早いもので、もう3月です。
世界の情勢はどんどん変わっており、新型コロナに関して日本以外は制限がなくなっているのに、日本だけがまだまだ行っています。
まったくおかしなことです。
政府も世界の情報が分かっていないはずはありません。
ロシアのウクライナへの攻撃も、政府は行われると踏んでいました。
それ以外の、経済学者などは、ロシアに何も得する物がないので、行わないだろうと予測していました。
さまざまな情報が飛び交うネットの情報を見ていると、こうした事がどうして起きるのか、とても良く分かります。
政府や大手マスメディアの情報と感情で見る人々と、西側の情報とロシアの情報を冷静に見る人々とでは、見方が全く違います。
本当に面白いです。
欲にまみれた泥水の中で、戦争を引き起こし、多くの人の命を危険にさらし、それを正当化するために情報を操る。
戦争とは、何も武力だけが戦争ではありません。
新型コロナ、ワクチンも戦争の道具ですし、経済の通貨、株式なども戦争の道具です。
国と国ではなく、国と国を戦わせて儲けよう、支配しようという人々の策略にはまれば、そのようになってしまう。
目先に見えることだけで、感情に走る。その精神をコントロールしようとしている姿が見えます。
これは、これまでにも繰り返して行われて来た事なのですが、私には、アメリカ大統領選挙の不正から、それを暴かれないように必死に工作する人々の行動。
新型コロナの治療に関しても、治療方法があるにもかかわらずそれを懸命に隠蔽して、ワクチンを打たせようとする、またそのワクチンに対しても不都合な情報を隠蔽しようと工作をする姿を見る時、まさしく情報戦である。
それも国対国ではない情報戦・薬戦・ウィルス戦・金での戦だと思えます。
こうした中に、親神様はどうしたいのかとずっと考えて来ました。
親神様のお話からすれば、すべてはいんねんの上から成ってくることです。
天の帳面の話からすれば、すべての人々の心は、天の帳面につけられて、それの相殺が行われているのです。
どんなに私は死にたいと思っても、そうしたいんねんがなければ死ねません。
どんなに生きたいと思っても、生きるいんねんがなければ生きていけません。
それはそれまでに通って来た今世だけではなく、前生、前々生からの生まれ変わりの中につけられた、いんねんの相殺でもあります。
いんねんとは、心の道と教えられます。その心の現れが目に見えている事柄です。
「良い事をすればよい理が現れる」という事は、教典にも書かれている事であります。
悪い事を、悪い心を使って人を苦しめて来たならば、その理で今世苦しまねばならない事が起きてくる。これも理です。
そうした事を知らずに、我がの考え中心で起きている事が今の事であります。
そして、苦しむ人があり、その姿を見て苦しむ我々でもあります。
しかし、ここで注意しなければならないのは、
この苦しむことが起きてくることを、「嫌だ」と思うか、「親神様からの心を切り替えるためのお知らせ」と思うかで全く異なるのです。
「親神様からのお知らせ」と受け取り、そのいんねんを切り替えるためにと、自分の心を振り返り、これまでと行いを変えることが「たんのう」と言われる事だと思います。
親神様は、医者や医学者が不可能だというような病気でさえ、治すことが出来る事は、良く分かっている事です。
ただ、それを見せて頂けるのは、親神様に受け取って頂ける心、行いが出来るかどうかによるだけなのです。
こうした自分に不都合な事が、それぞれの身近に起きれば、それぞれに分かりやすいですが、世界の事情として起きてくる時には、あまりにも大きいために分かりずらいのです。それが今だと思います。
この時に、どのような心を使うか、それを親神様は見ておられて、それぞれを陽気ぐらし世界実現の上にどのような道具として使うか、見定めておられる。
その様にも思います。
今月の月次祭で、「新型コロナに罹っても大難を小難に守ってもらえるように、ワクチン接種しても小難は無難に守ってもらえるようにと、親神様にお願いをしています」と話をしました。
どんなに「私の予測は素晴らしい」と豪語する学者でも、予測不能な事は起きます。
それは、人間の知恵・力には限界があるからです。
経験の無い事、知らない分野には対処できないからです。
こうした事は、私を含めて、なかなか物事をスムーズに理解できない人ほど良く分かる事です。
私は自分で調べて、考えて下さいとよく言います。
