あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

愛知大教会史第1巻 1-2章- 4・5節 橋本伊平、山名分教会へ引き揚げ・教祖5年祭

2020年06月20日 23時15分01秒 | 愛知大教会史

ここからは、どんどんと信者が出来てくる中に、教会内では様々な事情が起こり始める。

また、この『愛知大教会史第1巻』のこのあたりから、山名日記の抜粋、願書や届けの写しなどの資料が多くなりとても読みにくくなってくる。

またこの教会史は、愛知からの視点で書かれているため、山名初代会長の思いは、不明確であり、山名大教会史を合わせて読む必要が感じられる。

まず、第1の事情は、伊平先生の突如の山名引き揚げである。

明治23年1月より名古屋布教に来られた櫨本伊平先生である。それが突如、山名へ引き揚げて、常詰の命が下がったのである。

55頁の資料では、11月14日「名古屋天理教会講社事務所より端書到来」とあり、翌日に、「本日名古屋講社事務所へ昨日の返書、講長橋本氏引き上げ延期願い、難しく応える旨を、会長公より申し送る」とあるので、この前に、常詰の辞令があったことと思われる。

そして、11月28日に山名で新しい役割が示されて、橋本伊平先生夫妻が名古屋から山名へ戻られたのであるが、こうなると名古屋では大変な事になってきた。

まだ先日信仰を始めたばかりの人々ばかりで、取り消しを求めてのことだろうか、12月1日には小柴久七が山名を訪れている。

そしてその対処のためか、渡辺与作(山名役員)が名古屋へ出張する事となり、さらに12月13日「会長公名古屋より帰会」とある事から、山名初代会長は、名古屋にて説明をされて山名に戻られた事が分かる。

では、この一連を、この「愛知大教会史第1巻」でどのように書かれているか。

58頁に

引き上げ後の処置について、小柴久七は早速、12月1日、山名分教会へ出向対策方を種々お願いした結果、山名分教会では役員 渡辺喜作を出張員として、12月8日に名古屋へ派遣された。また山名初代会長も、その治めむきについて来名、主な周旋方と談合され、出張員を芯としてたすけ一条に挺身してくれるよう懇請された。

と記されている。

そしてまた、名古屋市から集会並びに担当任の処置について呼び出しがあり、担当人を橋本伊平から小柴久七にして、布教の件(説教の事と思われる)については山名分教会より出張して行う事を返答している。

そうして、明治24年1月31日には、それまでいた渡辺氏の交代で、柴本氏が名古屋へ来ている。

そして、山名へ戻った橋本伊平先生は、さっそく三州、三河へと出張布教している。

明治24年1月18日 「三州出張橋本氏より、三河北設楽郡・・・」と1月23日 「三河出張、橋本氏より端書、豊橋地方おたすけをなす事」2月1日 「三河出張、橋本氏帰会」より推察できる。

教祖5年祭には、教会本部のお許しは頂かなくとも、名古屋真明組として参列している。これは、41頁の43番にある鶴田嘉七が、「兵神よりにおいがかかり、教祖5年祭に参拝したおりに、「名古屋真明組」の旗を見て、名古屋に天理教がある事を知った」と伝えられている事からも分かる。

橋本伊平先生は山名初代会長の命にそのまま従う信仰をもっておられたので、そのままに引き上げられたが、信仰の浅い名古屋の人々の中には、それが理解できない人も多かった事と思われる。

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愛知大教会史第1巻 1-2章- 2・3節 名古屋真明組の結成・橋本伊平の結婚とおさづけの理拝戴。

2020年06月19日 21時14分52秒 | 愛知大教会史

明治23年1月橋本伊平先生が、柴田久兵衛宅を根城にして布教を開始してから、5月はじめには48戸の講社が出来ることとなる。

これに伴い、5月18日に山名分教会へ講社事務所を設立する願を出し、5月19日付で橋本伊平先生が、「神道天理教会講社愛知県名古屋市講長」に、山名初代会長より任命され、5月22日には名古屋市の警察署へ集会の届け出を出している。

