毎朝おつとめの後に「おふでさき」を拝読しているが、
6月25日の朝、一つのお歌が気になった。
このたいがみなそろいさいしたならば
どんな事をがかなハんでなし (17-10)
それまでにせかいぢううをとこまでも
むねのそふぢをせねばならんで (17-11)
のお歌である。
先日娘から、「かんろだいはいつできるの?」と質問された。
その時、「世界中のみんなの心が澄んだならば。」と答えた。
それが、このお歌を読んだ時に、思い浮かんだ。
???
17号の10では、「かんろだい」揃ったならば、どんな事でも叶わない事はない。と言われている。
その次で、「それまでに」と言われている。これは時間を区切っている言葉で、親神様にはその時を定めておられることになる。
そして、その時までに、「世界中の人間の胸の掃除をしなければならない」と言われている。
と思えた。
そこで、「おふでさき」註釈を見て見ると。
このみちハどふゆう事にをもうかな
かんろふたいのいちじよの事 (17-2)
に対して、次のように書かれている。
2
この道の真意はどういう事であるかというと、かんろだい一条によって人々の心を澄ます事である。
註 かんろだいについては、先ず明治2年の「おふでさき」第2号に現れ(第2号39参照)、次いで、明治6年飯降伊蔵に命じてその模型をお作らせになり、更に、明治8年陰暦5月26日かんろだいのぢば定めを行われ、「おふでさき」第9号に於いて詳細に寸法をお示し下され(第9号47-64註参照)、降って明治14年から石造でその建設に着手せられ2段まで出来たが、翌明治15年陽暦5月12日警官が来て、これを没収して行った。その後は、板張りの2段によって、ぢばを示して、昭和9年10月、現在の木造雛形かんろだい建設に到っている。やがて、世界一列の人の心を澄ませた上で、石造で神意通りのかんろだいが建設される。
とある。
ここでは、
世界一列の人の心を澄ませた上で、石造で神意通りのかんろだいが建設される。
と書かれており、これを私はずっと思っていた。
だから、娘にも「皆の心が澄んだならば」と話をしたのであった。
次に、先の
このたいがみなそろいさいしたならば
どんな事をがかなハんでなし (17-10)
それまでにせかいぢううをとこまでも
むねのそふぢをせねばならんで (17-11)
の註釈を見て見ると。
10-11
このかんろだいが親神の教通り建て上がったならば、親神の理想通り自由自在の陽気づくめの世界が来るのであるから、それまでに、どこどこまでも世界中の人の心を掃除せねばならぬ。
とある。つまり、
2の註釈では「世界中の人の心を澄ました上」となっているのに、10-11では「かんろだいが建ちあがるから、それまでに、人々の心を澄まさなければならない。」
と言われているのである。
「世界中の人の心を澄ました上」と言われるのは、
すわり勤めで歌われる
あしきをはらうてたすけ
せきこむいちれつすまして
かんろだい
の「いちれつすまして」からそのように言われることは理解できる。
では、なぜこの差が出るのだろうか。
時旬という事を考えると、この自然の摂理には、絶対に時旬がある。
よく農業に例えられるが、その作物にあった旬に種を撒き、修理肥を時旬に応じて行わなければ、実はならないのである。
また、「元の理」見ても、「最初に,産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。」とある如く、「約束の年限」というものもある。
また、教祖の予言の如く、親神様には人間の将来が見抜き見通しであり、おつとめの稽古についても、教祖伝294頁に「この年、7月21日(陰暦6月20日)教祖は、「四方暗くなりて分かりなき様になる、そのときつとめの手、曖昧なることにてはならんから、つとめの手、稽古せよ。」と仰せられた」と記されており、苦しい時旬が来る事を予言されて、そうした時旬がある事もわかる。
また、御休息所へ中南の門屋から移られる時も、「教祖は、11月26日の夜、親神のお指図のまにまに、刻限の来るのを待って、中南の門屋から新しい御休息所へ移られた。」(教祖伝266頁)とあるように、時旬が関わってくる。
さらには、「おさしづ」では「刻限」として、人間からの伺いではなく、親神様からその時その時に必要な事を話された「刻限話」がある。
これらを考え合わせると、「かんろだいが建てられる時旬」があると思われる。
そして、教祖130年祭(2016年1月)を過ぎてから、かんろだいの倒壊、(2017年7月26日)真柱様のご身上(2018年6月)、そして現在事情教会の整理と次々と、道の上には多大なる暗い時旬である。
それに合わせたように(合図立てあいから思案すると、必然なのだが、、)今の世界中の状況である。
新型コロナによって、人々は相談をする事もままならず、ましてやこれまで正しいと思っていた事が次々と否定され、そのために情報が錯綜している。そしてそれらの情報は受け取り方によって正誤が異なり、結局判断は、それぞれの心によって決定して、自らが歩まねばならなくなっている。
「かんろだい」は、礼拝の芯である。おつとめを勤めるための芯である。それが倒された。ましてや、つなぎ合わせていた「ほぞ」が折れて、新しく立て替えなければならなかったのである。これまでにも何度も、倒された事はあったが、すぐに積み重ねられていたが、それが出来ずに、数カ月、下2段だけのかんろだいであった。
