月次祭の祭典総てが終わり、友人から連絡をもらった『生命(いのち)の進化ー科学の進歩で見えて来た「元の理」』を養徳社前まで買いに行く。

連絡をくれた友人が手伝いをしていた。

本当に久々にあったが、昔と変わらず、スマートにかっこよく、勇んで動いていると思った。

後でメールで話をしたところ、「この本に出合って「元の理」の素晴らしさを実感して、信仰をやり直した気分だ」との事だった。

先日、岐阜の勉強会に参加した同級生も「元の理」を探求して勇んでいた。

「元の理」パワーおそるべし!!

難解であるがゆえに、自ら求める姿勢が必要な教理でもあるが、自らそれを求めれば。。と思うばかりである。

 

これらを終えて、娘の引っ越しである。

寮から新たなアパートへ、ちょうど名古屋へ帰る途中の職場となったお陰で、雨の中であろうとも、スムーズに事が運んだ。

 

本当にありがたい3月26日でした。

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3月18日の部内教会一斉巡教から。。

2023年03月25日 08時01分49秒 | 思った事

今日は3月25日 大教会の役職の上から、お運びの世話どりをするために、昨日の晩から詰所へ来ている。

今、事情運びは、25日か26日に行われるようになっているが、今回の教会が25日のお運びとなったためである。

さて、18日が部内の月次祭で、今回は一斉巡教を受けた。

会長が亡くなって5年余りとなるが、後継者が会長になる心を定めて、ようやくその段取りがついて、教会長資格検定講習を受ける運びにまでなった。

会長が出直してから、後継者には祭文を読んでもらって、会長の代わりに会長挨拶として一言話をしてもらい、月次祭での会長の役を一つずつ学んでもらってきた。

この会長の代わりに話しをする事については、亡くなった会長さんに必ず話をしてもらって来て良かったとつくづく思っている。

亡くなった会長さんが、会長に就任したのは、私が会長になって3年余り後であった。

この時も、前会長婦人である、亡くなった会長さんのお母さんは、「継いでくれるだろうか」ととても心配していた。

私も少し前にもう一つの部内が、後継者となる人たちが誰一人として会長を継がなかったために、移転改称として無くなった事から、どうなるだろうかと思いつつ過ごしていた。

そうしたところ、定年を速めてしごとを止めて、修養科・講習と出られて、会長に就任して下さった。

私の母親とほぼ同じ年齢である。

私は立場としては上級の会長であっても、何といっても若いのである。

ましてや長男さんと同じ年である。

そんな若造のいう事はまずもって聞けないのが普通である。

そうした中に、先ほどの月次祭でのお話である。

初めは「私には出来ません」と断られた。

人付き合いはとても良い方で、雑談は次々と出てくるのであるが、人前での話は苦手の様であった。

そこで、「話をされた後で、私が必ず話をして間違いは訂正しますので」として承諾してもらい、続けて来た。

いつも「おたすけが出来ませんが」などと話される。

教会から特別のお願いとして、身上者のお願いはされるが、おたすけにはほぼ行かれなかった。

あまり動く気配がないので、心配になり私が時折、そうした信者さん方の所へおさづけに出かけて、その様子なりを、会長さんの話の後に話しをしてきた。

お陰様で、その部内の信者さんの事も良く分かるようになり、部内教会のいんねんも分かるようになった。

そうした中のお出直しであった。

後継者には話をするように言わずとも、話をする物だ思っていたようで、難なく話をしてくれた。

亡くなった会長さんよりも、まとまった聞きやすい話をされる。

それだけを見ただけで、「一代より二代」という逸話編の言葉をその通りだと思えたのである。

急いて急かぬ道。

自然に成り立つ道。

無理は理がない。

続いてこそ道。

 

短気な私は、

自分の身上から思いを変えてきた。

今では、出来る事を一つずつ。

今日一つできたら結構。とつねに自分に言い聞かせて、歩んでの今日である。

周囲からはとても歯がゆく見えるだろう。

しかし、親神様の不思議なお働きは、常に人を変えて見せて頂き、この部内教会に集う信者さん方には、その親神様のお働きが心の支えとなっている。

 

今日25日のお運びは、15時30分に御用場集合である。

今日も一日よろしくお願いいたします。

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これからの事を書いてみて。。。

2023年03月14日 14時05分44秒 | 思った事

数日掛けて、

今の現状を、おふでさき5号から思う事。。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

を書いてみた。

おふでさきを順番に読みながら書いてみた。

 

このよふのたしかためしかかけてある
  これにまちがいないとをもゑよ ( 3号022)

せかいちうをみな一れつをたすけたさ
  そこでためしがゑらい事やで (15号043)

 

と「ためし」に関する「おふでさき」が思い浮かんだ。

 

教祖がお通られた道筋は、私たちが陽気ぐらしへと向かうための、ためしが行われたのだと思えた。

そのためしの上に、その後の日本、世界の人々を陽気ぐらしへと導く筋道があるのだと思えた。

 

また、引用したい文章を探すのに、「復元3号 永尾芳枝祖母口述記」の書き換えデータを何度も読み返した。

今後また探しやすいように、分類項目を作成した。

そして、よくまぁこんな事を書いたものだと、自分自身に感心し、よほど真剣に願っていたのだと思った。

 

ずっと不思議に思う事がある。

どうして、「教祖やこかん様、本席様などには、親神様のお言葉が出て、その他の人には親神様のお言葉が出なかったのだろうか」というものである。

そして、

様々な問題に対応するのは、親神様の言葉が出る方ではなく、言葉が出ない真柱様はじめ、取次ぎの人々なのである。

 

また、親神様が先はこうなるからと、注意をしても、その通りにしない人もあり、おさづけで不思議を見せて頂いたら、自分が神だという人も現れるのある。

 

こうした人間を研究する事が出来たら、何か分かるのではないかとも思った。

 

まぁ。

ただただ「身上や事情が治まれば良い。」という考えから、

それぞれが「心を切り替える」という考え方に代わらねば、陽気ぐらしは実現しない。

 

そして今は、その一時の世界の事情だと思えた。

この事情で変わる事が出来る人がどれだけあるだろうか。

 

・・・

今日、手術のお願いに、姉妹で来られた。

ブログを書いていた時なので、自分の身上が助かりたいというだけではなく、人様に親神様の思いを伝えて、身上や事情が助かってもらいたいという人になってもらいたい。という親神様の思いを話す事になった。

池の中の魚とオタマジャクシの例えと共に。。

先人の方は、身上になる度に教祖の元へ通われて、お話を聞いた。

一度にすべての神様のお話を聞いたわけではない。

そうした話もした。

 

・・・・

思うがままに。。

 

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今の現状を、おふでさき5号から思う事。。

2023年03月14日 13時33分14秒 | 思った事

3月8日の神殿奉仕を無事に終えて9日、以前一緒に奉仕をされていた先生にお会いしに行って来た。

8日の神殿奉仕では、7日にケガや事故に遭われた話を数件聞かせて頂き、結界に座りながら、大難を小難にすまされた方々の事を考えていた。

また、ある先生がロシアとウクライナの戦争について、「民間の軍隊が関わっているという報道を見て、ロシアばかりが悪いのではなく、戦争を起こそうとしている者とロシアのプーチンは戦っているのだと気がついた。」と話をして下さった。

