あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

家庭内感染が増えて来たら。。。家庭内での予防はどうしたらよいか。

2020年04月20日 11時21分56秒 | 気になる言葉

家庭内感染のニュースが出始めた。

すでに、感染者がいる可能性もあるが、家庭内で感染を予防する事がとても大切だと思う。

家族の状態を見て、お互いが注意しあう事が大切だと思う。

また、家庭内での感染予防の知識を得る上に、

以下、昨日のネットニュースをコピペして、厚生労働省からの書面・看護師からのアドバイスを書いておく。

・・・・・・・

もし家族が…広がる家庭内感染 マスク、手洗い、換気「できる範囲で対策を」

4/19(日) 20:48配信 毎日新聞

 新型コロナウイルスの感染者が急増している福岡県では、18日までに感染が確認された503人のうち少なくとも77人(15%)は家族から感染した可能性がある。中には一家4世代にわたって感染したケースもあった。家族間で接触を避けるのには限界があるが、専門家は可能な限り予防を講じるよう呼びかける。


【図解でわかる!新型コロナ】家族が自宅待機になったら…

 県などの発表を基に毎日新聞が集計したところ、家族内感染が起きたとみられるのは50家族で、このうち3人以上(最初の1人の他に2人以上)感染していたのは14家族に上った。感染者同士の関係では夫婦や親子がほとんどだったが、祖父母と孫やきょうだいのケースもあった。

 行橋市では、一家族で10~90代の4世代計7人の感染が判明。最初に感染が確認されたのは90代女性で、その後、40代の保育士の孫らへの感染が分かった。福岡市内では、看護師の感染が確認された後、その母親の感染が分かったケースもある。また、県内で1歳未満が感染した四つのケースでは、いずれも親の感染が確認されている。

 同居家族の場合は介護や育児などで接触を避けられない場面が多く、外出の自粛で一緒に過ごす時間も増えている。県医師会の稲光毅理事は「それぞれの家族事情があり、一概に接触を避けるべきだとは言えないが、風邪症状がある場合はマスクを着けるなどできる範囲で予防してほしい」と話している。【平川昌範】

 ◇家族の感染が疑われる場合の対策

(厚生労働省の資料を基に作成)

1、食事や寝るときも別室で

2、持病がある人は感染者の世話を避ける

3、マスクを着ける

4、こまめに手を洗う

5、定期的に換気する

6、ドアノブなど手で触れる部分を消毒し、タオルは共用しない

7、汚れたリネンや衣服の洗濯は手袋とマスク着用で

8、はなをかんだティッシュなどのゴミはビニール袋で密閉して捨てる

最終更新:4/19(日) 21:50

毎日新聞

・・・・・・

続いて、厚生労働省から出ている書面です。

 

あと、重複するところもあるかと思いますが、実際に世話をしている看護師からのアドバイスです。

【感染疑い者がいなくても】

・人がよく触るとこはなるべくさわらない。

・食器類などは特に、口周りに気をつける。できるだけ一人一人の食器で食事をし、大皿でつつかない。コップ類も!

・出来れば、帰宅したらすぐにシャワー浴びれると良い。

【もし感染疑い者がいる場合】

・感染者の部屋へ入室する場合、ドアを開けるときなどは、足を使うなり肘を使うなりこの時とばかりに行儀悪くOK

・感染者の部屋へ入る時は、感染者も、入出者もマスク着用。入出者は菌が付着しにくい、つるつるしたカッパのようなものを着用するとよい。

・感染者の触るもので、どうしても触る時は、ティシュなどを間に挟んで持つ。

・トイレは共用しないのが原則。無理な場合は、ハイター(塩素系が有効)などでこまめに掃除をする。

・便器に蓋がある場合は、必ず蓋をする。(便に菌が出ると、O157と同じように浮遊するとの情報もあり。)

・ノブなどはアルコールやキッチンハイターを薄めて拭く。また、ノブだけではなく壁やドアも拭きます。

・・・・・

以上です。

なってくることを受け止めて、お互いに頑張りましょう。

 

