<添付画像>映画『あなたへ』(公式ホームページより)
正直言って、この映画は観たくなかった。
でも観た。
観て、たいへんよかった。
一回と半分、つまり同じ日に2回入場して1.5回鑑賞しました。(2回目は疲れて、もちろん納得して、途中で抜け出しました……)
数ある高倉健さん映画の中でも(私感にて)クオリティーの高い作品だった。鑑賞し終え、まことに安心感を覚えた。
かくいう比較の対象あり。
それは5~6年前に観た健さん映画のこと。 シナ大陸で撮影した凡作中の超愚作『単騎千里を行く』と比べるからそう思うのだろうか。
(正式な「映画の原題」は『単騎、千里を走る。』です……)
あらためて言うけれど、
本当は、81歳にもなった健さんを映画館まで出向いてまで観たくなかった。
何故そういうか?
最近の健さんをTVコマーシャル画像で確認してからのち、
「これはもう映画画像で拝見するご尊顔ではないぞ?」
さらに、
「ここまで老化した健さんを、いまさら映画に引っ張り出すなんて、何とむごいことをするか……」
吾輩にして、開いた口がふさがらなかった。
そもそも年老いた健さんを引っ張り出した某食品会社のコマーシャルが問題だ。映画では見たこともない怒アップの大写し、最近やたらきめ細かに毛穴まで映さんばかりのデジタル放送電波と液晶テレビの組み合わせには怖いものあり、そんな状態(現代)でコマーシャルに出てくる(本来美しいはずの)健さんの横顔の『絵』は二度と観たくなくなるものだし、もともと弁舌爽やかでない健さんの下手な『セリフ』がさらに下手になりろれつが回らなくなった台詞(ありがとう、、、、ご、ざいま、、ス?&%*、、、)は聞きたくない。
そんなこんな思い始めたこの夏場。
久しぶりに健さん映画を上映するとのこと、
「老いた健さんはみたくない……」
と結論付けていた矢先、今度は、NHKの特別番組に出演していた『この映画(あなたへ)』の各種ロケシーンを観た。
NHK特番は、吾輩をしてようやく『年老いたケンさん』を受け入れ出来るよう仕向けた。
もちろん最初の3分間は拒否反応のみ。それがなんと10分間程度経ったら健さんの皺や腫れぼったい瞼に対する抵抗感はなくなったのだ。というよりむしろ、健さんの老いの詳細を考えないような意識が定着する。なんとなんと番組の終わるころ(気が付かぬ間に1時間以上経過していたけれど)、年老いたケンさんへの違和感がなくなっていた。
すなわち、
NHKのこの番組を見たことによって、自然に映画館に足を運んでしまった。
しかししかし、本音がある。
垣間見た健さんの手元、手の平(手の甲)から、はっきりと年齢が伺えた。改めておもった。男優女優関係なく、顔は化粧やドウランでもってある程度年齢は隠せる。が年齢を隠すという行為に関し、手の甲はそれができない。
(実際のところ鑑賞した映画の中でも健さんの手の甲は色つや?否!くすんだ色と隠せぬ皺共々不気味で怖く怖ろしく、映してほしくない見てはならないものが手の甲ですけれども、遺言を開けてたり退職願を封詰めするシーンは重要なシーン(カット)であって、瞬時にこの代役は不可能にて、今、こうして文字に書き下ろすのは気が引けるほどに、なんともごまかせぬ年齢相応の老いを感じた。(見たくない人も、あらためてみてほしい……)
「そうなんだ。みんな自分の手を見てみろ!手の甲から『老い』が始まるのだ……」ということ、あらためておもった。
それで?
「映画でみたケンさんの全体像は如何?」
そう、
アップでは、
やはり私自身として、ぎりぎり耐えた。
遠目で見れば、
若かりし頃のケンさんを思い出させた。
立ち姿を背後から撮影したショット。十数年前を髣髴させる『立ち居振る舞い』と『佇まい』は高倉健でなくては表現できないもの、美しいものを垣間見た。
それは健さん独特の立ち姿、、、。
いつもの頭髪は短めで小気味よく、襟足の長い首筋からややなで肩にして肩幅の広さは美しく、引き締まった腰高の下半身から真っ直ぐに伸びる長い脚はバランスよく、カメラを背後から向けたアングルにより、すなわち『男の背中』は履歴をあらわし際立たせ、映画俳優として天下一品だ。
歩く時の独特の足の出し方運び方、両肩の揺れ方、揺れ具合。シャイな雰囲気を醸し出す健さん的な首の曲がり方。今も尚、現役俳優として、柔軟体操継続され且つ微細な食事調整により健康管理されているとのこと。すなわち体重を整えたり、演技に支障を致さないよう足腰を鍛えておられるようだけれども、私自身映画画面の中で見抜いた。歩く姿は(厳しく観察していて若かりし頃から比べれば)残念ながら若干、与太っておられる。けれども81歳として考えればとんでもない常識をはるかに超えた美しき若き状態にて、やはり大したものだ。姿勢も足取りも、決して齢(よわい)80を超えた状況ではなく、今尚50代後半の元気健康な男性か。
概して主観私観であるが、カメラが捉える健さんは、
後姿からのが35%、
斜め横からの45%、
正面(ななめを含む)は20%以下か?