アメリカの事についても、バイデン政権を維持するために民主党などが、マスメディアを使ってウソの報道をしていた事が次々と明らかになり、内戦状態にある事がようやく人々に周知されるようになって来た。

そしてこうした事に加担した者たちは、国家反逆罪として、囚われる事も時間の問題であろう。(アメリカの法律上、アメリカ国外の者についてもこれらに加担していれば、この法律は適用されて、捉えられるとも聞いている。)

また、金融についても金本位制による国家間の取引が行われて、金などの担保がない紙幣は紙くず同様になる事も時間の問題となってきている。

さらには、アメリカの機密情報開示によって、第二次世界大戦やそれ以後の事柄について、ウソの上に日本人が操られて来た事を知り、日本の本当の歴史を求める人々も増えてきている。

日本国内で、日本のテレビや新聞の報道のみで情報を得て、これまでの学校教育による歴史を常識としている人々にとっては理解できない事でもある。

こうした事を考えると、これからは、それぞれの国や地域が、新しく歴史を学び直す時になって行く事だろう。

少し前に「ルーツ」という映画が流行り、それぞれの家の元を知る事が流行した。

それと同じ事が国、民族で行われて、それぞれの性格などを認識する事にもなると思う。

 

天理教では、「世界一列みな兄弟」と言われている。

だから、すべての人々は平等である。

これは間違いのない事なのだが、「だからすべての人々の考え方が同じだ」と思う事は、安易すぎるのである。

「ふうふふのなかも兄弟も みな銘々に心違うで」

をやこでもふう/\のなかもきよたいも
みなめへ/\に心ちがうで (5-8)

とおふでさき5号にある通りである。

おふでさき5号 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

身体に例えてみれば、人間の細胞はすべて等しくあるが、その細胞の役割はそれぞれに異なっており、それらの役割がチャンと果たせて、一人の人間として体が維持されるのである。

そしてまた、その一人の人間も、それぞれに得手不得手があり、ひと家族、ひと地域、ひと職場などで、それぞれに見合った役割をして、国や地域が潤い、豊かな生活が出来るようになるのである。

こうした順序を飛ばして、短絡的に物事を判断して、自分勝手な方針を進めると、その場は良くても、後々色々な事情が起きたり、あとで説明がつかなくなり、長年の遺恨を残し、人々の和を根本から乱し、心が揃わない原因になったりするのである。

 

そして、

この親神様の思いに沿わず、自分勝手な心を使った末の事について、

いまゝでハぎうばとゆうハまゝあれど
あとさきしれた事ハあるまい (5-1)

このたびハさきなる事を此よから
しらしてをくでみにさハりみよ (5-2)

このよふハいかほどハがみをもふても
神のりいふくこれハかなハん (5-3)

めへ/\にハがみしやんハいらんもの
神がそれ/\みわけするぞや (5-4)

と、牛馬を例えとして、善悪を見分けた末の事などを示されている。

さらに、その見分ける心遣いについて

せかいぢうどこのものとハゆハんでな
心のほこりみにさハりつく (5-9)

みのうちのなやむ事をばしやんして
神にもたれる心しやんせ (5-10)

ほこりの心遣いを説かれ、そのほこりの心遣いの末に起きてくる身の悩み、病気やまた事情から、自らの心を反省して、親神様の思いに凭れる心を考えるようにと言われているのである。

しかし、そうした中にあっても、

どのよふなむつかし事とゆうたとて
神のぢうよふはやくみせたい (5-11)

いまゝでハ神のぢうよふしんぢつを
しりたるものさらにないので (5-12)

これからハいかなむつかしやまいでも
心したいになをらんでなし (5-13)

しんぢつの心を神がうけとれば
いかなぢうよふしてみせるてな (5-14)

どんな難しい病気や事情であっても、親神様が「人間の真実の心」を受け取ったならば、どんな自由自在の働きもする。と言われています。

また、ここの5号12の

いまゝでハ神のぢうよふしんぢつを
しりたるものさらにないので (5-12)

とのお歌からは、これまで教えて来た、拝み祈祷も影から親神が真実を受け取って働いて来た。それを知った者は無い。とも言われているように受け取れます。

さらに

こらほどの神のしんぢつこのはなし
そばなるものハはやくさとれよ (5-15)

これさいかはやくさとりがついたなら
なにゝついてもみなこのどふり (5-16)

と、この人間の心遣いと親神様の御守護の現れ方について、そばの人々に対して、早く悟れと言われて、悟りがついたならば、どんなことでもこのように現れて来ると断言されています。

ここで、「いんねんよせて守護する」というお言葉を思案するならば、このように「悟れた者」の周囲には、こうした理合いで物事が現れて来るから、この理合いで話を進めれば不思議な御守護の姿が見えると考えられるでしょう。

そして、

けふまでハなによの事もせかねとも
もふせきこむでをふくハんのみち (5-17)

このみちハせかいなみとハをもうなよ
これまつだいのこふきはぢまり (5-18)

と、こうした不思議が現れる道が出て来たならば、それは往還道となり、それは世界なみのものではない。そしてこれが末代の「こうき」の始まりと言われています。

さらに、この「この道は世界なみとは思うなよ」という言葉が、私にはとても重く感じています。

「世界なみ」とは、人が集まれば「往還道」と見えるものですが、

その人が集まるのは、人の真実を親神様が受け取って不思議が現れたからこそ、なのですが、それが分からずに、

あれやこれやと「人間思案の算段をして人を集めた」ように思える。またそのような「算段をして人を集める事」だと、私には思えるのです。

そしてまた、

このにんぢうとこにあるとハゆハんでな
みのうちさハりみなくるであろ (5-19)

このさハりてびきいけんもりいふくも
みなめへ/\にしやんしてみよ (5-20)

と、この往還道をつけるための「側な者」「人衆」について、身の内障り(病気)が現れて寄せられる。と言われるのです。

ここでの「身の内障り・病気」は、それぞれの心のほこりからではないのです。

5号20で

「この障り、手引き意見も立腹も みな銘々に思案して見よ」と言われていますので、

親神様が「用事に使いたい」と手引きしている場合は、いくら自分の心を反省しても、その場合は良くならず、「親神様の思いに沿ったことをする事」で良くなると解釈できると思います。

「左善右悪」などとして教えられる、「いんねんの現れの身上」と、「道押せ・手引き」としてあらわれる身上の区別を、それぞれに思案せよと言われているように思えます。

 

そして、

このはなしなんとをもふてきいている
かハいあまりてくどく事なり (5-21)

どのよふにいけんりいふくゆうたとて
これたすけんとさらにゆハんで (5-22)

にんけんのハがこのいけんをもてみよ
はらのたつのもかハいゆへから (5-23)

しやんして心さためてついてこい
すゑハたのもしみちがあるぞや (5-24)

