Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

ピンポイント作戦:江田島周遊 1/5 (平成19年3月30日の出来事より・・)

2007-03-31 20:15:25 | つれずれ紀行
<添付画像>:広島県江田島市・某所にて撮影。日時(平成19年3月30日午後2時頃・・)

 
 
  週末のよく晴れた日の午後、

    晴れて!
   (真面目に初めて!という意味にて・・)

        ・・・江田島半日周遊ドライヴを敢行?
                             否!観光した。

 メンバーは?

 と、問われれば、答えよう!

例の「NPO発足検討委員≒(yy君、N君、及び我輩)」による探訪調査隊!名だたる不良シニアの精鋭3名による、、、。

 周遊ドライヴ敢行して、良かった!

 なぜならば、「某場所・某地点」に於いて目的達成にやや接近。 そして、『良きポイント』を発見したのである・・・

 美しき添付画像(自己満足か?)、とくとご覧頂きたい!

 ともかく、低迷沈滞して行く江田島にて、かような風景に「出会える」とは思いがけない幸せである。失礼!某地の低迷沈滞ムードとは、我輩の判断基準にて江田島語出身の諸兄姉に対しては甚だしき暴言か。若し、ご意見同じならばそれで良し。異なっておれば、平にご容赦のほどを、、、。お許しいただきたい・・


 ともあれ、少しばかり江田島を見直したゆえ、かくなる上は暫しの連載記事にしたため、「江田島の印象」と「探訪当日の逸話」をお伝えしたい・・・


 <・続く・・

 <追記>:
 申上げておきますけれど、往年の二枚目俳優ウイリアムホールデンの「ヤヤにやけ風甘口油性面」と、俳優としての「ベタツキ軟弱風個性」は、我輩にとって「ダンディズムの範疇」にあらず。当時の日本人の欧米人に対する平均的二枚目価値判断基準、未だに解らず・・・
 

#2 仲間の組織化について (2/2) 「NPO化? or 私企業化?」、方向ほぼ決定か?・・・

2007-03-29 22:15:55 | つれずれ紀行
<添付画像>:
撮影場所:沖小学校(中学校)正門前付近より左手(たぶん?西北西向き)を眺める。江田島の西側沖美地区の南北を縦断する道路一本隔て、曇天の瀬戸内海は広がる・・・
撮影日時:平成19年2月下旬、午前11時頃

   --------------------------------------------------------------------

 集会の結果、流れは私企業化ではなくNPO法人設立の方向となり、おおよそ以下の状況となった、、、。

A.当面、楽農大学を法的に組織化するのは無理であるし、切り離して考える。
B.加えて、(我輩の提案に対し)まず最初に、全国より「会員募集」し多額の入会金を集め、ローカルの地域に「居住の地区」を提供し、運営管理して利益を上げるのは如何なものか?!これも実績と経験を積み上げた上の結果的商行為となるか?ならば、二次的活動と考える。

おおまかな結論は、
C.いうなれば、
 (1)エコ・ツーリズムを提唱実践し、
 (2)加えてグリーンツーリズムを併用的に作動させる?という「活動」になるのではないか?!
 等と、
 あえて加えれば
 (3)上記2項の各活動に、国際交流(我輩の専門分野であるか?)をオーバーラップさせ、
 (4)情報化社会の発展を図る活動!
 今一度、(中高年齢層に向けた)IT関連技術の普及・運用・指導など実践する・・・

 等々、なんとか落ち着くところに落ち着いた。 

 提案(1)は、我輩の嗜好分野であり、
 提案(2)は、N君ならびにyy君の望むところ、
 提案(3)は、我輩の「志し」である。
 提案(4)は、yy君の「専門分野」であるから、
                ・・・いかにもバランスがよい。

 会議の後日、平成19年3月28日のこと、
 有志3人により広島県庁正面玄関にて待ち合わせし、「広島県民生活部総務管理局 文化・県民協働室」に出向いた。アポイントも取らずに出向いたにもかかわらず担当官からのご説明を拝聴し、『特定非営利活動法人の手引き』なるもの頂いた。

 拝聴の後、道路一本隔てた隣の「広島市民病院」10Fの喫茶室にてティータイム兼今後の打合せを始め、暫らく打合せ経過の後、早くも前進先取先制気分の燃え上がるN君から、突然の前向きなアドリヴ的提案あり。すなわち、その日の午後の早い時間、3人は『国際遺産・宮島 厳島神社』のある宮島に向った。
 宮島は、天気晴朗にて『雛めぐり』開催のさなか、アポイントも取らずに運良く「地元NPO活動」の指導者数人と面談でき、宮島の町屋地域も見学した。
 なんと、月額1万5千円にて空き家となっている「町屋の一軒家」を借りれる可能性が見えてきた。もちろん、その家の場所まで赴き、周囲の環境と空き家の内部の様子も見学できた。こうなれば、場合によっては「新組織の本部」を安芸の宮島に置いても良いのではないか?等の選択肢も見えてくる。
 
 「江田島は、どうする?」

 江田島こそ、分かっているようでこれまた全く解っていない。元々江田島を基本に考えているわけで、宮島を見たから江田島を放って良い訳がない。熱の冷めやらぬうちに、江田島を周遊する旨、決定した。そして明日(3月30日)、またもや3人宇品港桟橋に集合し、江田島に渡ることに相成った、、、。


 <・完・・>
      (関連の第1回投稿記事は、こちらから入れます・・・

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以下、
   県庁の「手引き書類」より、抜粋引用する・・・


■ 法律の目的と法人格取得の効果

 近年、福祉・環境・国際協力・まちつくりなどさまざまな分野において、ボランティア活動をはじめとした民間の非営利団体(NPO:Non Profit Organization)による社会貢献活動が活発化し、その重要性が認識されているところです。
 これらの団体の中には、法人格を持たない任意団体として活動しているところも多数あります。そのため、銀行で口座を開設したり、事務所を借りたり、不動産の登記をしたり、電話を設置するなどの法律行為を行なう場合は、団体の名で行なう事ができないなどの不都合が生じることがあります。
 特定非営利活動促進法(通称NPO法)は、これらの団体が法人格(特定非営利活動法人)を取得する事によって、このような不都合を解消するとともに、情報公開を通じた県民の選択・監視を前提に、団体の自立的で健全な活動の発展を促進し、もって公益の増進に寄与することを目的としています。 


■ NPO法人になるには
(対象となる団体)NPO活動法人になるには、以下のような要件を満たす事が必要です。と、いう。

1 保健、医療又は福祉の増進を図る活動
2 社会教育の推進を図る活動
3 まちづくりの推進を図る活動
4 学術、文化、芸術又はスポーツの振興を図る活動
5 環境の保全を図る活動
6 災害救援活動
7 地域安全活動
8 人権の擁護又は平和の推進を図る活動
9 国際協力の活動
10 男女共同参画社会の形成の促進を図る活動
11 子どもの健全育成を図る活動
12 情報化社会の発展を図る活動
13 科学技術の振興を図る活動
14 経済活動の活性化を図る活動
15 職業能力の開発又は雇用機会の拡充を支援する活動
16 消費者の保護を図る活動
17 前各号に掲げる活動を行う団体の運営又は活動に関する連絡、助言又は援助の活動


