あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

30日の餅つき。。本年も一年ありがとうございました。

2021年12月31日 07時59分51秒 | 思った事

昨日餅つきも無事に終わった。

例年ならば近所の子供たちを呼んで、賑わしくするのだが、今回はうちの子供たちだけでこじんまりと行った。

前日、準備をしていると、迎えの工事現場で交通整理をしていたガードマンさんが、「餅つきですか。いいですね。昔はやらされていたけれど。。」と声を掛けてくれた。

そして、信者さん一人と隣の方が搗きに来てくださり、楽しくつく事が出来た。

近所の人たちも来ないだろうと、3臼だけにしたところ、今朝「あれれうちののしもちが無い」という事に気がついて、やはり4臼は必要だと実感した。

うちののしもちは、冷凍のものがあるので、「それで丁度いい。」となりました。

信者さんの若い方が来て下さると、手返しなどをしてもらえてよかったのだが、今年はいないので、3臼とも手返しをした。

さすがにきつかった。終わると首が痛み、道具返しと買い出しは、例年の如く妻と子供たちで出かけた。

今日はまだまだ、信者さん数件へ餅を届けに行って、元旦祭の準備です。

 

いよいよ明日は、新しい年です。

といっても、早朝から妻は新聞配達、私は大教会の元旦祭。

それを終えてからうちの元旦祭です。

それを終えてから、妻と子供たちが大教会へ参拝に行きます。

こうした事を、29年間勤めて来たわけです。

元旦祭は誰も参拝には来ませんが、うちにいる子供たちと共に、がやがや言いながらつとめます。

一番最初の元旦祭は、夫婦二人だけでした。

それから段々と子供たちと共にするようになり、今日です。

いつの頃からか、元旦祭の後に、写真を撮るようになりました。

今年も撮りたいと思っています。

 

先日教理の資料として、「天理教教典」を投稿しましたが、それに付随して天理教事典の「教典」の部分を投稿したいと思っていました。

そこには、天理教と政府とのやり取りについての歴史が書かれているからです。

残念ながら今年には出来ませんでしたが、出来る時があればまた投稿したいと思います。

 

本年も一年、色々とありがとうございました。

まだまだ、世界は混迷の中(戦争中)にあります。

「神が心配」という「教祖のお言葉」これが常に私の心にあります。

「いんねんなら通らにゃならん。通って果たさにゃならん。」

これも常に聞くお言葉です。

通って果たす時の心が次への種となるのです。

この教えを聞いている方は、聞いていない方とは違うはずですが、聞いてもなるほどと思えない方、ウソだと思う方など様々ですので、一様には行かないのが現状です。

どうぞ、それぞれに教祖のお言葉・これまでの歴史を思案をして、それぞれのいんねんに応じた成人をさせて頂ければと思います。

 

皆様方のご多幸を念じております。

どうぞ、来年もまたよろしくお願いいたします。

 

 

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29日の用事をほぼ一人で出来て、、、嬉しかったです。

2021年12月29日 23時12分13秒 | 思った事

今日は12月29日です。

大教会のお社の掃除を頼まれて出かけました。

朝づとめを終えて急いで出かけねばと思っていたところ、9時ごろに来てもらえれば良いとの電話をもらい、昨日の続きで年賀状を書いていました。

ところが、ついつい熱中してしまい、教会を出るのが遅く成ってしまいましたが、道が混んでいなくて間に合いました。

 

お掃除を終えて、明日行う餅つきの、道具を借りて帰途につきました。

ちょうど教務支庁の近くを通った時に、ラインのメッセージが入り、それによって支部への配布物をもらいに行くことを思い出したのでした。

危うく忘れて教会へ帰るところでした。

 

教会に帰って、年賀状の続きと、餅つきの準備をしました。

明日は、餅つきの道具を返しに行くのと、買い出し、そして墓参の予定です。

 

首の手術をしてから、自分一人で次々と用事をこなすことが出来なかったのですが、今日はすべてほとんど一人で出来て、体が動く事のありがたさをつくづく感じたのでした。

 

 

 

