9月から修養科に入る方があり、8月25日より教養掛として、ひと月詰所で勤める事となる。
9月は霊祭で、色々と教会としては大変な時だが、妻と子供たちに任せておぢばでの御用を勤めさせて頂く。
さて、このひと月に何を見せて頂けるだろうか。。。
9月から修養科に入る方があり、8月25日より教養掛として、ひと月詰所で勤める事となる。
9月は霊祭で、色々と教会としては大変な時だが、妻と子供たちに任せておぢばでの御用を勤めさせて頂く。
さて、このひと月に何を見せて頂けるだろうか。。。
各地の部活動で集団感染が出ている中に、天理大学のラグビー部の感染が報じられた。
ラグビーで一人の感染者がいれば、集団感染するのは当然の事。これが、休校中で部活内での感染であった事は良かったと思う。
それ以上に、下記にFacebookで発信されている 並河市長の説明がとてもよかったと思った。
現在の対応やこれからの対応について、「天理市では、「天理地区PCRセンター」が開設されています。」との事など、素晴らしいと思った。
罹らない事が一番良い、けれども、かかる事で免疫抗体が出来て、身体が強くなるのが自然の摂理である。
ところが、この免疫が出来るまでに出直す人もある事をよく知っておく必要がある。
ニュースで聞くところによれば、感染者が増えたお陰で、薬の臨床試験が出来ているとの事。
「それによって、重症者の発生率が低いのか。」と思ったが、若い人に対する副作用が心配でもある。
経済が冷え込んでしまっていると嘆くニュースが多い中、この薬が認証されれば、製薬会社は儲ける事が出来て、経済が上向くきっかけにもなるだろう。
中国が完全な資本主義になったならば、これも経済が上向く要因にもなるだろう。
しかし、資本主義になった時には、次なる問題が起こってくる。
こうした事も、親神様は見抜き見通しである。
大切な事は、一度学んだ事を忘れない事である。
そして、学んだ事を応用する事である。
これが出来るためには、それぞれに、それ相応の徳をもたねばならないだろう。
親神様の前には、人間はみな平等である。陽気ぐらしをさせたいとの思いから、人間を作られた親神様の元のいんねんは、すべての人間に対して同じである。
しかし、人間は生まれかわりして、それぞれにいんねんを付けて来ている。良いいんねんも、悪いいんねんも。
だから、人対人においては、差がある。
生れ落ちる環境から差がある。生まれ持った身体、性格にも差があるのは、当然の事なのである。
この事を見極めていないから、不足をもって、いらぬ悪いんねんを作る事にもなる。
なぜ見極められないか。それは、かしもの・かりものを得心していないから、心通りに全ての物を親神様からかりていると思えていないから、この差が不足になるのである。
ところで、人によっては、親神様からわざわざ役目を貰って生まれ出ている人もある。
この点も注意しておかなければならない事である。
良いいんねんで、とても良い心の人なのだけれども、とても苦しい環境に生まれ、育つ人もある。
その最たる人は、天理教でいえば、教祖、中山みき様であり、そのご家族である。
特に秀司様、そしてこかん様が一番良く分かる例だと思う。
このような事を、自分で思案して自分の役割を、陽気ぐらしに向けて果たして行けば良いのではないかと思う。
以下に、書く切っ掛けとなったFacebookの投稿をコピペしておく。
・・・・・・・
新型コロナの感染が拡大し、不安な中でありましたが、無事に月次祭をつとめ終える事が出来ました。
皆さんそれぞれに心して集まって下さいました。
しかし、部内の奥さんは、コロナ感染が心配だからという事で、参拝だけでお帰りになりました。
けれども、後継者の方が、運転して来てくださり、ありがたく喜ばせて頂きました。
うちの月次祭は、家族5人と、布教所の方3人と信者さん一人、そして部内の奥さんの10人ほどで勤めるのがほとんどである。
そこに、参拝だけに来てくださる方が2人、夜に参拝に来てくださる方が1家族である。
昨日は、部内の奥さんと、布教所の所長さんが用事で欠席だったが、おぢばから娘と息子が帰って来てくれていたので、いつもと同じ人数で勤める事が出来た。
また、高温で大変な事になると思ったが、おつとめ中は外から風が吹き込んできて、扇風機の風と合わせて、暑すぎることなくつとめる事が出来た。