これが正しい高倉健の立ち姿を表現する撮影方法なのだ。
こんな健さんを称して、今流の形容詞『イケメン男』というか?
違う!!!!!
とんでもない。
イケメンなんて不格好で女々しい言葉は、無くしてしまえ。マス塵使用禁止にして、直ちに死語にせよ。
すなわち、これが『男前(おとこまえ)』というもの。『ハンサム』というもの。『美男子』というもの。つまり老いて尚も『二枚目俳優』そのものなのだ。
更に、
別のカメラワーク目線に迫りたい。
いかにもロケーション撮影を生かした、一連の遠距離撮影が美しく素敵だった。
遠景風景の撮影が見事。
映画始まって直ちに、転勤していった新しい勤務先(富山刑務所)に就く健さん。無機質な刑務所はすなわち、高く頑丈な塀の突っ立った檻の中にあって、いちいち開錠施錠を繰り返しながら主演高倉健さんが進む通路は、映画鑑賞者に対し窮屈な『檻の中』の限られた空間を感じさせる。そんな中、健さんの表情や立ち姿の『どあっぷ』から少し引き、近景を含めた健さんの全身のノーマル表現から一段とカメラアングル拡がって、刑務所全体を包んだ余りある風景に変わる。 そんな動きの中、銀幕画面全体にあらためて目をやれば、遠景(銀幕上部)には何と、富山県北の山々を指し示しているではないか。 観賞者の気分は、圧迫された刑務所から一気に解放され、大自然に佇む山々に安堵感を彷彿させる。
映像に描き出された大自然は春。北国富山の山奥の春は、未だ深々と雪を抱く。刑務所の背後に衝立のごとく構える日本アルプスは、画面空間の奥に浮いている。鑑賞者はここで一息継げる。
さらに、雲海に浮かぶ『竹田城址』の表現。時間の推移と空間の拡がりの表現が素晴らしい。
関門海峡では、下関側と門司側でそれぞれ撮影されている。ズームレンズの表現力により、実際の関門海峡はより一層狭く短く感じるから面白い。
この手のシナリオ、はたまた筋書きを、ロードムービーと言うらしい。が何はともあれ、富山の刑務所~日本アルプス~京都~大阪~〈ここらに竹田城址が入るか?〉そして(一気に)下関~長崎(五島列島)へ、目まぐるしくロケ地は移動する。
このシナリオと画面の流れに、絶妙なる空と山の境目の空間に詩的表現あり。
夕日のシーンも美しい。
(どこぞ、富山から京都方面へ向かう?区切り!?の湖畔で夕暮れ時、タケシとの語り合い。散骨を済ませたのちの、夕暮れ時の五島列島海上を漂う漁船をシルエット。 都合2回? 大いなる夕日と黄昏時の雰囲気を堪能させるシーンあり……)
何かとたそがれている。
なにゆえか、このたびは、やたら夕日、夕焼け、夕暮れ時のシーンを強調し大切にしている。
〆て、
「この映画は我らの誇る日本の映画俳優『高倉健』を知り尽くしたプロフェッショナルが作った映画に違いない」とあらためて痛感した。そして実は初めて初めて、
「主だった過去一連の高倉健さんの映画作品の監督は誰ぞ!?」
という自分自身の疑問を解決したくなった。
パソコン検索により、たやすく解決できた。
そうなんだ。
監督は、降旗 康男(ふるはた やすお 1934年8月19日 ~ )。
降旗監督の存在あって、映画俳優高倉健の存在に価値が生まれるのか。
すなわち、
それは、健さん『らしさ』。
高倉健さん的な『雰囲気』。
健さんの『そしゃ』。
健さん風『立ち居振る舞い』と『佇まい』、、、、。
これら、
自然に、無理なく、高倉健さんの身体(肉体)と精神(心)から抽出し切れるかどうか、にかかっているのだ。 これらの能力と経験を蓄積した『特定のプロフェッショナル』(映画監督・降旗 康男)の存在を、あらためて感じた。
結論として、
「高倉健さんの魅力抽出なくして、この映画はあり得ない」
これ以上もこれ以下も、なにもコトバが見当たらない。
もう、ひとこと!