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お社の中の掃除。。。年賀状を作りながら。。。

2021年12月28日 22時13分06秒 | 思った事

今日は12月28日です。

お社の中の掃除をすると決めた日です。

お下げをして、上段、神床のすす払いをして、お社の中の掃除をしました。

掃除をしながら、

「これだけ出来るようになって良かったなぁ。

首の手術をしてから、まともに掃除が出来なかったなぁ。」

と思いながらさせてもらいました。

私が会長になって、2回もお運びをしたお目標様です。

そして2回も遷座をしたお目標様でもあります。

そして、祖霊様を掃除しながら、私の知らない方々の霊璽を見ながら、またお葬儀をさせて頂いた方々の霊璽を見ながら、長い歴史を感じながらさせて頂きました。

 

午前中は年賀状を作りました。

大分枚数は減らしましたが、それでも120枚近くありました。

 

今回はちょっと特別な気持ちで作りました。

それは、先日ふと、私の家が入信したのと、この教会が設立されたのが同じ年だったことを思い出したからです。

同じ明治25年なので、私の家の信仰は、来年で130周年を迎えるのです。

なんだか不思議な気持ちになりました。

 

そして、信仰を始めた初代の時、2代目の時、3代目の父親の時、そして私の家族を見比べると、大いなる違いを感じるのです。

父親の兄弟を比べると、まざまざと結構になっていると思ったのでした。

 

 

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2021年12月26日本部月次祭にて、、、

2021年12月26日 17時53分56秒 | 思った事

只今、名古屋へ帰る車の中です。

子供たちが運転してくれている一番後ろの席で書いています。

今日詰所ひのきしんの中、かぐらづとめだけ中庭で参拝させて頂いた。

その出発前に、詰所の玄関で登殿参拝される方の中で、久しぶりにお会いする方があった。その方から「ブログを見てます」と言ってもらった。

大変な中をも頑張って勤められている方たちである。

とても嬉しかった。つたない私の経験ブログだが、少しでも信仰の糧になっていればありがたいと思った。

かぐらづとめを終えて詰所へ帰る途中、祖霊殿の前で同級生にあった。きれいな娘さん達と共に。

これまた嬉しかった。

さらに、境内地を出る間際に、大教会の親奥さん方にあった。後継者のお孫さんと共に。。

元気にされていて、これまた嬉しかった。

嬉しい嬉しいづくめの月次祭でした。

 

中庭の様子 Facebook

北礼拝場 Facebook

かぐらづとめ(動画) Facebook

 

 

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無事に大教会の月次祭が終わりました。。。出直しについて。。

2021年12月24日 10時10分46秒 | 思った事

昨日12月23日、無事に愛知大教会の12月の月次祭が終わりました。

それと共に、会報が終わりになります。

作業をする人が出来れば作られるでしょうが、そういう人が現れるかどうかです。

これが愛知大教会のあゆみです。

 

先日、信者さんが突然出直されて、お葬儀をさせて頂きました。

このコロナ禍で1年以上ご無沙汰していた方でした。

この方は前会長さんの関係の方で、先日前会長さんの夢を見た事から、今月13日に月次祭のおさがりを持って会いに行ってきました。

とても元気にしておられて、近所の方とグランドゴルフを楽しんでいると聞かせて頂きました。

その方が、18日朝、突然亡くなっておられて、2階に住む息子さんが、居間で横になっておられるのを見つけられたとの事でした。

その前日も、近所の方と元気にゴルフをされていたとの事で、本当に突然死でありました。

最近、突然死の話をよく聞くようになりました。

常に連絡を取り合う事が大切だと思います。

 

突然のお出直しは、残された者がとても大変です。

ぽっかりと心に穴があいたような状態になってしまうのです。

 

それまでいたもの、あったものが突然に無くなることは、とても寂しく、すぐには心の整理がつかないものなのです。

これが普通なのです。

人間の心というのは、慣れるという特性がありますが、その慣れるためには時間がかかるのです。

だから、突然起こった事に対しても、それを受け入れるためには時間がかかるのです。

 

最近の風潮で、葬儀もせず、年祭や法事もしないという事をよく聞きます。

葬儀や年祭・法事をしないという事は、親戚や縁者に気を遣う事もなく、お金もかからずに一面楽なように思います。

ところが、そうした風潮に流されて行わないとどのようになるか。

 

