Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

絵画鑑賞記「第55回光陽展・広島展」(8)

2007-06-29 12:05:10 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:第55回光陽会出展作品、『タンゴ』より・・


<作品の紹介>

 作品番号: 72
 作者氏名: 山 本 泰 子 (会員)
 作品題名: 『タンゴ』
 受賞名: 損保ジャパン美術財団奨励賞
 住  所: 広  島



 題して、「タンゴ」・・・

 作品名をタンゴと題されているからには、白単色にて描かれている1対の物体は、たぶんタンゴを踊る、ペアーの男女であろう。

 鮮やかにしてシックな「ブルー」は、女性ダンサーの衣裳か。 背景は、限りなく黒に近い「濃紺」にて、抽象画風に描かれている作風のなか、色彩配置のバランスはみごとである。
 もって無駄な表現を一切削除し、且つ本来情熱的色彩である赤色や橙色を排除し、本来は冷静沈着をイメージさせる青と白と紺色を使用しつつも、激しく小気味よいリズムのタンゴの舞踊表現は完璧であり、もって相対的絵画構図バランス、みごとである。

 しかし、タンゴと題されたこの絵画から漂う画家の感性に、多大なる疑問点あり、、、。

 一組の男女により成り立つ社交ダンスジャンルとしての「タンゴ舞踊」表現には、不良中年エセ男爵の個人的感性として「眉を顰めたくなるほどに」下種な雰囲気漂って異臭を撒き散らし、本作品を鑑賞すればするほどに、ある意味、目を伏せ且つ鼻をつまみたくなる。

 さて、
 数ある社交ダンスジャンルの中、ラテン系統ダンスの一つ「タンゴ」を、先ずは音楽として理解しておきたい。 先ずは音楽あって、その後その曲のリズムとメロディーの醸し出す雰囲気を、身体で表現したくなった時に初めて、人間によるダンスが発生したのではないのか。
 社交ダンスとしてのタンゴ発祥の地は、たぶんアルゼンチンに違いなく、その根幹を成すタンゴのリズムは、17世紀頃大航海時代、コロンブスの新大陸発見を発端に、怒涛の如く新大陸中南米になだれ込んだヨーロッパ人からもたらされたもの。 すなわち、遥かイベリア半島スペインなりポルトガルから?彼の地アルゼンチンに移り住んだスペイン人ポルトガル人及びジプシーの血を引く欧羅巴人からもたらされたジプシー音楽から派生し、南米アルゼンチンの気候風土原住民の風俗習慣文化とあいまって花開いた「新しいラテン系ミュージック」のはず。 かのバンドネオン特有の音色と歯切れ良きリズムこそ、まずは音楽としてのタンゴを生み出す切っ掛けとなったはず。 さらには欧羅巴大陸に逆輸出され、20世紀初頭の欧羅巴上流社会には、一躍タンゴブームなるもの巻き起こり、フルオーケストラによる複数ヴァイオリンの澄み切った高音域にて表現される「コンチネンタルタンゴ」なるもの、大流行した。
 欧羅巴大陸に再上陸したタンゴミュージックは、ここに至って最盛期を迎え、社交ダンスとしてのタンゴは、南米大陸独特のファナティックな情熱や湿気を振り切り、格調高きヨーロッパ上流社会風に洗練され且つ乾燥した歯切れの良さを表現するコンチネンタルタンゴの至宝『青空』に代表されるか、、、。

 しかし、近年再びアルゼンチンタンゴの持つ泥臭さなり土臭い雰囲気がもてはやされるようになったのは確かである。
 そんななか、我国社交ダンスブームの狂い咲きは、我輩の尺度をあてはめると、お洒落のつもりで社交ダンスを学習する中高年の存在は、いかにも滑稽にてバカバカしくも面白おかしく幼児的幼稚さを感じつつ、あらためて議論非難中傷するエネルギーは持ち合わせていない。

 どうであろう? いつも思い切った突飛な表現をなさる作者は、音楽としてのタンゴに対し十分な造詣をお持ちであろうか? とまではいかなくとも、一通り伝統的なコンチネンタルタンゴの領域に好奇心を持たれておられるか。 すくなくともアルゼンチンタンゴのみならずコンチネンタルタンゴのジャンルに於いて、ある一定のレベルまで音楽鑑賞されておられるのであろうか?
 ならば、タンゴリズムによる、ダンスのご経験は?
 タンゴを踊ったご経験は、如何か?(ご自身にて十二分に)踊り捲くられたご経験をお持ちであろうか? 実際のダンスを踊った体験皆無と仮定し、ならば鑑賞は如何か? 国内はもとより外国の世界的レベル社交ダンス競技会を観察なさっておられるであろうか?
 タンゴをテーマに絵画表現なさる以上、上述の「音楽&ダンス」として、ある一定レベルのご経験無ければ、音楽的「音」や、ダンス的「動き」を、絵画表現に置き換えられるは、これを無為無策無謀といっても言い過ぎではない。