5号22で

「どんな意見や立腹の身上事情が現れても、これ助けんと更に言わんで」と心次第に絶対に不思議を見せて助け上げると確約されています。

さらに、23で、その確約する思い、また辛い身上事情を見せるのも、

「人間が我が子に対して意見する事を思って見よ、腹の立つのも可愛いからである」と親心ゆえの事だからと言われて、

24で、この親神様の親心について、こうした意見を行った先には、頼もしい道がある。とも言われているのです。

 

さて、この後からのお歌が私には、今回の世界の事情や道の事情と重なって思えている部分です。

先に、5号30から55まで、これから先の事を示していると感じて、おふでさき註釈を提示しました。

これから先を思案するためのおふでさき 5号30~55 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

それだけでは足りないと思い、この25から29の註釈をここで提示しておきます。

いまゝでハ心ちがいわありたとて
ひがきたらんてみゆるしていた (5-25)

 註釈 25
 今までも、人間に心得違いがなかったという訳ではないが、まだこの教を説き諭しても、聞き分けるだけの成人が出来ておらず、説き聞かすべき時機が来ていなかったために、今日まではそのままに見ゆるしていた。

このたびハなんでもかでもむねのうち
そうちをするでみなしよちせよ (5-26)

 註釈 26
 もうこの度は、どうでもこうでも人間の胸の中を隅から隅まで掃除するから、皆はこの事をよく承知しているがよい。

むねのうちそふぢをするとゆうのもな
神のをもハくふかくあるから (5-27)

 註釈 27
 人間の胸の中を掃除すると言うのも、親神の深い意図があるからの事である。

このそふぢすきやかしたてせん事に
むねのしんぢつわかりないから (5-28)

 註釈 28
 この胸の中の掃除をして、心のほこりを取り除かぬ以上は、心の曇りのために、真実な親神の心が分からぬ。

この心しんからわかりついたなら
このよはぢまりてをつけるなり (5-29)

 註釈 29
 親神の心を真実に悟る事が出来るようになれば、この世初まりの理を現したかんろだいのつとめの手をつけよう。

とあります。

この25の

いまゝでハ心ちがいわありたとて
ひがきたらんてみゆるしていた (5-25)

 註釈 25
 今までも、人間に心得違いがなかったという訳ではないが、まだこの教を説き諭しても、聞き分けるだけの成人が出来ておらず、説き聞かすべき時機が来ていなかったために、今日まではそのままに見ゆるしていた。

は、この教えが説かれた明治の時と限定すると、解釈は違ってくるのですが、おふでさきは、「合図立てあいでたならば、なにについても皆この通り」というお歌からして、「旬刻限が来たならば繰り返されて物事が現れて来る」と見た時には、今日まで心得違いの事情が見ゆるされてきた中に、教えをより聞き分けるだけの旬が到来して来たと、私には思えるのです。

そして

このたびハなんでもかでもむねのうち
そうちをするでみなしよちせよ (5-26)

と胸の掃除をする事を宣言されています。

この胸の掃除については、先のおふでさきで十分に分かると思いますが、

身上や事情が現れて、それによって、それぞれの心と親神様の思い、教えとを照らし合わせて悟り、真実の心を使うようになる事であります。

そして、

むねのうちそふぢをするとゆうのもな
神のをもハくふかくあるから (5-27)

このそふぢすきやかしたてせん事に
むねのしんぢつわかりないから (5-28)

胸の掃除をしっかりしないとならないのは、「胸の真実が分からないから」と言われています。

この胸ということについては、親神様の胸の内が分からない、思し召しが分からない。とも言われますが、「それぞれの胸の内を見定める」という意味にも思えます。

この「それぞれの胸の内を見定める」という事については、教祖が現身を隠される前の問答に於いて、「拘留されても良いと思う者のみおつとめをせよ」と初代真柱様が定められて、そうした者だけがおつとめをつとめた事から、そのように思えるのです。

そして、

この心しんからわかりついたなら
このよはぢまりてをつけるなり (5-29)

と、次のお歌は、「この心が、真から分かったならば、おつとめの手をつける」といわれます。

このおふでさきのお歌は、明治7年に書かれてあり、それ以後にかんろだいのぢば定めが行われて、かぐらづとめの段取りが進みます。

それ以前の慶応2年には「あしきはらい たすけたまえ てんりおうのみこと」の手ぶりとお歌を教えられています。

ですから、身上事情でそれぞれの誠真実を親神様は見定めると共に、願う誠真実を受け取って「あしきはらいたすけたまえ てんりおうのみこと」「あしきをはろうて たすけたまえ てんりおうのみこと」の胸の前で払う手ぶりのお歌の如く、心のほこりを払って、不思議な御守護をお見せて下さると思うのです。

さて、

教祖の140年祭に向けて、三年千日が始まりましたが、確かこれ以前に真柱様は、「三年千日に入ったらすぐに動けるように準備をしておくように」と話をされていたように思います。

今回のコロナ騒動によって、人々は家に閉じこもるようになりました。

教会も行事が無くなり、それぞれに時間が出来て、それによって様々な気づきを得た方も多かったかとも思いますが、そうした時間に、教理の勉強をされた方も多かったのではないかと思うのです。

私も、多くの人々の御守護を願い、教理をこのブログなどを使って世界へ発信して、自ら学んだ一人であります。

この三年余りがあっての、今の気づきでもあるのです。

 

話しがそれました。

このブログの冒頭に書きましたように、現在は戦争で言うならば、勝ち負けの判定が出て、収束に向かう時であります。

世界はグローバル化からナショナリズム化へ移行し、それぞれの国や地域の歴史や文化を見直して、その中から改善をして行く歩みになるかと思います。

そして医療も変わります。医者や薬への意識が変わります。

それらを思った時、これからどうなるかと思っている時、以下のお歌を読んだのです。

 

ちかみちもよくもこふまんないよふに
たゞ一すぢのほんみちにでよ (5-30)

ここまでのお歌は、「旬が来て身上事情が現れたならば、心を切り替えて誠真実を尽くす、陽気づくめの心となり、かぐらづとめを実現する道筋」が書かれていました。

そして、その道を歩むについて、「近道も欲も高慢無いように、ただ一筋の本道に出よ」と歩み方を示されています。

さらには、

このみちについたるならばいつまても
これにいほんのこふきなるのや (5-31)

にほんにもこふきがでけた事ならば
なんでもからをまゝにするなり (5-32)

この親神様の進める道に着いたならば、これが「にほん」の「こうき」となるといわれて、「にほん」にも「こうき」が出来たならば、何としても「から」を親神様の思いのままにする。と言われます。

この「にほん」という言葉を、「親神様を信ずる者」とした時に、そうした者達が誠真実で幸せに暮らしていく様が「こうき」という手本となり、それが確立されたならば、親神様を信じない者も、親神様を信じて同じような道を歩むようになると思えたのです。

そして、

このよふをはぢめてからのしんぢつを
またいまゝでハゆうた事なし (5-33)

このはなしむつかし事であるけれど
ゆハずにいればたれもしらんで (5-34)

たん/\とどのよな事もゆてきかす
心しずめてしかときくなり (5-35)

「この世を始めてからの 真実を まだ今までは 言った事なし」という事から、「元の理」の話であり、この話は難しい話であるが、言わなければ誰も知らない。そして心静めて聞いて欲しいと言われていると思います。

