鉄を喰う猿 2007/4
ここ何年か、猿が山から出てきて、畑を荒らしている。大根を抜いて、先っぽだけ囓ってポイで、また次の大根を抜く。次々抜いて畑がめちゃめちゃになる。
何とか猿退治をしようと、地域の人々は頭を痛めているが、あれこれやっても、猿知恵ですぐそれを擦り抜けて、畑の被害はいまも広がっている。メディアはもう飽きたので報道しない。
これは農業の場所での話だったが、最近は猿が街にも出てきた。街に出る猿はガードレールを何メートルも引っ剥がして持っていったり、アルミサッシをベリッと剥いで持っていったり、どぶの溝に伏せてある鉄蓋を全部外して持っていったり、畑と同じように街の隙を見つけては荒らしまくっている。
畑の大根は抜いたらその場で囓ってポイだが、鉄屑類剥がしたあとどうしているのか。
むかし小松左京の「日本アパッチ族」という小説があった。戦後のまだ焼跡闇市の残る日本に、見知らぬ人類が出没して、鉄屑を端から食べていく。ぼくは10代の終りか20代のはじめのころに読んだから、細かい筋は忘れたが、とにかく痛快な小説だった。
でもあれは小説だ。しかも戦後の焼跡闇市の残る時代の話で、いまはもうそれから50年、いや60年、もはや戦後ではないどころか、北朝鮮でさえ原爆を持っているのだ。そういう時代に、畑に猿が出るだけでなく、街に猿が出没して、鉄を剥がして持ち去っている。いったいどうしたことか。
猿は盗んだ鉄屑を山の中に持ち運んでいるらしい。そんなに大量の鉄屑を、山の中でどうするんだろうか。
噂では、猿が山の中でオリンピックか何かする計画だという。山の中で猿真似でスタジアムを造ったり、道路を造ったりしているというけど、猿に本当にそんなことが出来るのだろうか。
とにかく噂なのでわからない。さらに噂では、街でじっさいに鉄を剥がして盗み去っているのは、猿ではなく人間らしい、ともいう。密かに猿と通じている人間がいるらしくて、その人間どもが盗み出した鉄屑を猿に売り渡して、何か報酬を得ているという。
猿だから、報酬といってもお握りか柿の種か何かと思っていたら、ちゃんと金で買いつけているらしい。
猿が金を持っているのだ。猿から金をもらって恥ずかしくないのか、と思うが、最近は金のためなら何でもするという人間が多い。いまや金は人の命よりも重い、と思われている。
しかし昔なら考えられないことだった。猿がいくら金を持っているからといって、人間が人間社会の公共の鉄の備品を盗み出して、猿に売り渡すなんて、人間のすることじゃない、犬畜生のすることだ、と昔ならいわれた。
というより、それは世の中を裏切るおこない、国を売るもの、非国民だ、といわれた。
でもいまは、この言葉は流行(はや)らない。そもそも国という言葉が軽んじられている。国には反発し、むしろ否定するのが新しい考えだと思われている。
日本の人間はこの傾向が強く、これは戦後広まった左翼ウィルスのもたらす症状だといわれている。これはアメリカ駐留軍によって移植されたウィルスで、自分の国の過去をすべて否定し、軽蔑し、自分の国を非力にする能力を備えている。
左翼ウィルスというのは、いちど感染するとなかなか抜けにくい。体内に左翼思想が広がり、慢性化する。
慢性左翼といわれている。
かつて左翼小児病というのが、もっとも過激で危険な症状だといわれていた。でもそれはどこかへ消えていき、そのかわりいまは多くの人々が左翼慢性病をかかえている。これはとくに退治させなくても生きていけるので、みんなそのウィルスを抱えたまま定年を迎えようとしている。
いや猿の話だった。いまや山奥の方では猿社会の発展が凄い勢いだそうで、高層ビルががんがん建っているという。猿の数は1億どころか10億とも20億ともいわれ、いずれ地球は猿の惑星になるだろうとのことだ。
でも一方その山奥のさらに奥の奥の方では、貧困状態がもう頂点にも達しているそうで、ねぐらはない、食い物はない、公害はたれ流しで、こまかい暴動が日々200件くらい発生しているという。この猿の集団は独裁体制を固めているから、一部特権階級が異常に裕福になり、他のほとんどが貧困にあえぐ。ということの繰り返しだという。まあたしかに動物園の猿山を見ていても、暴動というか喧嘩はしょっちゅうで、牙を剥いてきーきー威嚇しあうことに余念がない。だから問題は難しい。
えーと、問題がわからなくなった。とにかく公共の物を盗む、ということが横行しているわけで、それは自転車がはしりだったのではないだろうか。
自転車は公共物ではない。個人の物だが、でも公共の道路脇に停めてある。だから道を通る人々の意識には、公共物としての感覚が半分混じっているんではないか。終戦直後のイタリア映画『自転車泥棒』では、自転車は明らかに個人の所有物で、それを盗むということの緊迫感が映画全体にあふれていた。
つまりそんな感覚がいまの自転車からは完全に失せているわけで、その失せたところに公共物みたいな感覚が入り込んでいる。だから金銭の盗みというよりも、商店のシャッターに落書きする感覚で持ち去るのがいまの自転車泥棒だ。そんなことがはじまったのは、いまから20年ほど前からのことではないか。
自転車が安くなったということもあり、それが世の中にあふれ、それを持ち去ることの罪悪感が薄くなった。だから酔っ払った男が平気で駅前から乗り逃げし、家の近くに乗り捨てる。乗り捨てるだけならまだしも、意味もなくどぶ川の中に放り投げたりする。
ぼくは自転車が好きだが、そういう世の中になってきてから、もう自転車から気持は去った。買うとなればいい物を買いたいわけで、でもそのいい自転車をそういう目には合わせたくない。
物があふれたということが背景にはあるが、戦後教育の中から道徳の消えたことが大きい。学校でも教えないし、とくに家庭でまったく教えない。子供の自主性というものだけを重んじて、すべては自由でいいんだということにしている。つまり物わかりのいい親、という位置にみんなが逃げ込み、その結果、人間は自由なんだよ、猿と同じなんだよ、人間は猿でいいんだよ、モラルなんて一銭にもならないよと、そういう家庭教育の普及が、こんにちのガードレール泥棒にまで到達している。
少々短絡しすぎたが、いまの世の鉄屑泥棒をただ猿の仕業とはいえない。そのことに驚かない人間が出来てしまっているのである。
赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい) 1937年、横浜生まれ。芸術家・作家。『父が消えた』で芥川賞受賞。『超芸術トマソン』『新解さんの謎』『老人力』などのベストセラー、ロングセラーを含め著書多数。卓越した着想とあくなき探究心、絶妙なユーモアで、常識でこりかたまった世の中のものの見方を変えてしまう著作、さまざまな表現活動で知られる。最新刊は『もったいない話です』(筑摩書房)。
(以上、ファイブエルより転載)