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第47話 松本城と石川数正(その2)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/54/e84b97424c9ca1cfce5839a35280ad77.jpg)
前回、松本城を訪れてから、2年たちました。
折から、NHKの大河ドラマ「どうする家康」で、地元岡崎だけは盛り上がっているようですが、いくら話を面白くするといっても、大事な場面は、もう少し史実に基づいた展開にしてもらいたいと、私のみならず、多くの歴史好きの人は、苦々しい目で見ているのではないかと思います。
もうすぐ、石川数正の出奔事件が放映されるのだと思いますが、どう描かれているのか、注視したいと思います。
松本城は、全国で5つある国宝の城のうち、一番古い天守がある城だそうです。
問題は、その天守の土台になる石垣が、どう見ても新しく築られた石垣に見えて、とても400年も経っているとは思えませんでした。
しかし、天守は400年の間そのままで、石垣だけが復元されたということはありえないので、松本城の管理事務所に行き、その辺のところを聞こうと思いました。
専門の方から説明いただけるということで、事務所で待っていると、資料を片手に、学芸員と思われる方が現れました。
説明を聞くうちに私の知らなかったことが判明しました。
松本城は、その石垣も含めて、石川数正が築城したのではなく、息子の二代目城主石川康長の代で完成したとのことです。
確かに、秀吉の命で、要衝の地松本に城をつくって、東の徳川を牽制するためでしたが、松本に着いて間もなく、すぐ数正は大阪に呼び戻され、秀吉のお伽衆に加わったそうです。
お伽衆というのは、政治、戦略の見識や経験が豊かな人をそばに置いて、書物をあまり読まない秀吉が、話を聞くという、参謀グループみたいな存在でした。織田有楽斎もその一人です。
秀吉は、石川数正がそばにいることで、内心は徳川家康が攻めてこないことを知っており、城つくりは、急ぐこともなかったのですが、なにしろ数正は表向き調略されたことになっているので、それらしいポーズが必要です。そこで息子の康長に後の築城は任せ、数正は秀吉の側に戻り、徳川との争いを避ける相談相手になりました。
数正出奔の説はいろいろあり、秀吉得意の待遇や金品で調略したのが通説になっていますが、他の人間ならいざしらず、生粋の三河武士で、徳川家臣団で一番重要な人物が、そんなことで心を動かすわけはなく、先の読める数正は、徳川と豊臣がぶつからない唯一の方法は、自分が犠牲になって動くしかないと悟ったのでした。
以上は、私の素人説で、通説がほんとうなのかもしれません。でも、秀吉が亡くなった後に起こる、関ケ原の戦いのときは、ちゃんと石川康長は東軍についています。
以前読んだ記事によりますと、数正の縁者の言葉として、数正は、秀吉のことを悪く言うことは、時たまあるが、家康や、岡崎衆のことを悪く言ったことは、一度もなかったということです。
一方、松本城は息子の石川康長が手掛けた、鉄砲戦を想定した頑丈な城で、城の壁は厚さ30センチ、堀も鉄砲の玉が狙いやすい60メートルの幅にしてありました。
これで誰が見ても、東の敵に備えた城になりました。今回私が見てきた城は、天守も、石垣も、堀も当時のままということになります。【参照:第42話/松本城と石川数正】
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第47話 松本城と石川数正(その2)
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前回、松本城を訪れてから、2年たちました。
折から、NHKの大河ドラマ「どうする家康」で、地元岡崎だけは盛り上がっているようですが、いくら話を面白くするといっても、大事な場面は、もう少し史実に基づいた展開にしてもらいたいと、私のみならず、多くの歴史好きの人は、苦々しい目で見ているのではないかと思います。
もうすぐ、石川数正の出奔事件が放映されるのだと思いますが、どう描かれているのか、注視したいと思います。
松本城は、全国で5つある国宝の城のうち、一番古い天守がある城だそうです。
問題は、その天守の土台になる石垣が、どう見ても新しく築られた石垣に見えて、とても400年も経っているとは思えませんでした。
しかし、天守は400年の間そのままで、石垣だけが復元されたということはありえないので、松本城の管理事務所に行き、その辺のところを聞こうと思いました。
専門の方から説明いただけるということで、事務所で待っていると、資料を片手に、学芸員と思われる方が現れました。
説明を聞くうちに私の知らなかったことが判明しました。
松本城は、その石垣も含めて、石川数正が築城したのではなく、息子の二代目城主石川康長の代で完成したとのことです。
確かに、秀吉の命で、要衝の地松本に城をつくって、東の徳川を牽制するためでしたが、松本に着いて間もなく、すぐ数正は大阪に呼び戻され、秀吉のお伽衆に加わったそうです。
お伽衆というのは、政治、戦略の見識や経験が豊かな人をそばに置いて、書物をあまり読まない秀吉が、話を聞くという、参謀グループみたいな存在でした。織田有楽斎もその一人です。
秀吉は、石川数正がそばにいることで、内心は徳川家康が攻めてこないことを知っており、城つくりは、急ぐこともなかったのですが、なにしろ数正は表向き調略されたことになっているので、それらしいポーズが必要です。そこで息子の康長に後の築城は任せ、数正は秀吉の側に戻り、徳川との争いを避ける相談相手になりました。
数正出奔の説はいろいろあり、秀吉得意の待遇や金品で調略したのが通説になっていますが、他の人間ならいざしらず、生粋の三河武士で、徳川家臣団で一番重要な人物が、そんなことで心を動かすわけはなく、先の読める数正は、徳川と豊臣がぶつからない唯一の方法は、自分が犠牲になって動くしかないと悟ったのでした。
以上は、私の素人説で、通説がほんとうなのかもしれません。でも、秀吉が亡くなった後に起こる、関ケ原の戦いのときは、ちゃんと石川康長は東軍についています。
以前読んだ記事によりますと、数正の縁者の言葉として、数正は、秀吉のことを悪く言うことは、時たまあるが、家康や、岡崎衆のことを悪く言ったことは、一度もなかったということです。
一方、松本城は息子の石川康長が手掛けた、鉄砲戦を想定した頑丈な城で、城の壁は厚さ30センチ、堀も鉄砲の玉が狙いやすい60メートルの幅にしてありました。
これで誰が見ても、東の敵に備えた城になりました。今回私が見てきた城は、天守も、石垣も、堀も当時のままということになります。【参照:第42話/松本城と石川数正】
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