Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

がんばれ!ウイキペディア……

2011-12-26 20:28:45 | 教養・文化・歴史

Support Wikipedia

 前々から気になって仕方なかった『ウイキペディアへの寄付』を、たった今、済ませた。 そして上部記載のバナーを手に入れたので早速貼り付けました。

 吾輩の寄付金額は恥ずかし過ぎるほどに僅かであるけれども、ウイキペディアの存在を知って以来約5年、あまりにもお世話になりすぎていて、苦悩するウイキペディア組織の状況を斜に見て数か月経過し、これ以上は見て見ぬ振り出来ず放っておけず、どうしても寄付しなければ後にも先にも動きが取れず、放っておいてはみっともなく、遂に寄付に及んだ次第であります。
 なんだかウイキペディアが潰れそうな様子でして、若しほんとうに潰れてしまっては、ウイキペディアが無くなってしまっては、吾輩は非常に困るのであります。
 今や好むと好まざるとにかかわらず、21世紀的グローバル情報社会の真っただ中、すなわちインターネット時代の世の中にあって、何が一番有り難いか?と問われれば、『数日間かけて調べなければ得られぬ情報』が瞬時にして得られる状態にあることが嬉しい。
 中でも、ウイキペディアの存在は貴重です。
 そう、微力ながら、ウイキペディアの存在を維持し、守り、且つ育て上げる助力になれば大変光栄であります。
 さて、日本を愛する我国知識人各位、ウイキペディアの存在価値と意義を明確にご理解されておいでの諸兄姉よ! いざ、ウイキペディアにご寄付賜らんことを切に切にお願い申し上ぐる……



ps: 事後投稿関連記事(平成24年2月4日記事)へは、こちらから入れます。

産経抄(12月21日より)

2011-12-22 16:07:29 | 教養・文化・歴史
<添付画像>産経新聞一面『産経抄』より
(撮影月日)平成23年12月21日

 北朝鮮の金正日が死んだ。

 報道によると「早朝(午前8時30分)のこと、移動のための列車の中で『心筋梗塞』による、云々……」とある。
 その時刻は朝。 朝の美しい国(北)朝鮮の独裁者の死は、朝の清々しい時間でなくてはならないから、すなわち昼でもなく、ゆめゆめ夜ではないのだ。 しかも仕事で移動する目的により乗車した特別列車の中で死の出来事に見舞われたのだから、如何にも美しい死に方であるぞ。 まぁ~どのみち『いかがわしい人物』が、いかがわしい『死に方』をしたに違いない。 つまり、 
 ひょっとすると暗殺があったのではなかろうか?
 脳梗塞やったのだから、いつどこで死んでもおかしくないか。
 いやいや、もっと別な呑み助的助兵衛風中高年男のボンクラ的死に様だったのかも?等々、、、
 いろいろ邪推していたら案の定、吾輩の敬愛する産経新聞『産経抄』にてこれを取り上げておられるから安心した。
 ま、極東の某ボンクラの死亡報道が如何に虚飾にまみれているか!を堂々と書き下ろされているから爽快だ。 いつもの通り、産経抄を切り抜き(畏れ多くも)掲載する。 すでに読まれた方も、まだ読まれていない方も、今一度お目通し願いたい……


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  『産経抄』

 本当に飛行機嫌いだったかどうか、わからない。しかしどこへ行くにも陸路、鉄道を使っていたのは事実だ。むろん北朝鮮の金正日総書記のことである。今年8月にはロシアのシベリアを横断してバイカル湖東の町まで、3日も4日もかけて旅をしている ▼昨年夏にも、好太王碑で知られる集安から中国に入り、くねくねした鉄路を伝い長春に向かった。いずれもロシアや中国との厳しい首脳外交に臨むためである。ではあるが、列車旅行が好きな日本の「乗り鉄」には、うらやましくなるような「外遊」だった ▼その金総書記は「現地指導」のため列車で移動中に心筋梗塞を起こし、亡くなったという。それだけ聞けば、いかにも「らしい」最後だった。朝鮮中央放送も「人民の幸福のために昼夜を分かたず精力的に活動していた」とたたえた。「殉職」であったと言いたかったようだ ▼だが、 額面通りには受け取れない。移動中といっても、どこを移動中だったかは明らかでない。亡くなったのは午前8時半だというから、列車に乗ったのはかなりの早朝だろう。健康不安のあるトップが何故そんな時間に、という疑問も残る ▼拉致事件でも秘密主義や虚偽の連発で、日本人が何度も煮え湯を飲まされた国だ。別の時間と場所で、別の理由により亡くなったのを「人民のために列車内で」というふうに美化したのではないか。そんな疑義を持たれても仕方ないかもしれない ▼北朝鮮では、金総書記は抗日パルチザンの拠点だった白頭山で生まれたとされる。だがこれは指導者を神格化するためのもので、実際はロシア極東との説が有力だ。もし死去までが虚飾だったとすれば、あまりに寂しい気がする。 
(2011.12.21)産経新聞1面・産経抄より転載

柿の色彩;「ミリキタニの猫」より(3回連載ーその1 )

2011-12-13 17:35:45 | 怒素人的美術蘊蓄録

 柿の赤が「こんな色」になるとは!?!

