Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

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気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

本照寺への道順(三井ガーデンホテル正面入り口より、、、、)

2019-08-28 10:24:46 | 教養・文化・歴史

広島市中区の本照寺山門前より、向って右手に建てられている石碑(案内標)です。

 
 東京軍事裁判インド代表判事
 パール博士筆慰霊碑  在當山


            と
              石碑に彫り込まれています。

 場所は、本照寺
 住所は、(〒730‐0041)広島県広島市中区小町7番24号
 連絡先は、
       Tel: 082-241-5758 寺院専用電話
      または、   
       080-3877-0822( 当ブログ管理者(トーマス青木)
      Fax: 082-241-5799 寺院専用ファックス

 
 位置は、広島市内の満々中。
 JR広島駅南口から(タクシーにて)約10分。(朝夕のラッシュアワー時になると約20分)
 そのほか目標(ランドマーク)、三井ガーデンホテル広島から、平和大通りを挟んで、ちょうど南側対面に位置し、ホテル正面入口より徒歩5~7分あれば、本照寺山門に到着します。 




 <『三井ガーデンホテル広島』正面入り口>
 (公式ホームページ『三井ガーデンホテル広島』へは、こちらから入れます・・・)

 三井ガーデンホテル(ホテル建物の南側に在る)のおしゃれな看板を見上げました。

 さあ、三井ガーデンホテル広島から、パール博士碑の在る本照寺へ(徒歩にて)向ってみましょう。 
 



 <三井ガーデンホテル広島>

 平和大通りを横切って、南側側道辺りから、三井ガーデンホテル広島の全容を撮影しました。

 なんともシンプルで美しい建物です。




 <ホテル正面玄関車寄せ>

 一旦、ホテル正面に立ち戻ってご案内。

 あらためて、広島市中区小町の本照寺に向け、出発します。





 <ホテル正面玄関より平和大通方面(南側)を望む>

 車寄せ辺りから、ホテルの正面南側を眺めた風景にて。
 平和大通り建造時に敷設されたグリーンベルトは、この初夏の時期は特に美しく、、、




 <ホテル正面付近、平和大通り緑帯グリーンベルト>

  造園のプロによって美しく整えられ、維持管理されているグリーンベルトを横切ります。

  画像撮った時、見事な炎天下の快晴!
 (令和元年8月7日午前中の撮影に撮影したもの)

 グリーンベルトは、早朝ならば市民の憩いの場? 昼間から夜中にかけては車通行量が多すぎて、ちょいと無理か?

 はたまたいつも混み合っている平和大通りを運転するドライバーの気分を和らげる働きがあるか? 




 <平和大通り北側歩道部分>三井ガーデンホテル正面より平和大通りを横切って北側グリーンベルト>


 広島市によるグリーンベルトの維持管理は経費と人手がかかります。

 かなりの税金を使って、よく整備しています。くわえてきょう日、企業や市民団体を(良い意味で)巻き込んで、グリーンベルトの保全を推進しているようです。 




 <平和大通り北側歩道>(広島三井ガーデンホテル正面入り口の対面付近、比治山方面南側に向いてシャッターを切る)

 広島の『平和大通り』は、通称(地元の人たちからは)『100メーター道路』と呼ばれていて、被爆後焼け野原になった広島市の都市再建を計画した時、大火災からの延焼を防ぐ目的で緩衝地帯を設けるため、市の中心部を東西に横切る大通りを造る計画をした、とのことです。その道路の路幅が(おおよそ)100メーターにされた事から、通称『100メーター道路』と称されています。
 まさに、100年先を見越した素晴らしい都市計画だったといえます。(被爆後の広島都市計画について、あらためて投稿したいと思います・・・)




 <三井ガーデンホテルの四差路南側から、対角線上に『クリスタルビル』(ホテルより西側)を望む>

 平和大通りが敷かれて約70数年も経過。したがってグリーンベルト地帯の樹木の歴史も同じく70年に亘って成長の歴史を重ね、今やほとんどの樹木は大木にまで成長を遂げている。
 こうして、少し距離を置いて各樹木を観れば、灰燼から立ち上がった『復興広島市』の生きた歴史の数ページが窺えます。
 



