Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

Mentor? 「広淵先生ブログによせて」

2005-08-27 13:55:54 | 趣味の話&本と雑学メモ

拝啓 広淵升彦さま 
 
(広淵先生トラックバック記事として掲載します!)

はじめてコメントさせて頂きます。
わたくしこと、monkyさまからご紹介頂いた不肖「エセ男爵」です。
宜しくお願い申し上げます。
まだ一部分でありますが貴ブログ拝読させて頂き、わたくしごときが申し上げるに恐れ多いのでありますが、まさに
「ここに、我がメンターを見いだしたり!」
と宣言し、
ご尊敬申し上げる次第であります。
まずは広淵先生をご紹介頂いたmonkyさまに、お礼申し上げなければなりません。
Monkyさま、ありがとうございます。
広淵先生の膨大なブログは、一度落ち着いて是非とも通読させて頂きたく、大いなる楽しみが増えました事、ご報告申し上げます。

さて、昨日の事(8月26日金曜日)、
当記事のタイトル(mentor)に関し、大いなる興味を持って拝読させて頂きました。
先に結論を申し上げます。
全く同感、
Mentorという単語、外国滞在中に幾度か耳にした記憶がよみがえってまいります。
ひと昔ふた昔前の若かりし頃の初期段階では、mentorは、聴き慣れない単語の一つでした。意味がわからなかったので、会話の中に当単語を発音し会話に繰り込んできた相手に対し、mentorの意味を質問した記憶もあります。
日本国内においても、今尚、「英語の師」と仰いでいる親しい先輩から「mentorとは、いかなる含蓄を持つ語意なりや?」などと、酒を飲んだ席でウンチクをお聞きした記憶なども、この記事を拝読しながら思い出した次第であります。
以って、
mentorなる単語の意、使い方などなど、総じて、単なる先生または師などというよりもっと深く広く大きな意味があるのであろう・・・
などと、ぼんやりと記憶していた単語のひとつであった事、先生の記事を拝読しながら思い出させて頂きました。

そんなインパクトのある「mentorの記事」、今朝目覚めた時点から再度思い起こし、あらためて『mentor』なる単語を今一度辞書で確認すべし!と、思い立ち、さっそく英英辞典から引き抜きましたところ如何せん、下記記述に遭遇いたしました。

By “The OXFORD American DICTIONARY and Language Guide”
Page 620
MENTOR: an experienced and trusted adviser. [F f. L f. Gk / Mentor: adviser of the young Telemachus in Homer’s Odyssey and Fenelon’s Telemaque]
上記引用の追記:(研究社の「現代英和辞典」<1973年初版携帯版第14刷1987年版より>p804の和訳も、上記[Ff. Lf. Gk/…]内の意が示されております。まさに広淵先生のおっしゃる意の元、であります。が、しかしながら、『経験ある信頼すべきアドバイザー』の意味は表示されていいません。したがって、英和辞書には決して伊藤忠流のアドバイザー的な意の使われ方はしておりません。伊藤忠の使い方が真正面から間違った使い方として解釈せざるをえなくなる。しかし、米語事典としての英英辞典には、まさにアドバイザーとしての意味が主流として解され、ホメロスのオデッセイで使用された意味は、古文的なあるいは外国語流儀としての用法となる、、、。
想うに、当研究社英和辞典の元ネタ?(失礼)は、恐らく四半世紀どころか半世紀以上も前の英国製英英辞典からの引用であったと考えます。尚、語源ならびに50~60年前の常用英語の意を熟知する事は決して無駄ではなく、今尚それなりの英文書物を解するに必要不可欠の辞書であると確信しています。(追記終了)

さて、当該英英辞書は、たまたまシンガポールの大手書店(外資系にて現地紀伊国屋ではありません)で3年前に購入したもの。当時、今後の活動で必要な事もあろうと考え、アメリカンイングリッシュ(American-English)の辞書を求めようと思い立ち、購入したものであります。