それは、自分で行う事で経験を積むことになるからです。
しかし、能力には限界がありますから、絶対に分からない事態に陥ります。
ですから、
「分からないところは親神様に任せるしかないですよね。だから、親神様のお望みのおつとめをして、ひのきしんをして導いてもらいましょう。」
と話をしています。
ただただ、願うだけではなく、自分で行い、そして願う。
これが大切だと思うのです。
こうした事に関して、私の右足のひざが先日から痛み出し、気が付いた事がありました。
その事について今月講話で話をしましたが、また痛みだしていますので、ここにも書けという事かと思い、その事について、資料をあげて記しておきます。
先日、突然、右ひざの古傷が痛みだしました。
昔ラグビーで痛めたところです。
これを痛めたのは、教祖100年祭のひのきしん最中です。
その時、接骨院で見てもらったところ、靭帯が伸びているだろうとの事でした。なんとかひのきしんは終えられましたが、終えたとたんに足が動かなくなりました。無理をして半月板が出て動かなくなったようで、接骨院で再度、靭帯を延ばして納めてもらいました。靭帯が切れている可能性も高いです。
それが、今日まで30年以上、全く痛む事も無く、普通に歩く事が出来ていたのです。
また先月、この痛みが出る前に、本部のある先生にお会いしました。
その先生から「ひざに、このしっかりしたサポーターしないと力が入らず歩けない。しかし痛みは無い。」と聞かせてもらいました。
その時「痛みがないのが何よりの御守護ですね」とお互いにありがたいと話し合いました。
その後、右足に痛みを覚えるようになりました。「年をとって筋力が落ちてきたためだろうな」と軽く考えていました。
そうした中に、今月の本部神殿当番で、Facebookに作ってある「復元の研究」グループに上げてある、「正文遺韻」の中の、「別席傍聴漫筆」を読んで、この事に関してのお話が目に止まりました。
それをここに上げておきます。
これは、『正文遺韻抄』にも掲載されています。ただし、題名は「御講話傍聴録」として、先生の名前は数字に代えられています。
この中で、その部分だけ書換えておきます。
困る、苦しむ、悩む、患うというは、みな銘々の心。銘々の心が、患う、苦しむ。それはどういうものなら、親が我が身を思うての意見やという事が、分からんから、心に不足の思いを離されん。そこで、不足に不足を重ねて、辛い辛いと思う心が、苦しいのや。悩んでいるのや。
ああ、親が我が身のために意見して下さる。と思えば、結構と思うて、一つ改め変える。勇んだ心の理を持って、心の間違いを取り直す。そうすれば、心に患う悩むという理はない。すなわち、人間の子供でも、素直な者は、親の意見をありがたいと思うから、意見をされても、かえって心が嬉しい。我がままな者は、親の意見を苦い事(嫌な事)と思い、ひどい事に思い、親を不足にする。それ、意見されるたびに、心は患い、悩み、苦しんでいる。
ここをよく思案して、親は子の不出来を思い、子を困らせる親ではないという事を、会得して、身上の意見も結構と思う心を定めにゃならん。そこで、それ、身上が不足になっても、うずかず、痛めず、病めずありがたいという理がある。
「あれほどの物、よう痛まぬ事や。よううずかぬな。普通の者なら、うずかにゃならんのに、結構や」というような事は、よく見せてもらってもいることや。
これが、意見をありがたいと思って、心悩めぬから、痛まぬ。悩まぬという理であるのやで。難にあっても、その通り、心を痛め、心を患わぬようにするが良い。
これを読んで、これまで痛みが無かったのは、不思議な御守護を頂いていたのだと、確信しました。
そして、常に親神様は、私たちの深いいんねんも、教えを守る中に、不思議を知らず知らずに見せて下さっていると話したのでした。
ここで、親というのは、親神様の事です。
人間の親では様々な心がありますので、自分を振り返っても、人間の親はなかなかこのようには行きません。
しかし、その人間の親を通して親神様がお仕込み下さる、その人間の親を通して「我がのいんねん」を教えて下さると思えば、ただ単に反発するのではなく、逆らうのではなく、それなりの対応が出てくることと思います。
私はこれまで、どんな人が上に立っても、このように考えながら通って来た事を今、これを書きながら思い出しました。
以下には、そのページの画像を張り付けておきます。
参考になれば幸いです。