<添付画像> ジミー&ミシー
(撮影月日)1999年7月
(撮影場所)ハンガリー・ブダペスト市内
右に「ジミー」で左は「ミシー」、、、
小説上のニックネームであるけれども、事実、ダンサーとしての彼らの芸名なのだ。
想えば、ちょうどこの頃、左手ミシーの横顔は、中央ヨーロッパ諸国の町々に溢れていた。
なぜか?
そのわけは?
そう、吾輩の知らぬ間に「ヨーロッパ・ペプシコーラ」の宣伝モデルになっていて、ヨーロッパ大陸中の巷に彼の横顔のポスター張り巡らされていたのだ。 彼の鋭角的な横顔と黒髪が、ドイツ・オーストリーは勿論のことチェコ・ハンガリーや、少し跨いでイベリヤ半島、戻ってバルカン半島の諸地域に特有なコズモポリタン的多様人種の複合体国家に住んでいる欧羅巴大衆に、ポピュラー且つ美しく判断される面持ちだった訳だ。
知り過ぎるほどにミシーを良く知っている吾輩は、別段取り立ててミシーが美男なのかどうか等々、考えたこともなかった。が、さすがにちょっとした小劇場のスクリーン並みの大きさに拡大されたペプシコーラの看板には、迫力を感じたものだ。(そう、今となっては街中に掲げられたその看板を撮影し損ねたのが悔やまれる) いまだに我が瞼に焼き付いているけれど、真夏の太陽を体いっぱいに浴びながら、空を見上げて水しぶきを浴びる(?否!ペプシコーラの飛沫か?)彼の横顔は、いかにも中央ヨーロッパ風にして爽やかな男臭さを漂わせていたぞ…
そうなのだ、ミシーのツラの蘊蓄をあらためて申しあぐるならば、ミシーは中央ヨーロッパ的醤油顔なのであり、エセ男爵基準に於いて測ればそれなりのダンディズム漂うか。
二人とも、トーマス青木の長編小説『黄昏のポジョニ・ウッチャ』(Pozsonyi utca)の登場人物だ。 以下、『黄昏のポジョニ・ウッチャ』第一巻から、第一章(20p~21p)の初記述の場面を以下に切り抜いておこう。 この章はさわりだけ、且つジミーの事しか触れていないけれど、どうぞお眼通し下さい。 (・・続く・・・)
------------------------------------------------------------------
以下、黄昏のポジョニ・ウッチャ、抜粋・・ (20~)
「行ってきたよ、ブダペストとアムステルダムに、、、二度ほどね。それで僕が直接話し決めたんだ。ホラこれ、連中の写真だ。東京に同じような店があるが、奴らはアメリカ人のダンサーだ。東京よりイイよ。やっぱり、ヨーロッパだよな、品があるよ、ムードが違う。深みがあるよな、何だかアメリカ野郎は情緒が薄っぺらいね、、、東欧の連中はまるで雰囲気が違うよ」
などと、四十過ぎのオーナーが、自己満足の頂点に達し、ひとりでしゃべりまくっていた。新装開店一ヶ月前の薄暗いナイトクラブの店の中での一方的な会話であった。
昼間のナイトクラブは、サマにならない事は良く知っている。それは、夜のトバリにチラつくネオンの光の中、厚化粧して着飾った夜の女が闊歩し、その上、心地よいミュージックが流れていないと様にならない。今、それらが皆無の開店前のクラブの中は、それは殺風景であった。これほどになさけない無用な空き箱は、他に比較できる対象がないのである。三ヶ月も閉店していた店にもかかわらず、空調を止めている店内には空気がどよみ、長年しみ付いた、安物ウイスキーとタバコの臭いに加え、からだ中にアルコールのまわりきったヨッパライの吐き出す吐息と、お店のホステスの夜の体臭が、いまだに臭ってくるようだった。
話がすすむなか、興にのったオーナーは、わざわざ皆に芸人の写真を見せる。
(オー、なかなかイイじゃないか!)