今朝、上記辞書の同ページに目をおいた私自身、いささか驚きました。
こうなると、最近発刊された英国版英英辞書(British-English dictionary)をチェックしたくなりましたが、たまたま自宅においておらず、事務所まで出かけなくてはなりません。現時点で比較できなく、お許しください。

当面しかし、
上記から推察すると、
「私自身、mentorの意を、いささか大げさに捕らえていたのか?」
また、
天下の伊藤忠において、その新設部門の専任女性アドバイザーの通称に当てはめても一向に差し支えないのであろうか?
大いなる疑問にも思えてくるのです。
つまり、(Mentor means Adviserとして)すでに現代アメリカで通用し始めている業界(ビジネス業界の意)常用英語と解釈する外ないのでありましょうか。
なんだか、この流れ、「あり得る意味・用法」のような、気がいたします。


さて、軸を少し外れて、

同じような現象は、日本の現代国語にも発生して止まない今日です。
比較的若い世代及び一部業界でさまざまな新語が発生しています。
イケスカナイ現象もあります。
いま、若者の間でとんでもない日本語が使われている現象、強く嫌悪します。
例えば、
電車などに乗っていると、時として女子高生の会話など耳に入ってきます。
これ、まさに女子高生の日本語会話?すんなりとは理解にいたりません。
とりあえず「同じ日本語」が雑音騒音として耳に入りますが、ぼんやり聞いている私自身、一向に意が解せない。結果雑音なのですからわが脳裏には、不快感としての印象が発生します。もちろん、ぼんやりのヒアリングで盗聴を試みているのではないのでして、ゆめゆめ若者達の会話の内容までを解そうなどと、大それた考えは全くありません。無視しますが不快感は残ります。
しかし、もっともっと嫌悪感を覚えるものあり。
週刊誌や新聞の記事などなどマスメディアに見うけられる不必要な「片方ひらがな漢字熟語」は、ことごとく不愉快です。
つまり、
漢字熟語の片方だけ(当用漢字に載っていないという理由だけで?)ひらがなにして漢字二語熟語を表現していたり、「片方ひらがな」のサマにならない漢字熟語がTVのテロップに出てくる・・・
変な日本語を頻発してくると、不愉快になります。
ここまでくれば「ふりがな」を、すなわち、ルビをふっておいたほうが宜しいのではと思います。
漢字熟語たるは、一方の漢字を平仮名表記した瞬間にて、漢字熟語全体もつ意味を瞬時にして失う。漢字熟語そのものの使用意義がなくなる。ならば、源氏物語の真髄まで立ち戻れ。できるものならばやってくれ。いっそのこと大和言葉で表現してみろ!(その実、源氏物語その他やまと言葉を多用した古典は、私の好みではありません)漢文調のほうが、まだましです。要は、まだまだ勉強中修行中のみです。しかし、せめてテロップに出さねばならぬ漢字熟語くらいは下手にひらがな表記するな。ルビ振って正しくFullSpellingにて漢字表記しろ!
ならば納得。我慢してやる。
「面倒云うな!世の流れに従え!」
「・・・」
「ならば、TVなど見なければよい!」
「・・・」
ということになってくる。
なんだかモノゴトを斜めに見ているのは、まさに自分なのだろうか?
若し、そんな傾向あらば、決して好ましい方向ではない!
もう一度問う!
すでに、そんな自分になりつつあるか・・・
そうかも知れない・・・
ならば、
少なくとも、今から十数年は生きながらえたい自分として、いったい何をなすべきか?
などなど、
感じ入って、
気分は、高揚したり、沈滞したり、沈殿したり、
時に芸術鑑賞に逃げ込みつつ、
感慨と感傷に浸りながら、
尚且つ、
いやが上にでも日々年齢を重つつある我が身の衰えを、励ます。
だからこそ、よりいっそう楽しく正しい明日の自分自身を目指し切磋琢磨したくなり、僅かながらも向上を求めて試行錯誤の今日を縷々過ごす、そんな出来損ない人生を謳歌している半端者であります。

