Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

長編小説「黄昏のポジョニ・ウッチャ」は完成したのか!発刊日は?

2007-10-31 11:45:15 | 小説家・トーマス青木
            ?????

 これ、この画像、昨日午後の撮影にて、南天の枝に晩秋午後の日差しが照り映えて茜色に輝いているもの?

 時間の推移は早いもので、7月上旬に「初刊本」の発刊を定めてから4ヶ月経過なのだ!?!

 こうして見れば、なんと、我家の庭の草木も「季節的黄昏」に突入ですなぁ……

  (このところ、不肖エセ男爵メにして些かジレッタク、且つ泰然自若的精神疲労を感じつつ……)

 いやなに、筆者・トーマス青木君と出版社の間で、只今最終印刷校正をしているところでして、たぶん出版は11月下旬になるでしょうな。 

 それにしても、初版本の出版は、もたつきますね。 

 ま、しかたないでしょう。 

 「・・・?」

 な、何故か? ですって?

 嘗て周知していない世界だから、流れに任せるより仕方ないでしょうがぁ~…
         (エセ男爵的苛立ち!前面に出る……)

 しかし、なんですなぁ~、 書き上げた原稿に、出版社の編集担当先生(この業界の大先輩)から「直々のご指導」を仰ぎつつ、自分の思考回路とは全く異なる「思考回路」を見せ付けられ(時に押し付けられ)時間経過すること約3ヶ月間。 四六時中叱責され且つ蔑まれれば、トーマス青木君は本気になって激怒する。 激怒しつつも、ここは大先輩のご意見に耳を傾けねばならず、以って初心者たるを実感し、未だ修練の足りぬことを再認識すべし。と、叱咤激励を改めて血肉とし、明日への躍進の糧にしなければ!等と、打ちひしがれつつも生気を取り戻し、完成したはずの原稿を読み返すことかれこれ20数回にも及ぶ。

 そうして出来上がったモノに目を通せば、やはり「違い」が見えてくる。 

 見えてくるから不思議であり、あらためてあらためて、文章表現には限りがないこと、再認識するのであります。 (なにおかいわんや? 何も言えない言わない言いたくない… よ~し、見ておれや、今暫しの辛抱であるぞ!!!)
 

 さて、
  小説の本筋とはほとんど関係ない場面に於いて、登場人物「井本金治」氏(小説の主人公:本田幸一の、元会社の先輩のこと)の「人となり」を表現するため、たまたま浄瑠璃の話題に踏み入ったところ、なんとなんと、なぜか(大阪在住の)編集プロの先生から、以下のような《注釈》を頂きました。 目的and/or意味不明の注釈にて、ま、読み流しておけばよいものか?はたまた浄瑠璃のクダリに歌舞伎を絡めた解説をせよ、と、仰せなのか?
 一晩寝て起きて思い出してみると、「ブログねた」に都合良いか。と思い立ち、小説原稿の一部をご披露する傍ら、その経緯をお伝えしておきたい、、、。

 以下、ひとまず編集プロ先生の「付記」を掲載する。  

-------------------------------------------

 江戸時代の庶民の楽しみが始まったのは、歌舞伎が始まりとされる。 それがなになに座を隆盛させ、役者人気が出た。 能やお茶のような特権階級だけの「たのしみ」から、庶民文化が起き、それが中村座のような「座」での演目として、歌舞伎以外のものの庶民文化が始まったされるが。
(以上、付記より転載…)

------------------------------

 * 上記「付記」に対し、筆者トーマス青木君は、下記のように返答する。


 歌舞伎は「芸能」。浄瑠璃の口演は「歌う」ではなく「語る」という用語を以てし、浄瑠璃系統の音曲をまとめて「語り物」と呼ぶのが一般的である。浄瑠璃は歌舞伎という芸能の根底にある「語り物」にて、この井本氏にして只単なる不良中年的遊び人ではない場面を、前もって布石したいがためである。また、浄瑠璃は「江戸言葉」を包括した江戸時代の共通用語であったこと、司馬遼太郎作「菜の花の沖」にも明確に謳われている。今後、この井本氏の教養と行動形態のアンバランスと、本田の非日常的な志向とを織り合わせ、滑稽さを表現してみたい。その布石として井本の教養溢れる嗜好を羅列しておきたかったのです。〆て、浄瑠璃は文学〔語り物〕であるからして、その文学を基礎に書き下ろした歌舞伎は、浄瑠璃の系等を汲む「庶民的芸能」である。井本は、あくまでも文学として浄瑠璃を嗜んでいる江戸下町育ちの高邁な不良中年なり…

                  (以上、筆者トーマス青木君の「言い訳」より転載)
                             -----------------------------

 翻って、一体全体小説のどの部分から「この遣り取り」が発したのか? 明らかにしておきたいので、本日は未発表小説「黄昏のポジョニ・ウッチャ」の原稿を切り取り、以下に掲載する……


