2月になりました。
何が起こるかと世界を眺めながら今日まで来ました。
様々な事が起きてますね。
表だっての戦争はなくても、情報戦また暗殺などをすごく感じます。
そして、一つ間違えばロシアや北朝鮮からの核ミサイルの発射もありえますね。
「窮鼠猫を噛む」という状態にして、猫を噛んだネズミを悪者にするという事もありえます。
自分達の支配権が無くなって来て、自分達の悪事を暴かれないために、大惨事となる戦争を引き起こしたいという、輩もいないではないと思えています。
そうした中、スピリチュアル系の発信を見ると、もうすぐ明るい世となるので、心を暗くしないように、喜びを見つけて、笑顔でなどという発信が目立ってきています。
正しく混とんとした世の中であります。
これは、人間の心が混とんとしている、その表れでもあると思っています。
混とんとは、整理がついていない状態です。
泥水によく例えられます。
泥が混じっていては先が見えません。
泥が固まれば、水は澄んで先は見えます。
そして固まった泥の中には、それを良いと思う生物が住むのです。
そして澄んだ世界には、その泥の中の物を養分とする物が住むのです。
これと同じように、心の世界も、泥水から泥と清水とを分けるのです。
これを分ける方法は、火と水とを入れて分けるでと言われています。
泥水を静かにしていれば、泥は下へ沈みます。
これで分ける事も出来ますが、どうしても静かに出来ないのです。
泥の中の物や水の中の物が暴れると、そのようには行きません。
そこで火を使います。
水に太陽の日が当てたり火で熱すると、水は蒸発するのです。
蒸発した水はいつまでも蒸気ではおられません。
火元から離れると、冷めるのです。
すれば水に戻ります。
水が抜けた泥水は、泥ではなく土となります。
この火が入る状態が、事情です。
身上も病気という障りがついて事情です。
この時に、どの様な心を使うかで、泥と清水で分かれます。
泥の心の者は泥となり、清水の心の者は清水となります。
だから、自らの心を、ほこりの説き分けで見分ける事がとても重要なのです。
人を愛せと説きながら、陰で人を泣かせる。
これはウソです。
自分が良くなりたいために、ウソをつく。
これが追従です。
この見分けを、自分自身にするとともに、周囲の物事に対しても使って、見分けて、ほこりはよけて通るのです。
ほこりには逆らってはなりません。
「そうですか?」と言っておくのです。
そして、言う通りにしなければそれで良いのです。
この事によって、周囲の人々を含めて様々人々の心を、親神様は見定めておられるのです。
監獄へご苦労された教祖の態度が、これであったと思うのです。
「欲にきりない泥水や」です。
「あるが上にもなんぼでも」と思う心が欲です。
今与えられている物を「自分の徳一杯のお与え」と思えば、欲は出て来ず、たんのうの心で、より結構になって行くのです。
自分は知恵者、徳のある者だとおごり高ぶると、高慢となり、周囲の声、神様の導きが感じられなくなるのです。
そうなると、せっかく頂いた徳も落としていくしかなくなるのです。
うちでは、石油ストーブにやかんを掛けて暖を取っています。
そのやかんの水がやけに、白く濁るのです。
そして最近水道の水がどうも白くなってきているようにも感じています。
また、昨日お堀の水を浄化するプランが新聞に出ていました。
さらに、昨日「清濁併せ呑む」という投稿を見て、思うがままに書いてみました。
清水のさづけは、どんな汚い水でも、そのさづけを戴いた方が一口飲んで、それを病人さんに与えれば、不思議な御守護を頂いたのです。
どんな汚い水であっても、親神様の御守護があれば、何ともないというものです。
重要なのは、親神様を信じて、教えの通りに通る事でしょう。
また、この教えは自ら求めねばなりません。
求める中に与えられるのです。
親神様は学校を始めは許されませんでした。
ここにその意味があると私は思っています。
先日、名簿の作業をしようとしたところ、アプリケーションが起動せず、再インストールをしなければと、その日作業をあきらめて、先のブログを書きましたが、その後不思議と、再インストールせずに動き出しました。
とても不思議でした。
昨日と今日は名簿の作業を行います。
PCやネットの世界にも、親神様のお働きはあります。
親神様・教祖のお導きを願って、おもうがままに。。。