この時の書類、警察署への届け出について、初代会長諸井松太郎先生が、名古屋真明組講社取り締まりの用務を受けて、名古屋へ来ている。

そしてこの事務所の所在地・説教日・名称は、警察署への届け出によると、「名古屋市南伊勢町130番地の柴田久兵衛貸家を事務所」として、講社を取り締まり、「毎月1日、11日、21日」を神様の話を聞く日として、「名称は神道直轄天理教会講社名古屋事務所」しており、この担当任に橋本伊平。信徒総代に柴田久兵衛・柴田安次郎・木村茂助・田中銀次郎・竹内正常・小柴久七がなっている。

また、この住所を当時の地図で調べたところ、48頁にある、愛知県名古屋市南伊勢町2丁目130番戸が場所を特定しやすいと思われる。

詳しい日は分からないが、この後6月9日に諸井氏がおぢばに、出て居るのでその間に、講社事務所の開所式を行われたであろう。との事である。

この2節は、上記の裏付けとなる山名日記と願書、届け、そしてこの講社事務所の周旋人、講社取り締まり役が列記されて分かりずらいと思うが、入信したての人が、周旋人・講社取り締まり(今でいうところの役員)になっているところに注目をしたい。

そこで、周旋人を列記しておく。(任命日)

柴田久兵衛小柴久七竹内正常田中銀次郎・木村茂助・柴田安次郎(5月19日)

杉本誼・伊藤吉次郎・山田治七一色駒三郎(6月1日)

近藤初太郎(7月2日)・市村末彦(7月20日)・木村弥兵衛(8月14日)

石崎金太郎・柴田弥太郎・柴田勝助・白木嘉一(12月14日)

このうち、赤字の者が、9月16日に神道本局に教導職試補推挙願を提出して、12月1日付で教導職試補となっている。

橋本伊平先生は、明治23年4月9日推挙願提出、5月8日教導職試補となっている。(第3節 54頁に記載)

また、改祭届けに対する賞詞状の受書をみると、「神道直轄天理教会長少教正 中山新治郎」となっている。

次の第3節は、名古屋での布教生活とおさづけ拝戴について書かれており、その中に、橋本伊平先生のおさづけ拝戴日が明治23年11月6日とあり、伊平先生のおさづけによるおたすけで道が広がったのではない事が分かる。

また、夫婦そろっての布教の様子も分かると思う。

 

 

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愛知大教会史第1巻 1-2章- 1節 先人の入信

2020年06月18日 07時38分15秒 | 愛知大教会史

ここからは、名古屋で入信した信者の話である。そして、次節でまず組が結成されて、その後支教会設立の話となる。

明治22年に7戸の講社が出来ている。これは橋本伊平先生が明治23年1月15日に山名へ入り込んでいるので、山名へ入り込む前の数となる。

そして明治23年は214戸の講社加入ということで、すごい事である。

主な信者を番号を振って列記してあるが、1の坂入泰次郎とは、伊平先生の役者の師匠である。

2の柴田久兵衛は、70才の高齢である。今ならばまだまだ若い感じがするが、当時は相当の高齢である。それが不思議な御守護を頂き、布教師がつとめる上の後ろ盾になったわけである。

また、柴田久兵衛の関係者には赤線を引いておいた。

青線は、熱田分教会の会長をつとめた人である。

後で、話題にしたいので覚えておいて頂きたいのが、8番の市村末彦の年齢が21才という事で、この名簿の明治23年に入信した中では最年少である。

そして、小牧大教会の初代となるのだが、入信のきっかけは、石崎金太郎の妻から橋本伊平先生を紹介されて、御守護を頂いたことである。そして、その市村末彦がにおいがけしたのが、24番白木嘉一となる。

34番杉山芝三郎の後に、「中島郡一宮町に移住、布教す。」と書いてあるが、この人が元で一宮分教会が出来る。しかし、初代会長はこの人ではなく、13番の近藤初太郎である。この近藤初太郎は、後に熱田分教会の会長となる。この事についても後ほど、教会設立のところでふれる事となる。

43番の鶴田嘉七は、幅下、武儀、菅原を設立する元となった人であり、その家系は山名部属の山東分教会になっている。またこの人は、名古屋の人であるが、四国巡礼に行った際に、兵神の人からにおいがかかり、愛知からにおいがけに出た人である。