親神様、大難を小難にとお守りください。

 

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心の守り、身の守り

2020年04月20日 07時44分36秒 | 気になる言葉

昨日は、現在新型コロナの感染が、経路不明で家族内へと広がっている。という話を書いた。

また現在、PCR検査を希望しても、してもらえないという現状もある。

この話を聞いて、不安をどんどん煽ると思う方もあるだろう。

けれども、これが事実なのである。また事実から逃避する事は出来ない。

もし、家族がかかったならば、またはその疑いが出たら、どうしたらよいかという事を、知っておくべきだと思う。

大切なのは、心落ち着けて、対応をすること。

パニックに陥らないように、家族で助け合う事だと思う。

 

さて、表題に書いた言葉「心の守り、身の守り」この言葉を聞いた人はお道の者ならば聞いたことあると思う。

これは、お守りを戴くときに聞いたお話の中にあったはずである。

「改訂 天理教事典」p136 で、お守りを見てみると、

 おぢばにへ帰らせていただいた証拠として、一名一人にいただくお守りで、「証拠守り」ともいう。教祖(おやさま)の召し物である「赤衣」によってつくられている。教祖が現身を隠された後、赤衣がなくなり、その後お守りをどうするか伺った明治23年3月17日の「おさしづ」には、

 「さあ/\尋ねる処、守いつ/\続かさにゃならん。赤衣という、いつ/\続かさんなれど、そうせいでもいと、何尺何寸買うてそうすればよかろうと思うなれど、赤き着物に仕立てゝ供え、これをお召し更え下されと願うて、それを以ていつ/\変わらん道という。」

と、存命同様に教祖が赤衣を召しかえ、それを用いてお守りとすることが示されている。よって、生涯の守りとして、肌身離さず身につけ、教祖の教えを心に守り、教祖のひながたを歩むところに守護をいただくことができるといわれている。

 お守りは、本人がおぢばで直接いただくものであるが、15歳未満の場合は、両親または親に該当するもの(祖父母・兄姉・教会長・布教所長)が同伴しなければならない。ただし、両親であれば、本人が帰っていなくてもいただくことができる。15歳以上のものと未満のものとで形がやや異なる。

 お守りは一名一人に渡されたものであるから、夫婦・親子・兄弟姉妹の間でも取り替えることはできない。出直したときは、大切な宝としてまつることになっている。

 下付の手続きは、直属教会あるいは詰所に申し込み、幣帛料を添えて教祖殿お守所へ願い出ることになっている(土・日・祭日・月次祭前後は第二御用場)。下付の時間は、朝勤後から夕勤までの間である。

 →証拠守り、ほうその守り、お許し、ぢば、赤衣

とある。

さて、人の心というのは、その時は感激して心定めたとしても、10日、15日、30日と時がたつごとに、その感激は薄れて、最後には「そんなことあったっけ」などと自分の都合で、その時の事を言い換えたりする。

先日も書いたが、これまでの心を反省して、お詫びして心定める中に、不思議な御守護をいただいて来た。

また、教祖のひながた・教えを元に心を変えて歩む中に、不思議を見せて頂き、陽気ぐらしへの道が歩める。

そうした中にも、今回の新型コロナのように、「これだけ信仰しているのにどうして」などと思えるようなことが起こり、心が神様から離れる事も多々あるものである。

そうした中に、定めた心を、変えないようにというのが、このお守りを身につける最大の目的であろうと思う。

この事を裏付けるような話を見かけたので、紹介したい。

 『先人の遺した教話(1)静かなる炎の人 梅谷四郎兵衛』の解説に次のような話がある。(青線で囲んだ部分)

これは、桝井先生に対しての話であるが、教祖は桝井先生にお守りを下さらなかった。それは「桝井先生の心が、月日、親神様の心だから」と言われているのである。桝井先生の心が月日という事は、心が親神様の心として変わる事がないと言われていると思える。