その「元の理」の話として、次のお歌を見ると、

いまゝでハいかなるほふとゆうたとて
もふこれからハほふハきかんで (5-36)

これまてハゑださきにてわほふなぞと
をしへてあれどさきをみていよ (5-37)

今まではどんな法と言っても、もうこれからは法は効かない。

これまでも、枝先においては、法などとして、教えておいたがこれから先を見ていよ。

と言われます。
知恵の仕込みと文字の仕込みを得て、その時々に、聖人君主として親神様から人間の成人の命を受けたものが、様々な事を人間に伝えました。

その一つが法であり、術というものでもあるのです。

そして、

このおふでさきを書かれた当時は、法や術といったものが多く用いられて、医者で治らない者は、そうしたものに頼っていた。

実際に、教祖が月日の社になられるのも、一年間に9度行われた修験者によっての行われた法によるものが切っ掛けであった訳で、そうした法などについても、親神様が教えたものだと、「ほうなぞと教えてあれど」とはっきりと言われて、また後の、ほふやとてたれがするとハをもうなよ このよ初た神のなす事 (5-39)でもはっきりと、親神様がする事と言われています。

「医者」「薬」についても、同様に親神様が教えたものと、「元の理」「元はじまりの話」に記されています。

そして、

にほんにハいまゝでなにもしらいでも
これからさきのみちをたのしゆめ (5-38)

ほふやとてたれがするとハをもうなよ
このよ初た神のなす事 (5-39)

どのよふなむつかし事とゆうたとて
神がしんちつうけとりたなら (5-40)

「にほん」の者で、これまでのそうした法のようなものを何も知らなくても、「これから先の、歩んでゆく道を楽しめ」と言い切られています。

また法も、この世を始めた親神が、不思議を見せたのであって、どんな難しい事でも、親神が真実を受け取ったなら、法というものを使わずとも守護をすると言われます。

つまり、法や術という作法が効くというのではなく、その作法を行う人の真実を受け取って不思議な事を現したと考える事が出来るでしょう。

だから、このお道の教えを知り、親神様に凭れて通るものについては、これまでの法や術に頼ることなく、誠真実を受け取ったらば不思議な働きをするから、心配は無いと言われていると思えます。

 

お道の歴史、先人が歩んだひながたを考える時、「扇のさづけ」や「水のさづけ」などを教祖はその人の真実を見定めて渡されました。

しかし、このおさづけも止められたのです。

この扇をもって、人々に神様の思召しを伝える姿を想像してみてください。

教祖が加持台となった、寄せ加持の様子に似ていないでしょうか。

この寄せ加持は、法です。

そして病人の前でおさづけを取り次ぐ姿、おつとめをして病人の平癒を願う姿、これも法と言えるように思います。

永尾芳枝祖母口述記。。。「復元」3号(書き換え)4(追記・修正)。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

に、「扇の伺い」「扇のさづけ」を取りやめにした理由が以下の如く書かれています。

 扇の伺いというのは、最初は23人の人達がお許しを受けたのだが、皆”一名一人限り”と言って、自分の事の他はお伺い出来ないのに、人に頼まれて他人の事までも伺う人がある。それだから御守護がない。まるで間違ったことをお知らせになる。それでせっかく許された扇の伺いも、たいがい教祖はお取り上げになったのやった。

(※その他、教祖ご在世当時の事を知るためには。。。「復元 永尾芳枝祖母口述記」のブログ記事一覧-あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp) 

親神様が受け取る誠真実を失い、形だけの法や術を行い、人心を惑わす宗教となり下がる様が重なる事と思います。

 

また、

6号に「医者薬について」次のお歌があります。

いまゝでハやまいとゆへばいしやくするり
みなしんバいをしたるなれども (6-105)

これからハいたみなやみもてきものも
いきてをどりでみなたすけるで (6-106)

このたすけいまゝでしらぬ事なれど
これからさきハためしゝてみよ (6-107)

どのよふなむつかしきなるやまいでも
しんぢつなるのいきでたすける (6-108)

月日よりしんぢつ心みさためて
いかなしゆこふもするとをもゑよ (6-109)

「医者や薬」も「修理肥」として、親神様が教えられたものという事は、分かり切った事として話を進めますが、

先の「法が効かん」でと言われたごとく、「医者・薬の効かないものを、真実の息でたすける」と言われるのです。

 

今の社会では、すでに法や術というものは一般的には信じられなくなり、医薬が中心となっています。

医者が絶対という医者を信仰する人々があるほどです。

そうした医者にしても、今回のコロナやワクチンの事から、どれだけ不条理な事をしている医学者がおり、真実の心を持って人を助けたいという医者たちを弾圧しようとする姿が見えた事と思います。

先に述べた、法や術を悪用するのと同じ事で、医薬を悪用する事態になっているという事です。

これを書きかけて、数日が経ちましたが、世界ではすでに金融の崩壊へと向かいつつあります。「金」「金融」の本当の意味合いを考える時となります。

その後は、グローバル化を進めた者たちの悪事が露呈して、ナショナリズム・国や地域の歴史を再確認・再点検して、自分達の元を見つめ直す事へと発展する事でしょう。

 

話しを戻します。

そして次のお歌からは、「から」と「にほん」についての話となります。

この「から」と「にほん」は、親神様を信ずる信じない人を指すばかりではなく、次の註釈にあるように、地域をも指し示す言葉に思えます。

いまゝでハからやにほんとゆうたれど
  これからさきハにほんばかりや ( 5号041)

  註釈 41
 今までは、親神の教の先ず行きわたる所、次に行きわたる所と説き分けて来たが、今後は、普(あまね)く親神の教が行きわたって、世界一列は皆親神の真意を悟り、豊かな神恩に希して陽気に勇んで暮らすようになる。

そして、次に木の「枝先」と「根」を対比して話されています。

ゑださきハをふきにみへてあかんもの
  かまへばをれるさきをみていよ ( 5号042)

  註釈 42

 第3号88ー90参照。次歌註参照。

 【第3号88-90のお歌と参照を転記】
  をなじきのねへとゑだとの事ならバ
   ゑたハをれくるねハさかいでる ( 3号088)
 註釈 88
  同じ木の根と枝とであってみれば、枝は折れてくるばかり、根は栄え出る一方である。
 註
  教祖様が断食をなさった時に、そんなに断食なされても大丈夫でしょうか。と、御心配申し上げた人に、
 『根は心や。心さえ親神様に通じていたら決して枯れないのや』という意味の事をお諭し下された事がある。
  ◆
  いまゝでわからハゑらいとゆうたれど
   これからさきハをれるはかりや ( 3号089)
 註釈 89
  今までは親神の教を聞いていなくても、ただ人間思案で知恵や技術だけの優れた者を偉いと言うていたが、今後は、そのような者も、人間思案を捨て、親神の真意を悟ってつき順う(したがっ)て来る。