さらに、
以下の「限定事項」あり、特定非営利活動促進法によって定められている。

1 特定非営利活動を行うことを主たる目的とすること
2 営利を目的としないこと
3 宗教活動を主たる目的としないこと
4 政治上の主義の推進、支持、反対を主たる目的としないこと
5 特定の公職の候補者や公職者または政党の推薦、支持、反対を目的としないこと
6 社員が10人以上であること
7 社員の資格の得喪に関して、不当な条件を付さないこと
8 理事3人以上、監事1人以上であること
9 欠格事由に該当しないこと
10 親族等の制限規定に違反しないこと
11 役員のうち報酬を受ける者の数が役員総数の3分の1以下であること


NPO法人設立には、凡そ4ヶ月(書面上、建前として6ヶ月とされる)も、かかると聞く。

ご承知のとおり、NPO法人設立については資本金や登録免許税、印紙や定款認証などの費用は全くかからない。


以上、(引用解説)

 掲載して於く・・・

 

『Cafe&Magazine 旅遊亭』ブログ新設のご案内・・・

2007-03-27 18:06:00 | Weblog
<Photo>:Chatsworth_House: from Wikipedia, Chatsworth House is a large country house approx 3½ miles north east of Bakewell in Derbyshire, England, originally built by Bess of Hardwick.
 
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 拝啓 読者諸兄姉さま

 約1ヶ月間に渡る試行錯誤の結果、『エセ男爵酔狂記 Part-II』の弟分ブログとして、この度『Cafe&Magazine旅遊亭』ブログ(こちらから入れます・・)を、オープン致しましたのでご案内申し上げます。
 その実、ご近所の観光地景勝地ご案内に始まり、巷の美術館・大和ムッセ・エコ贔屓的レストラン紹介・へんくつ飲屋のご案内はたまた褒め殺し的紹介等々。その他好みのグッズ紹介など、諸々の情報案内なのであります。時にエセ男爵登場し海外のご案内に及ぶか?

 まぁ、言うなれば、体の良いヴァーチャル上の「一見不良風優良情報マガジン」の怒素人編集長と、お洒落で上品な大人の集う「カフェ」のマスターを同時にやらかした気分になってみたい!という所存です。が、どうなることやら・・・

 エセ男爵ブログは気儘放題に云いたい放題、、、。

 ありとあらゆる深刻な突っ込みも躊躇せず、今まで通りはたまた今にも増して真面目クリスピーフレイヴァー(clispy flavor≒sawayaka and soukai-kann)的記事投稿(自己満足的か?)を、マイペースにて続けたく、あらためてご指導賜りますよう何卒宜しくお願い申し上げます。

                          敬具


 PS:新規ブログ『Cafe&Magazine 旅遊亭』は、こちらから入れます

仲間の組織化について (1/2) 「NPO化? or 私企業化?」、そして?・・・

2007-03-26 23:45:56 | つれずれ紀行
<添付画像>:広島県江田島市沖美町所在、「沖小学校」(中学校も併合)跡地。
この不可思議な場所に興味あり!
何故かといえば、
数年前(1年前か?)に廃校となり、校舎及び校庭2ヶ所を含む(たぶん)二千坪に及ぶ広大な敷地は突然空洞化し、今尚具体的な跡地運用は聞き及んでいない。(場所の特定は、Yahoo地図にて参照可能。こちらから入れますですぞ・・・


さて、
 これ、記事にしていいものかどうか?   ・・・少し迷った。

 しかし今朝になって決めた。

 公開公表に至るにホトホト迷った・・・

 そんな「出来事」を、今から書き始める、、、。少し長くなる(総文字数:約3,800文字?)けれど、2回くらいに分けて「ご通読」下されば幸いでです。

 そう、
 事の次第とは、
 例の「楽農大学」メンバーの極少人数なる有志集い、「然る目的」を実現するためのミーティングを開いたのは先週末、3月24日(土)の午後1時である。
 
 計らずも、「かくなる目的」立上げの口を切ったのは我輩なのだ。
 『言い出しっぺ』になってしまった我輩に対し、集会に参加同意した有志たちから「会議次第」を用意するよう命ぜられた。『言い出しっぺ』が何も用意できないとなると、コトは前に進まない。先々週の始め、一度事前ミーティングを開いた時には、あまりにも各種異種なる意見希望目的等ちりばめられ、各々方の視野と視界は4次元世界に突入。まるで多種多様の目的意識を持った同期の桜連中をまのあたりにた。てんでに出て来た「ご意見・発言」は、我輩の目的から程遠い内容である。
 しかし、知らぬが仏とは我輩の事、なんと仲間内では「UFOのXX君」と、あだ名されていると云う。これ、元親友のyy君から聞き及ぶ。
 「まあ、よくぞ言ってくれたものだ・・・」
 我輩、驚きを隠せずもそれなりに納得する、、、。想えば、(社会人になってからは特に)UFOの如く地球のあちこちを彷徨(さまよ)っていた訳で、それだけに、郷里に居付くことなく幼馴染との交流少なく現在に至った我輩を称するには、まことに適切な表現か、、、。

 (話、戻って、、)
 お互い、
 「少し頭を冷やそう」・・
と云いながら、会議終了後に仲良く一献交え、その時は解散した。
 しかし、その翌日、某中心人物からメールが舞い込み、

 「何も悪いことをたくらんでいるわけではない。これはやるだけやってみるべし!」

 「なるほど・・ 結構である!」
と、答えた結果、この度の『第2回ミーティング』を開くに至る。

 会議次第?を策定するよう命ぜられた我輩は、先週中ごろから頭を悩まし試行錯誤しつつも、滑り込み的「殴り書き文章」にて、ようやく資料を作った。かくして先週末の会議は開催された、、、。

 結論的には、
 「やるだけやろう。組織だけは先に立ち上げよう!」
と云うことに、相成った、、、。

 まぁ、もともと「仲良しグループ」の集まりの内輪話。まして、立上げ話にて結論の出ていないシロモノ。今、何もこの時点で、大々的に公表するつもりはない。しかし、この数年間、我輩にして時々再々「こんなことを考えている・・・」という現実をお知らせするには、なんら差し支えないと判断し、以下、事前の会議資料を公開する次第です。

 当日の会議の結果、状況、今からの方向性など、仲間内に迷惑や失礼の掛からない範疇にて、当記事を2~3回連載したい、、、。

 
  <・続く・・>
      (明後日=3月28日掲載予定です・・)
  * 結果、第2回掲載は29日、こちらから入れます・・・

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<添付資料>:当日会議次第・・・

                            2007/03/24

     『NPO組織化会議(第2回会議資料)』

 会議開催場所:ビットゼミ内
 日時:平成19年3月24日(土)13時~14時30分
 会議参加者:KS・TK・NI・YY(五十音順)


 議 事 要 項 

1. 発案の経緯・初期の目標

(1) 幼少の頃、小中高生の時代に、同じ「まなびや」に通った仲間同志にて集い楽しみ旧交を温めつつ「健康増進」と「生き甲斐」を求め協力し、もって組織的活動をする。
(2) この年齢になるまで、各自歩んできた異なるフィールドに於ける体験と経験を活かし、知恵を結集し、社会貢献及び次世代に残せる有意義な共同活動をしたい。
(3) 活動コスト捻出はもちろんのこと、社会倫理に則った適正利益を追求しつつ、余剰の資金を以って有能な後継者を育て、且つ互いの余生を有意義且つ楽しく過ごせるものにしたい。


