太った中年

日本男児たるもの

日本社会での緩慢な自爆テロ 

2009-03-24 | weblog

日本社会での緩慢な自爆テロ  2006/2

この通しタイトルは「世相ななめ読み」とついているが、これは古き良き時代の言葉である。

いまは斜め読みといったって、世相自体が斜めになっているから、斜め読みする意味がまったくない。

だから「真面目に」という言葉が添えられてもいるが、何だかはかない抵抗、という気がするわけである。

ぼくがそんなことを「如実に」感じたのは、パロディに関してのことだった。いまを去ること30年、ということになるだろうか。もう少し前か。三島割腹事件とか、連合赤軍事件ではじまった1970年代だ。自分はメディア上でパロディという方法に手を染めて、それが自分でもめちゃくちゃ面白かった。世相というものがまだ斜めではなく真っ直ぐの時代だったから、それをこちらが斜めにするとごろごろと新しい意味があらわれて、そういう面白さに夢中になった。手当り次第、意味の露天掘りといった快感があった。

でも80年代に入るころから、そういう斜めにする快感はなくなったように思う。何だかつまらなくなったのだ。どうしてかと考えてみると、もうそのころから世間全体が斜めになってきていたのだ。パロディというものが容認されて、世相そのものがパロディ的な衣裳をまとってきたのである。

容認されたパロディほどシラけるものはない。でも世相そのものがどんどん斜めになって、お笑い世界が常識みたいになっていった。そうなるとあとはもう、営業活動だけがあることになり、意味の面白さはどこにもなくなってしまった。

そしていまは2000年代だが、世の中はもう自爆の時代という気がする。

自爆テロという言葉は、いわずと知れたあのニューヨークでの9.11から強烈に世相に突き刺さってきた。それ以前から、アメリカ世界とイスラム世界との衝突で、自爆テロは頻発していた。

それまでの自爆的表現で有名なのは、ベトナム戦争のさなか、ベトナムの僧侶が抗議の意志をもって路上で焼身自殺するという事件があった。攻撃ではなく、自分の死をもって反戦を訴えたわけで、標的は人間の内面である。

でも2000年代に入り、9.11を頂点とするイスラム世界発の自爆テロは、ほとんど物理的攻撃である。もちろん自死をもって攻撃するのだから、その事件は人間の内面にも食い込んでくるのだけど、でもそれよりも自分ごと正に爆弾と化して突っ込んでいる。

ぼくは信仰の世界はよくわからないのだが、自分の体を道具として爆弾攻撃すると、その自分は当然死ぬ、その死んだ自分はそのまま神の許に行けるというのが信仰のようである。それを実感するのは、やはりその信仰をもたない限り無理だろう。

でもそういう自爆の空気が、日本にも広がっているような気がする。日本の場合は宗教や信仰ではないけれど、たとえば予備校の先生が、小学6年生の生徒とそりが合わないからといって、包丁2本とハンマーを用意して殺害に及ぶ。そんなことをしたら当然そのまま自分が生きていられるはずがない。日本の世の中は甘くて過保護だから、死刑にまではならないかもしれないが、でも自分が社会的に生きていられなくなることを、おそらく考えもなくやってしまう。

そういう行為が非常に多い。女性や小さな子供にさっと手をかけて殺してしまって、そうすると自分が社会的に存在できなくなるということを、考えないのだろうか。

どうも考えないらしい。もちろん法の隙間を縫って、小ずるく保身を計算した上で犯すものもいるだろうが、でもそれは古典的な考えで、いまは何も考えずに、ただ軽薄に犯行を重ねるという印象がある。とにかく病的な欲求があって、そこにあっさりと向ってしまう。その結果は自分の存在を死に近く落し込むことになるわけで、その行程がどことなく自爆テロに重なる。

もちろんイスラム世界発の自爆テロは、民族のため、正義のため、敵に反撃するという戦争行為で、信念をもっての自爆のようである。それにひきかえ、日本の軽薄な、おぞましい犯罪者たちに、信念はない。民族のためとか、人のためという思いは一切ゼロで、ひたすら自分のためである。それをいっしょにしてはまずいだろうが、でも事を成す道連れに自分の存在を放り投げるという行程が、似ていて気になるのである。

日本ではもう何年も前から引きこもり症候群をかかえて、その数が全国で百万ともいう。この人々はもちろん死んではいないわけだが、活動はしていない。人間は何か仕事をして、稼いで、その稼ぎで食ってこそ、活動して生きているということになる。人間に限らず動物植物みんなそうだ。だから引きこもりの人々は生きているとは言い難い。もちろん呼吸をして、心電図を取れば反応はあるのだろうが、でも社会的には生きていない。ほとんど死んでいる。ご両親がせっせと炊事洗濯などして、その「死」を手助けしているという事情があるにしても、もとは自分でその穴の奥への道に入り込むのだから、形としては自死に近い。心電図的には生きていても、ほとんど目立たない死というか、緩慢な自爆のようなものである。

ただこの場合はテロではない。それによって他を攻撃するとか反撃するとかいうのではないから、とりあえず害はない。自分の存在だけが縮み込んでいく、ブラックホールみたいなものだ。ブラックホールはそこに発生する重力場によって、近隣の物を引き込み、飲み込んでいく。とりあえずその引きこもりの住む家庭のご両親がそれにあたる。その引きこもりブラックホールに吸い寄せられて、その人間にかかりっきりになってしまうという話はよく聞く。親離れ子離れという成長過程に無頓着だったことの報いでもある。いったんブラックホールとなったものを分離するのは大変なことだろう。天体の場合はまず不可能だ。でも人体の場はまだしも多少の望みがあると思うのだが。

ブラックホールの場合は、その引力圏に近寄らなければ何ごとも起らない。でも自爆テロの場合は、攻撃性をもっているから、無関係ではいられない。先にいった日本的な緩慢な「自爆テロ」には、思想も信念もないのだから、その存在を予知するのは難しい。とりあえずは人並に世に出て、仕事をして生きている。にもかかわらず突然の「自爆テロ」に及ぶ。

世の中がこれほど斜めになっていなければ、まだしも予知は可能だったのかもしれないが、いまとなっては非常に難しい。いまの日本の世相というものが、それほど斜めになっているということだろうか。

 

赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい) 1937年、横浜生まれ。芸術家・作家。『父が消えた』で芥川賞受賞。『超芸術トマソン』『新解さんの謎』『老人力』などのベストセラー、ロングセラーを含め著書多数。卓越した着想とあくなき探究心、絶妙なユーモアで、常識でこりかたまった世の中のものの見方を変えてしまう著作、さまざまな表現活動で知られる。最新刊は『もったいない話です』(筑摩書房)。

(以上、ファイブエルより転載)