まずは初めてのご挨拶を、と試みたにもにもかかわらずの多弁多舌。
平に平にお許しのほどお願い申し上げます。
あらためまして、
今後とも、宜しくご指導下さいますようお願い申し上げます。

敬具

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ほていあおいの花 「友人からの贈りもの」

2005-08-25 13:40:29 | 趣味の話&本と雑学メモ
 先日投稿した例の「釣りたての鮎」の写真を提供してもらった友人US氏から、またすてきな写真が届いた。

この花、なんと、「ほていあおい」の花だそうだ!

あの金魚鉢に入れておく浮き草の「おやぶん」か? いかにもポピュラーな夏の水草なのだが、写真といえども、花の姿を見たこともなく想像したことすらなかった・・・

はずかしながら我輩、金魚はランチュウまで熱帯魚もグッピーからアロアナまで、凝って凝って凝りまくった。このところ、いや、すでに15年近くの浮き草稼業すなわち外国専門旅人家業(たびにんかぎょう)という仕事柄、日本国自宅での熱帯魚飼育中断を余儀なくされたが、今尚一通り通じている、すなわち玄人のつもりである。

また、一段落したらやろうか?始めようか?そろそろ熱帯魚飼育中毒熱中症症候群?すなわち若かりし頃からの持病が再発しかかっている今日この頃・・・

*いや、冬場の保温の為の電気代高いからやばいか?
*再度やるなら最低90センチ以上、できたら2メーターくらいの水槽で始めようか?
*そうなると水槽は特注か?
*魚は?何から始めようか?
*何もかも、いっそ東ジャワか?あるいは、バリ島でやるか・・・

この趣味、いずれにしても熱帯地域で楽しむ方が、全ての経費が安くつく!
そしたら水草手がけようか!いろいろ育ててみたい・・・

などなど思っていたらUS氏がこの写真を送ってきた。

たかだかホテイアオイが、しかし、侮ってはいけないと気が付いた。

こんな綺麗な花をつけるとは知らなかった。

ここまでの花が咲くには、それなりの手入れと管理と愛情がなくては育たない。あらためてUS氏夫妻の「なか睦まじき」姿が目に浮かぶ。

そんな我が友、模範的同級生夫婦に敬意を表しつつ、お送り頂いた「花」をネタに、久しぶりに記事にした。

投稿後雑感:
この花の写真見ていると、
「車寅次郎じゃあるめえし、もうとしだから、いい加減に浮き草稼業から足洗わんかい!」
とか何とか、いよいよ・・・
友人が我輩に忠告提言をしてきたのか?
とも思ったりする・・・