 註
  をれるとは、人間思案の我を折って、親神様の真意に懐(なつ)いてくるの意。
  ◆
  にほんみよちいさいよふにをもたれど
   ねがあらハればをそれいるぞや ( 3号090)
 註釈 90
  今までは、親神の教の説き始められる所を軽く思い侮(あなど)っていたであろうが、親神の真意が表へ現れて、人々の心がたすけ一条に澄み切って来たならば、何人も皆懐(なつか)しく思い慕わずにはおれぬようになる。

と示されて「から」は「枝先」であり、「にほん」は「根」であることも理解できます。

そこで、改めておふでさきを続けて見て見ると、

いまゝでハからやにほんとゆうたれど
これからさきハにほんばかりや (5-41)

ゑださきハをふきにみへてあかんもの
かまへばをれるさきをみていよ (5-42)

もとなるハちいさいよふでねがえらい
とのよな事も元をしるなり (5-43)

ぢつやとてほふがへらいとをもうなよ
こゝろのまことこれがしんぢつ (5-44)

にんけんハあざないものであるからに
めづらし事をほふなぞとゆう (5-45)

「にほん」と「から」との違いの一つが、法であり術であり、それを偉いと思ってその「から」に従う事に対する注意喚起がなされていると思うのです。

これから、日本の国の歴史について、色々な学説が出て来るでしょう。

また他の国についていも同じです。

さらには、世界が出来た歴史についても、様々な事が言われるでしょう。

これらの検証は、すべて遺跡や文字、さらには遺伝子という医学的な事からなされて行きます。

これはあくまでも、形の上だけの話であり、そうした文化が出来る以前の事や、心の話ではありません。

次ぎのお歌では、

いまゝでハ神があらハれでたるとて
まだしんぢつをしりたものなし (5-46)

このさきハどのよな事もしんじつを
をしへてをいた事であるなら (5-47)

それからハ神のはたらきなにもかも
ぢうよじざいをしてみせるでな (5-48)

と言われて、「真実を教えておいたなら」それから「神の働きを、自由自在の働きをしてみせる」と言われます。

この真実とは、「元の理」「元はじまりの話」だと私は思っています。

虫鳥畜類と生まれ変わってから後、今の私たちのこの身体になってから、知恵文字を仕込まれて、今の文明が出来ました。

それも世界に、言語が違った文明をです。

この文明の出来た理由などが、「元はじまりの話」にあり、それを誠真実で心得た時、「真実なるの息で助ける」と言われる、親神様の不思議な働きが現れて来ると思うのです。

日本の地の歴史を掘り下げる中に、「いち宮、二墓、三はら」と言われた、生み降ろされた場所が明かされるようになれば、「人間を宿しこんだ元のぢば」を明かす日も来るかと思います。

また、外へ生み降ろされたものが、食物を食い回り、外国の地へ上がったという事も明かされる日もあるでしょう。

 

その為には、今の私たちは何をしたら良いか。

コロナですべての物事を止められて、これまでの事を改めて思案する時を得た私たちは、人を頼りとするのではなく、親神様を頼りとして、自らの責任で行動をする事が重要と思えてなりません。

 

教祖100年祭を終えてから、当時の真柱様は、「今後年祭をどうするか?」と問われました。

その時、これまで通って来て、すべてわかっているだろうから、自ら考えてするようにと言われたと思います。

あれから30年が過ぎました。

未だに、教えて下さいと言いながら、言われた事をそんなことを言ってもとして、やらない人々を感じます。

反対に、これまでの事に対して見切りをつけて、自ら求めて動いている人々も感じます。

これらを見比べると、後者の方々の方が勇んでいるように思えてなりません。

 

昭和の第2次大戦が終わった後、天皇が神ではなく、人である宣言をしました。

これは日本の歴史上とても大きなことで、親神様からすれば一列は皆兄弟という教えに近づいた時でありました。

しかし、上に立つ人間は、自分達の優位性を保つために、様々な事をしてきたのです。

そして、戦争や争いごとを起こし、下にいる人々を苦しめて来たのです。

その後、天理教の教えは世界へ広がりました。

日本人の勤勉さと共に。

 

そして世界中に撒かれた種は、芽が生え始めています。

それらがより一層育つための、一つの節だとも思えるのです。

親神様が、多くの人々を扱って、ウソと追従を掃除して、誠真実の上に不思議な働きを見せている現在だとも思います。

 

これを書くために、書き換えた「永尾芳枝祖母口述記」を読み返しました。

ブログに書いた当時、これから先どのようになるのか心配で、御守護頂けるようにと念じて書いていた事を思い出しました。

世界では、ワクチンで多くの方が亡くなり、ロシアでは戦争が勃発したり、大地震が起きて大変ですが、日本では表立っての戦争は起きていません。

そうした情報によって、人間がどのように考えるかが問われる状況にある事が分かりました。

 

スピリチュアル系の発信で、「風の時代」と数年前に言われて来ましたが、まさしく言葉の時代です。

言葉でそれぞれが心を切り替える時、そのようにも感じています。

 

陽気ぐらしへの、親神様・教祖のお導きに感謝して、思いつくままに。。。

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おふでさき5号 解説 『続ひとことはなし』より

2023年03月05日 13時09分17秒 | おふでさき解説

おふでさき 5号の2代真柱様の解説を『続ひとことはなし』より、スキャンデータと共に現代用に書換えて掲載する。

おふでさき5号は、

おふでさき5号 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

30から55の註釈は、

これから先を思案するためのおふでさき 5号30~55 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

それぞれ別ウィンドウで見れます。

第5号

 明治7年5月と表記された、88首のお歌からなっている。


 第5号は、牛馬の前生並びに後生について(1)のいんねん話に始り、我が身思案にのみ陥りがちな人々に対して、警告され、身上の障りによって、よく親神の思惑を思案せよ、我が身可愛く思っても、みな親神の見分けによって、黒白が決まるものである(4)と教えられ、次いで、一つ屋敷に暮らしていても、それぞれ銘々に個性があって、親神より受ける理は同一でない(5)、たとえ親子でも夫婦でも兄弟でも、それぞれ親神から受ける理は違っているもので(8)、善とか悪とかの見分けは、家族とか、親類とかによるものではなく、銘々の心を見て、平等に親神がつけられるものである(6、7)。
 世界中の者はみな一様に、心に埃を積み重ねる時、身上に障りの印を見せられるもので(9)、それによって親神にもたれる心、即ち信仰の糸口として反省せよ(10)とて、信仰の方向に示されている。
 また、人々の心の使い方、即ち信仰の方向に対して、親神の理を述べられ、『神のぢうよふ』を早く見せたい(11)、どんな難しい病でも、人間の心次第、心の入れ替え次第で、必ず癒して(なおして)やるのだ(23)、真実の心を親神が受け取れば、いかような親神の『ぢうよふ』を見せてやるのだ(14)、この切なる親心を、側(そば)な者は早く汲み取ってくれ(15,16)と急き込まれている。