このように、各地で次々と不思議なおたすけが現れて、信者が出来て行くのである。

8番の市村末彦の部分の詳しい事は、後ほど小牧大教会のところで出て来る。

43番の鶴田嘉七については、断食により出直すこととなり、この時におさしづを伺っている。この件についても、後に述べたいと思う。

ここに列記された、信者の内、現在家系が残っているのは、数件である。

また、この後、教会事情が起こってくるが、これらの人々の名前が出て来るので、注意をして頂きたい。

・・・・

このあたりから、教会設立への話になりますが、愛知支教会としてお許しを戴くのが明治24年です。明治22年からわずか2年後です。その翌年、明治25年から部内教会が設立されていくのです。
また、後に出てきますが、橋本伊平先生がおさづけを戴かれたのは、明治23年です。
今日の制度、道の歩みと全く違っているのです。この点も気にして、お付き合いいただければと思います。(Facebook 熱田分教会 記載文)
・・・・・
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愛知大教会史第1巻 1-1- 8節 橋本伊平、山名分教会住込みと名古屋布教

2020年06月17日 04時23分45秒 | 愛知大教会史

橋本伊平先生は、名古屋にて柴田久兵衛ににおいがかかった事から、山名初代会長からの銘をそのまま受けて、山名への住込みとなる。

ここで、岡野桂次郎先生をこれまでは親としたいつとめて来た信仰から、山名初代会長を親と慕う信仰へと代わり、山名初代会長の言われるままに、生涯通られるのである。

そして、明治23年1月15日 山名に入り込んだ数日後、1月26日に名古屋へ向かい、山名初代会長の言葉通りに講社を結成して、2月12日に信者を連れて山名へ参拝するのである。

【橋本伊平、山名分教会住込みと名古屋布教】

明治23年2月12日に山名へ加入名簿を提出しているのであるから、名古屋へでの講社設立はこの日と考える人もあるかもしれない。しかし、この講社というものを、家単位の入信として、山名へ加入したと考える事が、後に名古屋真明組が結成されることからも分かると思う。

当時と今、そして系統や地域によって、考え方が違う場合があるので、こうした点にも注意が必要と思われる。

 

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愛知大教会史第1巻 1-1- 6・7節 名古屋布教のかかり・柴田久兵衛の入信

2020年06月17日 03時46分11秒 | 愛知大教会史

名古屋へは、山名以外の系統からも道は伝わっているのだが、山名の中では、この橋本伊平先生しかにおいがかからず、他の先生は他の土地へ布教に行かれている。それだけ、橋本伊平先生がこの名古屋の地に深いものがあると考えられると思う。

【名古屋布教のかかり】

(師匠の見舞い・不思議なおたすけ・師匠片岡松童の入信=浜松・周知)

ここで一つ、愛知が支教会設立のお許しを戴こうとした時に、山名初代会長は、この片岡松童に会長になって欲しいと言っている。また、この後に出て来る柴田久兵衛にも会長になって欲しいと言っている。しかし両名とも断り、山名の役員間でくじを引き、諸井松太郎先生が初代会長として出願することとなる。

【柴田久兵衛の入信】

28頁の「山名日記」内12月14日には、「名古屋出張、鈴木、柴本の両氏より紙面到来、但し御手引付かざるに依って、美濃国に手分けにて出張するとの事」と書かれている。名古屋でにおいがかからずに、岐阜県へとにおいがけにでかけた。ということである。

これは東愛大教会の役員先生から聞いた話であるが、東愛も名古屋の熱田の地に出来た教会ではあるが、はじめは名古屋ににおいがかからず、知多半島でにおいがかかり、その親戚すじが名古屋にいた事から名古屋に信者が出来るようになったとの事であった。

そうした中で、柴田久兵衛ににおいがかかり、そこからその知り合いへとにおいがかかっていくのである。

・・・・・

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愛知大教会史第1巻 1-1- 4・5節橋本伊平のひととなり(追記)

2020年06月16日 08時44分37秒 | 愛知大教会史

ここからは、橋本伊平先生の生い立ちと名古屋布教にでるまでの歩みとなる。

第4節は、入信までの事柄、第5節は入信後の事柄と別れている。

 