 【黄昏のポジョニ・ウッチャ・第一巻5章「久しぶりの正月休暇」(その2)より】

 (二)
 ハンガリーのビジネスを思い立った経緯は、今から三~四年前にさかのぼる。当時書類作りの世話をしていた芸人紹介業者との動きからヒントを得たことは、すでに述べた。
 頻繁に上京していた本田は、外務省ならびに東南アジア諸国の大使館に出入りしていた。しかし毎回地方から直接東京の仕事に関わるのは効率的とは云えず、東京に在住する人物との連携プレーは必要であり、この種の仕事を継続するための最低限の条件となる。
 本田の業務の仲介役を引き受けた人物が、井本であった。
 その人物は、本田のサラリーマン時代の先輩の一人である。本田が退職した六年後に、彼も早期退職した。江戸中期ころから、先祖代々上野公園の近くに住みつき、旅館や料亭を生業にしていた母方の養子となって婿入りした弁護士の父親をもつ生粋の江戸っ子。今もってお坊ちゃま育ちの勝手気儘のし放題、贅沢三昧を生活の基準とする不良中年である。大学入試のとき、外国語の試験はドイツ語を選んだ。英語は当然のことながら、高校時代からドイツ語の基礎にも通じている頭脳明晰な人物は、旅行業界に必要不可欠な貴重品的存在であった。
 過去に幾度か、本田は彼の酒の相手をしている。酒が進むにつれて井本の喋りは流暢になる。そんな彼独特の江戸弁に、本田は好んで耳を傾けた。彼の江戸弁の使い回しは、地方出身の本田の耳には心地よく響く。正調下町風江戸弁の、味わい深い話し言葉に耳を傾けつつ、一献交えるのが大好きであった。4~5年前、本田は初めて彼の自宅を訪れた。彼の書斎には、壁一面に設えてある重厚な本棚があった。
 (井本さんは、読書好きな人物である!)
 と、想像はしていたものの、井本の集めている書籍の質と量には、さすがの本田も目を剥いた。中でも、二~三十冊もの分厚い浄瑠璃の専門書が鎮座している光景を目にした本田は驚いた。
 本田は質問した。
 「あ、本田ちゃん、これか?」
 「おれ、ほんとはね、浄瑠璃の研究者よ…」
 さっぱり浄瑠璃の解らない本田にとって、この書棚にある浄瑠璃専門書の中味は全く異次元の世界である。解っていることは唯一つ、数十冊にも及ぶ専門書の一冊一冊は机上版大型事典に見えて仕方なく、発刊部数の限定された高価な書籍である、と、いう程度である。
 「これだけ集めている人間、そうそういないぜ」
 「若し集めていても、ほとんど飾りだな。普通はまったく読まないぜ。おやじも浄瑠璃が好きでよ。ぼくは高校時代からこいつを読んでいたのさ」
 (浄瑠璃といえば、江戸時代から伝わる伝統文化か?)
 よく分からない本田にとって、人間国宝モドキのオジサンが演壇でなにやら唸っている様子が目に浮んでくる。人形浄瑠璃など「操り人形」のBGM程度の認識しか持ち合わせていない。本田はさらに質問する。
 「人形浄瑠璃?そう、親父にくっ付いて行ってさ、本物は何度も観ている」
 江戸幕府を中心に幕藩体制を敷いていた中世の日本には、参勤交代で地方と江戸屋敷の間を行き来する武家の一部を除き、日本全国津々浦々に存在する方言のみ氾濫し、全国共通用語のない時代が続いた。しかし、江戸時代になって庶民文化の花開いた時、演劇世界の台詞を通し、つまり浄瑠璃文化を通して、一般庶民の間で共通理解できる話し言葉が出来上がったという。すなわち限られた地方の方言を乗り越え、浄瑠璃の用語用法は唯一当時の標準語的存在であった。解読の難しい仏教用語以外に庶民文化を伝える方法は口承伝承しかなく、その口承伝承を補って余りある伝達継承手法が浄瑠璃ことばなのだ。と、井本は熱弁を振るう。
 「いやぁ~、ぼくはこれの専門家だよ、今年も京大から『講義してくれ』と、言ってきたが、断ろうと思っている。ハンガリーのほうが面白そうだ。ついでにドイツやオーストリーにも行ってみたくなっちゃったなぁ~」
 「関西まで行ってさ、浄瑠璃の講義をしたって面白くもなんともねえよ。いいかい、解るかい?本田ちゃんよ、浄瑠璃の講義ね、君が相手なら、いつでも講義するぜ」
 彼のいつもの話し方は、本来話すべき筋書きから若干外れて始まる。その実、決して外れていない。彼独特の婉曲話法がその根底にある。と、本田は読み取っている。
 彼は、まさしく本田のハンガリー計画に協力してやろうといっている。
 「ありがとうございます、よろしくお願いします、先輩…」
 「ま、本田ちゃんが浄瑠璃に興味あれば、いつでも俺れっちが教えるから」
 本田は今までに一度も、浄瑠璃の何たるか?を、彼から教わっていない。理由は単純明快、互いに酒を飲む時間はあっても、本田には浄瑠璃を勉強する気分がない。
 彼の演説から察するに、浄瑠璃は、江戸時代の庶民文化花開いた結果の主要産物。且つ江戸庶民の教養の根幹である。と、結ぶ。その江戸庶民的文化と教養の中に育った井本の環境は、本田の聞きたがる井本流江戸弁を大集成したものにほかならない。本田は、この頃から井本の人間的魅力に陶酔し始めた。これが良くなかった。感情的陶酔の開始と同時に、井本特有の処世術の貧弱さを察知できなくなっていた。井本に対して、本田は半盲目状態に陥り始めていた。
 新宿の鰻屋から始まったミーティングは、酒が回り始める頃には、すでに話の本筋からはずれかけていた。この夜もいつも通りのはしご酒が始まり、気がつくと二人で数件の居酒屋を飲み歩いていた。
 本田がハンガリーで仕事を開始したことは、すでにフランフルトの本田の旧友沖田を介し、井本は計画の概要を知っていた。
 このたびの上京の目的のほとんどは、この井本に会うことであった。本田は東京に出向き、彼に会って、現地の詳しい状況を報告したかったのである。本田にとって、ハンガリービジネスを確実に手早く成功へ導くには、早かれ遅かれ、東京在住の井本の本格的な協力をお願いしなければならなかった。互いの仕事の割り振りを再調整した。仕事の割り振りとは、本田は、ハンガリーで芸人を掘り起こし東京に連絡する。井本は、その芸人を東京で売りさばく担当である。