2. 活動目的

(1) 地域の活性化と環境保全
(2) 自然保護と育成
(3) 中高年「生甲斐」対策
 (低年金所得者対策?否、今や、一般的年金生活者の生甲斐対策である。一ヶ月のカップル者(敢えて夫婦ものとは表現せず)生活費5~7万円見当にて、何ら不自由の無い生活の可能な集団別荘地帯の構築は、当該プロジェクトの目標になるか・・・)
(4) そのために、新時代の「生き様」と「生き方」と「生甲斐」の多様化に対応可能な「共同別荘」を構築し運営する。年齢は制限せず問わず。但し身体精神共に健康な人々の集団となるは、基本的条件。そのために広く全国からそれぞれの専門家も公募する。
(5) 国際交流など


3. 初期行動

(1) 活動拠点の確保:活動拠点
a) 江田島市との交渉
b) 上記に於いて不可能な場合、その他(広島県内に於ける)市町村との交渉の必要性あり、他の候補地は如何。
(2) 初期担当者の役割分担:NPO立上げメンバーが主軸。部外立上げ担当を公募する。
(3) 参加者の公募:インターネット上で十分可能!口コミ。広島県内県外の知人対象。
(4) 要注意事項:立上げ経費として、必要以上の資金投下はしない。


4. 前提条件:市町村の遊休地の物件借受け利用可能かどうか、これに全てがかかっている。
(1) 適切な上記の候補地のない場合、一般民家の空き家の借上げ?
(2) または、経営中断した「公共宿泊保養施設」があるか?
(3) いずれの場合をとっても、設備の増改築及び管理方法手段の煩雑さを検討しなければならない。
(4) 付帯的条項として、段階的に活動を拡げて行けば、いかなる施設たりとも利用方法は発案可能である。


5. 前提条件(その2)交渉関係

(1) 江田島市との交渉に於いて、沖小学校跡地の借り受使用可能か?
(2) 上記跡地は、あまりにも楽農大学キャンパスとの距離近く、他に適切な候補地あれば、他の候補地利用の方がベターか?
(3) 場合により、私営の宿泊施設と連携するも、よし。


6. 活動内容

(1) 多目的宿泊施設と環境の提供
a) 多目的宿泊施設の管理運営のプロ(ホテル出身者など)の募集と育成
b) 各種創作活動希望者のニーズにあったスペースの提供(絵画・陶芸・文筆活動。各種工作・竹細工など玩具の工作。その他、等。活動場所と工房の提供。インターネット上にて販売可能か?)
c) 地域奉仕活動(地元住民の便利屋的活動奉仕、低額にて有料奉仕とする)
d) 農業:(段々畑の活性化、畑の持ち主から借り受ける、三~五年間契約にて場合により継続更新する。実った作物の販売、自活の為の耕作など)
e) 漁業:(地元漁師に弟子入り?漁業作業に協力し、その見返りとして漁獲物を得る、賃金を得る。場合により季節により、牡蠣などはインターネット上で予約販売も可能か?)
f) その他:

(2) 地元に密着したエンターテインメント企画と実行:(地元市町村の企画に取り上げさせて、その実行委員会を運営する)
a) 江田島出身者(次世代の若者)たちの地元復帰の引き金となる、魅力あるNPO活動を策定実行する
b) 広島県江田島市に長期滞在農業従事者を募集
c) 上記にて、農業及び水産業関連イヴェント開催企画募集
d) 農耕地貸出し、維持管理など
e) 農産物水産物の販売(インターネットを駆使する)

(3) 中高年向けの中長期海外滞在型旅行を企画募集(国際交流として解釈すべし・・)
a) 海外にて長期滞在生活すれば、10万円にてリッチな生活をエンジョイできる可能性、今尚存在する。
b) 当該地江田島にて暫し滞在し、中高年長期海外生活の研修会でもやれば良い。

(4) 上記各項目の業務に関連する広報活動とノウハウの構築
a) 関連出版物の企画出版販売
b) その他、ブログのリンクなど、


7. その他:
(1) 組織の「名称」を決め、NPOにするか法人にするかを定める
(2) 共同別荘運営のためのルール作り
(3) 別荘住人のための風紀委員会の発足
(4) 共同別荘滞在規約の策定
(5) 立上げタイムスケジュールの策定。複数のシナリオプランニング・ビジネスプランの策定要!


                                    以上

<別添資料>:
(1) 会員募集に関すること
(2) 立上げ当初1年間のビジネスブラン≠(NPO活動?ならば、ビジネスプラントは、けしからぬ語彙用法か?)


 <公開会議資料・完>

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 PS:別添資料は、当blogの別添という意味ではなく、当日会議の別添資料です。続編記事にて、その一部を明らかにします。

たかが「宮島」、されど「宮島」、かくして郷里の一部か・・・

2007-03-23 05:15:55 | つれずれ紀行
<添付画像>:宮島の大鳥居(撮影日時:3月16日、午後1時頃)


 先週金曜日(2月16日)、宮島に出かけていった。
 
 我輩本来の嗜好に反し、このところ何故か小忙しく落ち着かずに、広島近隣周辺を立ち回っている・・・

 実は、郷土広島の知らない知らされていない「観光的な見どころ」、隠された特産品「美味しいもの」、メジャーの「加茂鶴」や「酔心」ではなくて、かくれた「美味しい地酒」、地元の「ワイン」や、果物を始めとする「加工品の類い」、牡蠣に代表される「瀬戸内の海の幸」等々、これらを小気味よく紹介するプロジェクトをやっては如何か? 等々と、、、
 元々3年前の2月に於いてして飴風呂を開設するきっかけとなったのは、『バリ島長期滞在プラン』を「ブログ」で売り込んでは如何か?
 という、ビジネス立上げの話であった。
 しかし、我輩いかにも商売の色気少なく、ほとんど皆無。未だに「悪文書き放題&言い放題ブログ」に留まっている次第、、、。
 元々この類いの話は全て、東京在住の先輩から純粋純朴なる「旅行屋的思いつきビジネス話」を持ちかけられて久しく、幾度となく背中を押され肩を叩かれつつも、かれこれ2年以上放りっ放し。何も手をつけていない。 (もうすでに我輩は、この手のビジネスからは手を引きたい足を洗いたいけれど、なかなかどうして周囲はこれ許さず、そうさせてもらえそうもない・・・)

 このことろしかし、ふと「思うところ」あり、、、。

 いわば郷土の「旅と遊び」をテーマに、何か自分流の趣味嗜好を基礎にした「随筆集」を纏めるのも、一計か?と、考えるようになった。つまり、「郷里の魅力」や「知られない歴史」を掘り起こし、あくまでも自分流の視点にて纏めてみるのも良いか?と、思うようになった。
 
