ここからは、どんどんと信者が出来てくる中に、教会内では様々な事情が起こり始める。
また、この『愛知大教会史第1巻』のこのあたりから、山名日記の抜粋、願書や届けの写しなどの資料が多くなりとても読みにくくなってくる。
またこの教会史は、愛知からの視点で書かれているため、山名初代会長の思いは、不明確であり、山名大教会史を合わせて読む必要が感じられる。
まず、第1の事情は、伊平先生の突如の山名引き揚げである。
明治23年1月より名古屋布教に来られた櫨本伊平先生である。それが突如、山名へ引き揚げて、常詰の命が下がったのである。
55頁の資料では、11月14日「名古屋天理教会講社事務所より端書到来」とあり、翌日に、「本日名古屋講社事務所へ昨日の返書、講長橋本氏引き上げ延期願い、難しく応える旨を、会長公より申し送る」とあるので、この前に、常詰の辞令があったことと思われる。
そして、11月28日に山名で新しい役割が示されて、橋本伊平先生夫妻が名古屋から山名へ戻られたのであるが、こうなると名古屋では大変な事になってきた。
まだ先日信仰を始めたばかりの人々ばかりで、取り消しを求めてのことだろうか、12月1日には小柴久七が山名を訪れている。
そしてその対処のためか、渡辺与作(山名役員)が名古屋へ出張する事となり、さらに12月13日「会長公名古屋より帰会」とある事から、山名初代会長は、名古屋にて説明をされて山名に戻られた事が分かる。
では、この一連を、この「愛知大教会史第1巻」でどのように書かれているか。
58頁に
引き上げ後の処置について、小柴久七は早速、12月1日、山名分教会へ出向対策方を種々お願いした結果、山名分教会では役員 渡辺喜作を出張員として、12月8日に名古屋へ派遣された。また山名初代会長も、その治めむきについて来名、主な周旋方と談合され、出張員を芯としてたすけ一条に挺身してくれるよう懇請された。
と記されている。
そしてまた、名古屋市から集会並びに担当任の処置について呼び出しがあり、担当人を橋本伊平から小柴久七にして、布教の件(説教の事と思われる)については山名分教会より出張して行う事を返答している。
そうして、明治24年1月31日には、それまでいた渡辺氏の交代で、柴本氏が名古屋へ来ている。
そして、山名へ戻った橋本伊平先生は、さっそく三州、三河へと出張布教している。
明治24年1月18日 「三州出張橋本氏より、三河北設楽郡・・・」と1月23日 「三河出張、橋本氏より端書、豊橋地方おたすけをなす事」2月1日 「三河出張、橋本氏帰会」より推察できる。
教祖5年祭には、教会本部のお許しは頂かなくとも、名古屋真明組として参列している。これは、41頁の43番にある鶴田嘉七が、「兵神よりにおいがかかり、教祖5年祭に参拝したおりに、「名古屋真明組」の旗を見て、名古屋に天理教がある事を知った」と伝えられている事からも分かる。
橋本伊平先生は山名初代会長の命にそのまま従う信仰をもっておられたので、そのままに引き上げられたが、信仰の浅い名古屋の人々の中には、それが理解できない人も多かった事と思われる。