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J.R.Hicks 経済史の理論

2005-08-13 15:08:42 | 趣味の話&本と雑学メモ

ふるい本を引っ張り出すので、お許し頂きたい。

経済学者の大御所 J.R.ヒックス 教授の「名著」のひとつである。

経済史の理論

講談社

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本当は、原書がいい。
『あまぞんドットこむ』ほどの巨大書店に、なんと本書の原書を検索するに、出てこない。何故か!取り扱わない理由など、難しく考える必要はない。要するに読もうとする読者があまりにも少数。つまり、非常に売れない本だからである。
わかりよい英語、ずいぶん綺麗な英語、ヒックス教授の流麗な英文は、たとえ歴史や経済学の苦手な読者であろうとも、本著にて「ヒックス教授の云いたい事」が解かる筈。です!
類人猿に毛の生えた程度(毛が抜けた程度?と表現すべきか)の原始人社会では、何も経済学を通して人間(類人猿)社会を判断する必要はなかった。しかし人間が群れ集まり集団ができた時から、人間と人間のあいだに「格差」が発生しはじめる。つまり、集団のボスとその配下との係わり合いの中からは、おのずと格差が発生してくる。文明の発生は富の発生が源であるからして、いよいよこの頃から「経済」が芽生え、経済学的角度から診れる歴史が発生する。
つまり、まずは村社会をつくり、ボス村社会と村社会が闘争し抗争し、闘争に打ち勝つため工夫した結果が文明の黎明か?その頃から、人間社会の発展の歴史が始まる。が、さらにさらに、近隣部族集団間の富の奪い合いは続く。集積された富のエネルギーで文明が発生。さらに文明の曙は文化の発展に継続され、考える葦である人間はさらに哲学と宗教を発生させ、異なる宗教を基盤とした権力闘争は生まれる。近代的富の蓄積から近代国家の成立、国家間の相克、民族意識の黎明、東西冷戦、延々に長大に後世へ繋がる。もって現代の我々が知る『歴史』がある。
この歴史の流れを、経済学者の切り口をもって違った角度から論ぜられているから、この著書が面白い。
さらに面白いのは、経済のグローバル化についての解釈である。
ヒックス教授曰く、
グローバリゼーションの潮流は、決して最近になって発生したものではない。利権を伴う交流がすでに始まっていたギリシャローマ時代からすでに発生しているものである。別段、近年になって、特に経済学の分からない三流社会学者の間で声を大きくしてグローバル化に反対するまでもなく、経済が拡大し近隣地域から世界にまたがる交流が発展する限り、それに伴う文化の交流は発生し、社会のグローバル化は当然の帰結であるなどなどという「くだり」が面白い。
この著書の基本軸は、ヨーロッパの文化と歴史の発展をベース土台として、英国人理論経済学者の切り口で論ぜられるが、アジアと日本についても触れられている。
ヒックス教授曰く、「日本は、特殊な民族であり国家である!」と、、、
尚、日本経済については、教授はさらに別の著書で語られている。
おっとどっこい!たいへん失礼。
なに、本書の筋書き解説は、必要ない。
読後感(読後観か?)を、締めくくる。
本書は、歴史学者の主たる歴史解析方法、すなわち社会科学として捉えられる歴史を、ヒックス教授は(当然ながら)経済学者として、経済学の切り口から分析し、解明する。すべからく歴史の胎動を経済発展とそれに伴う競争理論の「一点」にて視点を集中し、分析される。理論経済学の手法で世界の歴史を解剖するから、解かりよい。
問と答えが明快になる。
明快だから、読んでいて気分心身ともに壮快になる。

英国での(英文原書)初版は、(たぶん)1963年。
新保博先生(当時・神戸大学経済学部教授)の翻訳本の初版が昭和45年(1965年)。
我輩が本書を購入した時、すでに12刷目。昭和59年10月である。
購入当初、張りきって読始めたが、情けないかな、わずか30ページでGive-Upした。
何故、中途でほうり投げたか?
当時を思い起こせば、本書の内容に没頭する時間的余裕と感性が欠如していたのであろう。
そして(訳本に)再度挑戦し、ようやく読了した。すでに12年前になろうか?
幸運にめぐまれ4年前、シンガポールの古本屋で見つけ入手した英文原書、遅ればせながら読了した。

経済学として歴史を捉えた本著、その読後感想、あらためて回想するに、しかと思い当たる点がある。
それは、
経済学者たるは、競馬の予想屋でもなく占い師の類でもない。したがって何も、経済予測し、言当てる義務も責任もない。近未来、および将来の経済動向を予測する学者は、学者とは言わない。単なるビジネスマンか、あるいは政治屋的評論家である。

しかし本書は、
すでに本書が著述された時代、すなわち1960年代初頭において、Hicks教授はマルクス経済学の学説崩壊を完璧なまでに見通されておられる。加えて当時、すでに東西ベルリンの壁の崩壊を予測されていた。ベルリンの壁の崩壊、ならびにソ連の経済崩壊、マルクス経済学の不成立な理論をすでに喝破されており、全てが見事に的中しているではないか。