これまた、ありがたいと思い、「親神様はどんな中でも、大難は小難にとお守りくださっている」と話をさせて頂いた。
まいた種は、時が来れば芽が生える。これが理である。
だから、今の新型コロナも世界情勢もすべて、時が来ての事である。
ただ、この時旬にどのようなお守り、お導きを頂くかは、それぞれの心である。
親神様にもたれて、親神様との心定めを守り、日々過ごさせて頂く事。これが一番大切な事だと、皆さんと話をしていてつくづく思った。
おつとめを終えて、お話をして、片付けをしている間に、妻が直会の料理を弁当パックに詰めて、皆さんにお持ち帰り頂いた。
ちょうど、お盆で仏様のあるところは忙しい時なので、これも良いかなぁと思ったが、お盆中のお寺さんの対応もこのコロナで変化しているとの事だった。
これまでにないウィルスへの対応、そして気候変動への対応。政治の上にも指導者は大変な事だと思うが、宗教の上にも大変な事だとも思う。
目に見える事だけでの対応では対応しきれないと思う。
目に見えない、親神様の導きを感じる事。これが大切ではないかと思った。
久しぶりに
を開いてみた。
新型コロナが蔓延する以前と比べると、とても内容が増えたように思った。
その中で、
JOYOUS LIFE! というバナーが目についた。
バナーの中には、「スマホで読める陽気ぐらし情報」と書かれている。
開いてみると、美しい写真と様々なコンテンツに目を引かれた。
「様々」と書いたが、
人は様々である。興味も様々。
そうした様々な人間が、お互いを認め合うきっかけになれるといいなぁと、ふと思った。
先日より探している言葉が見つからない。
けれども、その他の事柄が次々と見つかった。
そこで、「おさづけ」についての事を記しておく。
『先人の遺した教話(3)-根のある花・山田伊八郎』の148頁からである。
間に、おまもりについて書かれているが、その後にまたおさづけについて書かれてあるので、続けて掲載しておく。
また、この中で、今の新型コロナに関わると思われるところが、150頁後ろから1行目、
「又流行病と見た時は、その家内へ立ち入る事無用。」とある。流行病とは、流行り病であり、今回の新型コロナもそれである。そうした時には、その家へ入る事は無用とある。入る事はいけないと言われているのである。
その後に、「さすれば、おたすけが出来ないかと言えば、そうではない。その内の確かなる成人一人、」と言われる。確かなる成人とは、病にかかっていない大人の人という意味に思える。
そして、「その親類か、または講社の内へ呼びとって、十分話を聞かせて、お願いをかける。これが第一。」とある。病にかかっていない家の人を、その親類の家か、講社という事は神様を祀ってある家と考えられると思う。そこへ呼び出して、神様のお話をしっかりとして、お願いをするという事である。
ここで、もう一つ気になるのが、そのお話は何かという事である。
これについては、155頁の2行目から、
「おさづけするには、先にかりもの、八つのほこり、いんねんの理を十分に話をして、「国処、姓名、年と、身上の様子」を先に聞き取って、。。。
と書かれてある事から、かしもの・かりもの、八つのほこり、いんねんの理がおさづけの前には必要という事になろう。
さらには、おさづけをさせて頂くおたすけと、においがけとの区別が、149頁後ろから5行目から、「おたすけをする、お話しする時は、腰かけや立ち話は無用。店先無用。」とある。そして、「奥座敷にて神様のお話を取り次ぎ。。。」とある。それに対して、150頁前から6行目「又においがけであれば、服装は常のままでもよろしく、においがけは立ち話でも、腰かけ話でもよろしい。」とある。
こうした区別を、教祖から直々に話を聞かれた先生は行われていたという事だと思う。
復元を唱えるとき、こうした事も大切な事ではないかと思った。
どうぞ、この本はWEB書店にて販売されていますので、お求めになる事をおすすめします。
世界だすけ、コロナ終息の一助となりますように。
8日におぢばの神殿奉仕を勤めさせて頂いた。
新型コロナが、日本中にひろがりつつある中、当番の先生方はみな、マスクを付けて勤めました。
前回、緊急事態宣言が発令された時には、南礼拝場までも閉められて、神殿外からしか参拝できませんでした。それが解除された6月から神殿奉仕が再開されて、気が付いたことがありました。