 煎じ詰めるところ、はたしていつまで腰を落ち着けて郷里に長逗留できるか?これが一番の問題、重大な前提である。

 先日、宮島の「歴史探訪と自然保護運動」について、地元在住の友人から紹介を受けたユネスコ(宮島支部)代表の方々、及び宮島の自然保護NPO活動団体のリーダーにもお会いし、面識できた。今後は各フィールド専門の地元大学関係研究者とも交流を持たねばならぬであろう。そういった人種と一旦知り合えば彼らの活動に興味湧き、膨大な好奇心に変わるか。好奇心のもてるモノとなるか。逃げる理由はなにもない。ここは一つ、長いスパンで捉え考え、郷里の魅力探しについて、少しばかり時間を割きたくなった。
 
 時として、ある特定の地方の歴史は急変する。
 史実は変わらないけれど、捻じ曲がった歴史的事実の解釈や、場合によっては歴史の流れの一部は空白となり、後世に何も伝わらないこともある。
 原爆投下され一旦壊滅した郷里は特に問題がある。実は戦中戦後の近代史がよく見えななっており、全く宜しくない。
 ともあれ歴史の中の郷里の文化は、価値観の移り変わりに翻弄され戦前昭和の歴史も掻き消され、明治維新以前の中世文化の史跡や資料も存分に埋もれているはずの「広島と瀬戸内海の歴史」を紐解き探訪するのは、生涯の夢である。それに至るまでに、やらねばならぬこと済ませておかねばならぬこと、多々あり、、、。

 あれこれ想えば、忙しい~・・・

 予定していたより少し早いけれど、そろそろ本格的な郷土研究のフィールドワークに入り、資料集めするのも宜しいか。等と、思い始めた今日この頃であるけれど、暫らくは、『不良中年風・遊び人感覚』のフィールドワークになるは必定か、、、。

 ま、それはいかにも「エセ男爵的」にて、それでも宜しいか・・・

"Wining and Dining in Downtown Hiroshima",,,

2007-03-20 11:25:45 | つれずれ紀行
<添付画像>:「広島食べ歩き情報・完全英語版」="Wining and Dining in Downtown Hiroshima",,,(ことば工房・地球英語塾、塾長YK氏監修製作)



    ”Congratulations,,,,!”

 ついに、やったな! 
   
      やはり彼は、創ってくれた・・・・

 今まで、在りそうで無かったのが、この類いの「外国人(欧米人)向け」のヒロシマ・ダウンタウンのレストラン情報地図なのだ!

 この日曜日(3月18日)、「楽農大学」の広島市内ミーティング会場「ビット・ゼミ」(パソコンスクール&ハローーワーク指定就労研修専門学校)ビルの屋上にて『焼肉パーティー』開催時に、久しぶりに旧友YK君と会えた。
 会うなり、挨拶を交わすなり、
 
 「ようやく英語版を創ったぜ!みてくれ!・・・」

と、きた、、、。

 我輩、単純に純粋に感動した、、、。



 日本全国津々浦々、ある程度の規模の都市に於いて、この手のガイドブックはすでに存在して久しい。

 しかし、生意気?にも、キザ!にも、「国際平和都市」を宣言して久しい我が故里の "Hiroshima Town" には、型に嵌った「都市ガイド」には経費掛け、5~6ヶ国語に亘り製作されていること先刻承知。なれど、見ても余り役には立たない。
 とにかく、まともな「レストランガイド」を合体させたガイドブックの類いが無かったのだ。理由はいろいろある。飲食関連の組合組織もお役所も商工会議所も挙ってセンスなく掛け声だけ立派、、、。甘口発言?その場限りにて責任的実行はなく、無責任且つ消極的環境風土のぬるま湯に浸りっきりであった。無論、その傾向は今尚性懲りなく続行するように見受けられる。 されどこのたび(2007年1月下旬)、晴れて我が友人YK氏の流した「血」と「汗」と「涙」と「信念」の結晶として、この冊子は完成した。

 YK曰く、
 「半年ごとに改訂版を出す計画である。その度に、もっと充実した内容にしたい・・・」

 宜しいではないか!・・・

 実は我輩も、かれこれ20年前、大志と大義を懐き「行動計画」を立て、それなりのシナリオを描いて立ち上がったことあり。それは、エセ国際平和都市「ヒロシマ」にて国際交流招致実施を目的にした「企画立案ソフト専門」の会社を設立したものの、わずか3年で会社をつぶした。要するに「収益」の上がらない効率悪き活動をやった結果である。
 その時に、完全に失望した、、、。
 けっして自慢できなく誇りにならない「負の世界遺産・原爆ドーム」の維持管理に国民の血税を使い、何でもかんでも左巻き平和運動思考を継続するバカバカしきわが町、自動車で喩えれば「バックギアー」に入れっぱなし。後ろ向きにのみ走り、前に向って走ろうとしない「嗜好」を持ち続け、万事進歩進展をためらいつつ旧態依然を旨とする郷里に対し、自ら、別れを告げた。 二度と、郷里の国際交流や訪れる外国人の為の「活動」には手を染めない。と、決意した。

 今しかし、時代は移り変わり、我が故里の心ある実力温存なる一部の人物は「共通の目的」と「個々の力」をあわせ、ようやく「外国人来訪者」の利便性を考慮し加味した「地域活性化」に向け具体的に動きはじめたような気がする・・・

 このパンフレットとを見た我輩、友人YK氏を始めとする「有志の勇士たち」に対して、あらためて拍手と喝采をおくりたい!・・・

 「がんばれ~!語学のエキスパート諸兄姉たち・・・」

 「世の動きに負けるな!地元飲食産業諸君よ・・・」

 「再度目覚めよ!手を差し伸べよ!ヒロシマ地方の役人ども・・・」


 <・完・・>


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PS:
 友人YK氏の手になる英語版ガイドブックのコンセプト(裏面最終ページに記載ガイダンスの内容)なるもの一部引用し、下記記載しておく・・・


"Wining and Dining in Downtown Hiroshima"

- Want to expand your taste horizons?

- What to explore the full range of both traditional and contemporary Japanese and western cuisine currently being offered in the City of Hiroshima?

- Don’t want to spend more than you have to on dishes that you didn’t even order?

Have no fear, for this gourmet guide map was put together just for you!

Including some basic survival Japanese to help you negotiate your way through the sometimes narrow back streets and to get you seated and fed, we have provided information on dozens of culinary establishments to make your wining and dining adventures all the more mouth watering.
We hope you will be pleasantly surprised by what you find, and that while you may want order a second helping, you also feel that Hiroshima is worth a second visit!