 しかし百歩譲って、上述のご経験は作者に於かれては未知の世界、且つ不十分なり。と、仮定しよう。 であるならば、TV等にて垣間見た男女一対のタンゴダンスを舞う姿から、かくなる作品創作に挑まれたとしておこう。
 そもそも男女ペアーによる社交ダンスの中、男女の情熱的愛情表現甚だしきは近年のラテン系ダンスの多くに見受けられる「悪しき傾向」にて、なかでもタンゴダンスの表現方法は、先ずは男女ダンサーの衣裳からして露出度高く「前時代的ストリップ劇場三流ダンサー」を上回る卑猥さあり。 もって最近際立って性行為的描写に近い舞踊表現は、多用される。 特に、ダンス競技コンクールのために、センス乏しき知恵を縛り無理強いし創作した「特殊な振り付け」は、審査員の注目を惹かんがため、、、。 このようなプロセスをもっての昨今の振り付け表現は、何故か、ますます下種卑猥なものになっていくような気がしてならない。 これは時代の潮流、今流の常識である!と、付け焼刃的民主主義のマジョリティーを代表するシロモノなり。と、マジョリティーから断言されれば、それまでか、、、。 それでも我輩は、上述の今流卑猥的尺度に物申したく、自論を曲げる気持ち、これ、一切ない。
 どうやらこの作者、そのあたりの「卑猥さの極み」を切り取り、タンゴと題して作品創作にあたられたもの。と、勝手に判断する。
 くわえて、ダンスの経験なき御仁、タンゴを踊ったご経験なき若き女性と、勝手に想像する。
 願わくば、手前の踊り手の背中から腰もと、さらには大腿あたりの体の線を、もっと男性的に描いてほしかった。 手前背中の人物が男性ならば、もっと骨盤らしき想像できる部分を、小さく引き締め描いて欲しかった。さらには、丸い頭をもった対面の人物を女性と想定するならば、舞っている時の両足共、瞬間的に中に浮くことあれども、足の両膝を同時に折り曲げるポーズは、タンゴを踊っていては不可能な体形であり、少なくとも両足を伸ばしているか、少なくとも片足(この絵画の場合は向って左足首)はシャキッと伸ばし、しっかりと男女のペアーの体重バランス崩さず、タンゴ音曲のリズムを崩さず、情熱的なタンゴミュージックを舞っている姿、鑑賞者に「見えるよう、解釈できるよう」、描いて欲しかった。

 「・・・?」

 そう、卑猥な表現は避けたい一心で書き連ねてきたけれど、此処でどうしても一言申上げておく!

 あまり好まないけれど、文学や絵画における芸術作品表現方法にて、エロティシズムは理解できる。 場合により表現方法により、エロティシズム表現をもちいるは、一服の清涼剤的感覚在り、ある程度受け入れ理解するは可能である。
しかし、タンゴダンスから、エロティシズムを感じ且つ性行為の表現をモロに臭わすは、いかにも洒落っ気なく、センス及び清涼感は皆無である。 エログロを通り越し、ナンセンスを通り越し、怒りを覚える。
何故に怒りか? すなわち、これではまるで犬や猫、はたまた獣の世界の生殖行動的表現である。 加えて、巷の人間の「立位そのもの」に見え、性行為的表現を以って「タンゴダンス」を解釈し絵画表現するは、天意無垢な幼児の心得から生じた素直な表現の失態失策として許されるはずはなく、絵画芸術世界を愚弄する暴挙としか、言いようがない。

  類い稀なる感性と、天性の色彩感覚、そんな山本泰子さんだからこそ、求めたくなる自己流儀的「お願いの世界」あり。 加えて「作品題目」にして『タンゴ』となったからこそその求める要求は厳しいものになってしまったこと、お許しいただきたい、、、。


・続く・・

<付記>:
 A)連載中、前回記事はこちらから入れます・・
 B)「光陽会」公式ホームページは、こちらから・・

絵画鑑賞記「第55回光陽展・広島展」(7)

2007-06-24 23:45:15 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:第55回光陽会出展作品、『淡響』より・・



<作品の紹介>

 作品番号: 60
 作者氏名: 花 岡 寿 一 (会員)
 作品題名: 『淡響』
 住  所: 広  島


 何故か、管楽器フルートと少女のイメージは、ほどよく溶け込み混ざり合うから不思議である。 

 作品名は、題して「淡い響き」すなわち、『淡響』・・・

 発音すれば、tan-kyo,,,
          ですね?・・・

 日本語の音韻として美事に洗練された響き、、、。 さすがに花岡寿一さん的音韻にて研ぎ澄まされた感性、すでに氏の日常からは常識的に簡単に、いとも自然の成り行きの如く「作品名・淡響」と題されているから愉快である。

 少女の手元には、昨年の赤ワインの入ったグラスから、管楽器のフルートに持ち換えられている、、、。

 管楽器の中でも小型楽器のフルートは、トランペットやトロンボーンの男性的音質とは全く異なり、フルート独特の穏やかにして甘い音色。 たおやかにして穏やかなフルートの音色イメージと純白の少女のイメージのカクテル。 少女とフルートの良き相性を意図されて創作された作者の「想い」は、穏やかにしてたおやかな音曲を連想させる淡い響きとなって、絵画作品の鑑賞者に語りかけてくる。
 
 ムム、さすがなり・・・

 昨年は、フルーティーなワインの香りを、絵画から表現された。
以って今年は、淡いフルートの音色響く優雅にして落ち着きあるメロディーを、絵画から表現されているではないか。