 <平和大通り沿い南側の道路に、『本照寺』あり>


 ホテルの位置する場所からは、南対面にあたります。

 道路を一本南に入った通りに、『本照寺正門』があります。
 そう、
 平和大通りグリーンベルト側道を、一つ南に下りますと、その辺りから進行方向左手前方に『本照寺本堂の屋根が見えてきます。

 
 

 <本照寺境内の北側にある歩道>

 この道路は、本照寺北側の歩道です。画像は、境内脇の壁を右手に見て、東側方向(山門方向)に向け、シャッターを切っています。
 この位置から徒歩30秒以内にて、山門に到着します。


 以上、

 三井ガーデンホテル広島正門入口付近から(撮影なしに)ゆっくりと歩いて約7分、(平和大通りの信号待ちの時間を含めても10分以内)本照寺山門(正面入口)に到着します。


     <投稿:トーマス青木>



 <追伸>:
 昼間であれば、山門は解放されており、(現在のところ)ご自由に『在本照寺パール博士碑』の参詣見学を行って頂けます。
 尚、団体様(約5名以上)のご訪問ご見学は、事前のご連絡を取って下さるようお勧めします。



 下記、
 関連記事のご案内です。

  前編『大亜細悲願の碑(1)』へ、(こちらから戻れます・・・

  続編『大亜細悲願の碑(2)』へ、(こちらから入れます・・・

  総括編『パール博士碑と広島市中区本照寺(3)』へ、 (こちらから入れます・・・
 

パール博士碑と広島市中区本照寺、、、

2019-08-21 17:11:00 | 教養・文化・歴史

「添付画像」本照寺の本堂(令和元年8月上旬、撮影)、、、


 毎年8月5日になると、広島市中区小町本照寺にて盂蘭盆施餓鬼会の為、早朝からお参りに行く。当山(本照寺)には少なくとも年間4回の行事あり、本堂入り口の斜め前に位置するパール博士関連の石碑はその度に礼拝し、その存在には慣れ親しんでいるにもかかわらずこの数年間、境内に入る度に、気になって仕方のない「とある事柄」を思い出す。



 それはトーマス青木自身のこと、あまりにも中途半端過ぎ(卑怯にも)忘れてしまおうとした事案を握ったままにしていることを思い出すからストレスが溜り続けていたのだ。
 先週末、とある方に相談し、アドバイスを頂き、ようやく前に進む意欲がわいてきました。

 たいへんありがとうございます。

 そして、本日(令和元年8月21日)、関連ブログ記事を更新できました。



    ~~~~~~ 以下、<本日本文> ~~~~~~

 あれから5年以上にもなるか、、、
 連載投稿の執筆が途切れてしまったままになっている『大亜細亜悲願の碑(1)~(2)』副題(東京軍事裁判判事パール博士のこと)につき、当ブログに記事掲載したのは下記の通り、2013年10月3日付にて第2巻目を記事掲載してのち5年11ヶ月間も放り投げたまま中断しているのだから、みっともなさ過ぎる。

  前編『大亜細悲願の碑(1)』へ、こちらから戻れます・・・

  続編『大亜細悲願の碑(2)』へ、こちらから入れます・・・

 放り投げていた理由は?
 言い訳にも出来ない、かなり大きな「中断の理由」がニつあった。

 第一に、投稿始めた年2013年の12月、我が実弟、急死する。以後数年間に亘り若干寺関係との問題あって我が人生の道すがら、予想外の多忙を極めたこと。

 第二に、投稿の為、聞き取り調査をお願いしていた当時(2013年10月)の住職様が、急に(3年前?に)お亡くなりになってしまい、トーマスには十分な聞き取りが叶わず、作業中断していたこと。


