太った中年

日本男児たるもの

ノーネームの不思議

2009-03-29 | weblog

ノーネームの不思議  2007/10

このところ、ノーネームということが気になっている。じつはフィルムカメラの一眼レフで、ノーネームの新製品が出るのだ。最初この話を聞いたときには、ふーん、と思うだけだったが、その思いが終わらずにつづいている。ふーん、しかし……、ふーん、だけど……、ふーん、という具合に、ちょっとした考えがいつまでもつづくのである。

いま世の中は、ほとんどデジタルカメラに切り換わっている。フィルムカメラは次々と生産中止となって、新製品が出ることはまずない。そんな世の中に、あえてフィルムカメラの一眼レフが新しく出る。どうしても注目する。機構的にはとくに新しくはないようだが、ノーネームというのははじめて聞いた。

ふつうカメラの一眼レフというと、頭のペンタ部の前、人の顔でいうと額のところに、キヤノンとかニコンとかのブランド名が刻まれている。それがない、つまりノーネームのカメラである。まだ手に取って見てはいないのだけど、何だか妙に新しい気がする。

あ、ベンツだな、と思った車の頭に、例のベンツ印がなかったら、あれ?と思って車のテールを見る。そこにもベンツ印がなかったら、どうも気になって仕方がない。私、意外とブランドを気にする性なのだ。いや私に限らず、いまの世の人々はほとんどそうじゃないのか。

ノーネームの商品では、だいぶ前から無印良品というのがある。ブランドを廃した、あるいは虚飾を廃したイメージで人気が出て、品揃えが広がり、海外でも受け入れられて、無印を略したムジという名で売れているらしい。

現象としては興味深いが、こうなるとノーネームを意味する無印のムジそのものがブランド化した感じで、逆にノーネームの位置から少しずつ外れていく。人間というのはどうしても名前を欲しがるみたいだ。

そんなことがずっと頭にあって、この間あるサークルで「名前の役割」という話をした。人の名は地名からきていることが多いが、でも地名が先にあったかというと、それだけでもなさそうだ。ある人が強くなって豪族にまでなると、その土地がその人の名で呼ばれるようになったりもする。その豪族が滅びたあとも、それは土地の名として残り、それがまたいつの間にか人の名になったりすることもある。

そもそも人間どうしが、相手に名前をつけて呼ぶようになったのはいつごろだろうか、と考えると、わからなくて面白かった。わからないというより、証拠がない。だからいろいろ推理できる。

文字も遺物もない時代は、想像するしかない。考えるスタートラインはみんな同じだ。人の名前と物の名前とどちらが先についたのか。

ほぼ同じだろうが、物の名前の方が先のような気がする。木の実とか動物とか。

たぶん言葉の発生のところまでさかのぼるだろう。猿と人間の分かれ目は、直立二足歩行、火を使う、道具を使うとかいろいろあるが、同時に言葉を使うというのが大きな違いになったらしい。

言葉の最初は物の名前かというと、むしろYESやNOみたいな意志表示じゃないか。

YESとNOとどちらが先かと考えると、NOのような気がする。YES、つまり肯定というのは黙っていてもいいわけで、ものごとは自然に肯定のルートを流れて進む。でも違うというときには意志表示をしないと困る。

でも意志表示だけなら、犬や猫もやっているらしい。人間との生活をとりあえずは肯定して過ごしているけど、どうしても嫌なときには態度が変わる。犬猫猿らは言葉をもっていないが、YES・NOの意志表示はしている。猫どうし犬どうしのかかわりを見ていても、細かい言葉はないようだが、目の力や口や息の出し方などで、互いの意志表示はしている。

鳥だって、天敵に襲われたときにはキキキーと鳴いている。あれは仲間に緊急事態を報せる意味もあるのだろう。言葉の直前の信号みたいなものらしい。でもその先の言葉というのは、まだ人間しか持っていないのだ。

やはり言葉というのは、YES・NOの意志表示をもう少し超えたところのものからだろう。

話はいきなり逆転するが、人間、歳をとると名前を忘れる。完全に忘れるわけではないが、とっさに思い出せない。ちょっと知った人の名前を忘れるならまだしも、古くから知っている人の名前をぽかっと忘れる。誰でも知っているような有名人の名前も、ぽかっと忘れたりする。まさか、と慌てて脳みその中を駈けめぐってみても、空回りばかりでぜんぜんその名前が出てこない。それでせっかく思いついたシャレとかタトエ話が、宙に浮いてしまって口に出せず、悔しい思いをした人は多いだろう。

歳をとると脳内の連絡が少しずつうまくいかなくなって、物忘れが激しくなる。だから2007年問題というのは、多くの人々が還暦を迎えて、たくさんの記憶が蒸発に向かい始める年なのだ。甲子園球場でのラッキーセブン、スタンドの全域からいっせいに風船が舞い上がる。あのように、日本総人口の記憶がかなり大量に蒸発に向かう。

ぼくの世代はさらにその先を行っているわけだが、ぼくよりもっと先を行っている先輩に聞くと、まずは名詞から忘れていって、しまいには動詞までも忘れてしまって、えーと、えーとが無限に増えていくという。

動詞を忘れるのは凄い。ぼくはまだその境地に達していないが、どうなんだろう、たとえば飛行機という名前はもちろん忘れて、ほら、あの、空を飛んでいる物体、といおうとしても、空を忘れているし、飛ぶという言葉が出てこない。

正に色即是空、空即是色である。

というところから考えると、人間の言葉の最初は名前だろうという考えも、少々わからなくなる。名前を最初に忘れるということは、それほど必要度がないからだとすると、名前などなくても狩猟採集の生活は進行していて、むしろ別のところからの言葉の始まりがあるのかもしれない。でもわからない。証拠がない。だから面白い。

ということと直接関係はないけど、ノーネームの一眼レフカメラは、何だか気になるのである。名前を忘れたカメラ、思い出せないようなカメラが、実体として売られている。買ってからプレートに「色即是空」と刻印するのもいい。それがちょいとキザになるというなら、内側ではどうか。よく野球選手が緊迫した場面で、帽子を脱いでその裏側をじっと見て、気を鎮めている。裏側に「根性」とか書いてあるらしい。だからカメラの裏蓋の内側ではどうか。フィルムを入れるたびに、色即是空、という文字を見つめる。買ったらそうしよう。

 

赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい) 1937年、横浜生まれ。芸術家・作家。『父が消えた』で芥川賞受賞。『超芸術トマソン』『新解さんの謎』『老人力』などのベストセラー、ロングセラーを含め著書多数。卓越した着想とあくなき探究心、絶妙なユーモアで、常識でこりかたまった世の中のものの見方を変えてしまう著作、さまざまな表現活動で知られる。最新刊は『もったいない話です』(筑摩書房)。

(以上、ファイブエルより転載)