そして、真柱様の身上によって、真柱様からのお言葉は頂けなくなり、人助けのための「おさづけ」の拝戴が止まったのであった。現在、真柱様は頑張ってくださっており、1日十数名におさづけをお渡し下されるまでなられた。
そして、教会整理、統合である。これまで、信仰の中心となっていた教会が、会長不在、後継者や信者の不在などで、役割を果たせなくなり、整理されているのである。
みな、これまであって当然と思われていたものが、そうではなくなり、どのように思案して対処したらよいかと右往左往している状態だと思われる。
これも、コロナまん延から、政治、医療などなど当然と思っていた事が、当然ではなくなり、右往左往しているのと同じように私には思える。
さて、話を「かんろだい」に戻す。
「かんろだい」が建てられる時が決まっており、「その時までに」だと、人間の心を澄まさなければならない期限がある。しかし「人間の心が澄んだならば」だと、時間は永遠にあるように思える。
この差がとても大きいように感じている。
もう一つ、期限があるとしたら、その時までに心を澄ますことが出来ない人々はどうなるのか?という疑問も出てくるだろう。
7号11
それまでにせかいぢううをとこまでも
むねのそふぢをせねばならんで (17-11)
のお歌の後に
このそふぢとこにへだてハないほとに
月日みハけているとをもゑよ (17-12)
月日にハどんなところにいるものも
心しだいにみなうけとるで (17-13)
いまゝでハとんな心でいたるとも
いちやのまにも心いれかゑ (17-14)
しんぢつに心すきやかいれかゑば
それも月日がすぐにうけとる (17-15)
月日にハせかいぢううハみなわが子
かハいいゝばいこれが一ちよ (17-16)
と「心を澄ます」ための「胸の掃除」について述べられている
註釈を書いておく。
12
この掃除は、世界一列どこに別け隔てなく公平に、親神が見分けをしているのであるから、よく承知しておくように。
13
親神は、見抜き見透しであるから、世界中どのような所にいる者でも、皆それぞれと各人の心通りに受け取って、別け隔てはしない。
14-15
今までは、どのように親神の心に添わぬ心づかいをしていても、一たんその非を悟ったならば、一夜の間にも、真実の心とすっきり入れ替えるようにせよ。そうしたならば、親神は、この事をも真に受け取って、自由自在の守護をしよう。
16
親神にとっては、世界中の人間は皆我が子であるから、親神はただ子供可愛いい一心である。
とある。
それぞれの心通りの事を表すから、その事からそれぞれに善悪を判断せよ。そして、非を悟ったならば、真実の心へと入れ替えよ。すれば、どんな難しい事でも助けていただける。
と述べられている。ここで、「心通りの事を表す」という事は、身上や事情が起きてくるという事である。それはそれぞれの心通りの現れだから、それから自分の非を悟れ。といわれている。
つまり、心澄ますための掃除は、それぞれが自分の思い通りにならない身上や事情から、自分の非を悟る必要があり、それを詫びて、親神様が望まれる誠真実の心へと切り替えることである。
掃除は、それぞれの心も考えられるが、心が入れ替わらなければ、その人が掃除されることになるとも思われる。
そしてまた、これは他人事ではないのである。世界中全ての人に、平等に行われることなのである。
最後に身上事情の思案の順序を記しておく。
まずは、自らの心のほこりである。十全の御守護、十柱の神様の働きから、それぞれのほこりを思案する事である。
そして、それの思案がついたら、親神様にお詫び申し上げる事。もし、それが親神様の思い通りならば、身上や事情に変化が現れる。もし、3日経っても現れなければ、親神様の思いとは違っているので、また思案する必要がある。
この心を入れ替える一番は、自分勝手な心遣いを詫びて「親神様のお望みどおりに通らせて頂く」と、心を定めることである。これは自分の我を出してはならないのである。
そして、すでにこのような心定めをしていて、身上事情を見せて頂く場合は、心定めを忘れてしまっていないかと、思い返す事が必要である。
もし定めた心で通っていたならば、前生、前々生のいんねんの現れと悟り、日々お詫びとお礼、そしてより一層人様のために真心をつくす日々を歩む事である。
また、一人の身上や事情はその人だけのものではなく、周囲の人々への警告や心定めを促す場合もある。つまり、すでに定めた心で通っておりながら、前生、前々生のいんねんを通っている方が家族などにおられた場合、その家族も事情の中にある。
そうした時に、知らぬ存ぜぬでは親神様の思いには叶わない。だから、その方の少しでも早い平癒を願い、その方の世話をすると共に、日々おつとめをするのである。
かしものかりものは、自分の身体だけではない。自分の周囲すべてが借り物である。
だから、夫婦親子もすべて自分の心通りに与えられた借りものである。
まだまだ、親神様のお話は奥が深い。
しっかりと、自分の色眼鏡、癖性分を自覚する事。まずはこれが大切である。
おたすけ人が、身上になって、自らの平癒を願ったおさしづに、多いと思われるお話は、「自分がおたすけの時に話している話を、自分自身に当てはめよ」というお話であると思っている。
案外、自分は大丈夫だと思い込んでいる場合が多いようである。
「おふでさき」から色々書きましたが、参考になれば幸いです。