紫陽花記

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誘発

2019-06-18 07:55:53 | 野榛(ぬはり)エッセー集
   誘発
            
1996/4 ぬはり短歌会誌上掲載

 込み上げてくる声にならない嗚咽の源は何かと、私は持っていた短歌の本を眺めた。それは答えにはならないと思ったけれど、確かに「野榛」を開いていた時の感情だから、その中の、菊池柳子さんの連作の数首に涙を誘われたのだろう。

 視界なき霧の岬の救いなれこころ病む子に背負われて夫は
                    菊池柳子

 大分前だったと思うが菊池柳子さんのエッセーで、出家した息子さんの事を読んだ事があった。その息子さんの背に夫はいるという短歌だ。
 
 私の脳裏に荒々しい三陸の海が広がった。それは私の知らない海ではあるが、遠浅の少ないと聞く三陸だから荒々しい海が見えたのだろう。そこに、黒い衣の背に老いた男の縋り付く姿と、それを見ている柳子さんの視線の先に、霧に霞む水平線が空との境目さえも分からない程に煙って見えた。

 だとしても何故に胸を突いたのだろうか。この息子さんの姿に到底及ばない私の長男に思いがいったのだろうか。ここ数日不眠症に悩まされていた身障の息子と、そのために迷惑を被った同室の入所者と施設の職員。そしてその度に電話で報告を受けた私たち夫婦の戸惑い。一番に苦しかったのは、一人眠れず夜の闇を蠢いていた長男だったはずだ。その息子に思いが繋がったのだろうか。

 柳子さんの心を病んでいる息子さんと私の身障の息子。菊池柳子さんの短歌に誘発された私の涙は、暫くの間頬を伝わった。

 短歌を始めて三年余。「野榛」誌上の短歌を全部読んだわけではない。仕事の合間にぽつぽつ拾い読みした。種々雑多なモチーフを、その人なりの心のあり方で詠んでいるのだが、本当の悲しみを知っていると思われる人の作品は心を打つ。

 私の誘発された涙は、決して今の自分を嘆いて出たわけではなく、人間の本質にあるもの。それは誰にでもある無垢なるものを揺さぶられたのだろうと思う。

 生活音のする午前十時。良く晴れていて窓からの陽ざしも穏やかな時。それなのにシンとした静けさが感じられる。涙を流したことによって、洗われてしまったのか。

 人間は他の生物と比べると欲望の固まりみたいなもの。とりわけ肉親に対する情は深く、愛する人々への情を詠うことが多い。それは父母に対するより子を思うことの方がずうっと深いような気がする。こうして、突き詰めて考えてみると、自然界の法則に則った感情なのかもしれない。託された相手よりも、託す相手を大切に思うのは、種を残そうとする本能に通じるものなのかもしれない。そのようなことを考えているうち、頬の涙が乾いていった。

 涙で洗われた心で読み進んでいったが、他の短歌は一向に頭に入らない。いつまでも、私の知らない海がうねり、ますます霧が濃くなっていく。強烈に縛られたまま、読むことを諦めて「野榛」を閉じた。

 現実は厳しくとも、どこかで心を遊ばせることの出来るのは、のたうち回るほどの苦しみの果てに会得した技で、子供という一番の修行場にどっぷりと浸かったが故。
 もう何もかも、両手を広げて抱きとめるほど修行を積んだはずなのに、まだ泣けるほどの余裕のあることに驚いている。形が違えども子を思う心は同じ。
 菊池柳子さんの連作に誘発された涙は、私の息子に対する思いに、何かを教えてくれたような気がする。

 私は、深くふかーく息を吸い込み、徐々に吐き出した。