#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【DACHAU】生きる糧

2008-06-12 | MUNICH
250人収容の施設に、
これだけの風呂場…とトイレ。

風呂もトイレも
完全管理の中で
時間を与えられて
処理していたのだろう。

汚物臭と体臭と
さまざまな臭気が
混じり合い、

どんどん人間性が失われていく。

嗅覚って実は
神経と直結な部分で
おぞましい臭いに長時間紛れると
完全にイカれてしまう…と思う。

それだけ人間は臭いに敏感だ。

このような劣悪非道な環境下で
250人、いや1000人、1600人…という
大量な囚人の汚物臭や死臭、体臭が
入り交じっていたのか…と思うと
吐瀉しても吐瀉しても、吐き気は収まらない。

「生きる」糧など、あったもんじゃない。


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【DACHAU】ストライプ柄

2008-06-12 | MUNICH
ET KING 「晴レルヤ」

3月16日。日曜日。
縞模様の曇り空。

1945年4月29日。
連合軍がダッハウを解放する。

アメリカのテクノロジーを見せつけるがごとく
当時の記録係は、最新のカラー映写機で
解放されたダッハウ強制収容所をつぶさに記録した。

その映像が今、目の前で放映されていた。


      カラーである。


戦慄を覚える…とは、このことを言うのだろう。
生命力がひからびた人間の表情とは、
こんなにも色気の引いたドス黒いものなのか。

骨と皮だけになった四肢をぶら下げ、
心も体も潤いを失い、
脂肪という蓄えもあらかた奪われ、
正気と狂気が入り交じった「生きたモノ」。

解放を歓ぶ輩も、もちろん居るが、
そのような気力も完全に失われた…
…たとえ解放されてもわたしの死期は変わらない…
…とでも言いたげな絶望を露わにした「生きたモノ」。

250人定員の囚人棟にぎゅうぎゅうにされ、
汚臭と死臭にまみれた空間で、
生きるための欲望も完全に剥奪され、
口に入れるも、尻から出すも、欲しなくなった「生きたモノ」。

人間、堕ちるところまで堕ちると
こんな状況にまで堕ちることができるんだ…と
目を覆っても、覆っても、脳裏から再生される。

そんな最低レベルの生活を、カラーで目の当たりにした。

どれだけの数の人間が、「死体」として山積みされているのか…
この手は、この足は、いつまで生命を宿していたのか…
「死」を恐怖と感じなくなると、人間はどこまで無神経で居られるのか…

なにからなにまで、自己の範疇を超えている。

広島の原爆直後の惨状を、連合軍が記録したカラー映像も見たことはあるが、
黒こげになった「生きたモノ」が水を求めさ迷う地獄は、
完全に想像の域を超えていた。

しかし、このすざまじい数の死体は、
生々しいだけに、逆に想像域内に収まってしまっていた。
ただ、認めたくなかった。

このような惨状が、75年前のこの地で
ド派手に繰り広げられていた…とは、
自分自身が認めたくなかった。

     しかし、しかしである。

     あああ、なんということか。


浅はかなクリエイターどもよ。
ボクは「ET KING」なるバンドのPVを
屋外ビジョンで目にした時、背中に戦慄が走った。

     なんだ、そのストライプ柄は。

1945年4月29日のダッハウ解放のカラー映像。
そこで画面を横切る収容者は、どのような服を着て、
怨念の目をレンズに向けていた…というのだろう。

そのような想像力は、働かなかったのだろうか?

囚人の象徴として、ストライプ柄を着せたスタイリストは
ダッハウやアウシュヴィッツの囚人服をまさか参考にしたのだろうか?

     あれだけの惨状の象徴としてのストライプ柄を、
  「ET KING」なるバンドは嬉々として身に纏ったのだろうか?

いったい、どんな気持ちで、
彼らはこの史実を受け取るのだろう。

「無知」なる涙を流したのは、永山死刑囚だった。

しかし、日本国民がこのPVに違和感を覚えることなく
曲に合わせ無神経にケツを振り回しているかと思うと、

 インターネットが進み、情報が多岐に交錯しても
 世界を知ることの難しさ、世界を理解することの難しさは
 決して変わらないのだ…と思い知らされるのだった。


 















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【DACHAU】囚人棟

2008-06-12 | MUNICH
3月16日。日曜日。
死者の魂が
両肩にのしかかる…そんな重たい天気。

遠景より
再現された2棟の囚人棟を眺める。

ただのプレハブだ。

この極寒のドイツで
この収容施設は、
まさに地獄。

死体が転がる中で、
明日は我が身…と
生きる望みを失っていく。

その諦めが死期を早めるのだろう。


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【DACHAU】驚愕の連続

2008-06-12 | MUNICH
3月16日。日曜日。
鉛色のどんよりした天気。

強制収容所に
足を踏み入れる。

展示棟となっている建物は
ドイツ側の管理棟と思われる。

囚人棟の32棟はすでに取り壊され、
今あるモノは2003年に再建築されたもの。

かつての囚人棟は
コンクリートの土台を残すカタチで
その規模を再現していた。

1933年建立。
今から75年前。

1945年の解放までに
32099人が収容所内で死亡。
約1万人が疫病、栄養失調、自殺などで
ダッハウ周辺で息絶えた。

第三帝国の情勢が非常に厳しくなった1941年以降は、
政治犯や異分子がどんどん送り込まれ、
定員250人の囚人棟に約1000人が詰め込まれていた…という。

その大半はチフスなどの疫病にかかり、
食事も満足に与えられず、劣悪な環境の中で
どんどん死に追いつめられていった。

収容所内には巨大な焼却炉施設が併設され、
日に100人単位の死体が処理されていたが、
それでも追いつかず、死体の山がそのまま放置されていた…という。

まざまざと見せつけられる映像の数々。

ストライプ柄の囚人服をまとった群衆が、
死体脇で貧相にカメラを見つめた写真。

そこには「生きる」ことの意味すら、失われていた。

折り重なる手足、それを一輪車で運ぶ囚人。
囚人棟の室内いっぱいに積み重なった死体。
その脇で、目だけをギョロギョロさせ、
盛んに身体をひっかいている。

シブヤのスクランブル交差点…あの雑踏が
そのままこの収容所にあるような、そんなありさま。
最大時は40000人もの人間が、この区域に閉じこめられていた…。





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