 しかも、鑑賞者にとっては絵画から淡く鳴り響く旋律とリズム、ひいては楽譜の中の音符までも、我が瞼に観え伝わってくるからたまらない。

 画面左上方、おおよそ2時30分の方向から、春から初夏にかけての欧羅巴大陸特有の淡い午後の日差しは適度に室内に照射する。 フルートを持つ少女の手元と、さらには少女の肩から胸部に差し込み、画面手前のテーブルの一部を照らし出すから、穏やかな暖かさを感じさせる。 背景のブルーグリーン系の壁と画面手前のワインレッドとピンクの薔薇による色調混合、更に手前の青林檎、テーブルクロスのモザイク模様の組み合わさった総合的色彩バランスは、この少女の奏でるフルートの演奏曲目はおおよそ練習曲にて、誰にも理解しよい聞き易い「クラシック音楽」そのものを連想させ、作品の描かれたキャンバス全体から淡い響きとなって我輩の耳に届いてくる、、、。

 そう、艶やかで妖艶な雰囲気と見違うほどに、少女の周辺に「さんざめく黄金色的色調」をちりばめ配された昨年作品『ワインの香り』と異なり、本年作品はいかにもシックである。

 昨年作品に続き、この作品から発せられるは「成熟した女の色香」ではなく、男性独特の色気か、はたまた「粋」を通り越した「ダンディズム」漂う作品なり・・・

 かくして今年も花岡寿一さん作品から放たれるダンディズムとお洒落な感性に、あらためて敬意を表します、、、。


  <・続く・・>
(次回記事投稿済み!こちらから入れます!)

---- <付記> ------------------

A)連載中・前回投稿記事は、こちらから入れます・・・

B)花岡寿一さん昨年出展作品「ワインの香り」(こちらから入れます)を是非ご参照いただきたい!

C)「光陽会」公式ホームページは、こちらから・・

絵画鑑賞雑記「第55回光陽展・広島展」(6)

2007-06-22 20:45:30 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:広島県立美術館、第55回光陽展広島展会場にて、


 初めて訪れた昨年「第54回光陽展」から、既に気にとまっていた作家の絵画は、直ぐに見つかるから、それを看付けた自分自身の脳内構造はどうなっているのか? 不思議で仕方がない、、、。

 同行していた学友N君曰く、

   「ようやく解った!よく判った。 なるほど、君は企業人として絶対に出世しない、出世しようという意欲の湧き上がらない沸き起こらない典型的な脱?非サラリーマンタイプだ・・・」

 等と、あらぬ発言あり、、、。

 このような場所にて執るべきマナーの第一歩、先ずは静寂を重んじねばならぬ「格調高き光陽会」広島展の会場にて、K君特有の地声包み隠さず丸出し丸投げして(元々内緒話の出来ぬ男であって)大声出して(それとなく我輩に向け)語りかけてくる。 突然の場違い的発言に面食らった我輩なれども、K君の爆弾的発言に対して何ら返答のしようもない!
 この場合、「忍の一字」あるのみ!? はたまたこの場合、黙秘権行使あるのみ!? 加えてこちとら引け目ある。
 実のところ、当日展覧会場同行の由、我輩より選んでN君に声をかけた。 万障繰り合わせて同行してもらった相手(N君)に対し反駁し議論に及ぶは相手が悪すぎる。 彼とても、大企業で生き残りを賭け戦ってきた模範的「企業戦士の権化」の一人。 この場にて即刻この類いの議論戦わすは、こちら分が悪く、且つ相手が悪すぎる。 議論・討論・論戦を交わすは、相手在ってのものだねか。 されど、この場合、美的感覚及び感度にかかわる論戦については対象外にして、すでに議論に及ばず、逆に同行してもらったK君には、感謝の気持ちあるのみ・・・

 そう、
     会場に入ってから、わずか2~3分後のことである。

 座してフルートを吹いている少女の絵画を発見した。

 直ぐに判った。 花岡寿一さん作品であることを、、、。

花岡寿一さん昨年出展作品「ワインの香り」(こちらから入れます)を是非ご参照いただきたい!

 今年出展作品は、題して『淡響』(添付画像の左手)・・・

 先の記事にてすでに「お喋り」したかと思いますけれど、「売らずもがな!」的な販売目的の作品は、鑑賞者に解り良い絵画を(作者自ら)描かんとする。 そのため、画家の個性やアイデンティティーを包み隠して創作に取組む可能性あり。 しかし所属する画壇、例えば「光陽会」会員のための作品発表の場ともなれば、気合の入れ方が違ってくるとの事!
 「いきおい作家の自己主張及びアイデンティティーを堅持し髣髴させる作品になってしまう!」
と、仰せになったは悠々さんご紹介のKMさんである。 よく理解できる。 かく仰せの「KMさん」こそ、被爆樹木の「プラタナス」をテーマに作品を発表し続けておられるのである。

 さて、画像右手の作品も、作風に記憶あり・・・

 よく観れば、作者は、やはり山本泰子さん、、、。

 今年の作品は『タンゴ』・・・
    な、何と、「損保ジャパン美術財団奨励賞」を受賞されているではないか!