定めた心を変えない事、変えそうな時は、お守りを握り締めて、お助け頂いたた時の事を思い出す。そして親神様の心を求める事。これで新たな御守護を頂き、大難を小難にとお導き頂けるのである。

また、『天理教事典』には、お守りを15才未満が頂くときに、親が付き添う事を明記されている。幼い時にいただいた人々には、十二分な御守護を頂かれて、何不自由なく暮らしてきている人もあるだろう。そういう人ほど、親神様は本当にあるだろうか?と不審になることも分かる。自分もそうであった。

けれども、今の自分があるのは、先祖が不思議を見せて頂いて、苦労の道中を親神様を信じて歩んでくれたからである事には変わりはない。

そうした中、代を重ねて結構になっている人々の苦しんでいる気持ちもわかる。先の私のブログ「ブログあつたかい」は、私が頂いた不思議な御守護を書いている。

参考にして頂ければありがたいと思う。

どうか、親神様のお導きを信じて歩ませて頂きましょう。

 

親神様、大難は小難にとお守りください。

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はえでづとめ2 から。。。

2020年04月18日 08時53分25秒 | 気になる言葉

今日は、教祖ご誕生祭である。

教祖おめでとうございます。

昨夜から雨、なんだか教祖の涙のように感じて、これを書いています。

どうか、残念のお心が晴れますように!!

 

さて、昨日ははえでづとめに出かけた事を書いた。

今日は、そのはえでづとめに関係して、「先人の遺した教話3」から、思う事を書いてみたい。

はえでづとめというよりも、肥のさづけなどなど、農事に関するおさづけである。

というのも、今新型コロナで、経済が停まって、倒産するとか、破産するとか、また保証金が、援助金がと騒がれている。

お金よりももっと大事なもの、それは食であろう。この食があってこそ、今の経済がある。

経済は約束でもある。借金もこれが治まるまで待ってくれと言い。それが了承されれば、全く問題ない話のはずである。

そして、借金を待ってもらえるかどうかは、その人の信用。その信用がないがために、保証金としてお金を取り立てたりするはずである。

さて、教祖の残念が晴れるように、親神様の思惑を記したい。(画像をまっすぐにする方法が分かって、気分が良い。また、張り付けた画像が、チャンと治まっている。前回は治まらなかったのに。。。(^^)

肥のさづけは、百姓(農業する人)を助けたい。という思いで、親神様は出されたという事である。田んぼで米を作るためには、たくさんの肥料が必要になる。

田植えをする前に、肥をやり、土を肥やし、そして、ある程度してから、追加の肥を撒くのである。

この肥を仕入れるためには、お金がかかるのである。今では化学肥料から有機肥料へと転換されて、「有機」という文字を沢山見るのであるが、教祖の時代、化学肥料はまだなかった。その代わりに肥溜めに、糞尿をためて肥に使っていた。この糞尿も肥米として米を渡して人々から集めて使っていたという事である。

親神様は、まずこの肥のさづけで、そのお金のかかる肥を少なくしてやりたい。親神様の不思議を見せたいと思われたのである。この肥のさづけも、その人の心によって、半肥のさづけ、丸肥のさづけと分けて渡された。

肥のさづけについては、「稿本天理教教祖伝」p47に

元治元年の春から、教祖は、熱心に信心する人々に、扇のさづけを渡された。これを頂いた者は、5,60人あったが、山中忠七と仲田佐右衛門は、それぞれ扇、御幣、肥まるきりのさづけを頂いた。

とある。

また、「稿本 天理教教祖伝 逸話編」には、

12【肥のさづけ】

 教祖は、山中忠七に、

 「神の道について来るには、百姓すれば十分に肥も置き難くかろう。」

とて、忠七に、肥のさづけをお渡し下され、

 「肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実がきくのやで。」

と、お諭しになり、

 「嘘か真か、試してみなされ。」

と、仰せになった。

 忠七は、早速、二枚の田で、一方は十分に肥料を置き、他方は肥のさづけの肥だけをして、その結果を待つ事にした。

 やがて八月が過ぎ九月も終りとなった。肥料を置いた田は、青々と稲穂が茂って、十分、秋の稔りの豊かさを思わしめた。が、これに反して、肥のさづけの肥だけの田の方は、稲穂の背が低く、色も何んだか少々赤味を帯びて、元気がないように見えた。

