アメリカの大統領選挙の予備選が始まり、80%以上で、トランプ大統領が支持されていると話題になっている。
数年前より、アメリカが弱体化するとの予想が、スピリチュアル系で話題になっており、本当だろうか?と思っていたが、現在正しくそうした事態になり、アメリカに対抗する国々によるブリックスが力を持ち始めている。
このトランプ大統領に人気が集まっている話題が、ようやく日本のマスメディアにも出るようになって来た。
これまで、こうした話題は、日本の主なマスメディアでは発信されず、ネットにて他国の情報を収集する個人が、日本人に注意喚起をするために発信されてきていた。
しかし、こうした発信に対して、妨害するような発信も見受けられて、情報戦が行われている様子がまざまざと感じられ、戦争中と私はこのブログにも書いて来た。
そして、面白い事に、どんな情報でも自由に発信できるようになった「X」(旧ツイッター)を、フェイスブックへ共有しようとすると、画像などのサムネイルが共有されない状況となっている。
つまりは、共有のボタンがあり、共有するウインドウが出て来ても、簡単に情報を共有させないようにしている状況にある。
また、「x」に、投稿に関して注意喚起をする「ノート」という機能があり、これは書きたい人が投稿できるようだが、明らかに妨害をするために書いていると思われるものが存在する。
また、歴史や科学について、重大な発見があったりするものも、妨害する情報を流す事も感じている。
こうした状況がなぜ起きるのか。
民衆の意識を、誘導したい。誘導されたくない。という人々がある証拠である。
宗教的な事柄ならば、興味がある人々やそれに属する人々が読めばよい。と放置されるであろう。
ところが、この宗教が政治に絡んで、個人の生活に直結してくるならば、これまた問題に成ってくる。
以前より、「ウソとついしょうこれ嫌い」として、ウソをついていたならば、親神様は善としては受け取られない。
ところが、ウソを本当だと信じて、発信する人々もある。
こうした時に、どのように対処するかが、とても問題である。
例えば、数年たって姿かたちで善悪が見分けられれば、周囲も分かり、本人も納得できる。
しかし、姿かたちに現れない事(考え方など)は、難しい。
やってみて、不都合を対感じなければ分からないのである。
しかし、これも体感できれば、周囲も分かり、本人も分かる。
この証明をしたのが、トランプ大統領で、不都合を感じたアメリカの人々は、トランプ大統領の言ったことが正しかったとして、今回の予備選の結果となったのである。
これに4年以上膨大な時間がかかっている。
しかし、日本ではテレビや新聞でしか情報を得ない人々、これまでの価値観だけで物事を見ている人々には、このアメリカの状況は理解できずに、ウソにウソを塗り固めて来た人々を信じている。
私の周囲にも、そうした人々が多くある。
みな良い方ばかりなのだが、会社など周囲の状況から、意識を切り替える事が出来ずにいる。
天理教の歴史と、教えを勉強していくと、いつも書いているように、政府などの上の人々の弾圧を避けるように表向きの対応と、親神様の説かれる神一条の対応との2重の対応をしてきている事が分かる。
しかし、こうした歴史を学ばなければ、表だけの事で、親神様がいんねんを切り替えさせてやりたいと導かれる事柄が分かり難いと思う。
いんねんという言葉も、世間の風潮に押されて、言われなくなった時期がある。
チャンと教典にも書かれているのに、恐れて言わない。
これで良いのだろうか?とずっと思い続けての今日である。
自分自身の善悪をチャンと見分ける事。
それらを認める事。これがとても重要なのだが、こうまんの心が強いと、自分の悪い性分がなかなか認められない。
そして、「わがみうらみであるほどに」と示されているように、すべてはそれぞれの心どおりの守護なのに、うまく行くことは自分の手柄にして、うまく行かない事は他人のせいにする。
こうした心の動きに気がつかない人々が多いように思える。
自分自身が、かつてそうであり、今でも気を許すと、物事を人の性にしてしまう。
これに気がついたから、自らの心を変えるために、態度を変えるように努力をして来た。
子供たちを怒鳴って怒ってきたものを、切り替えたのもその一つである。
すぐには変われないが、時を経て、色々と身上事情を見せられて、徐々に変わって来たと思う。
その他にも様々な醜い性分があり、その性分をお詫びするために、何度もおぢばへ足を運んだ。
どうかお許しください。と願うのではなく、何とか変えて下さいと。
そうした中に、おつとめが「あしきをはろうて」唱えて、胸を払う手ぶりをする事に気が付き、「神が箒や」のお言葉が胸に治まった。