 二~三日かけて本田は井本に付き従い、しかるべき関係先を訪問した。
 音楽事務所 ― 一箇所。
 ホテル ― 三箇所。
 外国芸能人斡旋業者 ― 二箇所。
 結果、ハンガリーと聞くと、さすがに興味を持った。しかし、ハンガリアン・ジプシーミュージックについて話題の中心にはならなかった。
 A.某音楽事務所は、若くて個性のある女性歌手を見つけてきてほしい。と、云う。すでに過去の伝説的存在となっていた南米はアルゼンチン出身の女性歌手、すなわち往年のグラシェラ・スサーナのような女性歌手を、ハンガリーで発掘して欲しいと言う。
 B.ホテルは軒並み不景気で、(音の出るものを、すべて取っ払いたい。ハンガリーからの楽団なんて、今は、お話にならない)と、口をそろえて云う。
 C.外国芸能人斡旋業者は、いずれも女性ダンサーがほしいという。
 (女性ダンサーは、直ぐにでも欲しい。音楽関係の斡旋は難しい!でも、女性シンガーや女性奏者の入っている音楽バンドなら、グループで東京に引きたい!)
と、いう業者もいた。この会社の社長は、井本とは旧知の間柄であった。
その業者との商談は、とんとん拍子に進んだ。井本もそのオーナーも、本田がハンガリーにいるとき、是非にも現地視察に出向きたく、その時は、是非、現場の案内を本田に請いたいという。
 「しめた、こりゃ当たりだよ、今日は良かったな…」
 「ハ、はい!」
 「本田ちゃん、これでぼくも、メンツが立った。せっかく上京してきた君に対し、手ぶらで帰らせる訳にはいかんだろうが…」
 「ありがとうございます」
 「よっしゃ、とにかく今日はおつかれ様、めでたい、めでたい」
 「すべて井本さんのおかげです」
 「いいさ、いいさ、ハンガリービジネスに乾杯しようや」
 彼はすでに、明日にでもハンガリーに出向きたい雰囲気である。
 「ハンガリーで、井本さんをお待ちしています…」
 「おう、本場のグヤーシュスープとフォアグラを肴にしてな、そうさな、サラミセージもあるな、ハンガリーが本場だからなあ、それでもって上等のトカイワインをねえ~、グイーといきたいよな、しかしハンガリーにゃ刺身はねえよなあ~」
と云いながら彼は冷酒をあおり、好物の〆鯖を注文する。酒が入ればいつもどおり、彼独特のスローテンポな江戸弁の独演会になる。
 まるで白髪頭の鬼瓦である。そんな井本の『赤ら顔』は、酒のエネルギーでさらに赤味を増す。井本は、酔うたびにますますご機嫌になる。今夜もまた、井本と本田は新橋の飲み屋で酒を酌み交わし、いつになく盛大に気勢を上げていた。
 気分よく、本田は翌朝の飛行機で東京を発った。

            (以上、長編小説「黄昏のポジョニ・ウッチャ」第一巻5章より、引用掲載 …了… )
 

出てきたお宝(2)

2007-10-25 09:45:15 | 趣味の話&本と雑学メモ
 「?!!……」

 また、出た!!!

 先週末のよく晴れた朝の事、探しものがあって倉庫に入ったら、またまた「お宝」(添付画像の通り)が出てきたのでご報告したい!

 
『故事・ことわざの辞典(定価:4,650.-)』
1986年1月1日  第一版第一刷発行
1990年1月10日 第一版第十二刷発行
          編集 小学館尚学図書
          発行所 株式会社小学館


 いかにも、ごっつい! 1277ページの圧巻である。

 先の記事にて案内した「広辞苑」と同じく、一度もページを捲られたことなく倉庫に眠っていた一冊、今の我輩にとっては、まさに「お宝」なのだ。
 
 想えば、過去40数年の長きに渡り国語を莫迦にし続け、日本語を粗略に扱い日本文化に親しみのなかった我輩にして、『故事・ことわざの辞典』の発掘は、まさに天の声とも言うべき発見なのである。

「・・・?」

 実を申し上げれば、我が国の歴史に疎く且つ日本伝統文化の素養浅き我輩は、このところ、あらためて日本語学習の重要性と必要性に開眼する。 つまり、古典や漢文を包括する国語学習に真摯に取組み、ひいては日本の文化や伝統をより深く知ってみたい、という小児的欲望の沸々と湧き上がってくる今日この頃、この一冊の発見はまさに青天の霹靂、且ついかにもタイムリーな出来事であるか。