 忠七は、「やっぱりさづけよりは、肥料の方が効くようだ。」と、疑わざるを得なかった。

 ところが、秋の収穫時になってみると、肥料をした方の田の稲穂には、虫が付いたり空穂があったりしているのに反し、さづけの方の田の稲穂は、背こそ少々低く思われたが、虫穂や空穂は少しもなく、結局実収の上からみれば、確かに、前者よりもすぐれていることが発見された。

とある。

この肥のさづけで、人々はより集い、豊作になって陽気になれると親神様は望まれたのである。

そうした集まった人々の心を澄ませて、その中から、真実の人を見定めて、国の本尊となる人を作り上げたい。と望まれた。

今の私たちは、こうした親神様の親心の上に、今日の豊かな暮らしがある事をしっかりと自覚する事が大切だと思う。

どれだけのお金があっても、買うものがなければ、なんともならないのである。

そして、どれだけ食べる物が山ほど枕元に積んであっても、食べれる体がなければ何ともならないのである。

政治では、法律があるから、法律を改正しなければ出来ないと、言っている。

ルールを決めても、それを守る心がなければ何ともならないのである。

法が大切か。人間の心が大切か。

天理教の人ならば、皆知っているはずの言葉がある。「稿本 天理教教祖伝」p320

さあさあ、月日がありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。

これは、世界の成り立ちの順序を示されている。

この月日とは、親神様の事である。そして、身の内とは、人間の身体、また人間である。律とは、法律である。

つまり、親神様があって、人間がすむ世界がある。世界があって、人間がある。人間があるから法律がある。けれども、法律があっても、人間それぞれの心定めが一番大事な事だと言われている。

これは、警察から親神様が望まれるおつとめを止められて、それに対して法律があるから、おつとめは出来ません。と初代真柱様が教祖に述べられた時のお言葉である。

親神様は、人々の心定め、心の誠を見ておられる。この心の誠を出せるように、心を切り替えていきましょう。

 

親神様、教祖、どうぞ、大難は小難にとお守りください。

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今がこの世のはじまり 2

2020年04月16日 06時34分11秒 | 気になる言葉

先日、「今がこの世の始まり」ということから、現在までの事柄を書いてみた。

立教から183年。教祖が現身を隠されてから133年あまりが経つ。

そして、昨日婦人会のおさしづを示して、親神様はおさしづをもって人の心に浮かばせるという事を書いてみた。

これは、浮かぶという言葉を使ったが、悟ると言い換えてもよいと思っている。

人名を悟らせる事だけではなく、様々な事を人間が悟るようにと仕向けているという事を言いたい。

そしてまた、これはおふでさきやおさしづ全般に言える事だと思う。

親神様は直接に良い悪いも指示されずに、それぞれの心に思い浮かばせる。悟らせようとされている。という事も多々ある。

おふでさきの一言で悟り、窮地を脱した経験をされた方々も多い事と思う。それと同じことと考えている。

 

さて、「今がこの世のはじまり」これは、心の建て替えが始まったところという事で話を始めたわけだが、心について知らなければ、感じなければ、いくら話を進めようとしても、理解されない事は分かる事だと思う。

 

現代の日本、世界にどれだけ精神科にかかっている人が多い事だろうか。

うちの近所の心療内科の個人病院では、朝早くから患者さんらしき人が列をなしている事をよく見かける。

 

この心の建て替え、とても重要と思ってもらいたい。

心を病んでから、建て替えるのは、これはとても難しいのである。

この理由も、分かる事だと思う。

まだ、心ではない、身上や事情の障りを頂き、心を変える事の方がどれだけ簡単な事か。

 