それは、南北東西の全礼拝場が解放されるためには、結界内に8人の奉仕者が必要で、それが4交代で行うためには、一日32人の奉仕者が必要になり、そして一カ月では、32人を30日で960人が必要になるという事である。
その先生たちは、直属教会から推薦されているため、全国から来ることになる。現在東京など感染拡大がひどい地域からは、教区として辞退されているようだが、それ以外は個人の判断に任されている。
そうした中に、この新型コロナの感染をさけるために、公共交通は使わずに、車で来られています。
私も通常は近鉄電車で、団参券を使って帰参していたのだが、この6月からは、車で移動し、途中のパーキングエリアなどでは、人に接触しないように心がけている。
そうした中、ある先生は、娘たちが看護師なので、帰ると2週間隔離状態になる。と話されました。感染していない事が確定するために2週間、家族との接触を断っているという事で、周囲との対応も大変だという事を改めて知った。
さて、
どうして、こんな話をするかと。言うと、全礼拝場が解放解放されると、3,157畳の広さがある。つまり約2メートルの間隔を開けたとして、畳2枚に一人が座っても約1500人が座れる広さだということである。
ある会長さんと話をしていた時に、「これだけ信者さんが少なくなったら、あんな広い神殿など作る必要はなかった」などと言う人がある。と聞いた。
それを聞いた時には、そんなことを言う人があるんだ。と驚いた事を覚えている。
信仰が二代目、三代目となり親のつとめたお陰によって、現在元気に自分の思うように体が動き、事が運ぶ人にとっては、親神様の存在を疑う人も出てくると思う。
そうした時に、田地田畑すべて売り払い、人のために尽くし、残ったのは、屋敷の土地と隠居小屋のみとなった中山家。その中山家の土地が、今では、天理教教会本部として、何十倍という境内地となり、これだけの広い神殿、礼拝場が出来るまでになった事が、親神様のお働きでなくて、誰が出来るだろうか。
この広い礼拝場がある事が、親神様がある証拠だと、私は思う。
そして、この今の新型コロナの中、この広い礼拝場があるから、いつおぢばに帰って参拝しても、三密にならずに、心落ち着けてお願い、お礼が出来ると思う。
「ドア TO ドア」 で、 自宅からおぢば、神殿まで車で移動すれば、新型コロナは関係なく、参拝できるのである。
しかし、もし、神殿奉仕をする人の数が少なくなったならば、緊急事態宣言が発令される前、南礼拝場だけの解放であったようになる可能性がある。
そうならないためにも、それぞれが、新型コロナに罹らないように心掛けて、親神様・教祖にお喜び頂ける心に切り替えさせて頂きたいと思う。
世界の人々の陽気ぐらしを願って。。。
今朝のヤフーニュースで、目に留まった記事です。
奴隷制度、共産主義、資本主義と、これまでの歴史を元に、人間のあゆみを解説してくれているように感じました。
問題は、この先です。
資本主義の中にも、支配欲が渦巻いているように感じます。それが元で、いらぬ争いが起こっているようにも思えます。
これを、親神様がどれだけ許して下さるか。と、次の事を考えてしまいました。
「いんねんよせて守護する」という言葉は、とても簡単ですが、とても意味深い言葉です。
いんねんがなければ、関わる事はないのです。
争う人たちには、争うためのいんねんがあるのです。
いんねんの元は、心です。
悪いんねんとなるのは、ほこりの心がつもり重なり、拭いても掃いても取れなくなったものです。
「ほこりはよけて通れよ」と聞かせて頂くところも、とても意味が深いと思います。
よけるためには、そのほこりに気が付かねばならないのです。
面白いもので、「おたすけをさせて頂きましょう」と言われて、形だけでも、人の心配をして、助かって頂きたいと願うと、たすけて頂けるための元を探します。
この元は、言わずに知れた心なのですが、その心を、教えから探る事を自然とするようになります。
すると、「○○さんは、△△のこころが××の身上に現れている」というように思えたりするのです。
これを、本人に言っても「そうですね。」と素直に受け止める人は、ほとんどありません。
大概は「そんなことありません。あなたにそんなことを言われる筋合いはありません。」などと言われるのが落ちです。
そして、助けようとする人は、「素直に聞きいれないから、たすからない。」などと言って、おたすけを止める事が多いと思います。
ところが、