 昨年に引き続き、今年も、同じアイデンティティーにもとずく作風、強烈なる「オーラ」を発散してやまぬ作品に出会える。 オーラに引きずり込まれる我輩は感動と興奮の坩堝に嵌り込んでしまうから、愉快でたまらなくなる、、、。 かくして懐かしく且つ一年ぶり、良く知りぬいた知人か、はたまたた旧友との再会を喜ぶ如くの心境になる。

 本日はイントロ記事にて、花岡さん作品も、山本さん作品も、それぞれ個別に記事を書きます・・・


   <・続く・・


(光陽展・広島展回想記シリーズ「前回投稿記事」は、こちらから入れます)

絵画鑑賞雑記「第55回光陽展・広島展」(5):「光陰」

2007-06-21 23:55:15 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:第55回光陽展・広島展作品より「光陰」


番 号: 101
資 格: 会 員
氏 名: 木上英子
題 名: 『光陰』
広島支部出展作品


 
 そもそも小説家たるべき本質心得の「第一歩」とは、
 大嘘をまことしやかにつきまくり、爪の垢にもならぬ「些細な事」を大袈裟に書き殴り、「あらぬ想像」をまくし立てつつ時に文学的美文且つ美辞麗句を書き連らね、「おおうそ」を然も(samo)ホンモノの事象の如く煙に巻きつつ読者の想像力を懐かせ掻き立てつつ、めくるめく幻想と創造の世界に陥れる技を駆使することなり。 おお嘘をホンモノの如く遣り繰りし創作せんがため、日夜葛藤し自己嫌悪に陥りつつも時々再々奮起し、書き続ける執念とエネルギーを維持し、以って体力と精神力を消耗する「生産性低き苦行」の連続なり。 と、某出版社の大将から、我輩の非小説家的優柔不断さ(正直さ加減か?)に対し、非難誹謗中傷!?はたまた檄文的気合?!を入れられつつ、拝聴したこと思い出す、、、。

 これを思い出すたびに、

 「ブログ書くのは、もうをやめようかぁ~・・・」

 等々、あらぬ妄想をめぐらしつつ試行錯誤的迷走するのであります。

 「・・・?」

 ハハ! 適確なるご指摘は仰せのとおり? 「なぜ、ブログ書くのはいけないのか!」ですって?

 ブログ書き続ける作業と、小説を書く作業の思考回路は全く以って異質だという事実。 はっきりと自覚症状なるもの認識できるのです。 すなわち、ブログ文章は、(私の場合に関してのみ)それが長かろうと短かろうとエッセイ乃至評論文章作成の連続であり、評論文章を書く作業なるものは一切合財ことごとく、創造的文章作成作業に対比してみれば二律背反的作業に他ならないからです。 

 まずは上述のこと、本日記事をご一読いただく大前提として読者諸兄姉にお伝えしておきたく思います。

 (要は、評論文書いてばかりいたら、肝心の小説はかけないということ、自分自身の肝に銘じている次第なり!!!)

            -------------------------------------

さて本日の本論、「絵画鑑賞雑記」に入ります。


 恥ずかしながら残念ながら、はっきり申上げ、基本的には、絵画としての「この作品」に何の興味も湧かない擁かない、、、。

 といえば、本心から出た「本音」であり、且つ、大嘘ならずとも「小嘘」になるか、、、。

 「・・・!?」

 何故か?

 実はこのところ、「宮島探訪記」なるものを、舎弟ブログ「Cafe&Magazine旅遊亭」にて連載しており、そのような経緯あって、ついつい宮島的絵画に我が眼をそらしつつも、チラリズム風?斜視的まなこを注いだのであります。

 この作品「光陰」!

 どうやら厳島神社祭事の一環(舞楽(bugaku)をイメージされて描かれたと思われます。 舞楽から連想するは、さらにさらに数ある宮島の各種行事に奏でられる雅楽の音曲に合わせ、厳島神社の海に浮かぶ神社内舞台で繰り広げられる「伝統的舞踊」のひとこまに違いない、、、。

 宮島探訪を始めた二重人格者エセ男爵の別称<ア「執事のトーマス」君による昨今の熱心な「宮島研究」の努力に鑑み、第55回広島支部出展作品『光陰』を記事にし、以って「宮島の伝統文化」に敬意を表し奉るものであります・・・

 その実、一度も「宮島の管弦際」を観察したことなく、今年は是非管弦祭なるもの見届けたく、この歳になるまで宮島的超有名祭事に参加しようと思ったことのない「日本の伝統文化」に目を向けようとせず、興味も好奇心も持てなく且つ持たなかった横着者且つけしからぬ日本人、こと、エセ男爵メ、、、。 夏のメチャ暑い湿気多き時期に、一般庶民大衆の集い騒ぐ場所付近には一切立ち入りたくなく、以って孤高の真似事を良しと決め付け、すなわち「出不精の典型」エセ男爵メをして、かくなる一般庶民大衆の集う場所に(今年こそは)イザ出向かんとの動機を与えてくださった、その引き金になった「この絵画」。 かくなる重要な決定の動機付けを抽出してくださった「作品」をご出展された木上英子氏に、あらためて敬意を表します。

 まずは、御礼申し上げます。

 「たいへんありがとうございます・・・」

 そして、今年の管弦際には是非とも参加し、かくなるご出展作品をあらためて思い浮かべ、我が瞼に再現したく存じます・・・


    <・続く・・


 (絵画鑑賞雑記の過去記事は、こちらから入れます・・・)


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<付記>:宮島・管弦際のこと・・


1)宮島 Miyajima 社団法人宮島観光協会にて、宮島の祭事、詳細参照可能。


2)管弦際のこと(上述HPより一部引用):
 古くから都では、池や河川に船を浮かべ、優雅な「管絃の遊び」をしておりました。厳島神社を造営した平清盛はこの風習を厳島神社に移し、遊びではなく神様をお慰めする神事として執り行うようになりました。従って河川でなく瀬戸の海を舞台に雄大に繰り広げられるダイナミックな平安絵巻を思わせる海に囲まれた宮島ならではの優雅な祭りとなりました。