昨日、ほこりの心を払う事について書いた。

伊平先生の入信前と入信後の性分が変わったというように見えるかもしれないが、入信時に心定めた事を全うする中に、同じ性分でも、良いように現れるようになった。と見ることが出来ると思う。

「生きながらに生まれ変わる教え」とも聞かせて頂くこのお道だが、それがここに記載されているとも思う。

また、入信後の事は、名古屋布教に出る前までの事であり、自ら教えを求めて歩む道中ともとらえることが出来るだろう。

系図の中で、愛知大教会4代会長 兼正先生の姉 きくさんの家系は、名京大教会部内 逢阪(あうさか)分教会となっている。

信仰に入る以前であろうが、岡野桂次郎先生が、橋本伊平先生を更生させようと、心かけられたところも見逃すことが出来ない事と思う。

また、おぢばから遠く離れた地での、信仰の仕方も分かるのではないだろうか。

・・・Facebookの私のアカウントへこのブログを張り付けてから、後々の資料になるだろうと、熱田分教会へも張りつけている。貼り付けたら以下の言葉が出て来たので、記録でコピペしておく。・・・・
 
信仰に入る前と信仰に入ってから、表面的には全く違った人のように思えると思う。しかし、性分は変わっていない。その性分が、信仰前は自分中心だったから悪い方へばかり現れていた。けれども、親神様の話を聞いて、心定めて通ったことから、その性分は良いように現れた。そして幾多の苦労を乗り越えて、人々の手本となっていかれた。
その人々の手本となる前、自ら信仰を求めていた頃までの話が書かれていると思う。
「癖性分を取りなされや」これは教祖が言われた言葉である。癖性分とは悪く表れている性分の事である。これを取ったら良い性分が残る。
たとえば、すぐに腹を立てる人、これは「はらだち」のほこりである。けれども、はらだちのほこりをお嫌いな神様は、ツキヨミ様である。突っ張りの御守護である。自らの上に自分を突っ張って、腹を立てて怒鳴り散らすことは、全くのほこりである。けれども、人の上にこれではいかんと、奮起して突っ張っていくことは「ほこり」ではない。
こうしたところが大切だと思う。(Facebook 天理教熱田分教会)

・・・・・

【信仰前の橋本伊平】

【信仰後の橋本伊平】

親神様・教祖、どうぞお導きをお願いいたします。

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「愛知大教会史 第1巻」 第1篇 第1章【第2節 山名大教会の発祥・第3節 周智分教会の発祥】

2020年06月15日 09時44分42秒 | 愛知大教会史

愛知大教会が、名古屋の地に誕生することになったのは、橋本伊平先生が名古屋にておたすけが上がり、慕う人が出来たことが元である。

その橋本伊平先生を導いたのは、山名大教会の部内、周智分教会の元となる、岡野桂次郎先生である。

愛知大教会の事を知るには、「山名」そして「周智」を知る事はとても大切な事で、これを踏まえて、この後に起こってくる事情を、またそれに伴う「おさしづ」そして、「人間の思案の傾向」と「親神様の思い」などを考える事がとても大切だと思う。

愛知大教会史第1巻では、橋本伊平先生の入信の次に、第2節として山名大教会の事に触れて、第3節として周智分教会について触れている。

読みにくいところも多い方と思うが、目を通して、心にとめておいて頂きたいと思う。

・・・・・・・

愛知の元は山名大教会であるが、その元は周智分教会となる。
こうした事は、他の大教会でも多々ある事である。
しかし、教会設立という事だけで史実を追うとこうした事は分からない。
以前、「教会を継いだり、嫁いだりすることで、いんねんが変わる」と書いた。
様々な人間思案で事情を起こしたり、それを納めるため、またおぢばの意向や政府の意向などで、苦心をして、教会の設立や移籍などが行われている。

事情治めのために、大教会から部内教会の会長となられた先生と話をしていた時に、「これまでの経験上、様々な事情や身上を信者さんに見せて頂くけれども、その教会の元、設立前の事情、また移籍した事情などを知っていると、そうした事情が起こってきた原因が分かる。」そして「しかし、こうした事が分かった今、時がたち、そうした裏の記録がなく、原因も特定できずにいる。」と聞かせてもらった。