 次いで、今日から『をふくハんのみち』(往還の道)を急き込む(17)、とて『たすけつとめ』の完成へと言及され、この往還道こそ、末代続く『こふき』の始り(18)であり、その役につく『にんぢう』(人衆)は身上に障りを見せて頂いて、寄ってくるであろう(19)、身上の障り、手引き、意見等よく思案すれば、自ずと思し召しを悟り得るであろう(20)とて、『たすけつとめ』の人衆の心の成人方、悟り方を教えられ、親神は一列兄弟が可愛い上から、種々くどくど説き聞かすのである。(21)とて、親心を語られ、子供の胸に積もる埃を掃除する事の急を、るる繰り返されている(26-28)。
 往還道、それは陽気ぐらしへの道であり、同時に又たすけ一条の道でもある。又それは、当然おつとめの完成を意味し、往還道へかかる事は、末代不易のこふきの始りを意味するのである(18)。そして又人々の胸の掃除と立て合って(26-28)、つまり人の心の成人に応じて、『このよはぢまりて』 ―おつとめの手― をつける(29)、と仰せられている。


 一方にはつとめ人衆の心の成人を促し、一方には、つとめの道具立てを急がれ、相まって陽気ぐらしへの往還道を指示され、しかも急がれながらも、『近道』を通らず、欲も出さず、威張りもせずに、一路正道に進むように(30)、と仰せられている。

 かくてこの道と日本のこふきについて話され(31)、この世を始めてからの真実話にふれられ(33ー35)、過去においては、真実話を知らぬから、種々な誤解があった(37)とて、”ほふ”と”ぢつ”又は”しんぢつ”、”ゑださき”と”ね”又は”元”、”から”と”にほん”(36-45)等の対照で、詳しく今までの見解を述べ、”月日のやしろ”の現れた今は、親神の真実の話を教え(47)、親神の自由自在のはたらきを見せ(48)、世界一列の心を澄しきる(49)。即ち人の心次第に、その心通りの結果を見せてやることで(50)、道のり千里の遠い所へも、人々の言ったり思ったりした心通りに、そのかやしを見せてやるのである(52)。良い事を言っても、悪い事を思っても、そのまますぐに、応報のしるしを見せてやるのであり(53,54)、その事をよく経験したならば、誰でも心澄むように心がけるであろう(55)とて、心の入れ替える様子を述べられている。


 56ー61においては、往還道は、親神の理想を述べたり、人々の心の入れ替えによってのみ、つけかけられるばかりではなく、『高い山』からも『をふくハんのみち』が進められるのである。側な者でも、まだ気づかぬであろうが、『このとこへ』『よびに来る』のも『出張りして(でて)』くるのも、みな親神の思惑あるからの事で、つまり往還道を高山からつけに来ている事になるのである。
 根掘る模様(64)、それは親神の思惑を極める事である。この世始りの真実話を胸に治める事である。親神の下、世界一列の人間は、その可愛い子であり、共々に陽気にくらすよろこびを分かち合う事である。この事をよく掘りきり悟達し得たならば、身分の上下の別なく、共々に心勇んで、陽気にむつみ合えるようになるのであり(67)、もっぱら心を勇ますようにしたいのである(68)。
 かくて、この上下共に楽しむ道は、先ず日本に弘め(69)、世界に及ぼしたい(70)と言うのが、親神の思惑であるのに、その事を知らず、何か危険思想のように思い誤っている(71)のは、遺憾な事ではあるが、どうか、胸襟を開いて心を澄まして聞いてくれるようになって欲しい(74)。世界中には人間は多くおり、その多くの人々の胸の内を澄ますのは、難しい事ではあるが、というて澄まさずにはおかれない(75,76)。この心が澄み、又理解出来たならば、親神の思惑は分かるようになる(77)。


 78のお歌より、第5号の意を、又繰り返して述べておられるようである。親神の真実のはたらきを知っている者はないが(78)、それは、親神の自由自在のはたらきというものは、一寸目には珍しいと思われる事を見せる事である。
 今日まではその自由のはたらきが知られていなかったが、今日では一寸そのはたらきの細道が見えかけて来た(81)。この道をたどって行くと、やがては往還道に出る。
 又、今日までは、からもにほんも区別のない道であったが(83)、往還道がつけば、その区別が判然とする(84)。


 この世の元はじまりの根を極めよう。力で出来るならばやってみるがよい。それは力でなすのではなく、胸のさとりでなすものである(85)。この元はじまりの根を極めさえしたならば、いかに力強いものでも、敵うものはない(86)のである。
 よく聞いておけ、我が儘な事を口で言ったり、我が身思案の心で思ったり、又遠い所であったりしても、親神のはたらきはそんな事には関わらず、すぐに心通りに受け取り、又親神の守護がなくなると言うような、かやしがあると思え(88)とて、激しく人の心の使い方、悟り方について教えられている。
 総じて第5号においては、1は、心の治め方を教え、1は往還道への方向を教え、つとめのてを語り、親神の真実話に説き及ばれるなど、往還道建設の具体面につき触れ始められている。

・・・・・

以上です。

次回、これらを含めて、現在の世界やお道の事情について、思うところを書いてみたいと思います。

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これから先を思案するためのおふでさき 5号30~55

2023年03月05日 09時16分40秒 | 思った事

3月5日 

昨日、一日かけて先日、2月27日に投稿した「おふでさき」の註釈を書きました。

2月26日のご本部での事。。27日 朝のおふでさきから。。。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

親神様の計画を知る上にはとても良いかと思います。

参考にして下さい。

 

5号30~55までです。

赤字でおふでさきを記しましたが、途中の緑字は註釈で参照された部分の別の号のおふでさき註釈です。

 

ちかみちもよくもこふまんないよふに
  たゞ一すぢのほんみちにでよ ( 5号030)

  註釈 30
 功を急ぎ心を焦(あせ)らして徒(いたず)らに近道を求めたり、利に目がくらみ欲心を起こしたり、又高慢の心があっては、決して本当の往還道に出る事は出来ぬから、そのような心得違いにおちる事なく、ただ一筋に真実の教に精進するがよい。

このみちについたるならばいつまても
  これにいほんのこふきなるのや ( 5号031)

  註釈 31
 こうして、たすけ一条の往還道に出たならば、これこそにほんに現れた親神の真実の教として、末代までも語り伝えられ、多くの人々を救ける、手本ひながたの道となるのである。

 註
  こふきとは、後の世までも語り伝えられて、多くの人々を救ける元となる真実の教という意。

にほんにもこふきがでけた事ならば
  なんでもからをまゝにするなり ( 5号032)

  註釈 32
 人間創め出しのぢばのある所に、一列たすけのこふきが出来たならば、それから先は、次に親神の教の行きわたるべき所へも、自由自在に親神の神意を説き及ぼして、思うがままに豊かな神恩に浴せしめるあろう。

このよふをはぢめてからのしんぢつを
  またいまゝでハゆうた事なし ( 5号033)

  註釈 33
 この世を創めてからこのかたいろいろと心を尽した親神の真実を、今まではだれにも説き示した事はなかった。

このはなしむつかし事であるけれど
  ゆハずにいればたれもしらんで ( 5号034)

  註釈 34(なし)

たん/\とどのよな事もゆてきかす
  心しずめてしかときくなり ( 5号035)

  註釈 35
 人間の成人につれて、如何な事も言い聞かせるから、心鎮めてしっかりと聞くがよい。

いまゝでハいかなるほふとゆうたとて
  もふこれからハほふハきかんで ( 5号036)