今、世界中で見えている、見えないウィルスとのせめぎあい。

この中で、それぞれの心を点検、そして反省、そして心定めて日々を歩むこと。

これが大切だと思う。

 

★★★

昨日は、部内の月次祭。家族と数人の月次祭。(全員マスクを着けて、直会は弁当をお持ち帰りで)

そんな中ですが、後継者が仕事を休んで、中心になって勤めて下さり、皆さんも勇んで勤めて下さいました。

もうコロナでの3回目の月次祭となりました。

うち同様に、初回の月次祭では「おさづけについて」先月は「御供(ごく)さんについて」そして、今月は「おつとめについて」と「周囲へのおたすけについて」と、続けて話をさせて頂くこととなりました。

早く収束していれば、こんなにも続けて話をすることはないだろうなぁ。

辛い事も御守護だなぁ。

と話し合いました。

 

親神様、どうぞ大難は小難にとお守りください。

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「今がこの世の始まりと」 の出展

2020年04月14日 11時11分40秒 | 気になる言葉

先の記事で、「今がこの世の始まりと」と書いて、出展が気になって記憶をたどった。

今がこの世のはじまりと いうていながらなんのことやら

と頭に浮かぶ。

この口調は、「おふでさき」かなぁとおふでさきを検索してみたら、あった!

いまゝでも今がこのよのはじまりと
ゆうてあれどもなんの事やら (7-35)

「今が」の前に「いままでも」があって、なかなか探すのに苦労した。

さて、

このお歌について、おふでさき注釈を書いてみる。

35、36 今までからも、今がこの世の初まりと、度々説いてはいるが、人間は、それが何の事やら分からずにいたけれども、このたび現れた親神の自由自在の働きを見て、その意味をよく悟れ。銘々の心の入れ替えによって、どんな自由も得られるというこの珍しい守護を今までだれも知らなかったであろう。

註 今がこのよのはじまりとは、親神様がこのだめの教えによって、一列人間の心身の更生に着手下さる事を仰せられたのである。

とある。

この天理教という教えが、この世にあらわされたのは、これまでの様々な宗教、医学、哲学などなどの教えを踏まえて、人々の心の入れ替えを示唆する教えだということなのであるが、それは時がたって、歴代の真柱様方が教えをまとめて、ようやくわかってきたことである。

この教祖の時代に、すでにこの世は始まっていて、現在われわれ人間は生活をしているのに、「今がこの世のはじまり」と言われること事態、人間には理解しずらい事と思う。だから、「ゆうてあれどもなんのことやら」と言われることも理解できると思う。

教祖は、このおふでさきを書かれるまでにも、「今がこの世の始り」と言っておられたことが、「今までも」の言葉から分かる。

そうした中に、

このたびのぢうよぢざいでとくしんせ
いまゝでこんな事ハしろまい (7-36)

月日よりたいないよりも入こんで
ぢうよぢざいをみなしてみせる (7-37)

こらほどのぢうよぢざいのしんぢつを
はなしするのハいまはじめやで (7-38)

と、

親神様の不思議な働きを目の当たりにさせて、理解はできなくても、得心をせよ。何とか得心をさせたい。とわれわれ人間に求められている。

 

「心の入れ替え」。これが、これから人間がしなければならないことである。

何度も書くが、こうした思いを親神様は思われて、段取りをされても、人々は聞き入れず、甘露台も完成することができず、模様替えとなった。

よく、この教えは「拝み信心ではない」と言われる人がある。

それは、「おがみきとうでいくでなし 伺い立てていくでなけれど」というおふでさきを引用して、言われる。まさしく、親神様が願う誠真実を受け取ってくだされば、どんな不思議もあらわして下さる。けれども、そこまでの誠真実が出せる人々はそうそうない。

そうした中に、誠真実を出せる人におさづけを渡し、教祖の代わりに不思議を見せて、「拝み信心を求める」人々を集められた。これがこれまでのお道の歩みだと思う。

この歩みがあって、今の姿がある。

時間がないので、またの機会に書こうと思う。

親神様、大難は小難にお守りくださいませ。

 

