<添付画像>:司馬遼太郎記念館のしるし
いろいろ考えた。 でも、どうしても掲載させてください、、、
本日記事のメインイヴェントは、添付画像の書籍の冒頭に出てくる文言「司馬遼太郎先生の奥様・福田みどり夫人」の手になる書き下ろし、珠玉の叙述詩であるか。 私のような若輩が申し上げるのも畏れ多いのであるが、福田みどり女史の研ぎ澄まされた文章に、あらためて敬服する。
どうかお許し下さい。 「ごあいさつ」の掲載、ネット文字の「こぴぺ」に非ず。 さりとて著者への失礼は百も承知にて、これだけはキーボードを通して写し書き致したく、書き写した以上はブログ記事にて掲載したくなったことを、、、。
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(司馬遼太郎記念誌より)
ごあいさつ
司馬遼太郎は平成八年二月十二日に、この世を去りました。
その日から司馬遼太郎のための予定表が、私の予定表に変わってしまいました。 「月某日OO氏と対談」、「某月某日XXへ取材旅行」 ― の横にならべて、私の「△△社のインタビュー」を書き加えることになってしまいました。 司馬遼太郎の予定は消されることなく、むなしくそのまま残っています。
荒れ狂う海に浮きつ沈みつしながら悲しんでいる余裕もなく、感情も凍結したまま、ただ責任感と義務感で自分で自分を拘束した日々が続きました。 明日という日を考えることもありませんでした。 ふりかえって当時の予定を眺めることは、いまだにできません。
そんな私をここまでたどりつかせてくださったのは、ひとえに読者の方々のお励ましと親しくおつきあいねがっていた方たちの、これ以上はないという友情でした。 あらためてお礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
そうした方たちに支えられて司馬遼太郎記念財団が発足したのが、平成八年十一月でした。 司馬遼太郎賞、フェローシップ、菜の花忌も回を重ねることができました。
ここで私が頭を抱えてしまったのは、記念館でした。
司馬遼太郎は自己を顕示することを、もっとも好みませんでした。 無私であることと無欲であることを一番愛しました。
さて、どうしたものか。
当然、さまざまな方から記念館の話はきました。 けれども私がしっかり決意したのは、一人の少年からの電話でありました。 この少年は中学一年生で『国盗り物語』をいま読んでいる、ということでした。
司馬遼太郎先生の記念館はいつできますかと問われて、私は黙ってしまいました。 少年はうわずった声で話し続けました。
ぼくたちは友だち五人で司馬遼太郎研究会をつくっています。 作品の半分まで読んだらぜひ先生に会いに行こうよ、といつも話しあっていました。 ところが先生はもうおられません。 どこに会いにいけばいいのですか。 せめて記念館を作っていただいて、そこで先生とお話したいのです。
正直に言って、私は涙がこぼれました。 この少年の心に応えるためにも作るべきだ、と考えました。 ここで思い出したのは、司馬遼太郎が常に自分が得たものは社会に還元したい、そのことだけは憶えておいてくれ、と言っていたことでした。 そのためにも記念館は必要だと考えました。
いま、完成した透明感と清涼感に満たされた資料館を眺めていると、青い空に司馬遼太郎のスピリッツが浮かんでくるような気がいたします。
二〇〇二年の菜の花忌で、設計してくださった安藤忠雄さんの講演を聞いた二人の青年が帰り道、菜の花をかかげて声高らかに志高く、志高く、と歌うように躍るように歩いていったということを、友人から聞きました。 私が目にしたわけではありませんが、その光景がいまも胸に残っています。
この記念館で、司馬遼太郎の人生は完結いたしました。 そしていま、新しい司馬遼太郎の命が誕生しようとしています。
どうぞ、司馬遼太郎と存分に語りあってください。
ご協力いただいた方々に、心から感謝申しあげます。
司馬遼太郎記念財団 理事長 福田みどり
(以上、2008年1月1日改定第二刷発行「司馬遼太郎」より、あいさつ抜粋)
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念願の司馬遼太郎記念館に初めて足を運んだのは、未だ寒暖定まらない先月2月の中旬のこと、、、。
やはり、行ってよかった。
(
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でもって直ぐにでも、記念館訪問紀行文を書こうと思っていたが、これが又、遅くなった。