更には、信者さん方の事情・身上の治まりを願っておぢばへお願いに帰った時に、不思議な身上のお知らせをもらい、おつとめの大切さをも自覚させてもらった。
おつとめは、はじめから今のようなお歌と手ぶりを教えられたのではない。
一番初めは、拍子木を叩いて「なむてんりおうのみこと」「なむてんりおうのみこと」と唱えるだけであった。
他の宗教で、神名や短い言葉を繰り返して祈る事を目にするが、正しくそうした事が始めである。
この事は、逸話編でろうそくを半分に切って願っていたところ、なかなか御守護を頂けずに、教祖から「つとめ短い」とご注意を頂いて、線香を半分に折っていた事に思い付、お詫びして改めた話がある。その時がそれである。
その後、狼藉物がお屋敷を荒らして、「あしきはらい たすけたまえ てんりおうのみこと」のお歌を教えられて、今の手ぶりを教えられたのである。
その後、人間宿仕込みの「ぢば」をさだめ、かんろだいを目標に願う事を教えられて、「あしきはらい いちれつすます かんろだい」を教えられて、
その後に、かぐらの出しとして「ちょいとはなし 神のいうこと聞いてくれ あしきのことは いわんでな このよの 地と天とをかたどりて 夫婦をこしらえきたるでな これはこの世のはじめだし なむてんりおうのみこと」を教えらえたのである。
そしてその後に、かんろだいの石が没収され、石工が捉えられて獄中で出直す事となり、「あしきはらい」が「あしきをはろうて」となり、「いちれつすます」が「いちれつすまして」と改めて、人間の救済の方法を変えられたのである。
この事柄を当時の人々は、「神様の模様替え」と呼んでいた。
天理教の歴史の中には、何人ものおたすけの名人と言われ、多くの人々を導き、教会の元となり、教祖の代わりに、神様と慕われた人々が多くいる。
こうした人々は、教祖の教えを実直に受け止め、教えられた通りに歩まれたように思える。
しかし、それに続く人々、私もそうであるが、教祖から教えられた教えを伝えられずに、ただおさづけで人が助かる事のみを教えられたり、そのおたすけ人が発した一部の言葉だけを信じて歩む人々も多々あったのである。
そんな未熟な者でも、時折不思議なたすけを見せられて、親神様を信じて歩んできたのである。
いんねんを悟れずとも、お詫びを言えずとも、「何とか助かりたい。」「何とか助けたい。」という、一心不乱の願いを聞き届けて、親神様は不思議を見せて下さった。
これは、教祖の歩まれた道を思うと、月日の社となられる前の、何も親神様のお話を知らずに「黒疱瘡」の子供を助けるために、一心不乱に神社仏閣へと願われた事と重なるのである。
教祖が「通い帳を見てもならん」と親神様から言われて、筆をもって書かれた「おふでさき」。
自然にひとりでに筆が動いて、後で読み返して意味の分からないところを親神様に尋ねて、入れ筆をしたと言われる「おふでさき」を見ると、陽気ぐらしが出来るためには、胸の掃除が欠かせない事が分かる。
ただ単に、辛い身上が助かること。助ける事が主眼ではなく、心の掃除をする事が親神様の主眼である。
しかし、人間がそこまで理解できずに、今日まで来ているだけのように思えてならない。
本当に、自らの心のほこりを掃除したいと望むならば、それなりの動きをしてもおかしくないのだが、そのような雰囲気は感じられない。
教祖が最後のご苦労、監獄から出られてから、一時期、目も見えず耳も聞えずに、寝床に休まれたままであった。
この時の様子は、山田伊八郎文書に記されている。
この寝床に休まれたままだったのは、親神様からすれば、社の扉を閉めて、不思議な働きを見せるために、世界を走り回っていたのだと、それを読んで理解できた。
その時には、大和のみならず大阪あたりまでも、不思議なお助けが次々と現れて、毎月の月次祭には人がどんどんと集まるようになってきていたのである。
そして、参拝者が増える中、警察を恐れてお屋敷ではそれを断る事におわれ、親神様が「おつとめをせよ」とわれる言葉もなかなか実行できず。するとまた教祖の身上が悪くなり、床に就く、そして親神様にお願いをする。という事を繰り返していたのである。
誰しも、神様に願って、人が助かれば、これほどうれしい事は無い。
どんどんおたすけに出かけたいと思うものである。
ところが、この不思議な助けが現れるのは、親神様が働いてこそなのだが、それを自分の手柄と思い違えて、教祖の説かれた事と異なる事を言い出す者も出てくるのである。
これの最初が、針ケ別所の助造であるが、教祖が現身を隠されてからも、そうした者たちは次々と出てくるのである。
