Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

ようやく風邪の抜けかかったころ、すがすがしい朝、、

2009-10-31 10:00:15 | 小説家・トーマス青木
 まことに寝覚めが良い。

 なぜか? その理由は単純である。

 本日が休日だからだ。 くわえて、先週水曜日に風邪引きの兆しあってから10日目、ようやく風邪(新インフルではなさそうだ)が身体から抜け切ろうとしている予感がしたからだ。

 そんなボンヤリした体調で目覚めのコーヒーを飲んでいると、今朝は自分自身の「ガキの頃」を思い出す。
 こどもの頃は、理由もなく休みが待ち遠しかった。 いや、やはり理由があった。 どちらかと云えば学校に行きたくなく、自分一人だけで自由に一日の計画を立てて自分の好きなことをして遊んでいたかった。 今にして思えば、定められた時間に束縛されつつ、あまり付き合いたくもない同年代の人間に取り囲まれて生活する時間が嫌いだった(らしい・・・)。
 すなわち、「人間嫌いなガキ」だったのかもしれない。

 さて、社会人になってからのこと。
 つまり、サラリーマンになってからのこと。
 20代になってからは、子ども時代よりは、格段に快適で自由闊達な人生を過ごしてきた記憶が蘇る。 やりたい事は自分で選択でき始めたのは社会人になってからで、活動行動が限定されていた子ども時代とは打って変わって自由と開放感を満喫できた。 「大人になって良かった・・・」と、何度も思ったのは私の特殊な少年時代を過ごしてきた比較対象論的成果だったのかもしれない。 仕事も、今にして思えば、どちらかと云えば「好みの仕事」に就けた。 仕事の周辺にも好みの人種ばかりが適宜存在した。というより、自分の目指すところの「立派な人間(おとな?)」はたまた尊敬敬愛できる「偉大な人間」が、たくさんいた。 
 40歳を境に、このあたりの環境が変ってきた。
 思いがけないシナリオが出現し、予測だにしなかったキャラの人種に出くわした。
 未知のシナリオを背景に予測不能なキャラクターを持った異人種とコラボしなければならない仕事はまっぴら御免蒙りたいけれど、何故か、周囲はそんな連中で埋め尽くされてしまっていた。 そんな輩とのコラボで出来上がった仕事の成果なんて不満足この上ない。 したがって、やることなすこと全てが不完全燃焼となる。 普通、仕事なんてその繰り返しだ。 大きな企業の頂点を極めたビジネスマンとて、所詮、周囲の組織に支えられて成り立つもの、自分一人で得た成果なんて毛頭在りっこない。 全て、組織に所属する人間のコラボに拠って出来上がったもの。 組織との協調によって得られた成果なのであるからして、そのこには自分の個性は反映されていない。
 しかししかし、自分はまわりに支えれれて生きて来られたことは間違いない。 つまり、周囲の支えがなければとっくに死んでいた人間なのだ。

 『死にかかわること』ですって?
 そう、
 「いつ死んでも構わない」。。。
 ?!!
 「死にまつわる恐怖も、何とか乗り越えてみせる!」
 死の恐怖に立ち向かうことが勇気と言えるかどうか?否、勇気に至らず蛮勇であろうとも、その蛮勇は持ち合わせている。
 「死の瞬間の苦痛も乗り越えられる・・・」
等々、
いつでもどこでも『死』に対峙する覚悟はとっくにできている。 しかししかし、このまま死んでは枯れ朽ちる雑草以下であって、如何にも人間らしくなく、所謂不完全燃焼のまま逝くのはみっともなさ過ぎる、、、。

 そこで思案した。 
 「今のあいだに、自分が生きて来た『あかし』を残すような活動をしなければならない・・・」と、
思い立ったのは、かれこれ6年前になるか。 ちょうど『エセ男爵酔狂記 PartII』の始まった頃、いや、その1年前か。
 それは?
 『書くこと!』で「某か?」を残す。ということで始めた環境創りと生活パターンは、かくして6年経過。
 それが今年になって又、少し変った。
 それは、自分らしさ自分好みの環境を作りその中で自由奔放に振舞いたく始めた『執筆活動』を敢えて中断し、始めたのが『宮島での活動』。
 今やユネスコ指定なる世界文化遺産「宮島」に行き交う事、月間20日間も往来するサラリーマン的生活パターン発生である。
 当初は両立させようと思いつつ、両立するはずの『異なる2つの活動』は半年経っても両立せず、想定していた以上の疲れが蓄積していたところに加え、わずかの不注意が引き金となって引いた風邪の元の元の原因は、やはり「両立しない活動」を同時進行させている自分・トーマス青木自身にあります。
 「もういい加減にしたい、、、」
 元を糾せば、
 そもそも、いまどき、他人様との係り合いの仕事をすることが間違っているのかも。
 自分自身の内部には、妥協する精神など微塵もなく、やたら協調も時間の浪費と考えるようになった今日この頃、もはやこれ以上「妥協の副産物」の処理云々に加担するつもりはない。 なによりも改めて自分自身の純粋な本来的活動に立ち戻りたい!
 そして、今朝、本日一日、風邪の治りそうな気配と相まって、上述の不愉快的環境からわずかでも離れることのできる開放感から、とてつもない「すがすがしさ」を覚える。 そして久方ぶりに我が両極の師のお1人:開口健先生の名エッセイ集『開口閉口』でも開いてみるか、、、。(トーマス青木)

