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JORDAN_2015
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0920_JORDAN
イスラム圏JORDANへの旅から帰ってきて、はや1ヶ月半。あれから中東がものすごく身近になった。
JORDANを中心として北にシリア、東にイラク、南にサウジアラビア、西にイスラエル…と、土地勘がついたし、
イスラム教の世界観みたいなものも肌で感じ取ってきたから、イスラム国なる存在がただのテロ集団ではないことも分かってきた。
何より、西欧を中心とした【近代化】という発想、【民主主義】が絶対という思考が、
「そうでもないな」という感覚を養うことができたのは、大きい。
夜明け前の暗がりから聞こえてくる「アザーン」の声。
日に5回の礼拝への呼びかけとして唱えられる
「アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イッラッラー」(アッラーの他に神はなし)の心地よい響きは、
あの土漠の地に降り立った者でないと、共鳴できない類のものかも知れない。
そのぐらい中東という土地には、独特の風情がある。
年間数度しか雨が降らない、陽を遮る木々も生えない、荒漠たる土地。
道を間違えれば、飲み水にもありつけず命を落とす、絶対的な自然と対峙する土地。
そんな苛烈な場所だからこそ生まれたイスラーム(神に身を委ねる)は、
人間存在の矮小さを強く認識した宗教である。
「水飲み場に通ずる道」という意味のムスリムの原則である「シャーリア」は、
神の掟に従って生きていれば「命の水」に到達することができると説いた絶対的な存在。
一歩誤ればすぐ死が訪れる土地柄ゆえに、矮小な人間が考えるよりも、神に身を委ねろ…となるのである。
だから、神と人間は圧倒的にちがう。100と1ほどのちがいがある。であるから神の前では、人間はみな同じ存在だと説く。
王様と奴隷、金持ちと貧乏、男と女、健常者と障害者、それぞれの差異が如何ほどのモノか…となる。そんな差異は小さなことだと。
象もトラも、犬もネコも、アリもキリギリスも、そして人間も。神に対してはみな同じ。生き物はみな神と1対1で対峙している…と。
そのような原理原則だから、人間がつくった法律や国家というものを、
鼻から信用していない。ひとつのフィクションだと捉える。
国家というのは、法人であって、いずれどうなるか分からない。
そこに実体がないから、虚構なのだ…と。民主主義という発想も、人の叡智を認めないから、ピンとこない。
神が預言者に語った「クルアーン」と預言者ムハンマドが言行した「ハディース」と。
この2つの軸を合わせた「シャーリア(水飲み場に通ずる道)」だけが絶対である。
イスラームにしてみれば、その「シャーリア」に戻れば戻るほど、良いとなる。
つまり【近代化】の逆をいく【原始化】が良いという発想なのだ。
そのようなベクトルを持つ土地が、同じ地球上に存在しているという事実。
それだけでも【近代化】【民主主義】に一石を投じるものになるだろう。
本当の意味で存在しているのは、神だけ。
私たち人間は存在自体がフィクションかもしれない。
それは神のみが知る…という究極の他力本願な姿勢、それがムスリム。
それはアメリカ的個人主義に洗脳されてきた現代社会の日本人からしてみると、ちゃんちゃらおかしな話かもしれない。
しかし、一方にはそのようにして成り立っている土地があるということ、そのことを天秤に掛けられるかどうかで、
思考の幅が大きく異なってくるのも事実なのだ。
人間本位主義がどれだけの摩擦を、間違いを、生んできたか。
中東を自分たちの利権を肥やす土壌として、
オイルマネーを元手に【近代化】と【民主主義】のカードを切り、
中東を翻弄してきたアメリカやイギリスの政治家たち。
その蓄積が、がん細胞のような「イスラム国」を生んだのだ…という事実を知るに及んで、
ますますこの人間本位主義が、「どんだけのもんじゃ〜!」と唾棄したくなるのだ。
その話は後日。