ここで、もう一つ、先程の、「いんねんよせて守護する」を知っている人は、「巡り合ったのも、親神様のお導きで、いんねんあるから」と思い、その人のいんねんと自分のいんねんを探るようになります。
すると、表面的には違っているように思えていたのが、本質では同じものを持っている事に気が付き、おたすけ人が自分の心を反省していくという事になるのです。
そして、助かってもらいたいと思う人は、「人たすけたら我が身たすかる」という言葉を体感する事にもなります。
これは、一度や2度のおたすけで分かる事ではありません。何度も何度も、助かってもらいたいと願いながらも、助からない中で分かる事。と思っています。
『教祖より聞きし話』43頁からを載せておきます。参考にして下さい。
なるほどの理 43頁 同じいんねん 44頁
・・・・・・・
話の元になったニュースを記録としてコピペしておく。
私は、共産主義は「現代の奴隷制度」と呼ぶべきだと考えている。 その理由を大きく2つにまとめると
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1.共産党が、専制的に人民(奴隷)を農園主(国王・貴族)のように支配している。
2.米国の黒人奴隷や欧州の農奴たちと同じように、共産主義国家の人民は私有財産を持たない(後で述べるように、改革・解放のような市場主義、一部私有権容認のような政策は「反共産主義的」)。また、共産主義国家の人民は、奴隷と同じく共産党(農園主・領主)の所有財産である。
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となる。
1については、必ずしも共産主義や奴隷制度の特徴とは言い切れず、専制君主、ファシスト、軍事独裁など、あらゆる「暴力によって人々を支配する」独裁政治に共通だと言える。
さらには、ひところはやった「社畜」という言葉が示す通り、「会社の専制的命令には逆らえないサラリーマン」にさえ当てはまるかもしれない。もっとも、民主主義国家のサラリーマンたちは、「社畜からの解放」=「他社への転職」という最終的な対抗手段を持っているわけだが……
2については、主として奴隷制度、共産主義、農奴制に共通した特徴である。
要するに「働いて得たものを含むすべての財産」は、ご主人様、共産党、農園主のものであり、働く者の私有財産は一切存在しないということだ。
「市民政府論」(筆者書評参照)を著したジョン・ロックは、王権など専制的権力に対抗するための「市民の防衛力」としての「私有権(財産権)の保証」を重要視した。
「社畜」として、会社の強力なパワーによって自らの財産権への甚大な影響を受ける読者は多いかもしれない。しかし、強大な力を持つ企業でも「(給与などを)与えるのをやめること」は可能でも「社員の財産を奪う」ことはできない。日本のような民主国家でそのようなことを行えば明らかな犯罪である。
しかし、現代の民主主義国家においては犯罪とされることも、奴隷制度、共産主義、農奴制においてはまったく合法である。
実際奴隷解放宣言以前は、奴隷制度が合法であった。現在、共産主義は合法であるが、それが果たして正しいことかどうかは、奴隷制度においてそうであったように「歴史が判断」するであろう。
南北戦争では北軍が勝利した。北軍が奴隷制度反対の立場であったのは間違いのない事実であり「命をかけて(そのためだけとは言えないが、解放宣言の2年後の1965年に凶弾に倒れた)」奴隷解放を実現した共和党初の大統領エイブラハム・リンカーンの存在によって、そのイメージは強められた。
しかし、南北戦争全体を「倫理的な(奴隷解放という)目的」のためだけの戦争ととらえるのは大きな間違いだ。
よく知られているように、当時北部は工業化が進んでおり、監督官が鞭打って働かせる奴隷は必要が無かった。だから、奴隷制度を維持するよりも、奴隷を解放して賃金労働者として雇うことの方が経済的メリットが大きかったのだ。
奴隷というのは、いくら働いても利益(農園の場合は収穫物)はすべてご主人様に召し上げられ、与えられるのは生存にようやく足りる程度の食糧と寝床である。いくらたくさん働いても、それらが増えることはない。
鞭で打たれなければ、到底働く気にはならないし、「手を抜けることはすべて手を抜く」という態度になるのも当然だ。私がもし奴隷にされたとしても当然同じことを考える。