 ※ 管絃とは三管(笛、笙、笳)、三鼓(太鼓、鞨鼓、鉦鼓)、三絃(和琴、琵琶、琴)を用いて合奏する音楽。

 平安時代の宮島は、島全体が神様とあがめられ、島内に人が住むことができなかった為、清盛公は厳島神社の姫神様がお乗りになる御座船を造り、舳先の左右に篝火を焚き、御鳳輦前の雪洞(ぼんぼり)や艫(とも)に上げた4個の高張提灯、二十数個の飾り提灯に明かりをともし、その灯火を暗い海に映しながら夕刻から深夜に掛けて瀬戸の海を渡っていきます。

 管絃祭の日時を旧暦の6月17日としたのは、海上の神事であるから潮の干満を考慮したからです。上げ潮の高い季節は旧暦の7月・8月頃ですがそのころは台風の季節に当たるためにこれをさけ、しかも大潮ということになると旧歴の6月になります。夕方日が傾く頃に出御して夜半に還御となると17日ということになり、このころは夜になってほぼ満月に近い月が昇り瀬戸の海を明るく照らします。絶好の条件が整うわけです。 (詳しくは「宮島管絃祭」へ、こちらから入れます・・・


3)『舞楽(ぶがく)』
 舞楽とは、「舞」を伴う古楽の総称で平清盛によって京の都から宮島に伝えられた舞楽は、その後800年の間、厳島神社で守り伝えられ、現在では大変貴重な文化遺産となっております。

 インド、中国、朝鮮半島を経て日本に入ってきたものですが、発祥の地インドはもとより中国、朝鮮半島にも現在は残っていません。
(詳しくは、こちらから入れます・・・)

絵画鑑賞雑記「第55回光陽展・広島展」(4)

2007-06-19 15:45:25 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:第55回光陽展広島展出展作品『プラタナスの風』
番 号: 45
資 格: 会 員
氏 名: 木村順子
題 名: 『プラタナスの風』
受賞名: 会員秀作賞
住 所: 広 島



 木村順子さんこと「Kさん」の作品は、昨年第54回出展作品を拝見した時すでに、記憶に留まって脳裡に焼き付き離れなかった「印象深い絵画」であったこと、何度も述べた。 もちろん、そのような作品であったからこそ『デジカメ画像』に記録しておいた訳も、前回記事に記した。

 印象として、
 A) 微細な違いある各種青色と全キャンバスを包み込む白色のバランスよく、
 B) ほのかな薄緑色と、やや枯葉にならんとする薄茶色は、上記色彩バランスに程よく溶け込み、キャンバス全体に広がる色調に違和感なく、
 C) これらの色彩の絶妙なバランスの好さは、
 D)『ブルー色調』の好きな我輩にとって一服の清涼感を漂わせて頂けるから気分爽快になった。

 しかし、感想文書きたくても書けなかった理由あり、以下、一年前を回想しながら思い着くままに書き連ねてみる。

 1) この絵画は一見したところ平面的に見えるけれど、そうでもない、
 2) 遠近感抜群にて、絵の中のほぼ中心に位置するところに、何か得体の知れぬ未確認物体の存在を感じ、
 3) その未確認物体の存在あればこそ、この絵画の深遠さを感じつつ、
 4) この絵画の秘める『深遠さ』を感じればこそ、鑑賞者に訴えているであろう『深遠さ』の意味するところが見えなくなって来て、
 5) 違った発想や異なる角度から観た場合、そのような裏側的判断をすれば、伝わってくるものは『不気味さ』すら内蔵され、
 6) 以って、結構難解な絵画であるか?

 ならば、一見して清涼感に満ち溢れた安易な解釈によって「直線的な感想文」は、書かない方が宜しいか?

 等々、当時の我輩の脳裡によぎった印象を、今此処で改めて吐露しておく。

 さて、
 今年も「Kさん作品」を観た。 実際にKさんともお会いできた。 Kさんから直接に、Kさんの絵画創作に対するアイデンティティーもお聞きできたこと、たいへん光栄の至りであります。

 なんと、昨年に続く今年の出展作品『プラタナスの風』の心象的イメージは、時代遡る事60数年前の「原爆投下」時点にあり。 原爆投下の爆心地からわずか2~3kmも離れていない至近距離に、天満小学校あり。 その小学校の校庭に植えられて、わずか10数年になる(資料によると昭和6年植樹とある)若いプラタナスの樹木あり。 被爆当時の広島に於いて、
 「向う100年間は草木も生えないであろう・・・」と、
揶揄されていたこと、あらためて思い出す。
 しかししかし、戦後まもなく復活した現在の広島は、今尚活きており、ほぼ直撃されたといってもおかしくない天満小学校校庭のプラタナスの樹は生き残り、樹齢70年を越える古木として、今も尚、四季折々に姿を変えつつこの世に生き続けている。

 そして、
 Kさん作品「プラタナスの風」は、上述「天満小学校」にて被爆し、今尚活きているプラタナスの樹木をイメージされて描き続けられている。と、お聞きした、、、。

 (ム、ム、・・・)

 上述云々、Kさんから直接お聞きした我輩、無言にて、唸った、、、。


 原爆投下からすでに60数年たった今、やたら被爆地広島をバックグラウンドにして平和都市宣言なり平和運動なり原水爆実験禁止運動なり、やたら『平和を商品化』して活動運動する『不逞の輩殻』多く、煩くて面倒。 逆に、広島の発展を妨げる行為多くて腹立たしく、且つ、如何ともしがたい昨今である。