歴史を分析し省みるに、まず、イデオロギー論議はまったく不必要!
経済学者の目を通してみた世界史(西洋史)感が、如何に冷静で、かつ的確な歴史分析ができるのか!
上述のワンセンテンスが、我輩の純粋なる感想である。本書は、経済学の基礎のウンチクはおろか、社会科学のなんたるちあ?が全く分からなくても読破できる「常識の書」であると思う。

と云いつつも、我輩が尊敬し傾倒する西尾幹二先生的歴史観は大いに感ずるものあり。西尾先生の歴史認識と見解は、我が国の歴史観に於ける最重要論点と考える。しかし当記事とは組み合わせ不可能であり、すなわち、この場では経済学者の云々を語る。今後、この視点でのわが国の歴史観は、あらためて取り上げたい。

最終章あたりでのヒックス教授の理論展開では、「21世紀の見通し」まで立てられているではないか。振り返ればおおよそ半世紀以前に「構築」された見通してある。
しつこく云っておくが、それは予測ではない。
その内容たるや、なんと、経済学者から見た(理想とする)21世紀とは、古代のギリシャ時代にまで立ち返るが如く、世界にちらばる国家という体制は、その枠をさらに縮小単純にして、「都市国家」的なカタチになるであろう。と、予測をされているのだ。
この表現みごと、含蓄がある。
そう!その通り。
確実にその通りだ!と、我輩は思うのである。
なぜなら、今、今日、この時間に、生き証人としての自分が、こうして21世紀の今日を生きているからである。
生きていて、見ている、自分も実行している。
すなわち、
良し悪し善悪は別として、世界の多様な地域に跨って人間が行き交い、超複数の人間による多種多様雑多な要求と夢を満たす世の中に、今、もうすでになっているではないか。すでに、そんな時代がすでに到来しているではないか!これぞ、Hicks教授のおっしゃる「都市国家的」多様な小集団の現れであると解釈し、もって、Hicks先生の21世紀の予測論と判断する。選択肢の多い、複雑な人間社会の精神的満足と経済的欲求を如何に満たすか!一括りの単純社会ではなくなる!と、明言されているのである。事実、21世紀はそうなりつつある。

21世紀に生きる諸君よ、、、
まず目を見開き、もう一度切り口を吟味し、且つ角度を変え、列強植民地政策主義に翻弄された近世の歴史を再診断させる。決して恨み辛みの余韻を引きずってはならず、さりとて歴史は黙視できない。
以って、けっして歴史は繰り返さない!と、、、
いよいよ読み終えた読者に対し、熟慮せねばならないテーマを与える。いや、テーマを持って将来を模索し、凛と見据えよ!
と、ヒックス教授が示唆されておられる!と我輩は解釈する。

ばかばかしいが、少し話しをマスメディアに転じてみれば、
東アジア3国の、歴史認識云々、靖国参拝云々、戦後60年の節目に云々、終戦の年に云々、、、
何と、くどい!
もう、すでにわかりきった事を言うでない。
マスコミよ、政治家よ、評論家よ、学者よ、教師よ、企業人よ、サラリーマン労働者諸君よ、右翼も左翼も、ばあちゃん母ちゃんネエチャンをひっくるめた日本国民よ、もう少し大人になって将来を冷静に見つめ、先を考たマクロな議論をしてくれないか!
今日、すでに、平和呆け弁当を食べ残した重箱の隅をつつき合ってるときじゃない!新しいもっと中身の美味い弁当を、皆の工夫で作らねばならない時が来ているではないか。