 さて、
 こうして放り投げていた「本照寺における『パール博士碑』の建立されている経緯」に関し、トーマス青木自身と本照寺の関係から判明しいている基本情報と、この度聞取った断片新情報をかき集めてみれば、極僅か、以下のようになる。

 本照寺境内に於けるパール博士石碑建立のきっかけは如何か。戦前(1945年以前)の独立国家だった満州国と、英国に対して独立を求めていたインドとの、政治運動風架け橋(橋渡し)的な絆を携えておられたキーパーソンが(今となっては先々代となられる)本照寺住職であったとの事が、石碑建立の理由である。と思われる。

 1945年夏、先の大戦に於いて敗戦の憂き目に遭遇し、満州を追われた当時の日本人は全員引揚者として敗戦日本本土に帰還(引上げの途中、命を落した人々、大多数あり)。当時宗派組織大本山(本部)より、満州国布教を拝命される。(確か、昭和10年に)大陸に渡られた先々代住職が帰還され(昭和21年)配属された勤務先が、何と被爆後の広島本照寺(昭和23年)であったとのこと。戦後も、インド独立運動家と先々代住職との交流は継続し、そのアジトが広島市内の本照寺本堂であったと聞き及ぶ。

 ともあれ先々代住職の存在が大きな要因にて、戦後1957年に建立されたパール博士碑は、日本の敗戦と広島の原子爆弾による被災、パール博士の理念と『東京裁判』のあれこれ、先々代住職の満州国におけるご活躍、等々の絆と絆を手繰り寄せて今日、本照寺境内にある。
 お亡くなりになった先代住職の口述解説のみでは、あまりにも受け取る側トーマス自身の基礎知識が脆弱過ぎた。そのため、基礎知識拡充のため、数冊の書籍を紹介下さり、それを読み進めながら時間をかけてご解説下さる予定だった、と思える。

 となれば、当時簡単に考えていた満州国の国際的背景に関しては、未知なことが多く、5年経った現在、そこはかとなく満数国関連の歴史を知りたく、未知の知識習得に欲が出てしまう。
 広大なアジア諸国(戦前は独立していなかったからアジア地域)とヨーロッパ列強に米国と中国とロシアの政治的立ち位置の比較をフィールドワーク(書籍資料上にて)してみたく、もちろん日本敗戦後の東京軍事裁判の判決等にも、さらに一歩踏み込んで資料整理し、パール博士の周辺(インド独立運動など)にも踏み込んで資料調査し、研究したく思います。

 当ブログの投稿シリーズ記事としては、現時点での結論を得るまでもなく、近未来への発展的思考に転換したく先駆けとして位置させ、この投稿(No.-3)の手仕舞をさせて頂きます。

 〈追伸〉パール博士碑関連記事の続編を発表ます。その内容としては、中区の広島三井ガーデンホテルから中区小町本照寺迄約5分間の道のりを、写真画像で紹介させて頂きます。

おはようございます Good morning, on Wed, Aug. 21st, 2019.

2019-08-21 08:50:30 | つれずれ紀行

おはようございます。

本日も佳き一日をお過ごしください。


  Good morning and,

Have a nice day,,,



添付画像:定期クルーズ航行中、宮島第三桟橋に寄港直前の『銀河』
撮影日時:令和元年7月4日
撮影場所:広島県廿日市市宮島町
天 候: 梅雨入り特有の天候、超曇天の朝
     お昼前には太陽が顔を出しました、、、
撮影機材: FUJIFILM X10
 Lenz: FUJINON ASPHELICAL LENS Super EBC f=7.1 - 28.4mm 1:2.0 - 2.8


  船上会議あって、貴婦人を想わせる『銀河』に乗船、宮島までのクルージングを楽しんだのは、かれこれ11年前になるか?
 もっと若くて(新しくて)大型で、現代的なスタイルのクルージング船は多々あるけれども、この優雅な老貴婦人こそトーマス青木の大好きな船なのです。
 瀬戸内海クルーズに今なお現役就航中の『銀河』、ご案内はこちらから入れます。