確かにガレー船(古代多くの漕ぎ手の人力に頼ったスピード船)の漕ぎ手や、農作業のための労働であれば、見たままを監督すればよいから監督官が鞭打つ奴隷制も成り立つが……
しかし、工業製品の生産ではそのようにいかない。例えば、女工哀史という言葉はあるが、女工奴隷史という言葉は聞かない。それは、工場労働に奴隷制度を適用するのが困難だからである。
近代的工場では分業が行われており、1人が粗雑な仕事を行うと完成品全体に影響がおよぶ。工業製品は、農産物に比べて元々品質管理が大きな問題だが、分業化によってさらに個々人の労働意欲が問題になる。
農作業で手を抜いているのは、外から見てもわかりやすいが、工場で行う手元の細かな作業を監督官がいちいちチェックして鞭打つというのはあまりにも非効率だ。だから、工業社会には奴隷制が適合しない。
鞭打つ代わりに、解放奴隷として「賃金という飴」を与えて「働かないならあげないよ」という飴戦略をとったのが北部の工業州である。
つまり、北部が奴隷制度を廃止したかったのは、奴隷制度の生産性があまりにも低く、「飴で働いてくれる解放奴隷」を多数必要としていたということなのだ。
私有権を与えられない共産主義という現代の奴隷制度の中で、特別に「奴隷が解放されていた」場所が香港である。その「解放された奴隷」たちの地位が危うくなっていることは、7月11日の記事「限りなく北朝鮮化に向かう中国『1国2制度破棄』でサイは投げられた」などで述べた。
香港だけではなく、中国大陸における「改革・開放」も、共産主義という奴隷制度の枠の中での「一部奴隷解放」であった。
それまで、すべてのものを共産党というご主人様に召し上げられていた中国人民に限定的とは言え「(私有)財産権」が認められた。当初は恐る恐るであったにせよ、それまでのうっぷんを晴らすかのように、中国人民のやる気に火がついたのは、これまで我々が目撃してきたとおりである。
しかし、この「改革・開放」=「一部奴隷解放」は、中国共産党にとって諸刃の剣であった。一部でも解放された奴隷=中国人民は、「自由」の素晴らしさを知り「ご主人様を恐れる必要が無い」ことも実感する。
これは、ご主人様=共産党にとっては見過ごせない事態である。習近平氏の最近の行動からは、「奴隷からの開放を望む中国人民」を恐れていることがありありとうかがえる。彼ら共産党は、国家が栄えるかどうかよりも、自らの権力を維持できるかどうかの方がはるかに大事なのだ。
それは、南部の農園主が「奴隷のご主人様」としての地位(権力)を、経済合理性など無視して守ろうとしたのと同じである。
すでに述べたように、近代産業において奴隷制度の生産性は低い。
したがって、南北戦争が工業力にすぐれ生産性の高い北部の勝利に終わったのは偶然ではなく、歴史的必然だとも言える。
同じように、生産性の低い共産主義国家が生産性の高い民主主義国家に、最終的に敗れるのも歴史的必然だと言える。1989年のベルリンの壁崩壊や1991年のソ連崩壊もその証明だ。
むちで打ったり、家族を処刑するなどと脅かして、他国から盗んできた情報・技術で製品をつくらせることは可能であろう。しかし、「新しいアイディア」は、脅しでは生まれない。最初はコピー商品で共産主義国家が善戦しても、最後は高い意欲に牽引された「創造性」によって民主主義国家が勝つ。
奴隷解放宣言までは公式に奴隷制度が認められていた。また75年前まではファシズム国家が世界の主要国として君臨していた。
第2次世界大戦でそのファシズム国家と手を組み、戦後75年間辛酸を味わった日本はその事実を忘れるべきではない。
時代は常に未来に向かって流れているから、現在合法であっても将来も合法であるとは限らない。
どのようなことがあっても、日本は最終的に勝利する民主主義の勝者グループにとどまらなければならないといえる。
大原 浩(国際投資アナリスト)
・・・・・
さて今日は、昨日できた支部の資料を組長さんへ配布して、おぢばの神殿奉仕へと、車で出かけます。
新型コロナに関わらないように、ご本部のすべての礼拝場が、今後も解放されることを願って。。。
最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。
親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守りください。