 そんな中、Kさんにして凛として淡々と、「命の大切さ」と未来に繋がる「命の尊さ」を後世と子弟に伝えんがため、一枚のキャンバスに「Kさんの思いの丈」をぶつけられておられるに違いない、と観る。 昨年第54回作品に続き、本年第55回作品も「同じテーマ」を堅持され、さらに「同じテーマ」を深遠に追求される芸術家の姿勢に感服する。

 少しずつ「作品の意味するところ」、解りかけてきた、、、。

 プラタナスの葉っぱに取り囲まれた画面周囲、遠近感ある手前の位置は、どうやら「プラタナスの樹木」の幹の内部に思われて仕方ない。 樹木の根幹である「幹」から、樹木の外側を見ているような気がしてならない。 樹木の外側には「未来」なるもの見えてきて仕方ない。 絵画の中の未来とは、遠近法的に描かれている中心部の遠い位置にあるか、、、。 たぶん、遠近法的手法によって描かれた遠方は、予測できない未来を描いておられるはず。 見えるようで見えない未来は、絵画の中心にあり、手前の外郭は、たぶん被爆して今尚生き残って活き続けているプラタナスの古木の「虚・洞(uro)」に違いない。 伝え聞くところ、被爆当時の高熱爆風で裂けた樹木の幹は、今も尚大きな洞(うろ)となって残り、痛々しくも被爆植物の今の有体をまざまざと、我々人間に訴え且つ見せ付けている。

 原爆の被害、その悲惨さを伝えるは常套手段にて聞き飽きた。 むごたらしさを絵画にて表現するは見飽きた。 醜くく惨たらしい焼け爛れた死体や火傷を負った半死半生の人間を描いた地獄絵巻は、一度観ればもう二度と観たくない。 こんなものを何百回何千回観ても見厭きない、もっと観てみたい、毎日鑑賞したい人間なんて存在しっこない。
 それよりも、Kさんの「アイデンティティー」をもって、歴史を記し表わし現在と将来に伝承する手法は、より伝え易い「正当真っ当なる手段」であり、この手法こそ美術芸術の持つ真骨頂か、、、。

 ありがとうございます! Kさんに、敬意!敬愛!憧憬!尊敬!あるいは崇拝!をすべて包括し、感謝致します。



PS:一度、天満小学校のプラタナス、見学に行ってまいります、、、。 

<参考資料>: 「天満小学校のプラタナス」、現在の姿の画像は、こちらから入れます。


     <・続く・・

絵画鑑賞記「第55回光陽展・広島展」(3)

2007-06-16 12:25:15 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:54回光陽展広島展・「プラタナスの風」
   (昨年度:平成18年6月開催出展作品より・・・)


<作品の紹介>

 作品番号: 49
 作者氏名: 木 村 順 子 (会員)
 作品題名: 『プラタナスの風』
 住  所:   広  島


 
 思いがけずも計らずも、記事更新に手間取った、、、。

 実は1週間以上も掛けて、昨年開催された第54回光陽展広島展開催中に撮影した画像の記録を懸命になって探していたけれど、今朝になってようやく「ファイルの在処」見つかった。

 「何を探していたのか! ですって?」

 ハイ、
 昨年度出展されていた作品の中、気になって仕方ない作品あれど、如何しても記事にできなかった「好きな絵画」あり、その作品こそ何と、悠々さんからのご紹介を頂いて先日お会いしたKさんの作品! 題して「プラタナスの風」・・・

 「ようやく見つかりました! 削除しておらず、しっかりとファイルされていたので本日あらためて『昨年度作品』の掲載をさせていただきたい!」

 合わせて、「第55回光陽会広島展」連載記事の滞っていた訳、この一枚の画像の見つからなかったことによる「言い訳」をしつつ、本日あらためて「申し開き」を申しておきたい。

 いや、その、先日記事のコメント欄にて、我輩直接Kさんから「お聞きした内容」は悠々さんにより事前に語られているから、いささか具合が悪い。 我輩からは、もうそれ以上に何も語る必要はないぞ! 等々、いささかガキ的心なる立腹状態であったけれど、それはそれで大人気ないではないか。等と、逆に、自らを諌め悟る時間にもなった。

 先ずは昨年出展されたKさん作品をとくとご覧頂きたい。

 昨年の第一印象として、いかにもブルーの配合良く、我輩の好きな色調であり、先ずは自宅の玄関先に展示しておきたい。
 実際この大きさの絵画を我家玄関先に於いてしては展示不可。 その様な小さな玄関先に於いてはあまりにも大きな作品であり、これはあくまでも公共施設の玄関先をイメージすべし! 展示場所はともあれ、毎朝こういう絵画を眺めて入外出できれば好いか!
 「日々、最高の幸せ気分にて一日過ごせるか?!」
等々、まったく理屈ぬきに好きな色調にて纏められた「好きなタイプ」の絵画であったこと、あらためて思い出す。

 「・・・?」

 「え? では何故に記事にしなかったのか!? ですって?・・・」

 我輩にとって、その答えは単純且つ複雑なものであった。

 単純には、作者の作画意図なるもの、全く見当付かなかったのであります。
 加えて、昨年の奢侈的?否、斜視的感覚にて、勝手に動く前頭葉と指先に任せた感想文書くと何を書き出すやら解ったのもではない。 結果、作者の意図から全く外れた世界でのタワゴト戯言を書き連ねる傲慢不届き千万且つ不謹慎極まりない感想文になる恐れあり、結果、頭を冷やした経緯あり、、、。

 1年経過した後、ようやく第55回光陽会展覧会場にてご本人様よりお聞きしたのですけれど、これ、「具象絵画」ではないとは承知。
 でもって、

 「抽象画ですか?」

 とお聞きすれば、そうでもない。

 どうやら、

 『心象絵画』なる作画方法であるとの事、、、。
 正確には、我輩の聞き間違いか?あるいは我輩の記憶間違いなる「当て字」かも?