開口閉口 (新潮文庫)
開高 健
新潮社

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17年も掛った「暗夜行路」の完成、、、

2009-10-22 09:45:15 | 小説家・トーマス青木
 月日のたつのは早いもの、『黄昏のポジョニウッチャ』初版出版(平成19年12月10日)から2年近く経過する。

 「第2巻を読みたいのだが、どうなっているのか?」

 「・・・・!」

 「いつになったら出版されるのか?」

 等々、「黄昏のポジョニウッチャ・第1巻」をお読み頂いた読者(たとえば100人の内、わずかに4~5名)さまより、最近になって催促はたまたクレイムのお声を頂いている。

黄昏のポジョニ・ウッチャ
トーマス青木
リトル・ガリヴァー社

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 何とか二巻まで書き進めているものの未だ最終計四巻の脱稿までには程遠く、只今、執筆作業挫折ならぬ中途放棄し、日々生計を立てるための仕事に勤しむ毎日が続いているのであります。すなわち『みやじま体験観光案内ネットワーク』のプランナー業務(慣れぬ国内旅行着地型ツーリズム企画)に翻弄されつつ瞬く間に、半年間経過したのであります。
 もともと海外旅行の企画と営業の出身でありまして、国内旅行しかも着地手配の発想なんて微細すぎ、我が大まかにして粗雑な頭脳では、とてもじゃないが良い企画なんて生まれようもなく、まして舞台が宮島となるとこれまた「我が感覚」とのズレが大きいこと、今になってあらためて痛感している今日この頃であります。
 加えて、通勤時間の長いこと長いこと。
 ちなみに、
我が家から徒歩10分のバス停に辿り着き、 -(10分)
バスに乗り揺られること約25分、     -(25分)
JR西広島に到着、
JR山陽本線下りに乗車しJR宮島口駅到着。-(約23分)
宮島口駅から徒歩約3~5分にて宮島口港へ、-(約7分)待ち時間を含む、、
フェリーに揺られて宮島へ渡る。      -(約10分)
宮島に到着後、宮島港から徒歩にて、職場へ、-(約5分)
                 ようやく「info.表参道」へ到着。

 そう、この間の通勤時間は≒おおよそ80分?乗り換えなどの「つなぎ時間」を入れれば、なんと!片道1時間45分もかけて、且つ3回も異なる乗り物に乗り換えて通勤している、未だかつてこんなに時間をかけて通勤した経験のない私。この馬鹿馬鹿しさに、あらためて気がつくのであります。

 我が人生に残された時間は長くなく、あれこれ考える前に、ちょいと気合入れて執筆活動に戻りたく、できるだけ早く『書きかけの小説・黄昏のポジョニウッチャ』から脱稿したく想えども長い道のりでして、「死ぬまでに書けば宜しい」と安堵?の一言を言って慰めて?くれるモノカキ仲間も居たりして、なれどなれど、
 「待つだけ待ってやるからそれまでに、ピリリと気の利いたエッセイを書き上げてしまえ!」
 と、先ごろ、気合を入れて下さった出版社編集長あり、、、。

 ちょいと気合入れて、エッセイ書きますか!!!!

 
 志賀直也先生は、17年もかけて『暗夜行路』を執筆された。 なれど、志賀直哉先生の真骨頂は『短編小説』にあった。 畏れ多くて志賀先生と比較しようもないけれど、心意気は志賀先生にあやかって、ひとつ面白おかしく軽快に短編小説ならぬ纏ったエッセイなど書き上げてみたい、、、、。 (トーマス青木)


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暗夜行路
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


暗夜行路(あんやこうろ)とは志賀直哉の小説である。雑誌「改造」に1921年(大正10年)1月号から8月号まで前編、1922年(大正11年)1月号から1937年(昭和12年)4月号まで断続的に後編を発表。志賀直哉唯一の長編小説で晩年の穏やかな心境小説の頂点に位置づけられる作品。四部構成。

なお当初は1914年(大正3年)に『時任謙作』という題で東京朝日新聞に連載される予定だったが、挫折。完結までに17年間の時を要し、大変な難産だった。