上述の報道、報道に伴う三流評論家による議論、もう、馬鹿馬鹿し過ぎて話にもならない。なかんずく、郵政問題反対論者の言い訳へ理屈なんて子供だましにもならない。永田町ボケというか、世間知らずというか、これほどまでにも馬鹿馬鹿しさが自覚できないのであるから、理解不可能!不思議な世界だ。
だからマスコミの幹部連中よ!いい加減にしてくれ!
画面に出て来るTY各局、分単位にて同じものの繰り返し。
すなわち、同じ絵、同じセリフの繰り返し、時間つぶしはもう結構だ、しっかりと真面目にやってくれ、
きたる衆議院選挙よ、早く終われ!
小泉自民党圧勝の内に一刻も早く選挙を終えてほしい。
我々日本国民には、この先長い長い21世紀の国民の為に、やらなきゃならん事はたくさんある。しかししかし、一番に手を下さねばならないのが郵政民営化。何にもまして、これが将来の改革の第一歩である。早い話(誰も云いたがらないが)、族議員所有の郵貯と名の付くタンス預金340兆を、いち早くタンスから引っ張り出し民間に放出し、国民の幸福と若者の将来の為に有効活用できるよう制度を改めるのが郵政民営化の本質のはず。重要な論点にかすみを張りめぐらし目隠しし、国民に見えないようにしてきたのは反対論者であり、340兆を食い物にしてきた族議員だ。問題をすり替えるな!
さあ、野党はどうか?
単に40万人の郵便局労働組合員の選挙票が欲しいだけであるから、問題は単純である、簡単に見えてくる。単純馬鹿とは、すなわち野党の意味。

思い起こさねばならない「諺(ことわざ)」がある。

『風がふけば桶屋が儲かる・・・』

今、340兆の大風をふかさねばならん。
「外部経済」という理論経済学用語がある。
上記の熟語の意味するところ、要するに、たとえば今日、誰かが10万円使うとする。その10万円は一ヶ月も経たないうちに周り巡って20~30人の手に渡り、金は天下を駆け巡る。10万円が30人の手元を過ぎれば、結果として、10万X30倍=300万の現金が経済社会を動いた事になる。といった意味である。もって、正しく340兆を回り巡らせば、2~3年の間に2~30倍の経済効果がでてくる。これが解からないか!
これをもって真っ当な経済活動という。
しかし、
340兆をもって不透明な使い方をすると具合が悪い。
倒れ掛かったJA?腐りきった道路公団?垂れ流しで残高のなくなった年金基金の補填?族議員の懐などにに入ってしまえば、外部経済効果の本来的効率は、激減する。
もう一度云う。340兆を、世に放出せねばならない!
桶屋が儲かるどころか日本国中に好景気の大津波が押し寄せる。
すなわち、乗算的経済効果による好景気の津波である。
この津波は、人も殺さず家屋も壊滅しない「幸せ」を撒き散らすTSUNAMIである。
断っておくが、「KAMIKAZE」ではない。

この幸せのTSUNAMIを妨害している馬鹿がいる。
おおばかはマスコミ、ますこみがけしからん。
マスコミが(一部マスコミは除く)ここまで「ばかの集団」であるとは思ってもみなかった。あいもかわらず、重箱のスミしか見えないのか!
好きだなあ~重箱の隅がよ・・・

話し戻る。
英語の得意な方、是非原書を紐解かれたい。英文学の書とは違った意味で、英語の読書が楽しめる。格調ある経済学者の著した端正で美しく正しい英語が堪能できるはず、、、。
ゆえに、もう一度、英文タイトルを以下に紹介する。

"A theory of Economic History" by John R. Hicks

なんと、久しぶりに記事を書こうと思い、思ったところが書きかけの未完成記事(当記事)の記事完成に労を費やしてしまった。

実は、書こうと思った記事は、郵政民営化問題である。
一両日に書き、投稿するので是非ご覧頂きたい。
と思っていたが、ついでに書いてしまった。論点の核心からはいささか逃避しているが、核心との間合いは、逆に、ご理解ご納得いただけると思う。
そして、
書きかけの記事を、今こうして書き上げてみれば、さほど関連性がないでもない。

話し戻る、
しっかりと、歴史を通して「ものごと」見定めたい・・・
この著書、偏りがない。
社会科学の粋である。