亡くなった事による、心の整理の付き方が違うのであります。

親戚や縁者が集まり、当人についての事を語り、その事を聞く事は、心の整理をつける上にとても大切な事なのです。

斎詞で「ご功績を語らい伏し拝むさまをお受け取り下さり」と読み上げますが、亡くなられた霊様への思いが、残された人々に返って来て、心の整理がついて新しい出発を早く始めることにつながるのです。

「人助けて我が身助かる」と言いますが、「人の事を思いつとめることが我が身に返ってくる」、その一つの事例だと思います。

 

私としては、「夢でなりともにおいがけ」と言われるように、夢でも親神様は導いて下さっていると思っています。

夢で前会長さんを見せて下さり、出直される直前にお会いできたことをとてもありがたく思いました。

ですから、突然亡くなられたショックも大変大きなものでした。

そして、葬儀に参列された方々に、突然亡くなり葬儀をしない、年祭や法事を行わない方の事例を話し、出直された方の、私が知る面影を話させて頂きました。

 

「親が子となり、子が親となり」です。生まれ変わり出変わりします。

そして、生まれ変わる先は、「この世に天国もあり地獄もあり」なのであります。

 

参考になれば幸いです。

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「復元」から。。道に尽す心

2021年12月21日 21時20分52秒 | 正文遺韻抄

今日、『復元』12号最後のページ、「短話」をグループへ投稿した。

「正文遺韻」からのものであるが、「正文遺韻抄」にも掲載されているので、それを投稿しておく。

そして、読みやすく書き換えたものも掲載しておく。

参考になれば幸いです。

※追記;冒頭の「一度話の理を聞いて、なるほどと思いかけ、二度聞いては、得心を、三度聞いては、理を聞き分け、それ、聞くたびに、少しずつでも、理を治めて、それ結構という。」が「正文遺韻抄」にはありませんでした。
「正文遺韻」と「正文遺韻抄」とでは、削除されている部分ありますが、ここに出て来たので、記しておきます。(2021.12.23)

道に尽す心 (『正文遺韻抄』p216現代文に書換)

 そこで一つ、尽くそうと思うが初め、それにおいがけや、それおたすけやと言って、人のために、世界のために、身を尽くす。初めは結構な心で、神様へご恩返しと思って、それ尽くして来るなれど、一年、二年、三年と、だんだん尽くすうちに、初めのことも、初め身を尽くし掛けた時の心も、忘れてしまい、いつしか、高慢と言うか、うぬぼれと言うか、それ心に持つともなしに、持っている。
 それゆえに、内々が治まらぬとか、または、家内の内に誰か病み煩いでもあるとか言うと、「わしの家は、三年も前から信心をして、わしはもう、においがけを仕掛けてから二年にもなる。それなのに、どういうものであろう。家に難儀がかかってきて、身に不足がかかってくる。これだけ尽くしているのにどういう事や。わしは、これだけ信心しているのに、なんでだろうなあ」と、それ不足の心を持って、神様へたんのうの心を供えず、不足ばかりの心を供えるから、そこでなお不足という理が湧いてくる。
 よって、そのような間違いの無いように、神の話というものは、何度でも、我が身を下げて、話を取り次ぐその人を、ずっと立てて、十分に話を聞きとり、それ聞きわけねばならんという。
 身上が危ういときや、または、何か一つこういう事を叶えてもらいたいと思うときの誠は、真の誠とはいわれない。
 そういう時には、いかなる者も、どんな者でも、それ誠が湧く。真実が出る。また、いかなる心も定めるであろう。なれど、これは一時の理。それ一時の心定め、一時の誠で、真の誠、真の心定めでは無い。それ日々という、常という。一度定めた精神は、日々常に変わらないのが真の誠、それ真の心が定まったというであろう。
 これは第一、聞いた上にも話を聞き、理を治めるによって、日々常に変わらない心が定まる。それ話は台というであろう。道を尽くす効能によって、「早く結構を見たい。早く結構になりたい」と、心を急いて無理をしたならば、いかなる理が湧くやもしれない。早死にしたり、弱ったり、夜の床を離れられんような事があっては、結構も何もあろうまい。無理というはならぬもの。ものというは旬という。それ時節ともいうであろう。急くでない。急ぐでない。これも一つの理であろう。

 

 