 さて、そろそろ1600文字になる。 このところ、可能な限り長文を差し控える心がけにて、キーボードから指を離そう。 意識せずに放っておけば、いやがうえにでも文章長くなるから、、、。

 とにかく次回は「本年度Kさん作品」をご紹介し、以っていよいよエセ男爵的絵画鑑賞感想を連ねてみたい、、、。 



 <・続く・・


 * 先日投稿済み関連記事は、こちらから入れます・・


光陽会「第55回光陽展・広島展」(その-2);「広島展最終日のこと」(2/2)

2007-06-05 15:55:25 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:広島県立美術館
撮影月日:平成19年6月3日(午後4時15分頃)
撮影場所:広島県立美術館交差点付近
天 候:梅雨入り前・やや曇天




 我輩、初めてなり・・・・


 「・・・?」


 ほんとうに初めて、広島県立美術館の「金看板」!   

                         ・・・仰ぎ看ました!!!




 そして、今年で第50回記念となったは、、、

                        ・・・・「光陽会・広島展」なるものなり・・・


 しかと

    紳士に?
          真摯に!
                 かつ、きわめてダンディーに!




        「エセ男爵ブログ」に記事掲載したく・・・



 今年の第55回光陽展「超怒素人の蘊蓄録」なるもの!? 気合入れて「連載記事」書き進めたく、もって「第55回記念光陽展・広島展」の朱色看板と、「広島県立美術館」の金看板を合わせ撮った画像、掲載する・・・ 



   <・続く・・


      -----------------------------------

* 前回掲載記事は、こちらから入れます・・・


光陽会「第55回光陽展・広島展」(その-2);「広島展最終日のこと」(1/2)

2007-06-04 11:45:15 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:広島県立美術館
撮影月日:平成19年6月3日(午後4時15分頃)
撮影場所:広島県立美術館交差点付近
天 候:梅雨入り前・やや曇天


 自分自身で約束した通り、第55回記念「光陽展」広島展会場に出向いたのは、昨日午後4時過ぎであった。

 閉館時間は午後5時であるから、出展作品鑑賞についやせる時間は30分程度か。 十分ではないけれど、既に6月1日の午前中に約1時間半かけて見学しているから、昨日は「気になる作品」の再チェックに出向いた次第です。

 加えて、悠々さんからご紹介いただいていた「KMさん」に是非お会いしたく、何が何でも県立美術館に馳せ参じなければならない「自分自身の大きな目的」なるもの持って美術館に出向いたのです。

 少し、失敗した・・・

 もう1時間早く、現場に到着すべきであった・・・

 なぜならば、ご紹介頂いていた「KMさん」なる人物、事前の想像をはるかに超越した「すてきな女性」であり、もっと時間を掛けてお話をお聞きしなければならなかったと今になって反省している、、、。

 最初は受付前のロビーソファーにて談話開始。引き続き「KMさんご出展作品」のことをお伺いし始めたところ、会場の中に移動しつつ彼女作品の前に立ち、ご自身にて今回作品をご紹介頂く。 KMさん出展作品を前にして、ご本人様から直接に「創作意図」を拝聴した・・・

 我輩感動し、感激しつつKM氏の絵画創作にあたるアイデンティティーを拝聴、密かに感動する!・・・

 そんな時、KM氏作品を前にして、突然に思い浮かんだ、、、。

 それは、昨年出展されていた「KM作品」の事、、、。

 昨年作品の展示されていた位置場所、ことごとく我が脳裡に浮かび上がったのです。

 同じ画家の作風は不動にして変わらず。 異なる作品に於いても、その作者の特定可能となるから不思議、すなわち、同一人物によって創作された作品を通して、その人物独自のアイデンティティーは満ち溢れオーラを発散させており、昨年作品と今年の作品は異なるものなれど、なぜか同じ作者の作品だという事、推定できるからおもしろく且つ不思議である・・・

 そして、KMさんの昨年作品は、気になって仕方のない作品なれど、どうしても我が自己流論評を書き下ろせず、記事にしなかった経緯あり、、、。 しかし今年は、必ずやKMさん作品のご紹介を致したく、合わせて「昨年作品の画像」も掲載し、感想雑感に及びたい・・・

 いやぁ~・・・

 何と申しましょうか、同じ「光陽会」メンバーさんによる美術展を、2年に跨り鑑賞するは、言葉で表現し尽せぬ「醍醐味」在るを、初めて痛感した次第でして、こうなったら何が何でも気合を入れて展覧会鑑賞(干渉か?)雑感なるもの、昨年にもまして連載してみたい・・・

 そう、当記事添付画像は「広島県立美術館」・・・

 これ、昨年も、ほぼ同じ季節且つ同じ位置にて撮影しているけれど、天候・時間・わずかな撮影地点の誤差により、まったく異なる「雰囲気」をかもし出しているから面白い、、、。
 