 今年は柿の豊作とのことにて、あちこちから柿を頂き続けて早くも一ケ月経過。かくしてビタミン補給を意識しつつ朝な夕な思いつくままに柿を食し続け、すでに60~90個程度の甘い柿を食した。
 なんだか今年は柿が豊作らしいけれど、「吾輩にして、この世に生を受けてのち初めての出来事に違いない……」

 ……思い出す。
 子供の頃、親から何度も言われていた。「ミカンは大丈夫だけれど、柿は体を冷やすからけっして食べ過ぎてはいけない……」と、、、。
 ガキの頃と比較すればするほどに、今年のようにたくさんの柿を食した経験は、未だかつて、無い。
 「思うがままに存分に、もう十二分に食べた、食べ飽きた。今年はこれで柿は終わりか?……」と思っていたら一昨日、またまた30個ばかり頂いてきた。
 「長らく木の枝にぶら下がったままの実であるから少し傷んでいる。見てくれは良くないがよく熟れているから美味しいよ……」
 今尚元気な親戚の叔父貴の庭にある柿木に生ったもの。遠慮なく頂いて帰り、飽きもずに再度食す。

 そうです。
 これはめちゃ甘くて、この秋になって頂いた数十個の柿の中でも、この柿はひときわ美味であるぞ。
 あらためて熟した柿の実が『このような赤色』になるとは思いもしなかった。というより柿色独特な赤味を、日本の秋を彩る柿色独特の美しさに気付いたのは、この年齢になってから初めてか。 何度も申し上げていると思うが、若かりし頃の吾輩は仕事柄、敢えて季節感をかき消した生活をしていたし、いわんや郷里の四季折々の観賞や感傷に浸っている感性など皆無であった。 ようやくこの5~6年、ようやく日本の四季の美しさに関心を持ち始めている。

 さて、この柿の赤!
 極めて柿的に赤く、且つ熟した柿独特の風味を愛でつつ食しながら、「さて、どこかで見た記憶のある赤色ではないか」と感じる。
 そう、(遅ればせながら)この秋のBSテレビの何れかの局で放映且つ録画した『ミリキタニの猫』で、かのミリキタニ画伯がニューヨークの某公園傍の路上で熱心に描いておられたパステル絵画の中に『ふるさとの柿』あり、その柿の色とほぼ同種類のものであると判った。
 そう、……2か月前を思い出す。
 暑くなったり涼しくなったり、いやいや未だかなり暑かった初秋10月上旬のこと、短編ドキュメント映画『ミリキタニの猫』を録画する。観る毎に新しい発見のあるこのドキュメンタリー映画は、2ヶ月の間にすでに5度観賞した。幾度か録画を消そうかと思ったけれども、この映画はしばらく残しておこうと思い、且つ何度か映画鑑賞感想文を書こうと思った。が書けなかった。短編で単純なストーリーなのであるが、いざ何かを書こうと思うとドッコイ、それが何も書けない。書こうとすれば書けなくなり、何も書けずに2ヶ月半も経過する。はや、師走になってしまった。
 柿を見て、柿の色を観て、思い出した。
 そうだ!この柿の色とミリキタニ画伯のパステルの色合いが同じだということを思い出した。
 このドキュメント映画の最初にシーンは2001年晩秋。如何にも底冷えしそうな、湿気の高いベタ雪の降る、ニューヨークのダウンタウンだった。確か、ソーホー地区の歩道上に段ボールを廻らし寒さ除けのビニールシート(透明)で覆い、画伯は自らのアトリエ空間を確保し、真夜中まで絵を描く。
 「ほとんど眠らずに翌朝を迎えるホームレスの老人(ミリキタニ画伯)をインタビューするシーンからだった……」と思い浮かべつつ、更に翌年の秋口に描かれる画伯の絵画は柿の実を配列した色彩豊かな静物画のシーンを思い出した。個性豊かで色彩豊富なミリキタニ氏の絵画から、第二の強力な印象『巨匠の郷里の柿の実の赤色の印象』を回想した。
 かくして、手元の柿の実が見事にミリキタニ的赤色に発色している様子を見届け、ついに『ミリキタニの猫』の鑑賞感想文を書いてみる決心した次第であります。<…続く……>