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天理教教典  裁定文と目次

2021年12月17日 11時35分00秒 | 天理教教典

天理教教典(立教165年;2002年2月26日79版発行本に基づく)

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 本書は おふでさき みかぐらうた及びおさしづに基づき 天理教教会本部に於て編述したもので 天理教教規の定めるところにより これを天理教教典として裁定する
 昭和二十四年十月二十六日
    真柱 中山正善

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目次
 前編
第一章 おやさま……三
第二章 たすけ一条の道……一五
第三章 元の理……二五
第四章 天理王命……三六
第五章 ひながた……四五

 後編
第六章 てびき……五七
第七章 かしもの・かりもの……六四
第八章 道すがら……七四
第九章 よふぼく……八四
第十章 陽気ぐらし……九二

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立教112年(1949年)10月26日
  初版発行
立教129年(1966年)10月26日
  31版改訂発行
立教132年(1969年)10月26日
  36新漢字版発行
立教147年(1984年)3月26日
  60改訂版印刷
立教165年(2002年)2月26日
  79版発行
編纂者
  奈良県天理市三島町271番地 天理教教会本部
発行所
  奈良県天理市三島町271番地 天理教道友社
印刷所
  奈良県天理市稲葉町80番地 天理時報社

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天理教教典 第10章 陽気ぐらし

2021年12月17日 11時32分31秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第十章 陽気ぐらし

 たすけの道にいそしむ日々は、晴れやかな喜びに包まれ、湧き上る楽しさに満たされる。それは、常に、温かい親神の懐に抱かれ、人をたすけて我が身たすかる安らぎの中に身を置くからである。これが、陽気ぐらしの境地である。
 親神は、陽気ぐらしを見て、共に楽しみたいとの思わくから、人間を創められた。されば、その思召を実現するのが、人生の意義であり、人類究極の目的である。

  いつまでしん/\したとても
  やうきづくめであるほどに          五下り目 5

 明るく勇んだ心、それは陽気な心である。この陽気な心で日々を送るところに、真の幸福があり、生き甲斐がある。いか程長く道をたどつても、心が勇まずに、いずんでいては、親神の心にかなわぬ。親神の守護のままに、日々、喜びと楽しみの中に生活すのが、人の世のこの上ない味である。閉された心の窓を開き、遍き親神の光を身に受ける時、自ら暗い迷いの雲は晴れて、明るい喜びの中に立つ。陽気ぐらしとは楽しみづくめの生活である。
 陽気ぐらしは、他の人々と共に喜び、共に楽しむところに現れる。皆皆心勇めば、どんな理も見え、どんな花もさく。

  皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。  (明治三〇・一二・一一)

 人は、ややもすれば、我が身勝手の心から、共に和して行くことを忘れがちである。ここには、心澄みきる陽気ぐらしはなく、心を曇らす暗い歩みがあるばかりである。

  勝手というものは、めん/\にとつてはよいものなれど、皆の中にとつては治まる理にならん。   (明治三三・一一・二〇)

 一つに心合せるのは、一つの道の理に心を合せることで、この理を忘れる時は、銘々勝手の心に流れてしまう。
 一手一つの心に、自由の守護が頂ける。いかに多くのものが相集つても、一手一つの理を欠くならば、親神に受け取つて頂けない。人皆、相互に一つの道の理に心を合せ、互立て合い扶け合うてこそ、陽気に勇んで生活して行ける。真の陽気ぐらしは、ここに全うされる。

  心を合わせ頼もしい道を作りてくれ。あれでこそ真の道であると、世界に映さにゃならん。   (明治三五・九・六)

 親神にもたれ、教祖を慕い、教の理を省みつつ、互に心を合せ扶け合うて、陽気に生活すならば、ここに、たのもしい道が現れて、その喜びは世界にひろまつて行く。親神は、これを望ませられる。

  せかいぢうみな一れつハすみきりて
  よふきづくめにくらす事なら          七 109
  月日にもたしか心がいさむなら
  にんけんなるもみなをなし事          七 110
  このよふのせかいの心いさむなら
  月日にんけんをなじ事やで           七 111