 今日、来年のことを言うと「鬼が笑う」かもしれないけれど、一つ、来年は一年がかりで、この「一冊」を写経ならぬ写諺にて『手書き模写』してみたくなった。

 そう、一年かけて読破し、あわせて

    「これ!と思う、気になる諺」

を、(万年筆でもって、真面目に!)書き写してみたい。

 以下、さっそく今朝は寝起き掛けに「本書」の前書きならぬ「発刊挨拶?」文を書き写してみたので、以下に掲載しておく。

-------------------------------------

故事ことわざの辞典
尚学図書
小学館

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 『発刊にあたって』

 「ことわざ」の「こと」は言葉で、「わざ」は、神業、離れわざ、などの「わざ」と同源で、行為やはたらきを意味するものと思われます。「言葉のわざ」、それが「ことわざ」の本義でありましょう。

 だからこそ、たった数語のかたまりが、人を動かしたり、勇気づけたりする力を持っているわけです。時には鋭く、時にはやさしく、また、時には素直に、時には皮肉に、はたらきかけます。それと同時に、ことわざは、人を傷つけたり、しりごみさせたりする力を持っていることを忘れてはならないと思います。

 長い歳月の中で育まれ、大勢の人々によって様々な場面で使われてきたことわざは、これからも微妙に変化していくに違いありません。それは、世の中の移り変わりによることはもとより、私たちみんなの使い方にも左右されるものと思います。私たちは、このことも心して、ことわざを的確に使いたいと思います。そのためには、まず、ことわざのよってきたるところや、意味、用法をよく理解する必要があります。また、その多様さを知っておくことも有益かと思います。この辞書の本文と索引とを活用していただいて、ことわざの理解を深め、ことわざの世界を広げていただければ幸いであります。


  昭和六十年十一月

小学館 尚学図書 


                (以上、本書本文より引用・転載する)

久しぶりの晩酌!なのだ・・

2007-10-19 19:55:55 | 食彩+酒の肴
  !?……!!

 今夜は、花金・・・

 季節は、秋爛漫・・・

 このところ、神経衰弱的欝症状からの脱却・・・

 と、三拍子揃ったところで、久しぶりの晩酌ですよ!!!


 「・・・?」

 「酒の肴がない! …ですって?」

 「ご承知、エセ男爵メにとって、そんなものいりませんよ」

 「・・・!!?」

 「そう、この缶ビールのラベル『サントリーモルツ・プレミアム』の燦々たる黄金色を眺めているだけで十分、すでに酒の肴です・・・」

宮島の大鳥居&ミスターダンディーN.

2007-10-17 14:45:25 | 研究:「ダンディズム」
<添付画像>:広島県廿日市市宮島町にて、
撮影日時: 平成19年10月16日午前9時45分
撮影場所: 厳島神社
天 候: 秋晴れ!!!


Part-I

 ミスターダンディーこと、旧友N君の愛車「三菱ジープ」を駆って、秋の宮島を訪れたのは、よく晴れた秋の真っ只中、昨日(9月16日)の午前9時過ぎ、かねてから計画していた「大鳥居&ジープ」の撮影を敢行した。
 よく晴れ渡った早朝の日差しの中、こうして厳島神社の大鳥居を見たのは初めてである。

 早朝の宮島は、実にすがすがしい。 神社の参拝は早朝に限る、、、。



Part-II

 実はこの夏、N君を誘って「とある絵画個展」を鑑賞した時の話。 展覧会会場で、突如N君曰く、

 「この画家は気に入った、、、」

 「・・・?」(我輩、即座に意味解せず・・)

 「呉の海上自衛隊基地界隈で、瀬戸内海の風景と港を背景に潜水艦かイージス艦など描かれたものあれば、今直ぐにでも銀行に走り相当額の現金をおろしてくる。笑ってニコニコ、現金の即金で購入したい」

 などと、我輩を相手に、展覧会場内でつぶやき始めた。
                   (これでようやく解った・・)

 その画家とは、広島市立大学美術部出身の若き女性画家。 展示されている絵画は、酒処「西条の醸造工場跡地」や、古い町並みの保存された竹原市など、微細な写実的タッチの絵画は、将来を嘱望された郷土の新進女性洋画家である。

 我輩曰く、

 「この女性画家は、友人のSK画伯の知人のはず。 SK画伯に依頼すればこの女性画家を紹介してくれるはず! ならば貴兄の『要望』を伝え、直ちに呉市の海上自衛隊基地の取材を依頼し、創作に入ってもらえるかも?・・・」

 N君は本気になった、、、。

 そしてますます興に乗ったN君は、

 「いやその、この画家に自分の愛車の絵を描いてもらいたい。できれば、厳島神社の大鳥居を背景に描いてもらったら、僕は喜んでその絵を買う!」

 「・・・?」

 数日後、SK画伯に会って『その旨』伝えた。

 「先に俺の絵を買ってから、それから若いもんの絵を買って欲しい。順序が違うではないか!?」

 とか何とか冗談言いつつも、律儀なSK画伯はさっそく若手女流画家にコンタクトし、了解を取り付けてくれた。

 絵画創作に入る前に、希望する作品の画像を用意して欲しい、とのこと。 かくしてN君は、宮島行きのフェリーに三菱ジープを載せ、我輩を誘って厳島神社境内付近までジープを乗りつけたのであります。  

 かくして30数分間の長きにわたる撮影を開始する。 何とか、絵画発注の下書きはできたか。
 ようやくこれで、かの女性画家にお見せできる画像が出来たか。 他に数枚の痛快ショットあり。。。 さてさて数週間後、友人のSK画伯と会い、さらにはミスターダンディーN君と女性画家を引き合わせねばならない。



Part-III

 さて、これからどういう展開になるか、N君の願望する絵画作品は、本当に出来上がるのか。 何だか面白くなってきた。

 ジープを大切にするは、N君のこだわり。 大切な「自分の愛車」を、郷土の誇り「厳島神社の大鳥居」をバックグラウンドにして絵画の創作を依頼する?!