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愛知県で独自の緊急事態宣言。から。。。。

2020年04月10日 07時37分27秒 | 気になる言葉

今朝朝刊を見て、愛知県が10日に独自の緊急事態宣言を発令したことを知った。

昨日からネットのyahooニュースに注意をいたが、このニュースについては目にしなかった。また今朝見ても見当たらなかったので、検索をかけて見た。

すると、

以下のニュースが引っかかった。以下、コピペする。

・・・・・・・・・・・・

緊急事態宣言“追加指定”に 愛知・京都が政府に要請へ

4/10(金) 6:30配信

FNNプライムオンライン

愛知県は、「緊急事態宣言」の対象地域に愛知県を追加で指定することで政府と調整に入り、京都府も、対象地域に加えるよう国に要請する方針を固めた。

愛知県では、感染経路がわからない感染者が2割程と、東京や大阪に比べ低いことなどから、緊急事態宣言の対象地域から外れていたが、4月7日から2日続けて感染者数が20人を超えたことなどを受け、追加指定への要請に踏み切った。

ほかにも、県独自の「緊急事態宣言」を10日に発令し、県民への外出自粛などを求めるほか、県独自の緊急経済対策を行う方針。

また、京都府も緊急事態宣言の対象地域に京都府を加えるよう国に要請する方針で、西脇京都府知事と門川京都市長が共同会見を開き、表明するという。

京都府では、これまでに165人が感染しているほか、9日に60代の男性が死亡し、府内で初めてコロナウイルスによる死者が確認されている。

(東海テレビ)
(関西テレビ)
・・・・・・・・・
いよいよ、身近に迫ってきた。
 
医学の専門家の話、(YouTubeなどで、独自に専門家にインタビューしているもの)を見ても、現在の医学では、特効薬はなく、それが発見されても製造するのに時間がかかり、人間全体(約八割)に抗体が出来て自然収束をするにも時間がかかると聞いた。
 
抗体が出来るという事は、新型コロナにかかって、自然治癒するという事である。
 
自然治癒とは、何か、神様の働きしかない。
 
すでに、14号のおふでさきを訳して、神様のざんねんの現れと話をした。
このざんねんが晴れたならば、親神様は守護するといわれる。
そのざんねんを晴らすために、親神の心を分かってくれと言われる。
親神の心は、陽気ぐらしである。
陽気ぐらしとは、互いに助け合う事。それも、人間同士だけではなく、親神様とも助け合う事である。
親神様は、おつとめをつとめてくれと言われた。
それによって、心のほこりを払い、心を澄ましたいといわれる。
 
いくら、神様の話を聞いても、心がすんでいなければ、この陽気ぐらしの心になれない。
だから、一人でも多くの人の心を澄ませたい。というのが、そのための親神様の思い。
 
また、このおつとめをつとめるだけではなく。
陽気ぐらしをさせたいという思いを納得させるために、「元始まりの話」を教えられた。
この真実を教えたいから、不思議を見せているともいわれる。
 
しかし、人間は不思議のみを求めて、その先にある、親神様の思いを汲み取ろうとせずに今日まで来ている。
一部の人には、この思いが分かっていると思うが、大半の人は、先にものべた病気の治癒や不思議、そして宗教が大きくなること、教団が大きくなることばかりにとらわれて、そこから先へ思案が行かなくなっている。
 
この事は、すべての宗教に言える。宗教の歴史を考えると、不思議が現れて、人が集うようになると、権力を持った人々が、その集う人々に圧力をかけて、自分の意に添うようにと扇動をするようになる。
そして、その扇動には宗教家たちはあらがう事が出来ずに、それを受け入れつつ、神の話も伝えるようになる。
 
これが、初期のころは、神の話が生きているが、代を重ねていくと、神の話がすり替わっていく。
そして、神の真意とは違う話で民衆を育成して、世界が出来て来る。
これがとても神様にはざんねんで仕方がない。
 