  註釈 36
 今までは、世の中にいろいろの法や術などが行われていたが、もうこれからは、そのようなものはなくなってしまう。

これまてハゑださきにてわほふなぞと
  をしへてあれどさきをみていよ ( 5号037)

  註釈 37
 これまでは枝先では法や術などというものを教えて置いたが、今後それ等のものがどれだけ力を示し得るか、将来を見ているがよい。


 ゑださきは、今後親神の真実の教の行きわたる所を言う。

にほんにハいまゝでなにもしらいでも
  これからさきのみちをたのしゆめ ( 5号038)

  註釈 38
 法や術などは何も知らなくても、ぢばのある所には親神の真実の教があるから、それによって栄えて行く将来の道を楽しむがよい。

ほふやとてたれがするとハをもうなよ
  このよ初た神のなす事 ( 5号039)

  註釈 39(なし)

どのよふなむつかし事とゆうたとて
  神がしんちつうけとりたなら ( 5号040)

  註釈 40(なし)

いまゝでハからやにほんとゆうたれど
  これからさきハにほんばかりや ( 5号041)

  註釈 41
 今までは、親神の教の先ず行きわたる所、次に行きわたる所と説き分けて来たが、今後は、普(あまね)く親神の教が行きわたって、世界一列は皆親神の真意を悟り、豊かな神恩に希して陽気に勇んで暮らすようになる。

ゑださきハをふきにみへてあかんもの
  かまへばをれるさきをみていよ ( 5号042)

  註釈 42

 第3号88ー90参照。次歌註参照。

【第3号88-90のお歌と参照を転記】
 をなじきのねへとゑだとの事ならバ
  ゑたハをれくるねハさかいでる ( 3号088)
註釈 88
 同じ木の根と枝とであってみれば、枝は折れてくるばかり、根は栄え出る一方である。

 教祖様が断食をなさった時に、そんなに断食なされても大丈夫でしょうか。と、御心配申し上げた人に、
『根は心や。心さえ親神様に通じていたら決して枯れないのや』という意味の事をお諭し下された事がある。
 ◆
 いまゝでわからハゑらいとゆうたれど
  これからさきハをれるはかりや ( 3号089)
註釈 89
 今までは親神の教を聞いていなくても、ただ人間思案で知恵や技術だけの優れた者を偉いと言うていたが、今後は、そのような者も、人間思案を捨て、親神の真意を悟ってつき順う(したがっ)て来る。


 をれるとは、人間思案の我を折って、親神様の真意に懐(なつ)いてくるの意。
 ◆
 にほんみよちいさいよふにをもたれど
  ねがあらハればをそれいるぞや ( 3号090)
註釈 90
 今までは、親神の教の説き始められる所を軽く思い侮(あなど)っていたであろうが、親神の真意が表へ現れて、人々の心がたすけ一条に澄み切って来たならば、何人も皆懐(なつか)しく思い慕わずにはおれぬようになる。

もとなるハちいさいよふでねがえらい
  とのよな事も元をしるなり ( 5号043)

  註釈 43
 木の根元は枝先に比べてかさびくいが、木にとっては最も大切なところであるから、枝葉の事を明かにするには、何でも、先ずその根元を究めなければならぬ。


 人間のちえや力のみに頼らず、親神の真意を悟るように、との御教示である。

ぢつやとてほふがへらいとをもうなよ
  こゝろのまことこれがしんぢつ ( 5号044)

  註釈 44
 術や法と言うても、それに力があるのではなく、それを用いる者の心の誠真実、これが真の力となるのである。

にんけんハあざないものであるからに
  めづらし事をほふなぞとゆう ( 5号045)

  註釈 45
 人間は浅はかな者であるから、少し変わった事でもすると、直ぐ法や術やなどと言うてまどうてしまう。

いまゝでハ神があらハれでたるとて
  まだしんぢつをしりたものなし ( 5号046)

  註釈 46
 これまでも、親神が自ら表へ現れて珍しいたすけをしていたが、世間の人々は未だに法か術かのように思うて、真実の心の理によって救かる、という事を知らない。

このさきハどのよな事もしんじつを
  をしへてをいた事であるなら ( 5号047)

  註釈 47-48
 今後は、どのような事でも、真実を教えて置いた上で、何も彼も自由自在に親神の働きを現して見せよう。

それからハ神のはたらきなにもかも
  ぢうよじざいをしてみせるでな ( 5号048)

  註釈 47-48

しんぢつの神のはたらきしかけたら
  せかい一れつ心すみきる ( 5号049)

  註釈 49(なし)

はたらきもいかなる事とをもうかな
  心うけとりしだいかやしを ( 5号050)

  註釈 50
 親神の自由自在の働きと言えば、どんな不思議な事をするのかと思うであろうが、親神は人間の真実の心を見定め、直ぐそれに応じてかやしをするのである。

このかやしなにの事やとをもうかな
  みちのりせんりへだてありても ( 5号051)

  註釈 51
 このかやしと言うても、どうしてかやすのであろうと、思うか知れないが、たとい道のり千里、2千里隔たってあっても、親神が人間の心を見定め次第、それにむくいるのである。

この事ハなにをゆうてもをもふても
  うけとりしだいすぐにかやしを ( 5号052)

  註釈 52
 この親神のかやしという事は、たとい口で言い心に思うた些細なものであっても、その言葉その心を親神が受け取り次第、直ぐにかやしをするのである。

このかやしなんの事やとをもうなよ
  せんあくともにみなかやすてな ( 5号053)

  註釈 53(なし)

よき事をゆうてもあしきをもふても
  そのまゝすくにかやす事なり ( 5号054)

  註釈 54(なし)

この事をみへきたならば一れつわ
  どんなものでもみなすみわたる ( 5号055)

  註釈 55
 親神の自由自在のかやしが実現し、その道理が人々に分かって来たならば、何人も皆一様に天理を悟り、自然に心澄みわたるようになる。

・・・・

以上です。

自分なりに思うところを書きたいと思ったのですが、その前に5号の解説が「続ひとことはなし」にありますので、それを次に投稿して、その後に思うところを書く事にします。

とりあえず、今回はここまでにします。

陽気ぐらし実現の糧になりますように。。。

今日も一日よろしくお願いいたします。

 

 

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メガネを忘れたという事から。。。

2023年03月03日 04時44分05秒 | 思った事

昨日、メガネを忘れて、アルバイトへ出かけた。

地下鉄に乗って、スマホを出して気が付いた。

メガネという事で、目が良くなったという話しを思い出した。

何もしないのに、突然目が痛み出し、1週間ほど痛みが続いた後、メガネを掛けずとも小さい字が読めるようになったとの事だった。

その方は、奥さんに話しても「そんな馬鹿な」と信じてもらえなかったそうである。

不思議な御守護については、当の本人しか分からない事も多い。

 

その話を聞いて、飯降伊蔵先生が本席と定まる時の身上を思い出した。

事前に病ではないと言われて居ての身上であり、数日熱と痛みにうなされて、周囲はもう出直すかと思うくらいのものであった。

永尾芳枝祖母口述記。。。「復元」3号(書き換え)4(追記・修正)。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