映画を観終わって、自分の周囲の空気がうまい、、、。(と感じた……)
つまり、自分自身の呼吸する、空気の味が良い、、、。
そんな、
ほんとうに『後味の良い映画』を、久しぶりに鑑賞しまた。
正直言って、この映画は観たくなかった。
でも観た。
観て、たいへんよかった。
一回と半分、つまり同じ日に2回入場して1.5回鑑賞しました。(2回目は疲れて、もちろん納得して、途中で抜け出しました……)
数ある高倉健さん映画の中でも(私感にて)クオリティーの高い作品だった。鑑賞し終え、まことに安心感を覚えた。
かくいう比較の対象あり。
それは5~6年前に観た健さん映画のこと。 シナ大陸で撮影した凡作中の超愚作『単騎千里を行く』と比べるからそう思うのだろうか。
(正式な「映画の原題」は『単騎、千里を走る。』です……)
あらためて言うけれど、
本当は、81歳にもなった健さんを映画館まで出向いてまで観たくなかった。
何故そういうか?
最近の健さんをTVコマーシャル画像で確認してからのち、
「これはもう映画画像で拝見するご尊顔ではないぞ?」
さらに、
「ここまで老化した健さんを、いまさら映画に引っ張り出すなんて、何とむごいことをするか……」
吾輩にして、開いた口がふさがらなかった。
そもそも年老いた健さんを引っ張り出した某食品会社のコマーシャルが問題だ。映画では見たこともない怒アップの大写し、最近やたらきめ細かに毛穴まで映さんばかりのデジタル放送電波と液晶テレビの組み合わせには怖いものあり、そんな状態(現代)でコマーシャルに出てくる(本来美しいはずの)健さんの横顔の『絵』は二度と観たくなくなるものだし、もともと弁舌爽やかでない健さんの下手な『セリフ』がさらに下手になりろれつが回らなくなった台詞(ありがとう、、、、ご、ざいま、、ス?&%*、、、)は聞きたくない。
そんなこんな思い始めたこの夏場。
久しぶりに健さん映画を上映するとのこと、
「老いた健さんはみたくない……」
と結論付けていた矢先、今度は、NHKの特別番組に出演していた『この映画(あなたへ)』の各種ロケシーンを観た。
NHK特番は、吾輩をしてようやく『年老いたケンさん』を受け入れ出来るよう仕向けた。
もちろん最初の3分間は拒否反応のみ。それがなんと10分間程度経ったら健さんの皺や腫れぼったい瞼に対する抵抗感はなくなったのだ。というよりむしろ、健さんの老いの詳細を考えないような意識が定着する。なんとなんと番組の終わるころ(気が付かぬ間に1時間以上経過していたけれど)、年老いたケンさんへの違和感がなくなっていた。
すなわち、
NHKのこの番組を見たことによって、自然に映画館に足を運んでしまった。
しかししかし、本音がある。
垣間見た健さんの手元、手の平(手の甲)から、はっきりと年齢が伺えた。改めておもった。男優女優関係なく、顔は化粧やドウランでもってある程度年齢は隠せる。が年齢を隠すという行為に関し、手の甲はそれができない。
(実際のところ鑑賞した映画の中でも健さんの手の甲は色つや?否!くすんだ色と隠せぬ皺共々不気味で怖く怖ろしく、映してほしくない見てはならないものが手の甲ですけれども、遺言を開けてたり退職願を封詰めするシーンは重要なシーン(カット)であって、瞬時にこの代役は不可能にて、今、こうして文字に書き下ろすのは気が引けるほどに、なんともごまかせぬ年齢相応の老いを感じた。(見たくない人も、あらためてみてほしい……)
「そうなんだ。みんな自分の手を見てみろ!手の甲から『老い』が始まるのだ……」ということ、あらためておもった。
それで?
「映画でみたケンさんの全体像は如何?」
そう、
アップでは、
やはり私自身として、ぎりぎり耐えた。
遠目で見れば、
若かりし頃のケンさんを思い出させた。
立ち姿を背後から撮影したショット。十数年前を髣髴させる『立ち居振る舞い』と『佇まい』は高倉健でなくては表現できないもの、美しいものを垣間見た。
それは健さん独特の立ち姿、、、。
いつもの頭髪は短めで小気味よく、襟足の長い首筋からややなで肩にして肩幅の広さは美しく、引き締まった腰高の下半身から真っ直ぐに伸びる長い脚はバランスよく、カメラを背後から向けたアングルにより、すなわち『男の背中』は履歴をあらわし際立たせ、映画俳優として天下一品だ。
歩く時の独特の足の出し方運び方、両肩の揺れ方、揺れ具合。シャイな雰囲気を醸し出す健さん的な首の曲がり方。今も尚、現役俳優として、柔軟体操継続され且つ微細な食事調整により健康管理されているとのこと。すなわち体重を整えたり、演技に支障を致さないよう足腰を鍛えておられるようだけれども、私自身映画画面の中で見抜いた。歩く姿は(厳しく観察していて若かりし頃から比べれば)残念ながら若干、与太っておられる。けれども81歳として考えればとんでもない常識をはるかに超えた美しき若き状態にて、やはり大したものだ。姿勢も足取りも、決して齢(よわい)80を超えた状況ではなく、今尚50代後半の元気健康な男性か。
概して主観私観であるが、カメラが捉える健さんは、
後姿からのが35%、
斜め横からの45%、
正面(ななめを含む)は20%以下か?