「おさしづ」に、人間思案でどろどろとした事情を起こしていただろうと思われる言葉が多数見受けられる。
いんねんを切り替えさせたいと親神様は思っておられるが、人間の欲得から、ほこりの心から、反対の事情を起こして、悪いんねんをつけてしまっている場合もある。
起こした人を責めるのではなく、この事を肝に銘じておく必要があると思う。
また、生まれ変わり出変わりであるから、事情を起こしたのは、今の自分かもしれない事を自覚しておくことも大切だと思う。(Facebookに書いたことを記録しておく。)

・・・・・・

【第2節 山名大教会の発祥】

【第3節 岡野桂次郎の入信と 周智分教会の発祥】

この山名大教会、周知分教会の事については、『山名大教会史』をご覧いただきたい。

 

 

 

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「愛知大教会史 第1巻」 第1篇 第1章 第1節 橋本伊平の入信

2020年06月15日 07時40分46秒 | 愛知大教会史

この愛知大教会史は、愛知創立80周年の記念行事として、名古屋市の瑞穂区から今の緑区へ移転した時に、大教会で作成されたもので、今後作成されることはないと思う。

また、これに掲載された資料も、その後の災害などで紛失されたものも多くあり、揃える事は難しいと聞かせてもらっている。

愛知大教会の初代会長は、諸井松太郎(清磨)先生であるが、辞職の事情が起こり、6年間会長不在の状態となり、山名初代会長の苦心の元、おさしづを伺い、その事情を最終的に納めたのが、2代会長 橋本伊平先生である。そして、現在まで橋本家が歴代会長をつないでいる。

 

・・・・・・

親神様、教祖、どうぞ良い悟りが付きますように。

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愛知大教会史 第1巻 「序」 「発刊を喜ぶ」 「発刊に際して」

2020年06月14日 08時46分08秒 | 愛知大教会史

大教会史の冒頭には、3人の方が、書いている。

「序」は5代会長 橋本義郎先生。「発刊を喜ぶ」は4代会長 橋本兼正先生。

そして「発刊に際して」は、資料を一から集めて、原稿を書いた 安井忠義先生である。

 

この「愛知大教会史 第1巻」は、始めの部分は、物語のように書かれているが、その後は資料や史実を並べる形になっている。

この事について、安井先生に尋ねた事があり、「はじめは、読みやすいようにと物語風で書こうと思って書き始めたのだが、とても難しく、資料を提示することを主とする事になった。」と聞かせてもらった。

 

また、4代会長 兼正先生に「伊平先生が入信された時の、お諭しの言葉などは、資料があったのでしょうか?」と尋ねた時があった。「言い伝えで、資料はないが、これに間違いはないと思う」と話して下さった。

4代会長様は 憩いの家の事情部の部長をされた方で、ラジオ放送や演劇に携わられた方でもある。晩年は、おかきさげの御用をされていた。

そしてまた、この入信時のお諭しを読むたびに、「自らの通り方の反省がまず第一」と思える。

では、

 

「序」

「発刊を喜ぶ」

「発刊に際して」

今は亡き、3人の先生方のお陰で、この本を読めますこと、そして昔を学べますことを感謝いたします。

 

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愛知大教会史 第1巻 目次

2020年06月14日 08時00分09秒 | 愛知大教会史

先月5月26日に、愛知大教会は創立130周年記念祭(来年5月29日)のお運びがあり、お許しを戴いた。

ちょうど一年後である。

そして今回、記念祭に向けて愛知大教会では、「元一日を学び伝えよう」という方針を定めている。

元一日とは、立教の元一日も、人間の元一日も、それぞれの信仰の元一日も、すべてが含まれる。

そこで、愛知大教会の元一日、それぞれの信仰の元一日を知る手掛かりとして、愛知大教会を掲載していくことにする。

愛知大教会につながる人々には、身近に思案することが出来るものと思う。

また、違う系統の方には、それぞれの系統の歴史と比較することによって、親神様・教祖のお導きを知る手立てになると思う。

まずは、目次を。。。。。

 

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