そこで、人間の力では何ともならない、事態を見せて、それぞれ人間、個々の心に応じた守護を表す。
おふでさきには、神と上という言葉(文字)が出てくる。
「かみ」と同じように読むのに、わざわざ書かれてあるのである。
ココがとても重要。
 
上は人間全体の上に立つ人々、その人々の意思、方針、教育によって、それに連なる人々の意識、知識、思案も作られていくのである。
 
この事は、世界の国々の歴史や、考え方を分析すればわかる事。もっと身近に言えば、それぞれが所属する会社や家庭の考え方も同じである。
 
親神様の力からすれば、すべてをなくして、一から始める事もたやすい。
だか、それではならないと、懸命に頑張っておられる。
 
悟ってくれ、悟る人が一人でも増えて、多くの人を良い方へと導いてくれるようにと。
 
 
親神様どうぞ、大難は小難にとお導き下さいませ。
 
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桜の花が、満開に。そして

2020年04月04日 00時18分17秒 | 気になる言葉

名城公園の桜の花が、今日の日差しでほぼ満開になりつつある。

名城公園の内の道路は、11時から朝の8時までは駐車が許されている。

夕方、通ると通常のようにたくさんの車が停まっていた。

しかし、園内は通常よりも少ない人が、散歩を楽しんでいる。

例年の出店も出店しているが、夕方早々に片付け始めていた。

儲けにはならないだろうなぁ。と思いつつ、通過した。

そして、栄を抜けて、大教会へと向かった。

栄の町も人通りは少ないが、それでも結構な人が歩いていた。

マスクをしている人がほとんどだが、していない人もある。

そうした中に、警備員をして人を見かけた、女性だが、マスクをしていなかった。

アルバイトのような感じだった。

現在まだマスクはなかなか買えない。テレビで、布で作るマスクを紹介していたのを思い出し、

マスクを買えず、作れない人もあるだろうなぁ。そうした人は、心配をしながら働いているのだろうなぁ。

と思いつつ走った。

昨日は、このコロナの事から自分自身が新たに気付いた事を書いたが、この騒動から様々な業界の裏側がどんどんさらけ出されているようにも思う。

このコロナの騒動が始まる前、11月末におぢばに団参をした。

そこで、初めておぢばへ帰った方に不思議を見せて頂いた。

このブログに書いたかなぁ。

半月板を損傷されていて、足が痛い中、おぢばがえりをされた方で、私が少しお話をさせて頂いて、おさづけをさせて頂いたところ、それから痛みが無くなった。と喜んで頂いたのである。

後日その話を、誘った人から聞いて、親神様・教祖は常に見て下さっているから、おさづけをさせて頂きましょうと、信者さん方に話をしていた。

そうした中に、このコロナの騒動が始まったのである。

そして、先に書いた、おふでさきのコレラの話を、信者さん方に話をして、ともかく些細な事でもおさづけを、そして、自分の出来る事を、と話をしてきた。

これまでにも、医者にも見放された人々は、神様にすがるしかなく、そして誠の心で願い、助かってきた人が多くある。

これが事実である。

けれども、こうした話を信じない人もいる。

形は同じでも、心によって現れることが違ってくる。これに気が付けばと思う。

けれども、中々、自分の心さえ分からないから、分からない。

どれだけ言い訳しても、うそは、うそとして神様は受け取られる。

出来ないけれども、何とかと思いする中には、真実がある。

出来なければ、出来ないという事は素直である。それはウソにはならない。

心から努力して、出来ずに謝れば、そこにはウソはない。

人は真実を見て、助けてくれる。けれども、これに味をしめて、努力せずに謝るようになれば、それはウソツキとなり、人は見放すようになる。

また、うそをついて、そのうそをかくすために、さらにうそをつくことにもなる。

おふでさきに

いまゝでハとのよなうそもきいていた
もふこれからハうそハきかんで (12-111)

これからハうそをゆうたらそのものが
うそになるのもこれがしよちか (12-112)

月日にハうそとついしよこれきらい
このさきなるわ月日しりぞく (12-113)

