Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

万年筆を買ってしまった、、

2009-03-18 00:15:15 | 小説家・トーマス青木
<添付画像>;トーマス青木君自慢?のパイロット万年筆


 売れない本が売れ、いくばくかの収入があったらしい。

 平素は現金を手元に持たない、否(いや、持つべき現金に事欠いているから)手元に持てない、そんな(一流?二流!にあらず、五流乃至それ以下の)小説家トーマス青木は天にも上る心地になった。

 話題にするのも恥ずかしいけれど、その収入の額は、来るべき総額2兆円の定額給付金の一人あたり支給金額とほぼ同じ、一金壱万弐千円也とのこと。 わずかな現金全額を持って文具屋に走り、添付画像の通りPILOT万年筆を買ってきた。

 自由に使える現金が手に入るや否やいつもの悪い癖が出てしまい、衝動買をしてしまったのだ。

 ところで、彼はそれなりの万年筆を持っているのでは?

 そうなんですぞ。 たぶん過去記事に画像が出ているはず?の(購入当時は)SFR450.-の、まともなモンブラン万年筆と(彼の亡父親の形見?)ペリカン万年筆を所持しているはず。にもかかわらず何故に、このたび敢て、国産のパイロット万年筆を購入したか? 以下、トーマス青木君のコンフェッション(confesson)「言い分け」を聞いていただきたい。 (エセ男爵)

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 パイロット万年筆を買った。 かのBudapest-Project真っ只中、がんばって儲けた金をはたいて帰路Zurich-Airportの免税店で買い求めた珠玉のモンブラン万年筆は、5年前、東京出張中に喫茶店で置き忘れ、失った。 その後暫く、亡くなった親父が生前使っていたペリカン万年筆を使用していたが、これまた昨年10月に大阪出張中に消え失せて行方知れずになった。
 万年筆を使ってインクしたたる文字を書けなくなって半年経過。 時々済々、生インク使って書かないと、なんだか落ち着かない。 だから慌ててこの際、国産万年筆を調達した次第です。
 ようやく手に馴染み始めたが未だ慣れきっていない今日この頃、もちろん、数年前迄使用していたモンブランの方が数段、否、全く比較にならぬほどに使い心地良い。 このパイロットはモンブランよりも軽く、今、少しフワフワしながら落ち着きなく字を書いている。
 でもでもパソコンのキーボード入力とはひと味もふた味も異なったテイストで文字を書いておる。 やはり、我が大脳の襞から出てきた感性と知力が後頭部を伝って首筋を下り、さらには右腕右掌から指先を伝い通って、パイロット万年筆のボディーとペン先に集中する。 未だ慣れないペン先から、たった今、こうして文字となってノートの白紙上に表現されると満足感あり、堪えられない喜びが今こうしてこみ上げて来るのであります。
 そうそう、
   万年筆で英文を書こう、、、。
 もちろん、この極太のペンをつかって日本文学巨匠の名作を書き下ろし、作文練習もやりたい。 (トーマス青木)


 * Budapest-Project;ここで云うブダペストプロジェクトとは、1990年代初頭から約8年間、トーマス青木君が欧羅巴長逗留していた頃を指す。(記述: by エセ男爵) 

「司馬遼太郎記念館」、初訪問のこと、、

2009-03-14 10:45:45 | 趣味の話&本と雑学メモ
<添付画像>:司馬遼太郎記念館のしるし

 いろいろ考えた。 でも、どうしても掲載させてください、、、

 本日記事のメインイヴェントは、添付画像の書籍の冒頭に出てくる文言「司馬遼太郎先生の奥様・福田みどり夫人」の手になる書き下ろし、珠玉の叙述詩であるか。 私のような若輩が申し上げるのも畏れ多いのであるが、福田みどり女史の研ぎ澄まされた文章に、あらためて敬服する。
 どうかお許し下さい。 「ごあいさつ」の掲載、ネット文字の「こぴぺ」に非ず。 さりとて著者への失礼は百も承知にて、これだけはキーボードを通して写し書き致したく、書き写した以上はブログ記事にて掲載したくなったことを、、、。

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 (司馬遼太郎記念誌より)