以下にその部分を転記しておく。。

 

 『ご本席様とお成り遊ばされた時の御模様をお話下さいませ』

 言うまでもなく、父様は、天にも地にも教祖ただお一人を頼りにしておられたのだが、教祖は知っての通り明治20年正月26日の正午にご昇天になった。
 その時の様子をあっさりと(簡略に)いうと、その朝父様は内蔵へ入って扇の伺いをしておられたが、その時のおさしづに、
  ほんづとめせいせい、してもかかる、せいでもかかる
とおっしゃった。

 お勤めをすれば警察へ引っ張られなければならないが、しなくても引っ張られるのだったらお勤めに掛かろうと、みな相談して、甘露台のところへ荒むしろを敷きまわして本づとめに掛かったのだが、警察へ行くどころかちょうどお勤めが終るころに、教祖はご昇天になったのや。
 それから間もなく、旧2月17日(この日、本席様は以前、仲媒(ちゅうばい・仲人)をされた菊池安太郎という人のお祝に招かれて行かれ、酒宴の途中から少しご気分が悪くなったので、お帰りになり、そのままお休みになると、にわかに熱が出てお身上になられたと聞く。伊)の午後から、父様は身上にお障りを受けて、同日の暮れまで寝付かれたのだが、その間の父様の苦しみはとてもとても激しいもので、ことに熱が高くて玉のような汗が拭く暇もないほど流れ出る。その汗を拭いては絞ると、飴のようなものが流れて糸のように引っ張るので、人々はこんな不思議な病気は見た事が無いと言っていたくらいだった。
 そんな中にも神様は父様にお入込になって
  真柱を呼べ、早く真柱をここへ連れてこい
とおっしゃる。
 父様のお障りは熱ばかりではなかった。それはどうにも奇妙な病気で、父様はこの時の事を「あばら骨が一本ずつ、ぶちぶちと折れて、その折れる間に、骨と骨との間に煮え湯が沸いて、しばらくじっとすると、また次の骨が折れてゆく。こうして右がみな折れると、こんどは左もみな折れてしまった。それからコチコチと音がして元の通りにはまっていったが、何ともかとも言われないほど痛かった」と後になって言われたのだが、本当に側にいた私たちにもその音が聞こえたのだった。

 そんな苦しい中にもおさしづが下がった。おさしづの下がる時の父様の声は常よりも強い語気やった。その時のお言葉に
  今や屋形の真の柱を入れ替えたで
つづいて
  これからは黒衣をきせて5人いても6人いても働くで働くで
とおっしゃった。
 23日の夜はことに厳しく、この時のおさしづは
  真柱を呼べ真柱を呼べ
つづいて
  どうしてもいかん、こうしてもいかんといえば、赤衣二つ並べてしまうで
とおっしゃったのだが、それまでにもまだ教長(前管長)さんは来られなかったのだった。
 その23日の夜は、とてもとても心配でたまらず、母様と私は石西さんの風呂へ入れてもらってくると言って、そっと家を出て石西さんの風呂場の隅で泣きながら相談し合って決心したのやった。父様があの通り身上が迫っては、とても3日の日も持つまい。あれほど神様がお呼びになっても、どうした訳か真柱様は来られず、もしもその内に父様が出直されたら、後に残った家族の者などはどうしようか。教祖は「一つの世帯。一つの家内と定めて伏せ込んだ」とおっしゃったけれども、今の状態では案じられる。今更櫟本へ帰ることなどは出来ず、いっそのこと、親子4人(母親と私と妹の政枝と弟の政甚の4人や)河内の国の方へでも行って、乞食をしようとも大和の土地は踏まないでおこうと言って、母子泣き泣き語りあったのやった。

 

 このように言うと、いかにも弱い精神だと思うだろうが、教祖のご昇天になった後のお屋敷というものは人間心ばっかりで、長の年月、教祖ただお一人を頼りとして、またお言葉を信じて連れて通らせてもらったのに、その教祖はこの世のお方ではなく、そんな時にこのあり様だから、とてもとても苦しみはひと通りやふた通りではなかったのや。口ではとても言う事が出来ない。
 この時のあり様を詳しく言えば、人を恨むようになるから言わないでおくが、それはそれは苦しいものやったで。
 それからも度々、神様が父様にお入込みになって「早く真柱を呼べ」とおっしゃるが、どうしてもお越しにならん。とうとう辻忠作さんと桝井伊三郎さんの二人が、どうしてもお呼びしてくると言って行かれたが、やっと前管長さんが来られた。それは3月1日の夜明け頃やった。
 その時のおさしづ
  さあさあ あちらこちら、つまんだようなことを聞いていたぶんには分からんで、これしっかり聞き分けねばならん、神が今に下がる、出るというたところが承知でけまい、紋方の分からんところから神がこの屋敷に伏せ込んだ、さあこの元が分かれば、さあ知らそう、承知でけねばそのままや、さあ返答はどうじゃ、無理にどうせとは言わん
 いかにも承知致しましたとお答え申し上げると、
  さあさあしっかりと聞き分け、今までは大工というて仕事場をあちらへ持って行き、こちらへ持って行った、それではどうも仕事場だけよりでけぬ、・・・・・・・
  今のところの仕事場と言うた事を消して、本席と定めて渡そうと思えども、このままでは残念残念、さあさあ本席と承知がでけたかでけたか、さあ一体承知か

 真柱が「おおぢいの身体は天に差し上げまして、飯降家の家族は、私の家族として引き受けますから、どうぞご安心下さいませ」とお答えされると
  ちょと頼みおくと言うは、席とさだめたるといえども、今一時にどうせいと言うでない・・・・・
  さあ人は変わっても理は変わらん、理は一つやで、これからは別火別鍋
というお言葉だった。
 時は明治20年旧3月1日やった。
 間もなく、父様の身上は元通りに全快されたが、今から40年の昔を思い返すと、父様も色々な道を通られた。
 明治15年旧2月8日、教祖のお側へ引っ越しさせて貰ってから、20年に本席と成られるまでは、一日の日も長い着物を着られた事などなく、いつも窯の側で立ったまま、食事をされたのだった。

 

・・・・

今世界では、コロナとワクチン接種から大変な事が起きている。
ドンドン人々が亡くなっているとの事である。

そして、その原因解明に懸命になる人々と、それをうやむやにしたい人々がはっきりとして来ている。

先日、親神様のざねんが晴れた後の事と思えるおふでさきを書いたが、親神様が不思議なお働きを見せて下さるのは、人々のまことの心を受け取ってであることが書かれてある。

2月26日のご本部での事。。27日 朝のおふでさきから。。。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

どのよふなむつかし事とゆうたとて
神がしんちつうけとりたなら (5-40)

である。

誠の心、ウソ偽りではない、真実の心である。

人たすけたい。助かりたいという真実の心が合わさって、おさづけが効くとも聞かせてもらう。

 

まだまだ世界は、心のあり方についてまで思いが至っておらず、スピリチュアルという者達にしても、心明るくというような言葉でしか発信されていない。

すべては、それぞれの心通り。

誠真実の心が使えるようになるための、勉強。。

 

思うがままに。。。

コメント
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