左翼のぬるま湯 2005/11
選挙が終って自民党が大勝したが、むしろ民主党の惨敗という方が印象として目立つ。それはたぶん民主党が政権交替ということしか言わなかったからではないか。
というと、いやちゃんと主張することはマニフェストに明らかだ、となるのかもしれないが、でもそれは耳に入ってこなかった。「マニフェスト」という言葉は有名だけど、マニフェストの内容となると知らない人がほとんどだ。
もちろんこれは印象である。印象というのはその頭に「ただの」とか「単なる」とかつけられて、論客には軽視されるものだが、でもじっさいの話、印象にはそのものの内容があらわれている。
論客は論理を究めて考えるわけだが、ふつうの人はそんなに細かく考えないし、論理を究める能力ももっていない。とりあえず印象で判断する。だからむしろ論理に騙されることがない、ということが言えるのではないか。
たとえば結婚というのは人生の一大事だけど、その場合も重要なのは相手の人の印象である。印象はよくないのだけれど、よく調べたら財産もあって家筋もいいし、鼻筋も通っているので結婚した。そうしたらやっぱり人柄が駄目で、嘘はつくし、ケチだし、結局は結婚生活が破綻した、となったとしたら、それは論理に騙された、ということなのである。
でも民主党のことで言うと、選挙の前から駄目だった印象がある。党首があれこれした末に鳩山、小沢、菅という党首候補がみんな引いたりこけたりして誰もなり手がない。だから仕方なく、という感じで岡田幹事長が党首になった。あの時点で、民主党って駄目なんだなと思った。党首になろうとする人がいないのだから、党としての魅力がないのである。
たぶん岡田氏は真面目だから、仕方なく幹事長になったのだろうが、党首となると真面目だけではつとまらない。魅力というのがいるのだった。
魅力って何だろうか。
不思議なものですね。
そんなわけで、民主党が魅力のないままの選挙だから、緊張感がなかった。どうせわかっている、という印象での選挙なので、刺客やその他候補者のキャラクターの方に興味がいった。そういう気楽さもあって、投票率が上がったのかもしれない。
昔は保革対立という構図があった。だから野党の価値もあったわけだが、いまはもうそんな構図がないから、野党の価値がなくなっている。だから政権交替と叫んでも、何のために交替するのか、理由がわからない。あるとすれば違いのための違いみたいなもので、それはただ頭が面倒になるだけだ。
だから選挙後に選出された民主党の新党首が、自民党に挨拶に行ったら、小泉首相に「無理して違いを言わなくても」みたいなことを諭されたというのは、よくわかることである。といって違いを言わないと野党の意味がないから、困った立場だ。そういう役柄にはまり込んでしまった悲哀。
人生にはいろんな生き方があるが、いったんそういうところにはまり込むと、簡単に別の生き方はできないものである。別のコースに行くのは自分が屈服したみたいに思えてしまって、タバコをなかなかやめられない人は世の中に多い。ぼくも昔はタバコを吸っていたが、タバコにはまり込んだ自分が嫌になって、もうやめてから30年以上もたっている。
それはともかく、みんな野党というタバコをやめて、自民党の公募してみたらどうなんだろう。
いま軽率度で注目を浴びている26歳の自民党新議員は、比例代表の候補者に応募したのだそうだ。選挙前に小泉氏が何かそういう刺客的足軽要員を公募するという話を聞いたようにも思うが、あまりはっきりとは知らなかった。ところがその26歳の新議員は試しにレポートを書いて応募したんだという。まさか当選するとは思っていなかったようで、棚ぼた議員と言われている。議員給料が2000万円以上もらえて嬉しいとか、いろいろと「失言」が正直で、その点はじつに新鮮だ。
もちろん軽率に過ぎるというご意見はあるが、でもやはり一瞬目を見はる。これが本当に議員だということが、何かしら痛快でもある。ぼくは現代のワカモノと書くとき、わざと現代のバカモノと誤植ふうに書いたりしていて、この議員にもその誤植はあてはまりそうだが、でもそれが現実に国会議員だという事実の痛快がまず凄い。
何しろ自由と平等の現代だから、プロレスのマスクやチョンマゲ姿で登院の議員もいたりするけど、そういう自己表現もどきの目立ちたがりとは違って、この26歳はただ正直というだけで、そこが目を見はるのである。
やはり選挙をめぐる世界が変わってきているのか。ラジオを聞いていたら、投票所の立会人みたいな役をこなした匿名公務員が電話をかけてきていて、その投票者の背中を見る役を選挙のたびにやっているけど、今回は何か違う、という話が面白かった。何か違う、という「ただの」印象だけで、論理は何もないのだけど、でもピンとくるものがある。
こういうことは、小泉自民党ならではのことではないのかな。派閥がっちりの在来自民党だったら、候補者公募なんてことはなかったはずだ。だからこれは、ある種の自民党アンデパンダン展みたいなことになった。
もちろん論理を踏み外さない論客は、印象では語れない。与党小泉政権を論理的に批判してこその論客である。何ごとも批判によってこそ頭脳の上位、その優秀を示すことができるわけだから、まずは現世権力の批判からすべてがはじまる。メディアの多くは、そういう左翼的ぬるま湯につかりながら、日々を過している。それはそれで、平和のバランスウエイトなんだということにもなるらしい。
論理的にはいろいろ、もう滅茶苦茶ですよということだろうが、この26歳議員といい、料理研究家やその他の刺客と呼ばれて当選した新議員といい、いわゆる素人政治家の登場が現実となり、選挙とか議員とかいうものが少し身近になったことはたしかだろう。自分はいまフリーターだけど、努力の具合によっては国会議員も不可能ではない、という感覚。国会議員なんて何も大したことはないと、それは慢性左翼的な投げやり感で言われていたことだが、その投げやりを超えて、いきなりその現実が目の前に出てきた。いや本当に素人かどうかはわからないが、少なくとも印象はそうで、素人に見えることはいいことだと思う。
ぼくもむかし、まだ芸術家だったころ、町会議員は穴じゃないかと思った。国会議員になるのはさすがに大変そうだけど、町会議員ならなれそうな気がする。それで給料をもらって生活できればいいなと思ったが、やはり思慮深いのでやらなかった。それをやってしまう人々が出てきたわけである。
と言ってしまっていいのかどうかは責任もてないが、とにかく選挙とか議員というものを隔てる溝が埋まってきているようで、それは自由と平等の大義からすれば、大変目出度いことだと、そのように言う人はあまりいない。
赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい) 1937年、横浜生まれ。芸術家・作家。『父が消えた』で芥川賞受賞。『超芸術トマソン』『新解さんの謎』『老人力』などのベストセラー、ロングセラーを含め著書多数。卓越した着想とあくなき探究心、絶妙なユーモアで、常識でこりかたまった世の中のものの見方を変えてしまう著作、さまざまな表現活動で知られる。最新刊は『もったいない話です』(筑摩書房)。
(以上、ファイブエルより転載)