 親神の守護を身に受けつつ、人々相扶け合うて、明るく浄く、勇んで生を楽しむ境涯に生きる。それは、親神の思召のまにまに、いそしむ日日であり、正しくきりなしぶしんである。そして、この明るい心に、自ら豊かな恵が与えられて、心は更に勇み立つ。子供の成人を待ちかねられる親神は、この陽気ぐらしを見て、共に喜び共に勇まれる。
 人々は、この親心にもたれつつ、世界中皆一れつは隔てない親神の子、兄弟姉妹という理を心に治めて、高きものも低きものも、遠きものも近きものも、相互に扶け合い、常にたゆまず、ひながたの道をたどり、陽気に勇んで、心のきりなしぶしんにいそしむならば、やがては、全人類の心も入れ替り、世は自と立て替つてくる。
 かくて、世界一れつの心が澄みきる時、たすけ一条の思召が成就して、親神の守護は余りなく垂れ、ここに、人の世は、未だかつてない至福を受ける。これぞ、楽しみづくめの世界、神人和楽の陽気づくめの世界であり、真正の平和世界である。
 思えば、人類社会は、久しく文化の進展を遂げながらも、徒らに迷いを重ね、行方も知らぬ闇路にさすらいつつ、今日にいたつた。それは、互に争を事とし、争を経ることによつて、己のよき生命を楽しめるものと、思いあやまつて来たからである。しかも他面、人は平けく安らかな生活をのみ求め望んで止まない。これは、限りない矛盾撞著である。この矛盾を解き、撞著を治めるのが、たすけ一条のこの道である。これこそ、人類に真の心の支えを与え、光ある行手を教える唯一の道である。
 世界は、平和を求めて止まない。しかし、真の平和世界は、ただ人間相互が争わぬだけで、全うされるものではない。よしや、それは争のない姿であつても、光溢れる平和の訪れではない。真の平和世界は、親神の理によつてのみ築かれる。この親神の道が、人々の胸に正しく治められ、すべてが、己が利欲を忘れ、温かい親神の守護の下、互扶けの真実の働きにつとめ合い、親神の待ち望まれる陽気づくめの世界になる時、この世ながらの限りない生気溢れる楽土が全うされる。

 惟うに、親神が、教祖を月日のやしろとして現れ出でられるや、人間の陽気ぐらしを見て、共に楽しもうとの、人間世界創造の思召を告げ、専らたすけ一条の道を宣べて、たすけづとめを教え、又、いき・てをどりのさづけによつて、一れつたすけを急き込まれた。このたすけの理を明かそうと、元の理を説き、所定の人と所と時の立て合いによつて、この教を始めた所以を諭し、ここに、親神を天理王命とたたえて、祈念することを教えられた。
 かくて、教祖が、教を宣べ、身を以てこれを証し、ひながたを示されたのも、親神の深い思わくによるものであつて、正に、教祖ひながたは、道の生命である。
 人は、先ず、身上や事情にてびきを頂き、親神を知る。そして更に、身上は、これ皆、親神のかしものなることを納得し、守護のあるところを悟り、ほこりを払い、心のふしんにつとめる。かくして進む成人の道すがらには、雨の日も風の日もある。しかも、その中に、日々たんのうの心を治め、又、ひのきしんに勇む。そして、治められた誠真実は、自ら他に及び、一人の道は多くの人々の道となる。即ち、道の子はよふぼくを志し、さづけの理を頂いて、たすけ一条にいそしみ、天の理を取り次ぎ、道の先達となる。ここに、不思議なたすけの実が次々とあらわれ、魂は続々と更生されて行く。
 かくて、我も人も共に和し、一手一つの心に、楽しみづくめの陽気ぐらしの世界が守護頂ける。それは、親神の望まれる真の平和世界であり、これぞ、この道の目標である。道の子は、存命のまま導かれる教祖に抱かれ、ひたすら、世界人類の平和と幸福を祈念しつつ、たすけの道に弥進む。

  このみちハどふゆう事にをもうかな
  このよをさめるしんぢつのみち         六  4

 

裁定文・目次

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天理教教典 第9章 ようぼく

2021年12月17日 11時28分41秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第九章 よふぼく

 たすけて頂いた喜びは、自ら外に向つて、人だすけの行為となり、ここに、人は、親神の望まれる陽気ぐらしへの普請の用材となる。これを よふぼくと仰せられる。
 親神は、一れつたすけの切なる思わくから、多くのよふぼくを引き寄せようと急き込まれる。