今日は、広島に原爆が落とされて、75年が立った日である。
朝、NHKで記念式典を放映していた。
私は、広島の布教の家に一年間置いて頂き、原爆資料館にも足を運んだ。
そして、式典に対して良く思わない人の意見も聞いた。
人の心は様々である。表に立つ人々の日常を見て、表立って行う事に対して、良く思わない人もある。
そうした人でも、陰の場所から、御霊に手を合わせて、平和を願っている。
そうした陰の声があろうとも、75年という長い間、世代が変わっても、受け継がれて続いている事を思うと、これは真実だと思う。
自分の利害だけを考えたならば、そんなに長く続くだろうか?一代限りで終わるのではないか。と思ったりする。
これだけ75年という長い間、原爆廃止、平和をとなえていても、世界は変われない。それ以上に、陰から様々な争いを仕掛けている事が、今、この新型コロナの時に次々と現れている。
SNS,インターネットの時代で、次々と情報が流されて、その検証作業によって暴かれてしまうのである。
うそをつくと、そのうそがばれないようにと、又うそをつかなければならなくなる。
特に、厳しい法律を作ってあれば、一つのうそがばれる事で、自分の命どころか、家族、縁者さえも巻き込むことになる。
そうなれば、そのうそを隠すための、うそをつく事になってしまう。ひょっとしたら、そのうそを隠すために、人を殺める事もあるやもしれない。
誠真実を望まれる親神様からしたら、このような事は、絶対に許されることはないだろう。いずれ、そのかやしは行われる。
それまでに、改心して、生きながらに生まれ変われたならば、違うだろうが、先の核廃絶・世界平和の話ではないが、頭では理解できても、それを実行する事が出来ない。
この元は何か。という事が、とても大切な事だと思う。
その元は、言わずに知れた「ほこりの心」。
これがあるために、石の甘露台を立てる事を取りやめて、応法の道へと切り替えられたのである。
と私は思っている。
そして、こうした事を思案せずに、ただただ「おさづけ」のみに頼っていては、どうなることかと思ってしまう。
(倍化運動の元となった、増野道興先生の伝記 を読んで、さらさらに思う。)
今、新型コロナが市中感染当たり前になりつつある時に、人任せ、政治任せにするのではなく、しっかりとそれぞれが、自分の心から、対策をする事。これが大切なのではないかと思う。
身上(事情)について、心の立替について、『先人の遺した教話(4)教祖より聞きし話・高井猶吉』より掲載しておく。
34頁~ 身上(病気)と事情
174頁~ 心の立て替え
先日、ガラケーからスマホに代えて、スマホからこのブログをはじめて見た。
アップした文字がとても見にくい事が分かった。
そこで、スキャンする解像度を300DPIから600DPIに上げた。
親神様のお心は、原爆廃止のようになかなか世界には伝わりにくいと思うけれども、少しでも分かる人が増える事を願っている。
今日も一日、新型コロナに気を付けて、つとめたいと思う。
これを読んでくださっている皆様、どうぞ、ご自愛くださいませ。
コロナの広がりに対して、「許さん」という言葉が思い浮かんだので探していたら、下記の話が目に留まった。
『正文遺韻抄』の262,263頁である。
これは、『正文遺韻』では、291、292頁で、板倉先生の別席傍聴漫筆として記されている。
読みやすいように、4行目から書き換えておく。
「思い事を叶えてくれたら、これだけの事をします」というのは、世界並みの悪人でも、そのくらいの誓いはする。神様のお道を聞いた者が、そんな事では、助かる事はでけん。
しかるに、おたすけをさせてもらうもの、取り次ぐものからして、「今度、誰それは、あれは、あれだけの真実を定めたから、三日の中にはおたすけ下さるやろ」などと言うて、喜んでいる。ちょうど、道を知らんもの同志が、寄って話合っているようなもの。神が働くに、働けんとおっしゃる。
「尽くしたものに食べさしたら、内のものは増えるで。尽くしもせぬものに食べさしたら、減るぞよ」と仰せられた。
「助けてもらいたいという心あって、たすけたいという心がないから、助かる事がでけん。なんぼ話を聞いても、都合の良い事は守る。心に会わん事は、理は分かりながら、心でひねりつぶしているから、
たすからん。知らん間は、許しても置くけれど、知りながら守らにゃ、どうあっても許せんで」とおっしゃる。
