Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

大聖院仁王門

2014-10-31 16:06:27 | 大聖院さん日録
<添付画像>宮島大聖院仁王門
(撮影月日)平成26年10月28日午前9時過ぎ
(撮影場所)広島県廿日市市宮島町
(撮影機材)FUJIFILM X100s
(撮影者) トーマス青木


 宮島は大聖院さんの入り口、その門の名を『仁王門』という。

 宮島大聖院さんへお参りする日、否、お参りする時は、その度に、何度も何度も、この位置から仁王門を視る。
 私自身の問題であり、そしてその理由は定かではないけれど、一度たりとも、同じ風景に見えた事、すなわち『同じ仁王門』と感じた記憶が無いのがこの位置から観る大聖院山門『仁王門』である。
 そう、こんな時こそ、あらためて、風景そのものを擬人化すべきである。
 すなわち、風景としての『仁王門さん』ご自身は、いろいろな御顔を持たれている。

 此の日、朝のこの時間、たいへん美しい仁王門を観た。

 そして数回シャッターを切る。 「良い仁王門さん写真が撮れた!」と自画自賛するのがこの一枚である。

 写真画面の中央辺りを、ご覧頂きたい。やや乾燥気味の透き通った空気を突き切って、早朝の日差しは山門を通る。 その日差しは山門から出でて即刻、吾輩の両眼に注ぎ込まれる。

 なんとも美しき事か!

 これまでは、畏怖するのみだった大聖院仁王門。その門枠を通過した朝の日差しの、何ともたおやかな事。この光こそが「仏様の慈愛なるもの注がれているのか……」と信じ込みたくなるような光景に出くわしたのであります。畏れ多いこわばりを感じる山門の光景に、この朝、あらためて、親しみ深い美しさを感じ次第であります。 (トーマス青木)

東寺『弘法さん』へ行ってきました……

2014-10-24 09:11:45 | つれずれ紀行
<添付画像>東寺弘法さん開催風景
(撮影日時)平成26年10月21日午前10時頃
(撮影場所)京都東寺
(撮影機材)FUJIFILM X100s
(撮影者) トーマス青木

 京都は東寺にて毎月21日に開催される『弘法さん市』の見学に行ってまいりました。
 20日午後の新幹線で広島出発し約1時間30分後に京都着。 直ちにホテルチェックイン。 夕刻旧友と再会し(横着して)ホテルレストランで夕食会、すなわち二人同期会開催する。約3時間ものあいだ飲んで喋って食す。互いの身体を労わり8時過ぎにはお開きする。
 不肖トーマス青木は部屋に入るや否やシャワーを浴びTV観ずにそのまま就寝翌朝5時30分起床。 何と、空を見上げれば雨の予定は曇りに変更?午後から晴れ間もあるとの事!
 ありがたいことだ。
 催し物は雨天決行ときき、雨を覚悟で2泊3日の予定にて京都旅行に繰り出したのは3年ぶり。

ホテルレストランでいつもより早めの朝食を済ませ、イザ徒歩にて東寺に向かったのは午前8時30分頃か。
 何とすでにこの時間、多くのひとがそれぞれ塊になって歩いているではないか。向かう先は、皆さん挙って東寺であるぞ。
 かくして11時30分頃まで、東寺境内の弘法さん市場を徘徊。お昼時間は一旦ホテルに帰りひと休憩の後、またふたたび午後3時前から東寺に繰り出し、凡そ1時間30分。少しずつ店仕舞いする出店者現われ始める頃まで、見学しました。

 そろそろ店仕舞いはじまった古着屋さんのおばちゃんたちの会話に、「外人さんが多かったね。そして買ってくれた人は外人さんがほとんどだった……」
 京都の東寺も外国人の姿が多くみられた。
 中国語の飛び交うシーンも多々みられた。
 そして、
 トーマス青木の泊まったホテルにも多くの外国人が宿泊していて、夕刻のしかるべき時間帯になれば、ホテルロビーには外国人の姿溢れ返し、まるで自分自身がヨーロッパを旅行している気分になってしまいました。