  一寸はなし神の心のせきこみハ
  よふぼくよせるもよふばかりを         三 128
  よふぼくも一寸の事でハないほどに
  をふくよふきがほしい事から          三 130
  この人をどふゆう事でまつならば
  一れつわがこたすけたいから         一三 85

 よふぼくには、男女の別もなく、貴賤の差もない。その用向には、時と所にしたがい相違があろうとも、心一つの理によつて、ひとしく、親神のよふぼくたるに変りはない。

  この木いもめまつをまつわゆハんでな
  いかなる木いも月日をもわく          七 21

 思えば、親神の類ない陽気普請に、よふぼくとして引き寄せられるのは、実に、道の子の幸である。しかし、心が直くなくては、折角引き寄せられても、役に立たぬから、親神は、時に応じ事に当つて、種々様々とていれをされる。これをしつかり心に治めさえすれば、身上のさわりも事情のもつれも、ただ道の花として喜びの中に受け取れる。

  にち/\によふほくにてわていりする
  どこがあしきとさらにをもうな         三 131

 かくて、引き寄せられて親里に帰り、別席順序を運ぶ。だんだんの席を重ね、話の理によつてほこりを払い、行を正すうちに、心は澄んで、たすかりたいとの願は、たすかつて貰いたいとの念となる。そこに、さづけの理が授けられて、心は生れかわる。さづけの理は、よふぼくたる銘々の心に授けられる天の与えである。このさづけの理が心に治つて、 初めて、こうのうを見せて頂ける。

  精神の理によつて働かそう。精神一つの理によつて、一人万人に向かう。神は心に乗りて働く。心さえしつかりすれば、神が自由自在に心に乗りて働く程に。    (明治三一・一〇・二)

と示されている。即ち、さづけの理を授けられたものは、日々常々の心遣いが大切である。さづけの理を頂いたその日の心を、生涯の心として通つてこそ、親神は、いつも変らぬ鮮かな守護を下さる。

  たん/\とよふぼくにてハこのよふを
  はしめたをやがみな入こむで         一五 60
  このよふをはじめたをやか入こめば
  どんな事をばするやしれんで         一五 61

 およそ、よふぼくの使命は、たすけ一条にある。それは、自らはげんで、天の理をよく心に治め、身をもつて教の実を示しつつ、一言の話を取り次ぐにをいがけに始まる。そして、更に進んでは、なんでもたすかつて貰いたいとの一念から、真心こめてさづけを取り次がせて頂くところに、珍しいたすけの実が現れる。  
 それは、見えた形の巧拙によるのではない。ただ、たすかつて貰いたいとの切なる願に基いて、真実を尽して取り次ぐから、親神は、その心をそのまま受け取つて、珍しい守護を見せられる。即ち、己が力によるのではなく、親神が、よふぼくに入り込んで、働かれるからである。
 かくて、よふぼくは、さづけを取り次いで、病む人々にたすかつて貰うのであつて、自分がたすけの主ではなく、どこまでも、親神のよふぼくに外ならぬ。されば、よふぼくたるものは、日々、ひたすら己が心を治めて、曇りない天の理を映すことが肝腎である。銘々が常に、教祖のひながたをたどり、俗にいて俗に墮せず、進んで土地ところの手本雛型となつてこそ、真にその使命が全うされる。
 身上を病んで苦しむ者に、さづけを取り次ぎ、せんすべない事情に悩む者に、教の理を取り次ぐのが、よふぼくの進む道である。それは単に、あの痛み、この憂いを除くだけではなく、寧ろ、かかる苦しみを見せて頂いている、その人の心を、しんからたすけさせて貰うのである。
 人は本来、己が力で生きているのではない。しかも、己が力で生きていると思い誤り易いのが人の常で、そこには、涯しない心の闇路があるばかりである。たすけとは、かかる人々に、親神の思召を取り次いで、その守護のまにまに、暗黒の境涯から光明の世界へと導くことである。
 まことに、この道は、心だすけの道である。心がたすかれば、身上や事情の苦しみ悩みは、自らいやされ、解決される。それは、親神の思召にそのまま添いきるからである。