人を助けたいというのに、難儀、苦労をいとうて(嫌って)いるような事では、助けられようか。人を助けるというには、危ない所も、難儀なところも、苦労もいとわず、かからにゃならん。そうして、かかったところで、その心の誠を、親さん(教祖)は受け取って下さるからして、難儀して、果てそうなところも、助けて下さる。ちょうど、茨の中も、渕中も、いとわず、人を助けるなら、神様が自由用下されて、けがや過ちもないけれど、自分ばかり、楽な道を通りたい、と言うて、大道の良い道を通り、たまさか(思いがけず)、ふと小石にけつまずいて、けがをしたり、道端の花に、心を奪われて、踏みかぶったりするのも同じ事。
「人は一代、名は末代。効能残すで、名という。一人散財、大嫌い」と仰せられた。
さて、これを見て、皆さん方はどのように感じられるでしょうか。
「なんぼ話を聞いても、都合の良い事は守る。心に会わん事は、理は分かりながら、心でひねりつぶしているから、たすからん。知らん間は、許しても置くけれど、知りながら守らにゃ、どうあっても許せんで」
という意味の言葉は、おさしづによく出てきます。
またここに、「名は末代」との言葉が出てきます。
そして、「人は一代、名は末代。効能残すで、名という。一人散財、大嫌い」という言葉を見ると、この名というのは、後世までも語り継がれる、人の名のように、私は思います。自分のために散在するのではなく、人助けのために散在する事で、効能を頂ける。とも思います。
親神様のざんねんはらしは、まだまだのように思えて来ています。
どうか、大難は小難にとお守りください。
新型コロナの新規感染者がどんどん増えている。
8月1日のニュースでの新規感染者は1535人とは、とても大変な事だと私は思う。
そうした中に、コロナが大変だという事ばかりに囚われてしまっている感じがある。
7月28日に、講社祭があり、信者さんに話をしたのは、
またコロナが広がり始めています。コロナの本質を第1波で学んだはずなのに、困ったものです。
そうした中に、私たちは、昨年の秋の団参の時に、ご本部で、初めて帰った方におさづけをさせて頂いて、痛みが無くなったという、不思議を見せて頂いたのです。親神様はお働き下さっているという事を忘れてはいけないと思います。
私たちは、「30日たち、60日たてば、コロッと忘れてしまう」と教祖から言葉をもらっています。
その通りだと思いますので、どうか、そうならないように、親神様の不思議なお働きの中で、このコロナを見せて頂いている事を忘れないで下さい。
そして、自分の出来る事を、感染対策やおさづけなどをしてください。
このような事を話した。
また、
昨日は、アルバイトで、その中でもコロナの事から色々な話が出た。
そして、今の若者は、人の事を考えない。。。という話になった。
今の若者はと言われますけれども、この若者も、その家々、個人個人によって違いますよ。
そして、それは親の態度、心がそこに現れるのです。
いくら口で、表面的には良さそうな事を言っても、子供は親の姿、心を見ています。
そこで、何を言っているんだ!と思えば、いう事を聞きません。それに親が気が付いていないのです。
などと話した。
どれだけ伝わったかは分からないが、話をして、自分自身にこれを言い聞かせた。
また、心改めて、今出来る事を精一杯つとめようと思う。
今日もこれから、アルバイトです。
親神様、教祖。不思議なお働きをありがとうございます。
今日も一日よろしくお願い致します。
・・・・・・・・・・
以下に、ニュースを記録としてコピペしておく。
新型コロナウイルスの感染者は1日、全国で新たに1535人が確認された。1日当たりの感染者が1500人を超えたのは、過去最多となった7月31日(1579人)に続いて2日連続。クルーズ船の乗客乗員らを合わせた国内の感染者は3万8578人となった。新たな死者は確認されなかった。
東京都では472人の感染が判明し、3日連続で過去最多を更新した。年代別では20代と30代の若い世代が324人で約7割を占める一方で、重症化リスクが高い60代以上が35人含まれるなど年代層が広がっている。重症者は前日より1人減って15人だった。
埼玉県(74人)、千葉県(73人)、奈良県(19人)、長崎県(15人)などでも過去最多を更新した。空港到着時の検疫では5人の感染が確認された。【まとめ・川崎桂吾】