 「ムム、これぞ、ダンディズムの極致なり・・・」

 N君のこだわり世界には、我輩にして即刻脱帽です・・・


               -------------------------------------------------

PS:「ダンディズムとジープ」の過去関連記事は、こちらから入れます。


 <参考資料>

 〔厳島神社〕(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

境内
所在地 広島県廿日市市宮島町1-1
位置 北緯34度17分45秒
東経132度19分11秒
主祭神 市杵島姫命
田心姫命
湍津姫命
社格等 式内社(名神大)・安芸国一宮・官幣中社・別表神社
創建 推古天皇元年(593年)
本殿の様式 両流造
例祭 6月17日
主な神事 厳島神社(日本国)
  (英名) Itsukushima Shinto Shrine
  (仏名) Sanctuaire shinto d'Itsukushima
登録区分 文化遺産
登録基準 文化遺産(i) (ii) (iv) (vi)
登録年 1996年
拡張年
備考
公式サイト ユネスコ本部(英語)
地図

 厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。1400年の歴史をもつ。式内社(名神大)・安芸国一宮で、旧社格は官幣中社(現 別表神社)。日本全国に約500社ある厳島神社の総本社である。
 宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)を祀る。市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天と習合しており、当社は江ノ島・竹生島とともに日本三弁天の一つとされている。
 厳島神社のある厳島(宮島)は俗に「安芸の宮島」と呼ばれ、日本三景の一つとなっている。平家納経で有名。厳島神社の平舞台は、四天王寺(大阪市天王寺区)の石舞台、住吉大社(大阪市住吉区)の石舞台と共に「日本三舞台」の一つ。ユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。

目次 [非表示]
1 歴史
2 祭事
3 文化財
3.1 建造物
3.2 美術工芸品
4 名所・旧跡
5 台風被害
6 アクセス
7 登録基準
8 他の厳島神社
9 外部リンク
10 関連項目

 《歴 史》
 厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として信仰の対象とされてきた。推古天皇元年(593年)、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。文献での初出は弘仁2年(811年)で、延喜式神名帳では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載され、名神大社に列している。
 平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、仁安3年(1168年)ごろに平清盛が現在の社殿を造営した。平家一門の隆盛とともに当社も盛えた。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けた。戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢が徐々に衰退するが、毛利元就が弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き、当社を崇敬するようになってから再び隆盛した。元就は大掛かりな社殿修復を行っている。豊臣秀吉も九州遠征の途上で当社に参り、大経堂を建立している。 明治4年(1871年)に国幣中社に列格し、明治44年(1911年)に官幣中社に昇格した。
               詳しくは、こちらから(ウイキペディア百科事典)入れます・・・ 

非日常的行動;「百日紅」の花を観る?

2007-10-14 18:15:45 | つれずれ紀行
<添付画像>:我家の庭の片隅にある「サルスベリの木」・・
 撮影日時:平成19年10月14日 午後4時30分~45分頃、
 天 候: 曇り時々晴れ


    ???……!

 この数日、我輩の「非日常的行動」が目立つ。

 「・・・?」

 申上げたとおり、一般人の常識的且つ日常的行動は、我輩の非常識的且つ非日常的行動に等しい、、、。

 今日もまた、黄昏的晩秋の太陽光線を逆手にとって「逆光線の画像」撮影を試みた、、、。 合わせて、我家の庭に生息して久しい「百日紅の木」に乱れ咲く『百日紅の花』を観賞・・・

 サルスベリ!パソコンに入力すると、たぶん「猿滑」となって現れると思いきや、百日紅の転換文字になったから驚いている。 つまり我輩にして、sarusuberiなるものの「常識的日本語」を知らなかった。という、我輩の漢字記憶装置がいかに「寝惚けている」か! 記事投稿すればすなわち、勉強不足の実証となるから恥ずかしい。

 ま、恥を承知で書き殴るのが「エセ男爵的常識」だからいたしかたない。

 さてさて、こんなに百日紅の花が元気に咲いた年は「我輩の記憶」にない。 というよりも、いかに我輩がこの季節に自宅に居付なかったか!の、恥ずかしき証明になるか。

 それにしても、百日紅の花がこんなにも乱舞圧巻であること、認識が足りなかった。

 ムム、、、  かくして本日も勉強になりました。

 フィールドワーク的な勉強をした時にあわせ、机上の知識を取り込むと「記憶に残る良き学習」となるからして、事のついでに「ウイキペディア百科事典」を紐解き、我がブログに書き留めておくことにしますぞ!