  心さい月日しんぢつうけとれば
  どんなたすけもみなうけやうで         八 45

 よふぼくは、仮令、年限の理に浅い深いの相違があろうとも、教祖ひながたの道を慕い、ひたむきなたすけ一条の心から、あらゆる困難を乗り越え、温かい真心で、一すじにたすけの道に進むなら、何人でも、親神の守護を鮮かに頂くことが出来る。

  しんぢつにたすけ一ぢよの心なら
  なにゆハいでもしかとうけとる         三 38
  わかるよふむねのうちよりしやんせよ
  人たすけたらわがみたすかる          三 47

 ひたすら、世の人の上に親神の守護を願いつつ、我が身を忘れて行ううちに、親神に守られ、その胸に抱かれて、自身もいつしか心は成人して、明るく陽気に救われて行く。
 よふぼくとしての丹精の效があらわれ、道を求めるものが、次第に相寄り相集つて、教会名称の理が許される。それは、なんでもという精神の理に許されるもので、よふぼくの役目は、ここに一段と光を添える。
 教会は、神一条の理を伝える所であり、たすけ一条の取り次ぎ場所である。その名称の理を、真によく発揚するには、ここに寄りつどうものが、ぢばの理に添い、会長を心として、心を一つに結び合うのが肝腎である。かくて、教会生活は、国々所々における人々の和楽を深め、互に扶け合いつつ、心の成人を遂げる陽気ぐらしの雛型となる。
 されば、会長の使命は、常に元を忘れずに、自ら進んで深く教の理を究め、心を治めて、道の先達となり、誠真実をもつて、人々を教え導くにある。かくて、その徳に薫化された人々の心は、自と成人し、共に和し共に結んで、教の実は挙げられて行く。

  しんぢつにたすけ一ぢよてあるからに
  なにもこわみハさらにないぞや         三 77

 

裁定文・目次

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天理教教典 第8章 道すがら

2021年12月17日 11時25分10秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第八章 道すがら

 親神のてびきによつて信仰に入り、教の理を聴きわけて、かしものの理もよく胸に治り、心のほこりも次第にぬぐわれ、いんねんの悟りもついたなら、ものの観方が変つてくる。
 見えるまま、聞えるままの世界に変りはなくとも、心に映る世界が変り、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られて来る。己が心が明るければ、世上も明るいのであつて、まことに、「こゝろすみきれごくらくや」と教えられている所以である。
 しかるに、人の心は常に変りやすい。朝の心は必ずしも夕の心ではない。とかく、身近に起る事柄に心を動かされて、朝に明るい心も、夕には暗くなりがちである。一度は、教に感激して信仰に志しても、やがて喜び勇めなくなることもあれば、折角、たすけて頂いても、又も、身上のさわりや事情のもつれで、心が動揺する時もある。この中にあつて、常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さずに、喜び勇んで明るく生活すのが、道の子の歩みである。この心の治め方をたんのうと教えられる。
 親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかかるいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成つて来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえつて喜びに転じてくる。かくて、真にたんのうの心が治れば、前生のいんねんは納消される。これを、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と諭される。
 たんのうは、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、いかなる事が起ろうとも、その中に親心を悟つて、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。かくて、身上のさわりも事情のもつれも、己が心の糧となり、これが節となつて、信仰は一段と進む。これを、「節から芽が出る」と諭される。
 日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。

  なんでもこれからひとすぢに
  かみにもたれてゆきまする           三下り目 7
  やむほどつらいことハない
  わしもこれからひのきしん           三下り目 8

 身上の患いをたすけて頂いた時、親神の守護が切実に身にしみる。病んだ日のことを思いかえし、健かな今日の日を思えば、心は言い知れぬ喜びに躍る。身上壮健に働ける幸福を、しみじみと悟れば、ひたすら親神にもたれて、思召のままにひのきしんに勇み立つ。

  よくをわすれてひのきしん
  これがだいゝちこえとなる          一一下り目 4

 ひのきしんに勇む心には、欲はない。この求めるところなく、ただ黙黙と骨身惜しまず尽す行為こそ、やがて、銘々の生活に美わしい実を結ぶ肥となる。

  みれバせかいがだん/\と
  もつこになうてひのきしん          一一下り目 3
  なにかめづらしつちもちや
  これがきしんとなるならバ          一一下り目 7