男前のお坊様を見つけた、、、

2014-10-03 09:22:27 | 大聖院さん日録
<添付画像>大聖院のハンサム僧侶(其の一)
(撮影年月日)平成26年9月中旬
(撮影機材) FUJIFILM X20
(撮影者)  トーマス青木

 エセ男爵の称するハンサムや二枚目?はたまたオトコマエ(男前)の定義は言わずもがな、拙ブログ愛読者の諸兄姉には先刻ご承知と心得る。 しかし久方ぶりに二枚目や男前の定義を再度書き下ろすとして本日は、男前の僧侶三松庸裕(ミツマツヨウユウ)様の法話をご紹介したい。
 畏れ多くも、本日の投稿を決意し実行するのに半月掛った。
 写真画像投稿も(なんとか)お許しいただき、且つ、トーマス青木の最近の心境を言表して下さっている法話内容の掲載もお許し下さった。のでありますが、このお願いをし、ご了解を頂いたのは先月末。 かくして月変わり10月3日、掲載に至った次第であります。
 法話の文章は、往々にして見受けられる生意気僧侶の高飛車的言い回しは一切ない。誰にもわかり易く、且つ的を得た締め括り結論あり。
 すなわち『優れた文章』であり、拝読していて心和み、且つ気分が豊かになりました。

 ----------------------------------------------------------  

■冷暖自知【2014年9月の法話】http://www.galilei.ne.jp/daisyoin/2014/page5_09.html

 「冷暖自知」という言葉をみなさまご存知でしょうか。水が冷たいか暖かいかは、人からああだこうだと説明を聞いたり、あれこれ考えたりする前に自分で触ってみればすぐにわかることだ、という意味です。

 私たちは何かを行う前に頭でその行程を考えます。考えることはもちろん必要で大事なことです。しかしながら、考えてもわからないことというものもあります。そのようなことを延々と考え、とらわれ、動けなくなる前にまずは挑戦してみることも大切なのです。

 誰も何も教えてくれないので何もわからない、何もできないと嘆いていらっしゃいませんか?悩んだり、嘆き諦める前にまずは行動してみることです。見様見真似でも自分でやってみるということが大切なのです。失敗は成功のもとという言葉もあるように、おそれずに自分自身で行動することです。

 老舗の名店の主人は先代から一度も寿司の握り方を教わらなかったと聞きます。その先代もまた同じように親方の仕事を見ながら自分でやってみて体で覚えたと、以前読んだことがあります。それがその店代々の流儀なのでしょうか、と書かれていました。私はそれを読んで妙に納得してしまいました。師から教えを乞うことはありがたいことです。しかしそれに甘んじていては本当に自分のためになったと言えるのでしょうか。

 仏法の真髄というものは、師に教わったり頭で学ぶものではなく、みずからの体験を通して会得し、悟る以外にないものです。

 自分自身のことだけではなく、子どもの教育にも同じことが言えるのではないでしょうか。あれこれと知識ばかり与えても、実際自分で体験させてみなければ本当の知識は身につきません。体験させること、挑戦してみようという意欲が大切です。そのような心が自分を、または他者を成長させるための糧となるのではないのでしょうか。

 弘法大師空海の言葉に「未得を得となし、未到を到とおもえり(いまだ何も得ていないのに得たと思い込み、いまだ目的を達していないのに達したと思い込む)」とあります。空海はそれが自分をちっぽけなものにしてしまうと戒めています。

 やりもしない内からあきらめていることはありませんか。また考えるだけで行動できていないことはありませんか。自分を成長させるためには一生が修行であり勉強です。怖がらず、一歩前に踏み出す勇気を持ち、挑戦してみてはいかがでしょうか。

 合掌


    (三松庸裕)


弥山大本山大聖院のホームページはこちらから入れます。

毎月の法話ページURLは、こちらです。http://www.galilei.ne.jp/daisyoin/2014/page5_09.html