PS: な、なんと! ウイキペディあによると、
 A) この百日紅の花、8月に咲くそうな・・・ どうしたことか? いまや10月も中旬なり! 何だか気候の狂っている証拠か?
 B) 我家の百日紅の花は「白」。 おおよそもっと赤味かかった「色調」にて咲くのが百日紅の花の色の主流らしい・・・
 * いろいろ調べてみると勉強になりますです…


 <引用:Wkipedia encyclopaedia より>

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(詳しくは、こちらから「ウイキペディア百科事典」に入れます・・)

《サルスベリ》出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

分類
界 : 植物界 Plantae
門 : 被子植物門 Magnoliophyta
綱 : 双子葉植物綱 Magnoliopsida
目 : フトモモ目 Myrtales
科 : ミソハギ科 Lythraceae
属 : サルスベリ属 Lagerstroemia
種 : サルスベリ L. indica

学名
Lagerstroemia indica
和名
サルスベリ
英名
Crape-myrtle
サルスベリ(百日紅=ヒャクジツコウ、学名:Lagerstroemia indica)は中国南部原産のミソハギ科の落葉中高木。タネから栽培する「あすか」という一才物の矮性種もある。

特徴
8月頃咲く紅または白色の花が美しく、耐病性もあり、必要以上に大きくならないため、しばしば好んで庭や公園などに植えられる。

葉は通常2対互生(コクサギ型葉序)、対生になることもある。花は円錐花序になり、がくは筒状で6裂、花弁は6枚で縮れている。果実は円いさく果で種子には翼がある。サルスベリの名は幹の肥大成長に伴って古い樹皮のコルク層が剥がれ落ち、新しいすべすべした感触の樹皮が表面に現れて更新して行くことによる(樹皮の更新様式や感触の似たナツツバキやリョウブをサルスベリと呼ぶ地方もある)。つまり、猿が登ろうとしても、滑ってしまうということで、猿滑とも表記することがある。英語名Crape myrtleはミルテの花に似て花弁が縮れていることから。中国では紫微(宮廷)によく植えられたため紫薇と呼ばれる。

非日常的な日々・・

2007-10-10 23:59:55 | つれずれ紀行
<掲載画像>:元気に夏を生き抜いた「とある植物」の晩秋・・
撮影場所:我家の庭先にて
撮影日時:平成19年10月9日午後3時過ぎ
天 候:曇天時々薄日射す・・


 ふと、庭の草花に視線向いた、、、。

 どう云う訳か今年の秋は珍しく、郷里の自宅にいる。 ならば、この数年間の「秋の頃」を振り返ってみたい、、、。 


 昨年のこの時期は軽井沢にいた。

 毎日、気ぜわしく長野県の観光地を徘徊していたこと思い出す、、、。 それなりの肉体労働もこなし、夜な夜な友人知人と示し合わせ軽井沢の居酒屋やレストランを徘徊し、酒精分を取り込み気炎吐いていたこと思い出す。 忙しかったけれど、日々愉快に過ごしていた。

 一昨年のこの時期、東富士山麓の「富士スピードウエイ」にいた、、、。 レース観戦し、夜な夜な御殿場の夜の巷を徘徊し、これまた酒精分を取り込み気炎吐いていたこと思い出す。 忙しかったけれど、日々愉快に過ごしていた。


 軽井沢と東京経由にて郷里に帰ると、ドッと疲れが出て「夏風邪」ならぬ『秋風邪』を引いてしまい、約半月間にわったって頭脳朦朧。 毎日、何をやっているのやらさっぱり判からなかった。 つまり、作業しならなければならぬこと全く捗らず、おおよそ1ヶ月も病に臥せっていた、、、。
 風邪の抜け切らない秋の夜長、頑張ってカキモノを書き進めた! それなりの緊張感あって、楽しかった、、、。 この頃、可能な限り酒精分の摂取はひかえた、、、。


 そして二昨年前?(こういう日本語はないぞ!おかしい?)
 そう、つまり、一昨年のその前の年!すなわち平成16年はどうであったか?

 あの頃、御殿場からさらに東富士山麓裾野を登ること約20km? 静岡県の駿東郡小山町在所なる名門フレンチレストラン&ホテル、すなわち Auberge Blanche Fuji にいた、、、。 日々、オーベルジュを訪れるお客さまとの接点あり、忙しくも痛快な日であった、、、。

 その前は? 

 ほとんど日本に居なかった、、、。

 「・・・!」 

 「な、なるほど、、、」

 いずれにしてもこの4~5年間、秋になると郷里を離れ「旅人」に早変わりする日常を繰り返している。

 あらためて「今年の秋」を振り返ると、如何?

 郷里にいる。 自宅に居る。 目的は、長年書き続けている「長編小説」の発刊に向け、作業を進めている。

 初出版に向けた作業は凡そ決着付いたけれど、ますます落ち着かない。

 そして今、自宅にいるなど、珍しい、、、。 そして、落ち着かない。

 「・・・?」

 そうなんです。

 そろそろ旅に出ないと落ち着かない? 普通の人の日常が、我輩にとっては非日常なのです。

  「どこか、旅に出たい!」

                  そんな想いの、今日、今夜、なのです。


         <「非日常的な日々」・続く・・>

非日常的行動;30年ぶりの「ナイター観戦」!?

