「愛のむきだし」公式web
237分の壮絶な純愛映画だった。
【ゆらゆら帝国】空洞です
ゆらゆら帝国が主題歌になっている…ただそれだけで観に行った。
宗教と性欲。
理性と本能。
権力と自由。
常に二律背反に陥るこのお題。
「あちら」か「こちら」。
「あちら」じゃなきゃ、「こちら」。
「こちら」じゃなきゃ、「あちら」。
二項対立で決着をつけようとするから、
状況が立ちゆかなくなる。
そして、権威主義がさらにそれを加速させる。
宗教も見方を変えたら、権威主義。
「神」の名を借りて、権力を欲しいままにする。
その歪んだ構造に虐げられた3人が、
あらたな新興宗教であらたな権力を獲得し、そして瓦解する物語だ。
●
宗教の問題は、奥が深い。
父と子と聖霊。三位一体。
絶対的な教義が「父」。
それを伝える神父が「子」。
教義に従い増殖する宗徒が「聖霊」。
このヒエラルキーが
権力を生み出した。
「父」を伝承する「子」は
「父」そのものではない。
よって「父」の真意を知らない。
であるから「子」は解釈によって
「聖霊」へ伝承をおこなう。
そこには解釈のズレが生じる。
曖昧なるものを排していく結果、
二項構造へ行き着く。
「白」か「黒」か。
「善き」か「悪しき」か。
「白」と「黒」の間にある無数の「グレー」が収斂される。
これが社会全体を息苦しくしている要因だ。
構造主義が堅牢になればなるほど、
末端への伝承は「純化」され、
コントラストの強い二項対立となる。
「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあり、ことばは神であった。」
ことばによる伝承が、ズレを生み、
ズレがさらなるズレを増殖させ、大きな歪みとなった。
●
しかし、「愛」に「ことば」はいらない。
「愛」は衝動であり、「愛」はダイレクトだ。
ぼくの心をあなたは奪い去った
オレは空洞 でかい空洞
全て残らずあなたは奪い去った
オレは空洞 面白い
「愛」は観念ではなく、心の顫えだ。
肉体に立ちのぼった「ことば」にならない衝動だ。
その身体性が真実であることを、
237分の長大な「愛のむきだし」は物語っている。
必見。
237分の壮絶な純愛映画だった。
【ゆらゆら帝国】空洞です
ゆらゆら帝国が主題歌になっている…ただそれだけで観に行った。
宗教と性欲。
理性と本能。
権力と自由。
常に二律背反に陥るこのお題。
「あちら」か「こちら」。
「あちら」じゃなきゃ、「こちら」。
「こちら」じゃなきゃ、「あちら」。
二項対立で決着をつけようとするから、
状況が立ちゆかなくなる。
そして、権威主義がさらにそれを加速させる。
宗教も見方を変えたら、権威主義。
「神」の名を借りて、権力を欲しいままにする。
その歪んだ構造に虐げられた3人が、
あらたな新興宗教であらたな権力を獲得し、そして瓦解する物語だ。
●
宗教の問題は、奥が深い。
父と子と聖霊。三位一体。
絶対的な教義が「父」。
それを伝える神父が「子」。
教義に従い増殖する宗徒が「聖霊」。
このヒエラルキーが
権力を生み出した。
「父」を伝承する「子」は
「父」そのものではない。
よって「父」の真意を知らない。
であるから「子」は解釈によって
「聖霊」へ伝承をおこなう。
そこには解釈のズレが生じる。
曖昧なるものを排していく結果、
二項構造へ行き着く。
「白」か「黒」か。
「善き」か「悪しき」か。
「白」と「黒」の間にある無数の「グレー」が収斂される。
これが社会全体を息苦しくしている要因だ。
構造主義が堅牢になればなるほど、
末端への伝承は「純化」され、
コントラストの強い二項対立となる。
「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあり、ことばは神であった。」
ことばによる伝承が、ズレを生み、
ズレがさらなるズレを増殖させ、大きな歪みとなった。
●
しかし、「愛」に「ことば」はいらない。
「愛」は衝動であり、「愛」はダイレクトだ。
ぼくの心をあなたは奪い去った
オレは空洞 でかい空洞
全て残らずあなたは奪い去った
オレは空洞 面白い
「愛」は観念ではなく、心の顫えだ。
肉体に立ちのぼった「ことば」にならない衝動だ。
その身体性が真実であることを、
237分の長大な「愛のむきだし」は物語っている。
必見。