* 有限会社「ことば工房」・「地球英語塾」のホームページは、こちらから入れます・・・

 どうぞ、応援してやって下さい! 宜しくお願いします。


Sayonara Karuizawa,, (3/3) 「軽井沢~小諸~上田へ、雪列車は行く」!?・・

2007-03-18 19:58:55 | つれずれ紀行
<上記添付画像>:小諸駅を過ぎて10数分程度?走ったところ、列車進行方向の左手の車窓から、千曲川方面の雪原を眺める。


 かれこれ2週間前に降った「大雪」は、いまだにその残雪を残したままである。要するにこの時節、この界隈は昼夜を問わず気温上がらず平均零下の気温続いていた。いくら太陽が顔を出しても日陰は零下、日なたでも僅か+2~3度までしか気温上がらず、夕方になって太陽の沈む前にはすでに零下の気温となるから、雪解けには至らないのである。
 雪原に次ぐ雪原の中、車窓から見える長野県の広大且つ猛々しい原野と豊かな田園風景を眺めつつ我輩の大好きな前川清の名曲「雪列車」を思い出すものの歌詞を思い出せなく、ぼやけた頭脳内部にてメロディーだけを鼻歌口ずさみながら上田駅に向う。
 車窓からは、よい風景に出くわすと鉄道沿線の電線や電信柱が邪魔をする。ちょうど宜しきシャッターチャンスに恵まれた時、とっさに旧式デジカメを構え撮影に挑むものの反応鈍く、シャッターチャンスを逃すは多々あり、口惜しい思いをしながら、望み求める「よき風景写真」は一枚も取れなかったのである、、、。

 ともあれ、生まれ育ったふるさとで見る山並みのほとんどは、こんもりと丸く連なり、なだらかで弱々しい中国山地の風景である。浅間山から始まった感動と驚きの連続にて、長野県の山並みは、雄雄しい、猛々しい、荒々しい、、、。
 千曲川に連なる高原の景観は雄々しく我がまぶたに焼きつく。感性の中で想像していた数十倍も激く、実景に見た「インパクト」は強い。そして、なにゆえに日本の歴史に残る中仙道の重要性あるか?理解できそうな気がしてきた・・・

 バッテリーは切れ掛かるは、シャッターチャンスは逃してしまいつつ、移り変わる見慣れぬ風景は素晴しく、若干の苛立ちと欲求不満を懐きつつも、ド素人ではあるまいに、まさか車窓からバシバシとシャッターを押すは愚の骨頂!なかば諦めつつ、あっという間に目的地駅到着の列車内放送を聴く。

 かくして上田駅到着、駅裏の東急インにチェックインしたのは、午後3時前であった、、、。



<添付画像>:上田東急イン客室より、上田市内を遠望。よく晴れており、長野市まで見渡せそうな気がする。。。

 まったく満足できない野暮天画像を(性懲りもなく)さらに続けてご紹介したく、粗悪画像の解説目的に悪文殴り書きし、もって次回は「上田・小諸の小旅行」シリーズ。チョイと一休み?気分転換にて別記事を入れた後、あらためて小諸の懐古園に上田城址など、ご案内したい。

前川清コレクション 雪列車~ひまわり
前川清
テイチクエンタテインメント

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 (記事中にて紹介した「名歌手・前川清先生」の名曲『雪列車』を、是非にも紹介しておきたい!優良メロディーにて正しき音符配列の卓越さ加減はベストにて、歌詞も良いですよ。メロディーそのもの、まず名曲。且つ、格調高き前川先生流儀のロマン演歌を聴けば聴くほどに、いかにもロマンティックな雪景色が目に浮かんでくるのだ・・・)


 <3回連載「Sayonara Karuizawa」 ・完・・>

「Sayonara Karuizawa」前回掲載分はこちらから入れます

<追記> 
 さて、
 いまや「しなの鉄道」の始発駅となった軽井沢から長野方面に向う電車のほとんどは、小諸駅が終点となっている。小諸駅から先に進むには、小諸駅にて、列車を乗換なければならない。

 いかにも面倒である。

 理由は全く解らない。その後資料を調べたら、どうやら長野新幹線ができたあと、ローカル鉄道の統廃合その他諸々の理由でダイヤ運営鉄道経営の約束事があるらしい。何も鉄道会社経営論的論文を書くつもりはないので、理由経緯の詳細は下記の添付資料をご参照願いたい。



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<参考資料>:ウイキペディア百科事典より引用。
  『碓氷峠』
  『横川駅』
  『しなの鉄道』

碓氷峠(ウイキペディア百科事典より)


碓氷峠地図詳細(ウイキペディア百科事典)、こちらからご参照いただけます。

『碓氷峠』
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 碓氷峠の変遷。
 中仙道・中仙道和宮道・国道18号線・信越本線・碓氷バイパス・上信越自動車道・長野行新幹線碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある峠である。標高は約960m。「碓井峠」「碓水峠」は誤表記。

 信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。碓氷峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。

「目次」
1 地理
2 歴史
2.1 古代・中世
2.2 近世
2.3 明治時代以降
2.4 鉄道
2.4.1 アプト式鉄道
2.4.2 粘着運転化
2.4.3 北陸新幹線開業に伴う廃止
2.4.4 観光鉄道としての再生
2.4.5 アプト式時代に使用された機関車
2.4.6 粘着式(非アプト)時代に使用された機関車
3 見所
4 関連項目


「地理」
 群馬県側の麓、安中市松井田町横川の標高は387m。長野県側の軽井沢は標高939m。直線距離で約10kmの間の標高差は500m以上に達する急峻な片勾配の峠越えで、山脈をトンネルで抜けることで峠越えの高低差を解消できる一般的な峠と異なり、数多くの困難を抱えた。


「歴史」

 古代・中世
 古来より、坂東と信濃をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。古くは碓氷坂(うすひのさか)といい、宇須比坂、碓日坂などとも表記された。この碓氷坂および駿河・相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ。『日本書紀』景行紀には、日本武尊(ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘姫をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。
 碓氷峠の範囲は南北に広いが、その南端に当たる入山峠からは古墳時代の祭祀遺跡が発見されており(入山遺跡)、古墳時代当時の古東山道は入山峠を通ったと推定されている。
 7世紀後葉から8世紀前葉にかけて(飛鳥時代後期 - 奈良時代初期)、全国的な幹線道路(駅路)が整備されると、碓氷坂にも東山道駅路が建設された。入山遺跡はこの時期までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路は近世中山道にほぼ近いルートだったとする説が有力視されている。
 平安時代前期から中期頃の坂東では、武装した富豪百姓層が国家支配に抵抗し、国家への進納物を横領したり略奪する動きが活発化したため、これら富豪百姓層を「群盗」と見なした国家は、その取締りのため、昌泰2年(899年)に碓氷坂と足柄坂へ関所を設置した。これが碓氷関の初見である。
 古代駅路は全国的に11世紀初頭頃までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・鰐坂峠ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていない。

 近世

 江戸時代には、中仙道が五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。碓氷峠は、関東と信濃国、さらには北陸とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に関所(坂本関)が置かれて厳しい取締りが行われた。
 ただし、古道はその後も活用されており、たとえば鰐坂峠ルートは難所の碓氷峠を避けることができることから「姫街道」「女街道」と呼ばれていた。この姫街道は、本庄で中仙道本道から分かれ、藤岡・富岡・下仁田を経由して、鰐坂峠(和美峠付近)を経て信州にはいり、追分宿のあたりで本道と合流するルートであった。しかしこちらも難所であることにさほど差はなかったという。姫街道にも、西牧関所が置かれていた。
 碓氷峠は、中仙道有数の難所であったため、幕末の1861年に和宮が徳川家茂に嫁ぐために中山道を通ることが決まった際に一部区間で大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓された。