2007-10-08 15:15:15 | つれずれ紀行
 自慢にもならないが、我輩ほど野球を観ない人間も珍しいであろう。

 プロ野球3時間近くもダラダラと長い長いゲームをやる。 それをテレビで観戦するなどもってのほか、なにか好きな映画かドラマでも見ているほうがよほど退屈しない。

 という趣味嗜好にして日常的生活習慣を持つエセ男爵にして何故かこの秋、広島市民球場に出向く羽目になった。

 週末10月6日(土)のこと、野球大好き人間の友人に誘われて(渋々ながら)30年ぶりにナイター観戦に行った。 当日は、佐々岡投手の引退登板有りとのこと、いつもがら空きの広島市民球場にして珍しく2万9千7百人以上もの入場者あり、ほぼ満席状態。 我々の陣取った1塁側内野自由席には老若男女且つ善男善女打ち揃って叫ぶは喚くはメガホンは打ち鳴らすは、四六時中大騒音の中に約2時間45分も付き合ったから堪らない!

 ならば、郷に入れば郷に従え!

 いつしか我輩も、広島市民球場の醸し出す何とも表現のし様もない「興奮の坩堝」に嵌り込んでしまい、我を忘れて大声を出し、郷里の三流球団「広島カープ」の熱戦に声援を送りつつ、堪りに溜まった日頃のストレスを発散すべく適度なガス抜きを施しつつ、爽やかな秋の一夜を過ごしたのであります。

 ゲームは、これまた珍しく10対1にて広島カープの圧勝。 9回表の1失点は、佐々岡投手の清く正しい「ホームラン打ってくれ好投」の唯一一球を、これ見逃さず横浜の5番バッター村田は快打! 25号ソロホームランをかっ飛ばした。 引退寸前、18年も頑張った佐々岡投手! これ、お愛想だ!で、あるか。

 広島カープ一筋に18年間、本当にごくろうさまでした・・・



 そして我輩の大好きな前田君に、初めてお目にかかる。

 何故か、我輩は前田選手のフアンなのです!!!

 あの、頑固一徹の職人気質というか、男伊達というか、往々にしてシャイ?と、いうか、、、。 2000本安打達成の時、そしてこの土曜日「佐々岡引退挨拶」の時、彼は、「男泣き」した。 我輩、前田が顔中に涙を流していたのを、視たのであるぞ、、、。

 そう、彼には、ある。 男特有の哀愁と、そこはかとないダンディズムを、我輩は前田選手から感じて止まないのである。 

 そんな思い入れのある前田選手を、双眼鏡で追った、、、。

 下記添付の画像は、試合開始前の練習中に撮影した前田君の雄姿(3人の真ん中)、持参していったNikonの望遠鏡と莫迦著ンデジカメをくっ付けて撮影に挑んだ、、、。
 
            (なんとなくどことなくピンボケだぁ~・・)



 前田智徳選手! 来年も広島カープで頑張ってくださいよ!

 あ~
 テレビで野球観戦しない我輩であるけれど、久しぶりに広島市民球場に出向き、ナイター照明に照らし出された球場の芝生の中にカープフアンと共に佇めば、ストレスは解消し、加えて程好い気分転換になった、、、。 

 
 ありがとう! いやがる我輩を無理やりナイターに誘ってくれた旧友HD君!
           
              また来年も誘って連れて行ってくれぇ~・・・

 ありがとう! 広島カープの選手たちよ、、、。

 ありがとう! 広島カープフアンの「同志たち」よ、、、。

 ありがとう! 佐々岡投手、、、。                    

 さようなら~ 佐々岡投手、、、。


           ----------------------------------------

《参考資料》

『前田智徳』
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
前田智徳 国籍 日本
出身地 熊本県玉名市
誕生日 1971年6月14日(36歳)
身長・体重  175 cm 80 kg
守備位置 左翼手
投球・打席 右・左
背番号 1
年俸 2億1000万円(推定)
デビュー年 1990年
経歴 熊本工-広島東洋カープ
テンプレート
前田 智徳(まえだ とものり、1971年6月14日 - )は、広島東洋カープ所属のプロ野球選手(外野手、右投左打)。熊本県玉名郡岱明町(現玉名市)出身。血液型はAB型。背番号は1。

 <目次>
1 来歴・人物
2 略歴
3 経歴・タイトル・表彰・記録
4 記録達成歴
5 年度別成績
6 人物評
7 前田語録
7.1 プロ入り前
7.2 プロの道へ
7.3 最初の試練
7.4 再び襲った試練
7.5 復活、そして大記録へ
8 関連項目
9 外部リンク