それには理由がある。
当然ながら感無量。 しばらくしたら虚しくなった。
まずは、あまりにも早くして、司馬遼太郎という「日本人の知的財産」を失ったことの無念さだった。
その次に、記念館訪問の記念品として購入した記念誌「司馬遼太郎」(司馬遼太郎記念財団発行・発行者:福田みどり)の最初の「ごあいさつ」を読みすすめ、読み終えて涙があふれ止まるところがなく、心中には今も尚流れ続けている。そんな訳で、とてもじゃないが感想文や紀行文を書く気にはなれなかったのだ。
あれから1ヶ月になる。
少し落ち着いた。
でもって本日、書く。
そして、シリーズで司馬遼太郎先生に想うあれこれ、連載記事にしてみたく考えている。
作品との出会いから話したい。
司馬遼太郎小説をはじめて読んだのは、忘れもしない1987年12月初旬のこと。 社会人になりたての頃からすでに四半世紀も通いなれた小さなスナックバーのママさんに
「お勧めしたい本あり。是非これを読んで元気を出してください」
「・・?・・」
「お貸しする?と言うより、差し出がましいのですが差し上げます。どうぞ時間をかけて読んで下さい・・」
小説なんてほとんど読まなかった当時の私が、嫌々ながらお借りした(頂いた)のが『項羽と劉邦(上巻)』なのだった。
深夜に帰宅し、ベッドにもぐり込むや否や一気に150ページを読み進めたらいつのまにか朝になっていた。 その後、酔い覚め(酔い覚ましは必要なかった)水をグラス一杯飲み干し、明け方から一眠りした。 目覚めたら、時計は午後3時を少し回っていた。 まずは眠気覚ましの熱いコーヒーを一杯。 あらためてベッドに潜りこんで読み進めること熱中し、第一巻を読み終えたのは翌日早朝の3時半、丸一日少々掛かっていた。 しかし何故に、かくも早く読み進めること、可能だったか? 稀にみる特殊な精神状態にあって、項羽と劉邦の歴史絵巻物語に没頭し易い精神状態であったか。 なにはともあれ、「項羽と劉邦(第1巻)」は極めてストーリー展開歯切れよく、 いずれは互いに宿敵となる項羽も劉邦も未だ若く血気盛んにして、秦始皇帝の暴政に打ちひしがれていた中国全土に広がる人民の不満や願望を背負いつつ打倒秦をスローガンに、秦始皇帝の敷いた巨大な法制国家の瓦解に向け、一致協力して秦滅亡に漕ぎつける迄を描き切った壮大な歴史パノラマだった。 ページを捲れば次から次へ、漢字に次ぐ漢字は洪水のようにあふれ、我が頭脳の引き出しを一杯にして納まらず、小説のストーリー展開進むとともに歴史上の人物登場すれば、ちくいちその人物の氏素性のショートヒストリーまで及び、簡単に3~4ページを割いてしまう。 登場人物の名前は当然ながら、ありとあらゆる情景描写も性格描写も人物のパーソナルヒストリーも悉く漢字表現だから、読書中の僅か一昼夜にして過去に見たことのある漢字は当然のこと、生まれてこの方出会っていない漢字にまで出会ってしまうありさまにして、本来なら10数ページで挫折するような書籍のはず。 にもかかわらず、一気に読み進め読破した記憶は、決して忘れようもない。
「項羽と劉邦」の第一巻を読破した読後感は、読んだ、知った、面白かった。 しかし疲れた。
司馬遼太郎作品「項羽と劉邦」に出会った当時の私は、絶望の真っ只中にいた。 それは、1年がかりの大きな仕事を成功裏のうちにやり遂げた後の虚脱感はさておき、思うように利益の出なかった空しさとビジネスマンとしての無能力さ加減に挫折感を味わっていた真っ最中だった。 だから、普通一人で飲まない酒を飲みに、巷の飲み屋街を徘徊していてこの一冊に出会った。 しかしこの一冊を読み終えた後は当然ながら疲れ果て、その後一昼夜眠った。 目覚めてすっきり、後味悪かった仕事の成果を全く忘れる事できた。 かくして1987年師走を乗り越え新年を向え、項羽と劉邦の両英雄の資質を持った気分になって新機軸のビジネスを求めて旅立の準備をした。 翌年の秋、一回目の欧羅巴自由人生活(2年間)に旅発った。
その後第2巻と3巻を入手し、全巻を読み終えたのは2年後、1989年の夏だったか。
この長編小説に出会ってから、私の『読み物』に対する考え方が変わった。 早かったのか?遅かったのか?(一般論的には遅すぎたのであろうが、私論的には決して遅くないと確信し、今に至っている)たぶんあの時、人生の大きな変わり目に、司馬遼太郎作品と出会った。 それ以後、大の司馬遼太郎フアンになってしまい、現在に至っている。
(トーマス青木)
<参考・項羽と劉邦>