太った中年

日本男児たるもの

赤狩り旋風

2009-03-30 | weblog

2007年赤狩り旋風  2007/4

北海道のミートホープの場合は、そうとう悪質な混ぜ物をしていたわけで、これはやはり叩かれて当然だろう。

でもそれにつづく赤福叩きの辺りから、世の中はちょっとおかしな空気に包まれてきた。

世の中がおかしくなったというより、マスメディアの神経がちょっと異常になってきた。でもいまの日本ではテレビ新聞などのマスメディアがそのまま世の中というものに成り変っているのが現状だから、やはり世の中がおかしくなってきたといってもいいのだ。

食品会社が次々と槍玉に上がり、賞味期限が違う、製造年月日がずれているということで、各社の責任者が一斉に報道陣に向かって頭を下げる。

頭のてっぺんなんてもともと見るようには出来ておらず、まして責任者という高齢者の頭のてっぺんは見かけがわるい。それを毎日たくさん見せられるのは、気持ちのいいものではない。食欲がなくなる。

こういうことが毎日つづくと、ぼくは昔のマッカーシー旋風というのを思い出すのだ。かなり古い話で、まだソ連という共産主義大国が存在していて東西冷戦といわれた時代、アメリカで赤狩りの風潮が激化した。

赤とは共産主義者のことで、マッカーシーという上院議員が先頭に立って、その主義者を摘発する空気が濃厚となり、それがアメリカ全土に旋風となって吹き荒れた。

ソ連はというとそのまったくの裏返しで、そもそもはその主義者が国家の王座に座り、とくにスターリンになってからはそれが絶対の首領様で、そもそもが青狩りの徹底によってその権力が出来上がったのだ。

赤の反対が青かどうか、それ以前の勢力を白系ロシアと呼んだりして、いろいろご議論のあるところだが、まあソ連の方は当時鉄のカーテンと呼ばれる言論統制が徹底していたからよくわからない。それもあって世界中のインテリが赤になびいてしまった。インテリというのは、現実よりも理屈に弱い。

で、一方のアメリカではそのマッカーシー旋風と呼ばれる赤狩りだ。ぼくはまだ中学生だったからその骨組みはよくはわからないが、その空気はよく覚えている。ぼくにもインテリ願望はあったので、高校に進むころから少しずつ赤に染まっていくわけで、そのマッカーシー旋風の赤狩りというのは、何だか冷たい空気として記憶している。

で、赤福である。赤だから赤狩りではないのだけど、赤福にはじまる各食品会社の謝罪の嵐を見ていて、マッカーシー旋風を思い出したのだ。正に赤狩りである。別に人を殺したわけではないのだけど、ビシバシと糾弾される。たしかに日付を改竄したのだけど、そのことだけで、会社トップの人々が一斉に頭を下げる。もちろん嘘をつくのはよくないことで、理屈ではそうなんだけど、直接の危害を加えたわけではない。その恐れがあるということだけで、ぞくぞくと謝罪している。

それがつづくと、とにかく謝罪ということだけが記憶に残り、それに至る理屈がだんだん希薄になって消える。今日も謝罪、明日も謝罪、というパターンだけがこびりつく。これはやはり、後世、謝罪の嵐が吹き荒れた、マッカーシー旋風に匹敵する時代として残るのではないか。

謝罪する社長たちは、世間に向かって頭を下げるというが、目の前にいるのはすべて報道陣だ。あれはじっさいには報道陣に謝罪している。報道陣が、ピストルこそ持ってはいないが、ピッと笛を吹いて、
「おい! そこの会社! この賞味期限はいったいどうなってるんだ!」
と叱責して、そうするとその会社の社長が縮み上がって、
「すみません、まことに申し訳ありませんでした」
と頭を下げる。ある種の公開処刑、とまではいわないが、でもこれがマッカーシー時代のアメリカなら、たちまち政治生命を絶たれる。ソ連だったら政治生命どころか、たちまち連行されて命そのものを絶たれる。いまの日本はそこまでいかず、政治生命ならぬ商売生命を絶たれる、いや絶たれるまではいかず、とにかくお灸をすえられるというくらいで、日本は甘い国でよかった。

もちろん改竄ということ自体はよくないことだが、でもじっさいには何が悪いのか。食べて死んだ人がいるわけではなく、冷凍して味が落ちたという声がぐんぐん高まった、というわけでもない。

冷凍は素晴らしい技術である。皆さんそう思いませんか。ぼくらの生活はどれだけその技術の恩恵を受けているかわからない。食品によっても冷凍に合うものと、合わないものとある。合わないものはそもそも冷凍すると商品にならない。だから誰もしない。合うものは、冷凍のあと目隠しテストしてもわからないほどだ。つまり実害はないわけで、ただイメージだけが信仰として残る。

ブランド信仰と同じだ。黒豚も比内鶏も関サバも、数はそんなにあるわけでもないのに、その名をつければ高く売れるとなるから、商売人はみんなそうする。買う方に眼力、舌力があればそうはならないが、みんなその力はほとんどない。でもブランド信仰だけはある。

消費者に眼力があればこういうことにならないが、眼力はないのに金だけはあるから、ブランド信仰というのが黴みたいに広がる。ぼくだってブランドは好きですよ。でも一方で札びらを切るのは嫌いだから(切れないか)、ブランドと比べれば実質の方が好きだ。

とにかくこの賞味期限改竄の謝罪の嵐は、年末が近づくにつれて下火になったように思う。だんだんと歳末商戦が近づいてくる。おせち料理というのは、正月の一月一日に食べるという絶対の期限がある。国民のほぼ全員がそれをおこなうわけで、この時期に賞味期限原理主義を振りかざしてマッカーシー旋風を吹かしつづけたら、日本国全体が大混乱におちいる。マッカーシー役の拳を振り上げる報道陣も、振り上げた拳の下ろしようがなくなる。それに気づいて、謝罪劇は終りに近づいてきたように思う。

推理小説などで、真犯人がわからなくなる。そのときの基本は、この騒動で得をしたのは誰かということだ。この謝罪の嵐で得をしたのは、会社でも消費者でもなく、報道陣だ。その間ずうっと視聴率を稼げた。謝罪劇ではボクシングの亀田一家の件もあるが、あの中でも、損したもの、得したもの、いろいろある中で、得だけして残っているのは報道陣だ。新聞雑誌テレビのマスメディアである。新聞はいまや高齢となって定年間近といわれる中、マスメディアといえばテレビだろう。金利だけで動くヘッジファンドのように、視聴率だけで作業を進めるテレビ業界が、謝罪劇のマッカーシー、またはスターリンの役を果たしているわけである。

 

赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい) 1937年、横浜生まれ。芸術家・作家。『父が消えた』で芥川賞受賞。『超芸術トマソン』『新解さんの謎』『老人力』などのベストセラー、ロングセラーを含め著書多数。卓越した着想とあくなき探究心、絶妙なユーモアで、常識でこりかたまった世の中のものの見方を変えてしまう著作、さまざまな表現活動で知られる。最新刊は『もったいない話です』(筑摩書房)。

(以上、ファイブエルより転載)

今回でゲンペーさんのエッセイは終了。長らくのご愛顧、感謝感激雨霰。