 ごあいさつ

 司馬遼太郎は平成八年二月十二日に、この世を去りました。
 その日から司馬遼太郎のための予定表が、私の予定表に変わってしまいました。 「月某日OO氏と対談」、「某月某日XXへ取材旅行」 ― の横にならべて、私の「△△社のインタビュー」を書き加えることになってしまいました。 司馬遼太郎の予定は消されることなく、むなしくそのまま残っています。
 荒れ狂う海に浮きつ沈みつしながら悲しんでいる余裕もなく、感情も凍結したまま、ただ責任感と義務感で自分で自分を拘束した日々が続きました。 明日という日を考えることもありませんでした。 ふりかえって当時の予定を眺めることは、いまだにできません。
 そんな私をここまでたどりつかせてくださったのは、ひとえに読者の方々のお励ましと親しくおつきあいねがっていた方たちの、これ以上はないという友情でした。 あらためてお礼申し上げます。
 本当にありがとうございました。
 そうした方たちに支えられて司馬遼太郎記念財団が発足したのが、平成八年十一月でした。 司馬遼太郎賞、フェローシップ、菜の花忌も回を重ねることができました。
 ここで私が頭を抱えてしまったのは、記念館でした。
 司馬遼太郎は自己を顕示することを、もっとも好みませんでした。 無私であることと無欲であることを一番愛しました。
 さて、どうしたものか。
当然、さまざまな方から記念館の話はきました。 けれども私がしっかり決意したのは、一人の少年からの電話でありました。 この少年は中学一年生で『国盗り物語』をいま読んでいる、ということでした。
 司馬遼太郎先生の記念館はいつできますかと問われて、私は黙ってしまいました。 少年はうわずった声で話し続けました。
 ぼくたちは友だち五人で司馬遼太郎研究会をつくっています。 作品の半分まで読んだらぜひ先生に会いに行こうよ、といつも話しあっていました。 ところが先生はもうおられません。 どこに会いにいけばいいのですか。 せめて記念館を作っていただいて、そこで先生とお話したいのです。
 正直に言って、私は涙がこぼれました。 この少年の心に応えるためにも作るべきだ、と考えました。 ここで思い出したのは、司馬遼太郎が常に自分が得たものは社会に還元したい、そのことだけは憶えておいてくれ、と言っていたことでした。 そのためにも記念館は必要だと考えました。
 いま、完成した透明感と清涼感に満たされた資料館を眺めていると、青い空に司馬遼太郎のスピリッツが浮かんでくるような気がいたします。
二〇〇二年の菜の花忌で、設計してくださった安藤忠雄さんの講演を聞いた二人の青年が帰り道、菜の花をかかげて声高らかに志高く、志高く、と歌うように躍るように歩いていったということを、友人から聞きました。 私が目にしたわけではありませんが、その光景がいまも胸に残っています。
 この記念館で、司馬遼太郎の人生は完結いたしました。 そしていま、新しい司馬遼太郎の命が誕生しようとしています。
 どうぞ、司馬遼太郎と存分に語りあってください。
 ご協力いただいた方々に、心から感謝申しあげます。

             司馬遼太郎記念財団 理事長 福田みどり


   (以上、2008年1月1日改定第二刷発行「司馬遼太郎」より、あいさつ抜粋)