とある。

これは、言われた事を、その時はハイと言いつつも、やらずにその言い訳をした時に、親神様は、はじめは見逃して下さっているが、これは親神様にうそを言ったことになり、最後には「うそをいったらその者がウソになる。これを知っているのか。」といわれて、(月日とは親神様の事で)親神様は「うそとついしょう」これは嫌いである。と言われている。(ついしょうとは、追従と書き、おべっかである。)そして、そうした先には、親神が退くといわれる。

私たちの身体は自分の力で生きているように感じているが、この体自体が、親神様の働きがあって動き、生きていくことが出来るのである。自分で意識しなくても自然と、けがが治る。これはまさに親神様、自然の力があってこそなのである。

この働きが退くということは、死を意味する事となる。

だから、そうなる前に、心を切り替えよ。自分で生きていると思い込んで、自分中心の考えから、もっと周囲の事を見れる心に切り替えよ。人の痛みが分かる人になれ。悟れ。と様々なメッセージを投げかけている。

この教えを知っている者の心も、知らぬ者の心もすべて平等に親神様は受け取っておられる。

感じたことを大切に、一日一日頑張ろう。と思う。

親神様、大難を小難にとお導き下さいませ。

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携帯からの入力をしてみたが。。。

2020年03月16日 09時27分21秒 | 気になる言葉

何だか、とても、思う事を書きたくなっている。
そこで、昨日、設定を変更してみた。

そこで、携帯から投稿できることを知って、テストしてみた。

ただし、携帯から編集画面が出せないので、直接の投稿か、下書きの投稿しかできないことが分かった。

また、PCの投稿と、携帯からの投稿では行間に違いがある事が分かった。

HTMLで表示をさせてみると、

PCからの行間には、〈p〉〈/p〉が使われており、携帯の行間には〈p〉〈/p〉の間に〈br/〉で改行されていることが分かった。

★この文の最初の2行は、PCで入力した2行に、〈br/〉を入れて見たもの。
(〈p〉〈/p〉と〈br/〉を置き替えた。)

=以下は携帯からの入力。「追記するとどうなるか?」からは追記。「これは苗代です。」からは再追記。追記の画像は追記分の後に入る。ただし、★##★(半角)を入れるとその場所に画像が入る。=====

携帯からブログが書けるようにした。
画像などがどのようになるのか?
追記するとどうなるか?
w
これは、苗代です。

このあと田植えがおわり、苗代は田んぼに戻ります。この時の言葉を何かで見つけました。

=========

さて、新型コロナのお陰で、バイトもないので、こんなことが出来る。
が、

もっとやらなければない事がある。
それは会計事務である。(^^;)

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気になる言葉1「一方流れても・・・」

2015年07月14日 08時51分28秒 | 気になる言葉
逸話篇187の【ぢば一つに】
 明治十九年六月、諸井国三郎は、四女秀が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい。」とお願いしたところ、教祖は、
「さあさあ小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで。」
と、お言葉を下された。


の中の、「ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。」という言葉が常に心にある。

私たちは、一度始めたらそれが、永遠に続くと思いがちであり、また永遠に続く事を求めるものだが、親神様から「根にたとえて、四方へ出たものが、一方流れても」と言われている。

このおさしづは、三歳の娘さんを亡くして願われたおさしづであることを思うと、この根は、子供と思案する事も可能だし、部内教会と思う事も可能だと思う。

子供にしても、初めからこの子供は「何歳で無くなるから」として可愛く育てない親はないはずである。反対に「命の年限を宣告されても何とか御守護をと願う親ばかりだと思う。

しかし、親神様のお心は、人間の寿命も分かり切り、人々の行く末も分かり切ってある。その上でのお仕込み、お導きと考えると、子供への愛情や仕込みも大切だが、それ以上にぢばへ心を寄せる事で、たとえ深いいんねんで、亡くさなければならない場合であっても、次の新しい御守護の姿をお見せ頂ける事を示されていると思うのである。

子供と親神様の間に立つ、立場、これがようぼくなのかもしれない。

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