 〆て、
 本日、読者諸兄姉に於かれましては是非、昨年記事「広島県立美術館」の画像(こちらから入れます・・・)をお開き頂き、これまた比較していただきたい・・・


 <・続く・・>

         (続編投稿済み、こちらから入れます・・


光陽会「第55回・光陽展」(その-1)広島展・鑑賞雑感・・

2007-06-02 15:15:25 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:第55回光陽展広島展;悠々さんことT氏受賞作品

 
 第55回光陽展鑑賞感想のこと、昨年の第54回広島展に引き続き、「美術鑑賞感想雑感」の連載始めたい、、、。

 ならばさっそく、未だ目の覚めやらぬ不肖エセ男爵特有的低血圧風朦朧的思考の中、焦点定まらず手元不如意にて「したためたる駄文」により、今朝一番にて「ご報告文章」作成。 Eメールにて取り急ぎ悠々さん宛お送りした「メール本文」を引用掲載し、光陽展報告記事連載のイントロダクション(introduction)に、すなわち、第55回光陽展鑑賞感想録シリーズ連載の「序文」としたい・・・


    <・続く・・>


 <第55回光陽展の前回(5月30日)掲載記事は、こちらから入れます・・>

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A)(以下、Eメール本文より転載)


 Tさま(悠々さんのこと)

 おはようございます。

 昨日(6月1日)、美術展に行ってまいりました。

 中学高校同期の友人(’Mr. Dandy N’君のこと)を誘い合わせ、午前10時に県立美術館で合流。 さっそくご紹介頂いたKJ様のお名前を受付で申上げたところ、昨日は会場にはご不在。 受付ご担当の女性、ご親切にも、わざわざご自宅へ電話連絡されておられたようです。

 ちょうどその時、光陽会広島支部のIC支部長さまは会場にご到着。 さっそく名刺交換させていただき、悠々さまのことお伝えし、そしてお礼を申上げ、幸いにもご挨拶叶いました。

 約一時間、広島展の鑑賞を終えたのち再び受付を通りご挨拶して会場を引き上げる折、受付の女性のお一人から声をかけられ、KJさまの(昨日の)連絡状況をお教え頂いた次第です。なんだか昨日は、KJさまには別途アポイントあり、既にご自宅にて来客あり手を離せなく外出不可能とのこと。地方都市の広島、いくら小さな街といえども、電話一本かかって突然に、県立美術館まで出向いていただくなど途方もない仕業であります。 ご自宅迄お電話を架けて頂いただけでも、既に大恐縮、、、。 結局昨日は直接ご挨拶できなかったのですけれども、最終日の日曜日には必ず会場にお見えとのこと。 私はもう一度(別の友人とともに)光陽展見学する旨受付の方にお伝えし、あらためてご挨拶したい旨お伝えして、会場を後にしました。

 さて、本日本論、悠々さま作品のこと、

 昨年作品にもまして、ますます調和のとれた安堵感的感覚のもの、漂ってきました。

 加えて安堵感とはまた別格別次元にして、キャンバスから読み取れる躍動感ある奥入瀬の流れはますます冴え渡り、清らかな夏の清水合流して流れ下る自然的動きは見事でした。
 周囲の森林や川面に繁茂する植物類など、いかにも夏の感覚伝わってくる、、、。これまた活き活きとした夏場の佇まい、ヒシヒシと感じ取れました。

 一言、見事でした。

 だからこそ、
        残念なことに、
 せっかくお許しを得て撮影した「悠々さん作品」の画像の色彩色調の再表現はいっそう難しく、私自身にとって、悠々さん作品のブログ掲載に及ぶを躊躇させ、迷わせしめる原因となりました。あれだけ最深の気遣い注意はらって館内照明施されているにもかかわらず、どうも悠々さん作品展示の場所に於いて(肉眼で鑑賞するにはまったく問題はないけれど)、イザ写真撮影となると、かくなる不様な結果になった次第でして、もう一度日曜日に再チャレンジするつもりでいます。

 また、
 展示作品の中には、昨年拝見した作者の(異なる)作品等多々あり、作品に出会った瞬間から、作者の「特定可能」なるもの幾つかありました。いや、解っていはいるものの、やはり絵の世界も「作者の個性」出てくること、あらためて実感できました。以って懐かしく、やはり同じ光陽会展の鑑賞を昨年に続き2回参加できることの意義と価値、あらためて認識した次第です。
 悠々さま、あらためて御礼申し上げます。

 光陽会広島展のすばらしい出展作品に出会えたこと、悠々さんに感謝です。
 本当にありがとうございます。

 また明日、広島県立美術館に行ってきます。

 そして鑑賞感想のこと、あらためてご報告いたします。


 (悠々さん宛、Eメール転載・完・・)

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B)付録:


<添付画像-2>:第55回光陽展・広島展会場風景




『第55回光陽展・広島展』

(開催期間): ’07/ 5.29(火)~6.3(日)

(開催時間): AM9:00~PM5:00(土曜日は19時迄)

(開催場所): 広島県立美術館県民ギャラリー
     (広島市中区上幟町2-22 TEL:082-221-6246)

(主催): 光 陽 会

(後援): 広島県教育委員会・広島市教育委員会・財団法人広島国際文化財団・NHK広島放送局・中国新聞社・中国放送・広島テレビ・広島ホームテレビ・テレビ新広島・広島エフエム放送 




C)付録-2

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