おれはまた独りごとをいっている。
なかなかのマッチョマンが六人、それぞれのポーズをとっている。いちおう、プロのカメラマンが撮った写真のようだった。しかしその写真は何となく、数十年前に撮った写真のように感じられるほどクオリティーがかんばしくない。その右端には、シュワルツネッガー風の金髪男もいた。さすが東欧の雰囲気である。その真ん中にいるのが「ジミー」。彼は、若い頃のポールマッカートニーを金髪にしたような、どことなく子供っぽい感じがした。彼がしかし、このメンバーのリーダーだそうだ。ジミーが三十二才。日本なら、とっくに引退している年頃である。
(いや、しかし若ぶりだ)
おれはしばらくその写真に見入った。そして、思った。写真を見ただけでは、いや、実物を見たとしても、かいもくヨーロッパ人の年齢は読めない。他に写って入る連中の年齢は二十五前後との事。なんだか急に彼らに興味がわいてくる。もう暫くすれば、いやがうえにでもこの連中に接して仕事をしなければならない。おもしろくなるな~。でも、ヨーロッパの芸人についてはおれはまったく未知数である。その上、全くその世界の存在すら意識していなかったのだ。おれは今まで、日本とアメリカしか知らずにいた。いや、正確にはそれ以外の国の存在そのものに、まるで意識がなかった。
おれは本気でこの仕事を引き受ける事にした。とにかく、この連中と付き合うチャンスが訪れた事が唯一の喜びだった。しかし、不安があった。ただ一つオーナーに質問があった。それを直ぐ聞いた。
「オレ、英語できないんです、が、それで、ほんとうに仕事になるんですか」
「オレで、間に合いますか?」
全く基本的な質問である。普通の大人としては、かなりねぼけた質問である。
「お~、大丈夫よ、彼らは英語しゃべらんからさ、マコト君さ」
「それホント、心配ない」と、あっさりとオーナーがいう。
(ええ?どういう意味だ、さっぱりおれには解らん?)ここに至ってオーナーは、なんだか、おれが理解できる範疇を飛び出した、わけの解らない事を言い始めたのである。
(外国人は、みんな英語をしゃべるのではないか?)
この会話の時点で、おれの基本知識として、
(世界中の人間が互いに話す言葉には、英語と日本語しかないはずだ)
(それ以外の言葉ないことはなかろう、いやあるかもしれない)
といった程度の、小学校の子供でもわかるやつはわかっているような事、それすら分かっていなかった。
「それって、オーナーが自分で、ハンガリーへ旅行して、探したんすか?」
「いやいやいや、マコト君、あのさ、僕のフレンドよ、向うにいる、ね」
「なに、彼がさ、面倒みてくれとるんよ、だから心配ないんよ、ま、なあ、、、」
結局、ヨーロッパに別の友人がいる、というのである。いいかえれば、オーナーになり代わって、 全ての段取りを取ってくれる人物がいる、という事になる。しかもおれの想像では、その人物が日本人であるという事だ。
(なんだこのオーナーは、いかにも自分が段取りとった?まことしやかな話は、ただの虚勢じゃないか)
<以上、長編小説『黄昏のポジョニ・ウッチャ』第一巻より引用・・>
(撮影月日)1999年7月
(撮影場所)ハンガリー・ブダペスト市内
右に「ジミー」で左は「ミシー」、、、
小説上のニックネームであるけれども、事実、ダンサーとしての彼らの芸名なのだ。
想えば、ちょうどこの頃、左手ミシーの横顔は、中央ヨーロッパ諸国の町々に溢れていた。
なぜか?
そのわけは?
そう、吾輩の知らぬ間に「ヨーロッパ・ペプシコーラ」の宣伝モデルになっていて、ヨーロッパ大陸中の巷に彼の横顔のポスター張り巡らされていたのだ。 彼の鋭角的な横顔と黒髪が、ドイツ・オーストリーは勿論のことチェコ・ハンガリーや、少し跨いでイベリヤ半島、戻ってバルカン半島の諸地域に特有なコズモポリタン的多様人種の複合体国家に住んでいる欧羅巴大衆に、ポピュラー且つ美しく判断される面持ちだった訳だ。
知り過ぎるほどにミシーを良く知っている吾輩は、別段取り立ててミシーが美男なのかどうか等々、考えたこともなかった。が、さすがにちょっとした小劇場のスクリーン並みの大きさに拡大されたペプシコーラの看板には、迫力を感じたものだ。(そう、今となっては街中に掲げられたその看板を撮影し損ねたのが悔やまれる) いまだに我が瞼に焼き付いているけれど、真夏の太陽を体いっぱいに浴びながら、空を見上げて水しぶきを浴びる(?否!ペプシコーラの飛沫か?)彼の横顔は、いかにも中央ヨーロッパ風にして爽やかな男臭さを漂わせていたぞ…
そうなのだ、ミシーのツラの蘊蓄をあらためて申しあぐるならば、ミシーは中央ヨーロッパ的醤油顔なのであり、エセ男爵基準に於いて測ればそれなりのダンディズム漂うか。
二人とも、トーマス青木の長編小説『黄昏のポジョニ・ウッチャ』(Pozsonyi utca)の登場人物だ。 以下、『黄昏のポジョニ・ウッチャ』第一巻から、第一章(20p~21p)の初記述の場面を以下に切り抜いておこう。 この章はさわりだけ、且つジミーの事しか触れていないけれど、どうぞお眼通し下さい。 (・・続く・・・)