 隣の宿 坂本宿 -(碓氷峠)- 軽井沢宿

 明治時代以降
 時代が明治に入ってもその重要性は変わらず、1882年に従来の南側に新道が作られ、1886年には馬や車での通行が可能となった。この新道は、坂本宿から碓氷湖付近まではおおむね和宮道を踏襲し、そこから西側は中尾川に沿って全く新しいルートとされ、軽井沢宿と沓掛宿の間で旧道と合流するものであった。新道の碓氷峠は、中山道旧道の碓氷峠(新道開通後は旧碓氷峠と呼ばれている)から南に3キロメートルほどの場所に移動した。その後「旧軽井沢」と呼ばれるようになったエリアは中仙道旧道に沿った場所であり、軽井沢駅があるエリアは明治時代になってから開発された新道沿いにあたる。

 さらにその後、1971年に国道18号のバイパスとして作られた有料道路の碓氷バイパス(入山峠)が開通し(2001年11月11日より無料化)、1993年の上信越自動車道が開通したことから、明治時代の新道もその重要性は薄れつつある。


 「鉄道」

 『アプト式鉄道』
 鉄道においても、この難所を越えることは早くから重要視され、1893年に官営鉄道中山道線として横川~軽井沢間が開通した(横川駅~軽井沢駅間にあることから、碓氷峠の別名として「横軽(よこかる)」と呼ばれることがある)。これに先立って、1888年~1893年には碓氷馬車鉄道という馬車鉄道も、同線の資材輸送のため国道18号上に敷設されていた事があった。
 しかし、資材や人員の運搬の便を図るため中山道沿いに線路を敷設したことが逆に仇となり、最大で66.7‰(パーミル・千分率。1/15=約3.8度)という急勾配が問題となった。急勾配を避けると相当の距離の迂回が必要で建設費がかかるため、この傾斜に真っ向から挑むことになったが、当時の通常の蒸気機関車では登坂が困難であったため、アプト式ラックレールが採用された。しかし、その後技術の進歩により、京阪電鉄京津線や東急電鉄玉川線は碓氷峠と同じ66.7‰の勾配をラックレールなしで越え、箱根登山鉄道もラックレールなしで80‰の勾配を登坂している。
 トンネルの連続による煙の問題から日本で最初の幹線電化が行われた(1912年)のもこの区間であるが、電化によって若干の輸送力増強はなされたものの、輸送の隘路であったことは相変わらずで、名だたる鉄道の難所として「西の碓氷峠、東の板谷峠」と並び称された。1900年に大和田建樹によって作成された『鉄道唱歌』第4集北陸編では、以下のように歌われている。

 19.これより音にききいたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけておりのぼる 仕掛は外にたぐいなし
 20.くぐるトンネル二十六 ともし火うすく昼くらし いずれは天地うちはれて 顔ふく風の心地よさ
 更に『鉄道唱歌』と同じ年に作成された、現在の長野県歌である『信濃の国』も、6番において以下のように碓氷峠を歌っている。

 吾妻はやとし 日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山 穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い

 「粘着運転化」
 EF63形電気機関車を連結して碓氷峠を下る特急「白山」太平洋戦争後は、輸送の隘路の解消のため、再度急勾配を避け最急勾配を22.5‰とする迂回ルートも検討されたが、結局、ルートをあまり変更せず、最大66.7‰の急勾配は存置したまま、一般的な車輪のみによる粘着運転で登坂することになり、1963年に新線が開通してアプト式は廃止された。それでも、登坂力、ブレーキ力を補うため、この区間のみ補助機関車(EF63形)の連結が必要とされるうえ、連結両数が最大8両に制限されたり、通過車両には車体の挫屈を防止するための台枠補強や連結器の強化を要する(通称「横軽対策」。対策施行車は、識別のため車号の頭に「●」が付された。)など、峠越えにはやはり特別な取り扱いを要した。

 1968年以降、EF63形との協調運転により12両編成での通過を可能とした電車(169系、489系、189系:識別として形式末尾番号が9)が投入され、輸送力の増強に寄与したが、抜本的な輸送改善には至らなかった。1985年(昭和60年)頃には、余剰のサロ183形を改造した碓氷峠を自力登坂可能な電車も計画されたが、北陸新幹線(長野新幹線)建設決定にともない、計画は放棄された。


 「北陸新幹線開業に伴う廃止」
 碓氷峠の抜本的な輸送改善は、1997年の長野新幹線開通によってなされた。その際、信越本線の碓氷峠区間(横川~軽井沢間)は、県境を越えることもあってローカルの旅客流動が少なく、長距離旅客が新幹線に移動するとこの区間を維持できるだけの旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに特別な装備が必要で維持に多額の費用がかかるとして、第三セクター等に転換されることなく廃止された。
 この廃止の方針について、安中市の新島学園高等学校に通学する長野県の生徒の父兄を中心に廃止許可取消の行政訴訟を前橋地方裁判所に起こしたが、行政不服審査法による手続きを行わなかったため、内容に踏み込むことなく「原告不適格」の判決が下され、東京高裁の控訴審、最高裁の上告審も前橋地裁の決定を支持したため、横軽廃止の是非が司法の場で本格的に問われることはなかった。

 「観光鉄道としての再生」
 碓氷峠の廃線跡2005年3月より碓氷峠鉄道文化むらと峠の湯の間に、トロッコ列車の運転が開始された。運転日は土曜・日曜・祝日となっている。動力車は、保線用として使用されてきたディーゼル車で、2両の客車を連結して運行されている。また、2006年にこのトロッコ列車を運行・管理している碓氷峠交流記念財団は政府に観光鉄道特区を提案した。しかし、国土交通省は現行の規定で可能と答えたため、観光や鑑賞を目的とした特定目的鉄道事業として申請を予定している。早ければ2006年10月に鉄道事業者の認可を受け、2007年10月の開業を目指している。認定されれば、横川~軽井沢間の鉄道が復活する可能性が大きい。トロッコ列車は現在ディーゼル車で運行されているが、将来的にはEF63形電気機関車の使用も視野に入れている。

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『横川駅』(ウイキペディア百科事典より)こちらから入れます

「ウイキペディア百科事典」より『しなの鉄道』の詳細説明はこちらから入れます
 
 概要
 北陸新幹線(長野新幹線)の開業の際に東日本旅客鉄道(JR東日本)から経営移管されることとなった信越本線・軽井沢駅~篠ノ井駅間を運営する会社として設立された。この区間はしなの鉄道線となった。

 長距離利用客が長野新幹線に転移したことなどにより、開業当初から経営は苦しく、2001年9月の中間決算では累積赤字が24億円以上になり、資本金23億円を上回る債務超過状態に陥った。そのため、同年に、「しなの鉄道経営改革に向けての提言」を策定。2002年6月からは旅行会社のエイチ・アイ・エス(HIS)から杉野正を社長に迎え、退任するまでの2年間に高齢者の乗降介助を行う「トレインアテンダント」やサポーター制度の新設といった経営改革を進めた。また、最も集客が見込まれながら、未だに「篠ノ井線の特急列車のダイヤ調節のため」と、JR東日本が経営権を握っている篠ノ井~長野間について、早期に譲渡するよう求めている(しかしこれには「しなの」を乗り入れさせているJR東海も関与するため、実現はやや難しく、北陸新幹線長野以北の開通以降も篠ノ井~長野間はJR東日本の経営のまま残る可能性もある)。開業直後には多くの駅でJR東日本線への連絡乗車券が発売されていたが、2002年に連絡乗車券の発売駅・発売範囲が大幅に縮小され、使用されなくなった発券機は会社の公式ホームページで一般向けに販売された。