そして、様々な人間思案で、様々な事情が起きてくるのである。
そしてまた、教祖が現身を隠されて、警察からの干渉が無くなったと思ったところ、当時の上の人々と、親神様が説かれる教えとの食い違いから、弾圧される事となるのである。
親神様は、陽気ぐらし実現のために、心のほこりをはらい、心の成人を望まれている。
しかし、世界を見ても、まだまだ物に囚われて、心の動きにまで目は向いていない。
スピリチュアル系でようやく、心の動きを波動と言う言葉で表して、明るくしようとしているが、それはまだまだ個人のレベルで、人のためにという心の動きまで説く事は見受けられない。
しかし、人のためにと動く人々によって、世界の情勢は変わりつつあるが、大衆にはまだまだそうした心は届いておらず、それがために政治や医療などの変化が遅いように思われるのである。
心の問題は、他人がどうしろと言って変わるものではない。
それぞれが気がついて変わるものである。
三才までの子供は、親の言われる通りにする。
何の疑いもなしに。
しかし、それを過ぎると、自分が出てくる。
この自分が出てからが重要である。
自分を自分で育てる必要があるのである。
これをしなければ、子供を育てる事が出来ないのである。
自分は好きな事をして置いて、子供は他人に任せる。
もしそんな親がいたならば、それは本能のままに生きる動物と変わらない。
人間には知恵があり、その知恵を育てる事が重要なのである。
この知恵が良い方へ向くか、悪い方へ向くかで、その人の人生は変わるのである。
その経験が重要なのである。
生まれ変わりを説かれて、前生どんな人間だったかと思案する時、
「前生見たけりゃ、今世見よ」と昔は良く言っていた。
今世現れている事から、前生を悟れという事であり、それは貸し借りの考え方から悟る事を教えられていた。
これをしっかりと心に治めて、どんな苦しい中も、たんのうして、人助けに心した人々が、大きな教会の元となった人々である事からも、この考えはとても重要な事だと思う。
真柱様が、年頭あいさつで、教祖140年祭に向けて、年祭当日にどれだけ成人で来たかと思えるような歩みをして欲しいと言われたように私は思った。
信仰も代を重ねて、すでに前生でお道の話を聞き、それなりに通った人々もあるだろう。
また信仰はしても、心得違いの道を歩まれた人、
さらには反対攻撃をした人々もあるだろう。
また、すでに前生でひながたを歩んだ人もあるだろう。
それぞれによって、現れている姿は異なり、
ひながたを再度通る人、その次のひながたの道を通る人もあるだろう。
そして早く悟りのつく人、つかない人の差もあるだろう。
そう思う時、すべての人々が同じことをするという事は、難しい時代であると私は思う。
それぞれに、教えを聞き、それぞれの心に留まった事を心に定めて歩んでみる事。
ただ考えるだけではなく、考えた事を実践する事が何よりも重要だと思うのである。
「心定めてついて来い。末は頼もし道があるから」
これまで何回年祭活動をして来た事だろうか。。
と思い、これまでを振り返ると、その時その時で異なる事をしてきた。
そしてその度ごとに学びがあり、それが今の私の思案の糧となっている。
「喜べば喜びの理が回る」と聞かせてもらっても、喜べなかった自分が、今は何を見ても「ありがたい」と思える事が、何よりもありがたい。
思うがままに。。。
人間が敬う対象が神であろう。
では、
人間が自分中心の願い。人を殺めても、自分に利を得たい。と願い
それを叶える存在があれば、それはその人間に対して神となる。
この人間の心が、人と人が争う事を望まず、自分も他も共に楽しむ事を望み、
それを叶える存在があれば、それも神となる。
ここまで極端にならずとも、知識を得たい、力を得たい、物を得たいなどと
人間の望みは様々であり、それを願い、それを叶える存在がその人間の神となる。
この時に、神と人間とをつなぐ存在がある。
これをシャーマンとか、霊媒師として来た時代があり、現在もそうした人々が活動する情報も多々ある。
神社の神主・お寺のお坊さんや様々な宗教者もその一端となるだろう。
また日本の神社では、優れた功績のあった人物を神として社を立てて奉ってもいる。
そしてその神々に、人間は望みを願う。
願いの叶うものもあれば、叶わぬ者もある。
その差はどこにあるのか。
考えたものはあるのだろうか?と思う。
その答えは、その神のみぞ知る。というところだが、
天理教の元の神、親神 天理王命 様は、「誠の言葉しか聞こえない」とも言われている。
「誠ならば受け取る」として、助からぬ母親を思う子供の心を受け取って不思議なたすけをいただいたという、逸話編からも理解できることである。