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 念願の司馬遼太郎記念館に初めて足を運んだのは、未だ寒暖定まらない先月2月の中旬のこと、、、。
 やはり、行ってよかった。
 (Cafe&Magazine旅遊亭、関連記事はこちらから・・)
 でもって直ぐにでも、記念館訪問紀行文を書こうと思っていたが、これが又、遅くなった。
 それには理由がある。
 当然ながら感無量。 しばらくしたら虚しくなった。
 まずは、あまりにも早くして、司馬遼太郎という「日本人の知的財産」を失ったことの無念さだった。
 その次に、記念館訪問の記念品として購入した記念誌「司馬遼太郎」(司馬遼太郎記念財団発行・発行者:福田みどり)の最初の「ごあいさつ」を読みすすめ、読み終えて涙があふれ止まるところがなく、心中には今も尚流れ続けている。そんな訳で、とてもじゃないが感想文や紀行文を書く気にはなれなかったのだ。
 あれから1ヶ月になる。
 少し落ち着いた。
 でもって本日、書く。
 そして、シリーズで司馬遼太郎先生に想うあれこれ、連載記事にしてみたく考えている。
 作品との出会いから話したい。
 司馬遼太郎小説をはじめて読んだのは、忘れもしない1987年12月初旬のこと。 社会人になりたての頃からすでに四半世紀も通いなれた小さなスナックバーのママさんに
 「お勧めしたい本あり。是非これを読んで元気を出してください」
 「・・?・・」
 「お貸しする?と言うより、差し出がましいのですが差し上げます。どうぞ時間をかけて読んで下さい・・」
 小説なんてほとんど読まなかった当時の私が、嫌々ながらお借りした(頂いた)のが『項羽と劉邦(上巻)』なのだった。
 深夜に帰宅し、ベッドにもぐり込むや否や一気に150ページを読み進めたらいつのまにか朝になっていた。 その後、酔い覚め(酔い覚ましは必要なかった)水をグラス一杯飲み干し、明け方から一眠りした。 目覚めたら、時計は午後3時を少し回っていた。 まずは眠気覚ましの熱いコーヒーを一杯。 あらためてベッドに潜りこんで読み進めること熱中し、第一巻を読み終えたのは翌日早朝の3時半、丸一日少々掛かっていた。 しかし何故に、かくも早く読み進めること、可能だったか? 稀にみる特殊な精神状態にあって、項羽と劉邦の歴史絵巻物語に没頭し易い精神状態であったか。 なにはともあれ、「項羽と劉邦(第1巻)」は極めてストーリー展開歯切れよく、 いずれは互いに宿敵となる項羽も劉邦も未だ若く血気盛んにして、秦始皇帝の暴政に打ちひしがれていた中国全土に広がる人民の不満や願望を背負いつつ打倒秦をスローガンに、秦始皇帝の敷いた巨大な法制国家の瓦解に向け、一致協力して秦滅亡に漕ぎつける迄を描き切った壮大な歴史パノラマだった。 ページを捲れば次から次へ、漢字に次ぐ漢字は洪水のようにあふれ、我が頭脳の引き出しを一杯にして納まらず、小説のストーリー展開進むとともに歴史上の人物登場すれば、ちくいちその人物の氏素性のショートヒストリーまで及び、簡単に3~4ページを割いてしまう。 登場人物の名前は当然ながら、ありとあらゆる情景描写も性格描写も人物のパーソナルヒストリーも悉く漢字表現だから、読書中の僅か一昼夜にして過去に見たことのある漢字は当然のこと、生まれてこの方出会っていない漢字にまで出会ってしまうありさまにして、本来なら10数ページで挫折するような書籍のはず。 にもかかわらず、一気に読み進め読破した記憶は、決して忘れようもない。
 「項羽と劉邦」の第一巻を読破した読後感は、読んだ、知った、面白かった。 しかし疲れた。
 司馬遼太郎作品「項羽と劉邦」に出会った当時の私は、絶望の真っ只中にいた。 それは、1年がかりの大きな仕事を成功裏のうちにやり遂げた後の虚脱感はさておき、思うように利益の出なかった空しさとビジネスマンとしての無能力さ加減に挫折感を味わっていた真っ最中だった。 だから、普通一人で飲まない酒を飲みに、巷の飲み屋街を徘徊していてこの一冊に出会った。 しかしこの一冊を読み終えた後は当然ながら疲れ果て、その後一昼夜眠った。 目覚めてすっきり、後味悪かった仕事の成果を全く忘れる事できた。 かくして1987年師走を乗り越え新年を向え、項羽と劉邦の両英雄の資質を持った気分になって新機軸のビジネスを求めて旅立の準備をした。 翌年の秋、一回目の欧羅巴自由人生活(2年間)に旅発った。
 その後第2巻と3巻を入手し、全巻を読み終えたのは2年後、1989年の夏だったか。
 この長編小説に出会ってから、私の『読み物』に対する考え方が変わった。 早かったのか?遅かったのか?(一般論的には遅すぎたのであろうが、私論的には決して遅くないと確信し、今に至っている)たぶんあの時、人生の大きな変わり目に、司馬遼太郎作品と出会った。 それ以後、大の司馬遼太郎フアンになってしまい、現在に至っている。
                          (トーマス青木)


<参考・項羽と劉邦>

項羽と劉邦 (上) (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社

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項羽と劉邦〈中〉 (新潮文庫)
司馬 遼太郎
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項羽と劉邦〈下〉 (新潮文庫)
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「総額2兆円の緊急経済対策記事」にて、3年ぶりの椿事!