<来歴・人物>
 熊本県立熊本工業高等学校時代には2年時の春・夏、3年時の夏の計3回甲子園出場を果たした。特に主将として臨んだ3年時の夏の甲子園では4番・中堅手として出場し、敗れた2回戦では最終打者(結果は三振)となった。
 1989年ドラフト4位で広島に入団。1990年2月のオープン戦でロッテオリオンズ戦に7番打者として先発出場、5打数5安打(4二塁打)と鮮烈なデビューを飾るなど、高卒ルーキーながら卓越した打撃センスの片鱗を見せた。また2年目の1991年には、1番・中堅で先発出場したペナントレース開幕戦の初回にいきなり初回先頭打者本塁打という形でプロ入り初アーチを記録するなど、入団後、早い時期から何かと注目される選手の一人となった。以後、規定打席到達した年では1991年と2003年の2シーズンを除いてすべて打率3割以上を達成しており、特に1994年と1998年には首位打者争いを繰り広げた。
 しかし、1995年の右アキレス腱断裂後から現在に至るまで、その後遺症などを抱え苦悩する。1998年に後遺症の残る足の負担を軽減するため、中堅手から右翼手へコンバートされた。また2000年夏には左アキレス腱にも断裂の恐れが生じ、手術とリハビリを余儀なくされた。
 その高い打撃技術からレギュラーに定着して以来、歴代の首脳陣から再三4番打者への転向を勧められている。また実際、1994年に三村敏之が監督に就任した際には前年まで4番を打っていた江藤智が3番、同じく3番だった前田が4番という打順を編成した事がある。しかし共に不調に陥り、前田が「僕は4番というタイプではない。長打力のある江藤さんが4番を打つべきです」と三村に意見し、前年までの打順に戻っている。その後2000年、達川光男(晃豊)が監督に就任した際にも4番に指名された。この際も前田は「自分は4番を打つだけの打者ではない」と固辞し金本知憲(現阪神タイガース)を4番に据えるよう懇願したが結局は達川の説得に折れ、承諾。開幕戦で本塁打と犠飛を放つなど活躍し、同年4月の月間MVPを獲得したものの、その後は故障などで不振に陥ると、5月9日の対ヤクルトスワローズ戦では4打数無安打に倒れ、ベンチでひとり涙した。前田本人は「(4番を打つのは)気持ち的に中途半端で、あまり前向きになれなかった」と語っている。その後も歴代首脳陣からは何度も4番の要請を受けているものの、足に不安材料を抱えることから「4番打者は全試合出られるような人間でないとダメ」と前田自ら固辞している。
 なお3割到達回数11回は、現役最多。2003年には右翼手よりも更に負担の少ない左翼手にコンバートされた。2005年シーズンは自身記録を更新し、念願の全試合出場達成を果たした。
 2006年は、かつてのチームメイトであるマーティ・レオ・ブラウン新監督から野手のキャプテンに指名された。開幕当初は打撃技術と出塁率の高さを買われて2番打者に指名されたが、打順を意識し過ぎたためか打撃不振に陥った。しかし、従来の5番に戻ってからは冴えた打棒が復活し、最終的には3年連続の打率3割、5年連続20本塁打を達成。同年シーズン終了時点で現役通算2000安打まで残り94本となり、年俸も大台の2億円を再び超えた(金額は推定)。
 以前はマスコミの前でも寡黙を通すことが多いことなどから「求道者」「侍」などと評される。かつては決勝打を放ったり好成績をマークした試合でもヒーローインタビューに立つことは余りなかった。だが実は饒舌で、主将に指名された2006年からは積極的にお立ち台の要請を受けるようになった他、同年オフのカープ特番ではかなりの饒舌ぶりを披露していた。また同年のファン感謝デーにおいては共にトークショーに出演した森笠繁に凄まじいまでの駄目出しを披露した。

 <略歴>
身長・体重:175cm・80kg
投打:右投左打
出身地:熊本県玉名郡岱明町(現・玉名市岱明町)
血液型:AB型
球歴・入団経緯:熊本工高 - 広島(1990年 - ) 
FA取得:2000年(現在も有資格者)
プロ入り年度・ドラフト順位:1989年(4位)
英語表記:MAEDA
推定年俸:2億1000万円
守備位置:外野手(左翼・(右翼)・(中堅))

(詳細は、こちら、ウイキペディア百科事典へ・・)

非日常的な「今朝」・・

2007-10-05 09:15:45 | つれずれ紀行
<添付画像>:
 撮影場所:自宅入り口付近
 撮影日時:平成19年10月5日午前6時15分?頃・・
 天 候: かろうじて「晴」


 「・・・?」

 「はい、珍しく5時半頃、目が覚めたのでして・・」

 「・・・!」

 「快眠可能となったのです。秋ですなぁ~」

 いやはや、寿命をちじめるか? と、思うほどに、めずらしく「ありえないこと」が起こりまして、じつは不眠症に陥ったのではないかと思ったくらい「眠れない夜」続き、ほとほと弱っていたのでありますが、このところ何とか持ち直し、快適に安眠できるようになったのであります。

 つまり、通常、睡眠開始する時間帯は、午前1時30分~2時30分。 このところズ~と3時から4時。 いかにも、これは遅すぎますです。

 そして昨夜は(これまためずらしく)、有り難くも午後11時過ぎになったら突然に睡魔らしきもの襲ってきたのでありまして、ベッドに入るやいなや直ちに睡眠開始、、、。 こういう時間帯に眠ること、最近はめったに無し!

 そして今朝、目覚めたのは5時30分。(ちょっと早すぎたか?)

 とにかく丸々6時間、熟睡した次第です。

 ならば!
          めずらしく早起きした証拠を記録すべし!

 などと、朝っぱらから庭をごそごそ一回りして、日の出前の東方を遠望?
 
          かくして、かくなる画像をおさめた次第です・・・

 「・・・?」

 「そう、庭の行灯は周囲の照度に合わせた自動点滅でして、まだこの時間、充分に夜の反応にて『点灯中!』です・・・」

 おっと、やはり、少し早起きしすぎたか?

     (恥ずかしながら、またまた睡魔が襲ってきました・・・)