------------------------------------------------------------------
黄昏のポジョニ・ウッチャトーマス青木リトル・ガリヴァー社このアイテムの詳細を見る |
以下、黄昏のポジョニ・ウッチャ、抜粋・・ (20~)
「行ってきたよ、ブダペストとアムステルダムに、、、二度ほどね。それで僕が直接話し決めたんだ。ホラこれ、連中の写真だ。東京に同じような店があるが、奴らはアメリカ人のダンサーだ。東京よりイイよ。やっぱり、ヨーロッパだよな、品があるよ、ムードが違う。深みがあるよな、何だかアメリカ野郎は情緒が薄っぺらいね、、、東欧の連中はまるで雰囲気が違うよ」
などと、四十過ぎのオーナーが、自己満足の頂点に達し、ひとりでしゃべりまくっていた。新装開店一ヶ月前の薄暗いナイトクラブの店の中での一方的な会話であった。
昼間のナイトクラブは、サマにならない事は良く知っている。それは、夜のトバリにチラつくネオンの光の中、厚化粧して着飾った夜の女が闊歩し、その上、心地よいミュージックが流れていないと様にならない。今、それらが皆無の開店前のクラブの中は、それは殺風景であった。これほどになさけない無用な空き箱は、他に比較できる対象がないのである。三ヶ月も閉店していた店にもかかわらず、空調を止めている店内には空気がどよみ、長年しみ付いた、安物ウイスキーとタバコの臭いに加え、からだ中にアルコールのまわりきったヨッパライの吐き出す吐息と、お店のホステスの夜の体臭が、いまだに臭ってくるようだった。
話がすすむなか、興にのったオーナーは、わざわざ皆に芸人の写真を見せる。
(オー、なかなかイイじゃないか!)
おれはまた独りごとをいっている。
なかなかのマッチョマンが六人、それぞれのポーズをとっている。いちおう、プロのカメラマンが撮った写真のようだった。しかしその写真は何となく、数十年前に撮った写真のように感じられるほどクオリティーがかんばしくない。その右端には、シュワルツネッガー風の金髪男もいた。さすが東欧の雰囲気である。その真ん中にいるのが「ジミー」。彼は、若い頃のポールマッカートニーを金髪にしたような、どことなく子供っぽい感じがした。彼がしかし、このメンバーのリーダーだそうだ。ジミーが三十二才。日本なら、とっくに引退している年頃である。
(いや、しかし若ぶりだ)
おれはしばらくその写真に見入った。そして、思った。写真を見ただけでは、いや、実物を見たとしても、かいもくヨーロッパ人の年齢は読めない。他に写って入る連中の年齢は二十五前後との事。なんだか急に彼らに興味がわいてくる。もう暫くすれば、いやがうえにでもこの連中に接して仕事をしなければならない。おもしろくなるな~。でも、ヨーロッパの芸人についてはおれはまったく未知数である。その上、全くその世界の存在すら意識していなかったのだ。おれは今まで、日本とアメリカしか知らずにいた。いや、正確にはそれ以外の国の存在そのものに、まるで意識がなかった。
おれは本気でこの仕事を引き受ける事にした。とにかく、この連中と付き合うチャンスが訪れた事が唯一の喜びだった。しかし、不安があった。ただ一つオーナーに質問があった。それを直ぐ聞いた。
「オレ、英語できないんです、が、それで、ほんとうに仕事になるんですか」
「オレで、間に合いますか?」
全く基本的な質問である。普通の大人としては、かなりねぼけた質問である。
「お~、大丈夫よ、彼らは英語しゃべらんからさ、マコト君さ」
「それホント、心配ない」と、あっさりとオーナーがいう。
(ええ?どういう意味だ、さっぱりおれには解らん?)ここに至ってオーナーは、なんだか、おれが理解できる範疇を飛び出した、わけの解らない事を言い始めたのである。
(外国人は、みんな英語をしゃべるのではないか?)
この会話の時点で、おれの基本知識として、
(世界中の人間が互いに話す言葉には、英語と日本語しかないはずだ)
(それ以外の言葉ないことはなかろう、いやあるかもしれない)
といった程度の、小学校の子供でもわかるやつはわかっているような事、それすら分かっていなかった。
「それって、オーナーが自分で、ハンガリーへ旅行して、探したんすか?」
「いやいやいや、マコト君、あのさ、僕のフレンドよ、向うにいる、ね」
「なに、彼がさ、面倒みてくれとるんよ、だから心配ないんよ、ま、なあ、、、」
結局、ヨーロッパに別の友人がいる、というのである。いいかえれば、オーナーになり代わって、 全ての段取りを取ってくれる人物がいる、という事になる。しかもおれの想像では、その人物が日本人であるという事だ。
(なんだこのオーナーは、いかにも自分が段取りとった?まことしやかな話は、ただの虚勢じゃないか)
<以上、長編小説『黄昏のポジョニ・ウッチャ』第一巻より引用・・>