 杉野正社長の経営手腕により、しなの鉄道は減価償却費前の利益で黒字計上するに至ったものの、2004年には減損会計導入を進めたい田中康夫知事(当時)と「上下分離方式」を主張する杉野正社長が対立を起こして杉野正社長が辞任した(なおその後、杉野正社長は埼玉高速鉄道の代表取締役に就任している)。その後、スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)の元社長であった井上雅之を社長に迎えて減損会計に踏み切り、その結果、2005年度決算において開業以来の初めて最終損益において黒字を計上するに至った。井上雅之社長の下でも駅構内で宝くじを販売するなどの事業を展開している。

 当然のことながら、かつて存在した信濃鉄道(現在のJR大糸線の一部)とは何の関係もない。

 「歴史」
1996年5月1日 設立。
1997年10月1日 しなの鉄道線 軽井沢~篠ノ井間が開業。
2001年3月22日 運賃改定。JR東日本との乗継割引額を縮小。
2002年3月25日 本社を長野市から上田市に移転。
2002年7月12日 レールサポーター・トレインサポーター募集開始。
2002年9月9日 主要駅や列車に「トレインアテンダント」を配置。
2002年10月1日 JR各社との連絡運輸取扱範囲縮小。
2006年7月1日 「しなの鉄道ファンクラブ」創設。
2007年6月1日 運賃改定(現行の12.5%値上げ。初乗り運賃が160円から180円に)およびJR東日本との乗継割引運賃を廃止(予定)

                            <引用、ここまで・・・>


Sayonara Karuizawa,, (2/3) 「しなの鉄道、発車!いざ上田へ・・」

2007-03-16 19:15:45 | つれずれ紀行
<添付画像>
撮影場所:しなの鉄道、列車内にて。
撮影日時:2007年1月22日・午後1時30分過ぎ。

    ---------------------------------------------

 
 いやその、乗車前の3~40数分間! 寒くて寒くてたまらないから、暖房の効いた待合室に入った、、、。 例の、いつも「峠の釜めし」を買っている同じ売店の「信州そば」コーナーにて、冷え切った身体を温めた。 売店ご担当は、いつもの(我輩の勝手なる判断?)顔見知りのオバサマにて、快く我輩を迎え入れて頂いた。暖房の効いた快適コーナー内を見渡せば、すでに数人の旅人立ったり座ったり屯し、箸捌きも小忙しく且つ美味しそうに、うどんそばの類いを食しておられるではないか。 かくなる情景観察すれば、我輩もソバを食したくなり「肉天ソバ」を注文、、、。 常日頃から(若かりし頃サラリーマン時代の旅行会社勤務時代から)、「旅の準備」は当日になってから始める悪癖あり。移動日の朝は何かと忙しく、この日の朝食は野菜ジュースをグラス一杯と小さめのクロワッサンのみ、、、。 遅い昼食には丁度良い加減な時間帯に、たまたま「立ち食いソバ屋」に入る。

 予定外ではあったけれど、期せずして「立ち食いソバ」にて食した「肉入り天ぷらソバ」は意外に重く、我が胃袋はこれにて超満足状態。満足状態にて「しなの鉄道」列車に乗り込もうとしたものの、ただひとつ、「ミネラルウオーター」は欠かせない。なぜなら、いささか濃い味の「信州そば」を食した後、水分補給は必須事項にして、我が身体健康維持管理のための基礎事項であるところの「血圧調整(血圧は正常です!)」と「痛風発作防止(ビール飲み過ぎた翌朝、コレなる状態を怖がっている注意信号点滅の状態!)」のためには、絶えず血液中の塩分調整を怠ってはならない。軽井沢から上田まで、おおよそ45分と聞く。途中(なぜか)小諸駅にて列車乗換えとなっており、乗り換え時間を含んでも1時間少々にて上田に到達できる。まぁ、500mlボトル一本あれば十分か、、、。
 
 かくして「上田までの乗車券」と「ミネラルウオーターのペットボトル」を窓側に置き、発車までの数分間、おおらかにスタンバイする、、、。

 スルスルと動きはじめた電車の車窓から北軽井沢方面を眺めつつ、次の停車駅へ、、、。まずは「中軽井沢駅」に向う・・・

 この時期の「しなの鉄道の旅」は、まるっきり「雪列車」!。 雪の少ない地方に生まれ育った我輩にとっては、八甲田山?否!「ガキの気分」丸出しにて「信州雪中(列車)行軍」も亦(また)楽しからずや! ・・・この時すでに「100%≒少年の心」なのである。。

 雪の風景の中、かくして2泊3日なる「冬の信州紀行」は始まる・・・


 
 <・続く・・(こちらから入れます)>


PS:(シリーズ投稿「Sayonara Karuizawa」の第1回目の記事はこちらから入れます・・・

Sayonara, Karuizawa,,, (1/3) 「ちょっと寂しく、軽井沢を離れる・・」

2007-03-15 08:05:50 | つれずれ紀行
《添付画像》軽井沢駅にて、
(撮影場所)軽井沢駅南口より某スキー場を望む。
(撮影日時)平成19年1月22日月曜日午後1時過ぎ、、。

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 この一ヶ月間、朝になって目覚めたら・・
 
 「よォ~し、今日こそは書こう。書いてやろう!」

等と、
(毎朝ではなく、週に一回程度か?)、、 幾度か思い考えるも「某・回想録を書き記るす」を敢えて思い留まり、本日まで留めていた経緯あり、、、。

 いや、なに、今にして想えば「大それた事」ではない。 然るべき事情あって「軽井沢長逗留」を中断しなければならなくなっただけのこと。 これ、今さら四の五のと語らない方がよろしい。 これを語るは下種。 且つ一見企業戦士風人生の劣等生的庶民(ゲス+シモジモ+ブザマ)に属する人種の日常常識なる所業にして、これを一旦語り始めるやいなや自らの品格は下がり、下種雑派なる人種と「同類項」に等く我身を処する所作か。 「黙して語らず!」は、武士道精神に則った由緒正しき品性品格留保の始業なり。と、我輩は心得る。 つまり、いくら小さな組織といえども一応の企業秘密OXOX?!それ以上言及できない。言及(愚痴?に)し得ない事柄を書き記すつもりは毛頭無いけれど、1月下旬に軽井沢を離れ、今尚郷里に居続けているのは、当分のあいだ軽井沢には戻らないということになる。

 この画像を撮影した時、たぶん、そうなるのではないか?もう、軽井沢には戻ってこないのではないか?という複数シナリオの中の一つのシナリオとして、シナリオレベルの「予感」があった。 今、その予感は的中し、複数シナリオの中でも、一番ランクの低い「貧しき最悪のシナリオ」となってしまったのであるから、あまり愉快なことではない。 最悪のシナリオを描きつつ、列車の発車時刻まで少し余分な時間をみて、山荘から軽井沢駅に移動し、暫く駅の建物の中をうろつくも、これといって落ち着いて休憩する場所も無いし、北口に出て軽井沢銀座をうろつく時間もなし。しかたなく、軽井沢駅南口方面に出でて「スキー場」を撮影した・・・

