広告の現場を離れて、5ヵ月が経った。
すでに暦は水無月である。
…もう、夏がそこまで来ている。
●
かつての朋友が作ったTVCMを
消費者の目線で眺める機会があった。
なるほど。
既視感に溢れている。
広く伝えることを生業とする「広告」は
どうしても最大公約なイメージで語られがちだ。
「どこかでみた」絵の焼き直しになってしまう。
増して、そのジャッジを行うのは
消費者の代表と称する「クライアントの責任者」だ。
クリエイターが絶妙な「既視感のズレ」を呈示し、
消費者のイメージコードから外れたもので
「広告」を生きたモノにしようとしても、
クライアントの「既視感の亡霊」に囚われ、
手足をもぎ取られたような「去勢された」表現に帰着する。
それが常だ。
特にローカルの広告表現は
中央発信の焼き直しの範疇から逸脱できない。
その苦しみの中で悶絶したから、
ボクはドロップアウトしたワケだ。
●
しかし、写真表現の深き森に分け入ってあらためて思うのは、
自分が「既視感の亡霊」にどっぷり囚われている…ということ。
クリエイティブディレクションを行うにあたり、
クライアントへ広告表現を説得するときはどうしても
大多数の共通イメージを提示しながら説明することになる。
写真表現を突き詰めれば突き詰めるほど、
自分のイメージコードが、
13年間の広告制作の汚濁に紛れていることを思い知らされる。
「ウゲっ」
写真をあざとく収めようとする自分がいる。
感じたままを定着する前に、観念が表出してしまう。
●
旅の写真が、万人に感動を与えるのは、
やはり理解を超えた絵が素直に切り取られているからだろう。
イメージコードのない事象は、見る者の興味をそそる。
そういった意味で「臺灣」は、
純粋に視欲を満たす絵が多いから
見入る側もおもしろがってくれるのだろう。
「ゆれる。」で構成される女性たちは
そのモデルを知っている人間には、新鮮な要素も多いが、
そのような関わりがなければ、
何処かで見たグラビア写真を素人相手に撮ったもの…と
映るのかもしれない。
自分では被写体との関係性が
そのまま定着できた「新しい写真」として
自信をもって今回展示しているのだが、
やはりまだまだ「既視感の亡霊」が居座っているようだ。
自己を解体する意識。
もっともっと自己に向き合う必要があるようだ。
すでに暦は水無月である。
…もう、夏がそこまで来ている。
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かつての朋友が作ったTVCMを
消費者の目線で眺める機会があった。
なるほど。
既視感に溢れている。
広く伝えることを生業とする「広告」は
どうしても最大公約なイメージで語られがちだ。
「どこかでみた」絵の焼き直しになってしまう。
増して、そのジャッジを行うのは
消費者の代表と称する「クライアントの責任者」だ。
クリエイターが絶妙な「既視感のズレ」を呈示し、
消費者のイメージコードから外れたもので
「広告」を生きたモノにしようとしても、
クライアントの「既視感の亡霊」に囚われ、
手足をもぎ取られたような「去勢された」表現に帰着する。
それが常だ。
特にローカルの広告表現は
中央発信の焼き直しの範疇から逸脱できない。
その苦しみの中で悶絶したから、
ボクはドロップアウトしたワケだ。
●
しかし、写真表現の深き森に分け入ってあらためて思うのは、
自分が「既視感の亡霊」にどっぷり囚われている…ということ。
クリエイティブディレクションを行うにあたり、
クライアントへ広告表現を説得するときはどうしても
大多数の共通イメージを提示しながら説明することになる。
写真表現を突き詰めれば突き詰めるほど、
自分のイメージコードが、
13年間の広告制作の汚濁に紛れていることを思い知らされる。
「ウゲっ」
写真をあざとく収めようとする自分がいる。
感じたままを定着する前に、観念が表出してしまう。
●
旅の写真が、万人に感動を与えるのは、
やはり理解を超えた絵が素直に切り取られているからだろう。
イメージコードのない事象は、見る者の興味をそそる。
そういった意味で「臺灣」は、
純粋に視欲を満たす絵が多いから
見入る側もおもしろがってくれるのだろう。
「ゆれる。」で構成される女性たちは
そのモデルを知っている人間には、新鮮な要素も多いが、
そのような関わりがなければ、
何処かで見たグラビア写真を素人相手に撮ったもの…と
映るのかもしれない。
自分では被写体との関係性が
そのまま定着できた「新しい写真」として
自信をもって今回展示しているのだが、
やはりまだまだ「既視感の亡霊」が居座っているようだ。
自己を解体する意識。
もっともっと自己に向き合う必要があるようだ。