2009-03-11 18:45:45 | Weblog
 「なヌ! ・・?!!・・・」
 2月下旬から今日3月9日まで、「ブログ更新のサボり過ぎ?」といっても過言なきほどに記事を書いていない。にもかかわらず、こんなにアクセスがあったとは、たいへん喜ばしいことである。
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 過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)
  日付       閲覧数  訪問者数    ランキング
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2009.03.04(水) 937  PV 371 IP 1393 位 / 1193484ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)
     日付      閲覧数  訪問者数        ランキング
2009.03.01 ~ 2009.03.07 5974 PV  2178 IP   1793 位 / 1195038ブログ
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2009.02.15 ~ 2009.02.21 2285 PV  942 IP    6841 位 / 1187475ブログ
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 (上記の如く)久しぶりに「アクセス解析」を開いてみるまで、全く知らなかった。
 調べてみた。
 かくしてアクセス数増加の原因は明らかになった。
 直ぐに解散すれば良かったにもかかわらず、歴史に残るボンクラ5流政治家による狂人的奇行の延長線上にある『麻生太郎の総理の座しがみ付き作戦』に絡ませて、ノーテンキ的無作為なる失態を、看るに見かねて書き記した先の記事(平成21年1月27日投稿)『本当に呉れるのか、総額2兆円の給付金、云々・・』記事への集中的アクセス! ほんとうに驚いている。 始まりは、例の『給付金関連法』が成立し衆院で再可決した頃(3月3日午後あたり)から、最初に給付された3月5日を皮切りに今日現在迄も尚、この余波が続いているのだ。
 しかししかし、我輩にとっては珍現象と一笑に付しても、一人当たり1万2千円(または2万円)の給付金には、日本国民挙って興味津々たる「コトガラ」であるか。 なかでも関連法案の国会を通過翌日の5日正午にデリバリー開始した村があったこと、TV報道された。
 早い!
 現金貰った村民は、喜んだ。
 しかし、かたや如何にも遅い!!!
 何が遅いか?
 と言えば、
 この関連法案が政局の道具にされ始めたのは昨年10月初旬ではなかったのか? 昨年末の給付に間に合うかどうか?と言うことがマスコミに弄ばれ始めてすでに6ヶ月経過するのだから、これまた驚異的な鈍足である。
 さて、当然ながら我が家も「この愚策」が話題になり、
 「いつ私たちは給付金を頂けるのでしょうか?」
等々、
 ご承知の通り、国家的中央政府レベルで決めた法案「愚策」の実行は、全て地方行政府単位にて遂行され「その実行時期」は各市町村単位にて異なるから笑えてくる。 笑いながら涙が出てくる。
 加えて、
 我がふるさとは「世界に誇る平和都市:ノーモアぴかどん≒ノーテンキ的ヒロシマ」の場合は如何か? 恥ずかしながら我が政令都市に於いては、このデリバリーには全く決定事項なく、いつ配られるものか?「全く未定だ!」というからマタマタ泣けてくる。 
 ま~どいつもこいつも『平和ボケ(平和の隠れ蓑に隠れたエセ平和主義者)』だらけの吾等が町「おんぼろ都市・ヒロシマ」の市長よ市役所の職員よ、もうちい~たぁ仕事せえやぁ~(標準語翻訳:もう少し仕事をしたらどうか!)
 見栄と突っ張りは「不肖エセ男爵」だけで結構。さぁ平和都市H-CityのH市民よ、カッコ付けてやせ我慢するな!原爆禁止運動ばかりに声を荒立てないで、定額給付金の遅延に因縁をては如何か?今こそ、声を大にして我がH県とH市の常日頃の失政を咎めては如何か?
 別に、ハシタガネを受け取るのが、他の都道府県住民より遅れるのを僻んでいるのではない。
 云いたい事の結論は、
 つまらぬまちに棲んでいることを嘆くと同時に恥ずかしい。けれど、おかげで記事更新できた、、、。 
 そしてあらためて、
 一人頭1万2千円の定額給付金、このことは今、ダントツに『国民的大騒ぎ』であるか!が、判った、、、。


 * ぴかどん
〔広島で原子爆弾が爆発したとき、初めに強い「ぴか」という閃光、続いて「どん」という爆発音があったことから〕原子爆弾の俗称。(google辞書より)