 この時、駅の寒暖計の指し示す外気温はマイナス3度。我輩にとって、この気温はいかにも寒い!しかし地元の人たちにとっては、暖かく感じる気温であるとおっしゃる、、、。

 数枚の写真を撮影し、いよいよ改札口を通る。いつもの新幹線JR改札口ではなく、「しなの鉄道」の改札口に向う。実は、この日、上田市と長野市在住の友人に会って於きたく数日前からアポイントをとり、上田にて合流すること決定していた。我輩は上田市内のホテルに予約を済ませ、でもって、初めて「しなの鉄道(在来線?)」に乗り、小諸経由にて上田市に向かう

 本日(当日)軽井沢界隈天気晴朗なれど気温低し。・・・あわせて、我が気分は晴朗ならず?超曇天なり・・・

 鈍重なる気分と、軽井沢を離れる軽やかな開放感あいまって、本質的気分の良し悪しを計る天秤棒は揺れ動くも、ここは一つ無理やり清濁合わせ飲み干し気分転換試みれば、たちまち「ガキの気分」となる。 各駅停車の在来線にて「軽井沢~上田」の列車の旅を楽しもうと、我が「真白き腹」を括ったと同時に、列車はゆるゆると出発した、、、。


 <・続く・・

PS:
 この冬場の出来事にて、桜が咲くまでには書き記しておかねば!そして、一区切り付けて於きたい気分なり、、、。
 さりげなく徒然に、軽井沢から小諸経由、上田市への小旅行紀行を日記風に書き留めておきたい。と、思っています。

軽井沢山荘風・超極貧『酒の肴』:久しぶりの珍味「マグロの刺身」+「峠の釜めし」

2007-03-12 10:45:28 | 食彩+酒の肴
<添付画像>:(軽井沢長逗留中のたわごと、某山荘のプロ仕様厨房内にて撮影)


 ご覧あれ!

 昨年の晩秋から今年1月下旬まで、軽井沢滞在中に「自分流まかない料理」をやっていた頃の「画像」。すなわち極貧生活中の手料理紹介記事のリバイバルである。

 ある晴れた日、冬の軽井沢の山奥の出来事、天気晴朗なれど極寒の午後の話。圧雪からアイスバーンと化した八風の郷(別荘地特有)迷路の中、野生鹿や野兎に野生猿を斜に眺め且つ無視しつつ超高級車を駆って平気の平左でハンドル操作&アクセルワーク軽快に操り、いとも容易にふらりと訪れた例の上田市の友人S氏から頂いた手土産は「マグロ」のブロックなのだ。

 「・・・?」

 「いや、違います。いくらなんでも、これ、長野県産のマグロではありませんぞ!」

 ゆえあって、わざわざ静岡まで出向いて買付けしたサンプルのおすそ分けをしてもらったもの。頂いた当初は、約3キロ(それ以上か?)のブロックであった。コチコチに凍った冷凍マグロを、そのまま厨房の冷凍室(零下25度に設定)に放り込んでおいた。その日の午後の気分によって、気が向けば夕刻から冷蔵室にブロックを移動させる。数時間経つとブロックの表面は少し解凍気味となり、解凍しかかった個所をペティーナイフで削ぎ落とし、ワサビを適宜加えた刺身醤油と僅か数滴の味醂(ミリン)をブレンドした「付けタレ」に、半解凍状態すなわちルイベ状態のまま「酒の肴」とする。ぐいぐいとビールは進み、これ、最高なのだ!

 それから約10日間ばかり連続的に毎日、毎夕、毎晩、気分は快調、勇み進んで「ルイベ状態風マグロ」の切り落としを「肴&つまみ」として晩酌を楽しむ。

 冷凍~半解凍、また冷凍。そして半解凍からまた冷凍。この繰り返しを続けて「半解凍ルイベ風マグロ」を楽しんでいると、おおよそ頂いた時のマグロブロック直径は日々その身を細め、(画像撮影時点に於いては)約3分の2以下?の大きさになってしまった。
 撮影を試みた日の昼時間、今日は早めにルイベ状態マグロを食そうと、早めに冷凍室から冷蔵室に移動しておいた。そんな時、急に、軽井沢駅迄出向かなければならぬ所用発生す。まあ、午後になって山荘を降りたら最後、ダウンタウンにそのまま居残り、旧軽井沢界隈のレストランにて早い時間から酒宴の始まるは、常である。山荘に帰り着いたのは、たぶん午後10時過ぎ。冷凍マグロ解凍の件、全て忘れて眠ってしまった。

 翌朝、気が付いたら、冷凍マグロは見事に全解凍されているではないか!


 参った!うっかりしていた、、、。

 「こうなったら削ぎ落しルイベ風な食し方は、できなくなった・・・」

 てなことで、全解凍してしまったマグロのブロックを切り分けた。

 まず、「10数切れ」の刺身にした。小ネギ(あさつき)を細切りにして、ビールの肴にして食した。全解凍してみると、このマグロはどうやら「カジキマグロ」か?我輩の目は確かに色を識別できる。決して赤身のマグロには見えない。

 「・・・?」

 「美味かどうか!ですって?」

 本当は、難しい質問です。
 しかし、この時の「我輩の味覚」にとって、絶対的に美味であった!と、自信をもってお答えしたい。

 人間の味覚とは、いい加減なものである。相対的判断は可能であるけれど、絶対的判断は不可能である。と、いつも思うのである。

 画像撮影当日の朝一番に、またまた軽井沢駅に出向く用事あり、挿入画像にてご紹介の通り、ご承知「峠の釜めし」を購入。遅い昼食として「我輩好みではない釜飯」を食すにあたり、小ネギ(あさつき)と特製醤油タレを少々加えた「このマグロの刺身」と共に、釜飯を頂く。

 な、何と! かくして山海の珍味を取り混ぜ合わせた「超豪華チラシ寿司」風味に変身した、、、。

《以下、『峠の釜めし』関連記事ご参照願いたい!》
 A.07年02月19日投稿記事
 B.06年12月19日投稿記事
 C.06年12月18日投稿記事
 D.06年12月17日投稿記事

 よく晴れ渡ったこの日の早い夜、冬の軽井沢での「車の走らせ方」を知り尽くした友人のI氏に連絡した。いつもVIPの送迎をお願いしている仕事仲間の一人である。I氏に、わざわざ山荘に出向いていただき、残りのマグロブロックを進呈した。

 翌日、ふたたびI氏にお会いした。
 「味の程は如何?・・」
と、お尋ねしたところ、
 「家内と二人で相談し、結局、醤油と味醂に漬け込んで、『ズケ』にして食しました!たいへん美味でした・・・」
との「ご感想」を頂き、我輩は満足した。
 結局のところ、こういうマグロは「モロ!刺身として」食すのもさることながら、少し事前調理するか若干の工夫なり手を加えて食せば、絶品に変身すること、あらためて認識した・・・

 てな訳で、山奥に長逗留していると、毎日とは云わないまでも月に一度くらい?時として、猛烈に海の幸を口にしたくなるは「我輩の本能」か?
 あれこれと思い出す、、、。
 これと同じ経験、ハンガリーに長期滞在している頃にも、あったような気がする・・・
 

<・完・・>