これが正しい高倉健の立ち姿を表現する撮影方法なのだ。
こんな健さんを称して、今流の形容詞『イケメン男』というか?
違う!!!!!
とんでもない。
イケメンなんて不格好で女々しい言葉は、無くしてしまえ。マス塵使用禁止にして、直ちに死語にせよ。
すなわち、これが『男前(おとこまえ)』というもの。『ハンサム』というもの。『美男子』というもの。つまり老いて尚も『二枚目俳優』そのものなのだ。
更に、
別のカメラワーク目線に迫りたい。
いかにもロケーション撮影を生かした、一連の遠距離撮影が美しく素敵だった。
遠景風景の撮影が見事。
映画始まって直ちに、転勤していった新しい勤務先(富山刑務所)に就く健さん。無機質な刑務所はすなわち、高く頑丈な塀の突っ立った檻の中にあって、いちいち開錠施錠を繰り返しながら主演高倉健さんが進む通路は、映画鑑賞者に対し窮屈な『檻の中』の限られた空間を感じさせる。そんな中、健さんの表情や立ち姿の『どあっぷ』から少し引き、近景を含めた健さんの全身のノーマル表現から一段とカメラアングル拡がって、刑務所全体を包んだ余りある風景に変わる。 そんな動きの中、銀幕画面全体にあらためて目をやれば、遠景(銀幕上部)には何と、富山県北の山々を指し示しているではないか。 観賞者の気分は、圧迫された刑務所から一気に解放され、大自然に佇む山々に安堵感を彷彿させる。
映像に描き出された大自然は春。北国富山の山奥の春は、未だ深々と雪を抱く。刑務所の背後に衝立のごとく構える日本アルプスは、画面空間の奥に浮いている。鑑賞者はここで一息継げる。
さらに、雲海に浮かぶ『竹田城址』の表現。時間の推移と空間の拡がりの表現が素晴らしい。
関門海峡では、下関側と門司側でそれぞれ撮影されている。ズームレンズの表現力により、実際の関門海峡はより一層狭く短く感じるから面白い。
この手のシナリオ、はたまた筋書きを、ロードムービーと言うらしい。が何はともあれ、富山の刑務所~日本アルプス~京都~大阪~〈ここらに竹田城址が入るか?〉そして(一気に)下関~長崎(五島列島)へ、目まぐるしくロケ地は移動する。
このシナリオと画面の流れに、絶妙なる空と山の境目の空間に詩的表現あり。
夕日のシーンも美しい。
(どこぞ、富山から京都方面へ向かう?区切り!?の湖畔で夕暮れ時、タケシとの語り合い。散骨を済ませたのちの、夕暮れ時の五島列島海上を漂う漁船をシルエット。 都合2回? 大いなる夕日と黄昏時の雰囲気を堪能させるシーンあり……)
何かとたそがれている。
なにゆえか、このたびは、やたら夕日、夕焼け、夕暮れ時のシーンを強調し大切にしている。
〆て、
「この映画は我らの誇る日本の映画俳優『高倉健』を知り尽くしたプロフェッショナルが作った映画に違いない」とあらためて痛感した。そして実は初めて初めて、
「主だった過去一連の高倉健さんの映画作品の監督は誰ぞ!?」
という自分自身の疑問を解決したくなった。
パソコン検索により、たやすく解決できた。
そうなんだ。
監督は、降旗 康男(ふるはた やすお 1934年8月19日 ~ )。
降旗監督の存在あって、映画俳優高倉健の存在に価値が生まれるのか。
すなわち、
それは、健さん『らしさ』。
高倉健さん的な『雰囲気』。
健さんの『そしゃ』。
健さん風『立ち居振る舞い』と『佇まい』、、、、。
これら、
自然に、無理なく、高倉健さんの身体(肉体)と精神(心)から抽出し切れるかどうか、にかかっているのだ。 これらの能力と経験を蓄積した『特定のプロフェッショナル』(映画監督・降旗 康男)の存在を、あらためて感じた。
結論として、
「高倉健さんの魅力抽出なくして、この映画はあり得ない」
これ以上もこれ以下も、なにもコトバが見当たらない。
もう、ひとこと!
映画を観終わって、自分の周囲の空気がうまい、、、。(と感じた……)
つまり、自分自身の呼吸する、空気の味が良い、、、。
そんな、
ほんとうに『後味の良い映画』を、久しぶりに鑑賞しまた。