 少しでも普請の役に立ちたいと、もつこを担うて、日々、土持のきしんをする。心は益々明るく勇み立つて、それが何よりのひのきしんになる。これは誰にも出来るが、実地に身に行うて、初めて、その言い知れぬ味がわかる。
 ひのきしんは、信仰に燃える喜びの現れで、その姿は、千種万態である。必ずしも、土持だけに限らない。欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしんである。
 ひのきしんは、一時の行為ではなく、日常の絶えざる喜びの行為である。しかも、その喜びは、自分一人に止るのではなく、他の人々をも感化し、心あるものは、次々と相携えて、その喜びを共にするようになる。

  ふうふそろうてひのきしん
  これがだいゝちものだねや          一一下り目 2

 親神は、「ふうふそろうてひのきしん」と教えられる。夫を化し、妻を導いて、夫婦共々に心を揃え、日々ひのきしんに勇むところ、一入そのむつまじさが溢れ出て、一家に春の明るさと和ぎが漂う。これを、「だいゝちものだねや」と仰せられる。
 一家の陽気は隣人に及び、多くの人々は、われもわれもと相競うて、ひのきしんにはげみ、世界には、一手一つの陽気が漲つてくる。かくて、親神の望まれる陽気ぐらしの世が現れる。

  いつ/\までもつちもちや
  まだあるならバわしもゆこ          一一下り目 5

 たんのうの心が治り、ひのきしんに身が勇んで、欲を忘れる時、ここに、親神の思召にかなう誠真実があらわれる。その日々の姿には、何の裏表もなく、清らかさと明るさが溢れてくる。そして、親神の思召をそのままに読みとり、さながらに身に行えるようになる。
 かかる誠真実に徹するのが、心の成人を遂げた所以であつて、親神は、それを待ちわびておられる。

  いまゝでハせかいぢううハ一れつに
  めゑ/\しやんをしてわいれども       一二 89
  なさけないとのよにしやんしたとても
  人をたすける心ないので           一二 90
  これからハ月日たのみや一れつわ
  心しいかりいれかゑてくれ          一二 91
  この心どふゆう事であるならば
  せかいたすける一ちよばかりを        一二 92

 この篤い親心に、そのまま添いたいと念ずるにつけ、人の難儀を見ては、じつとしておられず、人の苦しみをながめては、看過すことが出来なくなる。自分に出来ることなら、何事でも喜んで行い、なんでも、たすかつて貰いたいとの言行となる。そして、多くの人々に導きの手を与えるにをいがけとなり、人だすけとなる。それは、己の利害に偏らず、一れつ兄弟姉妹の真実に目覚め、互立て合い扶け合いの念から、人の苦しみを我が苦しみとなし、我が身を忘れて、人に尽すひたぶるの行為となつてあらわれる。

  このさきハせかいぢううハ一れつに
  よろづたがいにたすけするなら        一二 93
  月日にもその心をばうけとりて
  どんなたすけもするとをもゑよ        一二 94

 かくて、教祖のひながたにならい、たすけにはげむ。口と心と行とは常に一致して、うまずたゆまず、理をみつめて進む。その日々は、人の眼から見れば、一寸には弱いもののようにも思われる。しかし、これこそ、親神の心に通う誠真実であるから、真にそのまま受け取つて頂くことが出来るので、ながい眼で見れば、これほど堅く強いものはない。

  誠程強いものはない、誠は天の理である。誠であれば、それ世界成程と言う。     (明治二一・六・二)

 誠真実は、親神の思召に添い、天の理にかなう心であるから、親神は、この誠真実をすぐと受け取つて、いかなるたすけもひき受けられる。

  しんちつに心にまことあるならば
  どんなたすけもちがう事なし         一三 71

  誠一つの理は天の理、天の理なれば直ぐと受け取る、直ぐと返えすが 一つの理。 (明治二三・四・一七)

 自分の心に誠真実の理が治れば、心ない人の口説に煩わされることなく、常に変らぬ喜びと力に溢れて、明るく陽気に進むことが出来る。そこに正しく、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分むつまじいという一つの理が治り、他をも自ら化し、一波は万波を呼んで、更に多くの人々の心の躍動を呼び起す。

  だん/\になにかの事もみへてくる
  いかなるみちもみなたのしめよ         四 22

 

裁定文・目次

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