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「猪飼野」とは大阪市の地名変更により1973年2月1日をもって無くなってしまった、生野区のかつての町名である。
六十数年もまえ奇蹟のように日本に流れ着いた私が、這うようにして行き着いた在日同胞の一大集落地だ。
生まれて初めて労賃を手にしたのも猪飼野であり、飢えて日暮れの路地をたちこめてくるニシンの焼き匂いに、
しょっぱい泪を人知れず呑んでいたのもその猪飼野だ。
苦難の故郷を見棄てきた者のうしろめたさから在日民族団体の常任活動家となって、
いっぱしの組織活動家になっていったのもまた在日朝鮮人運動の拠点地域だった猪飼野であった。
「猪飼野」の民族慣習はまさしく、世代風化の気づかいをよそにより民俗的でさえある。
押しあいへしあい、寄ってたかって慣習の中の「朝鮮」を引きずり出し、
その時代がかった伝承を思い思いもぎとっていくのだ。
「朝鮮市場通り」の賑わいときたら、もはや売り買いといったどころの騒ぎではないのである。
朝鮮固有のありとあらゆる食材、二つ身に縦に割ってある生肉の豚から、
とさかのまま観念させられている鶏、色とりどりの薬味、鮫類までが口をあけている海鮮物等々。
ここにはもはや、日本的心情の異国情緒は探すべくもない。
土着さそのままの得体の知れない食品や、大時代的な儒教異物の祭器までもが平然と雑居していて
ここが日本であることがおかしいくらい、「猪飼野」は在日世代の生理になじんだ慣習の地としてそこにある。
「イカイノ」はやはり在日同胞にとってはイカイノなのである。
大阪府下十八万弱の在日朝鮮人のうち、約四万人が猪飼野が属する生野区に在住しており、
その大半がイカイノ一円で本国さながらの暮らしをしている。
一条通りという猪飼野の目抜き通りにある大阪市立御幸森小学校に見るように、
なにしろ全校生徒の三分の二がわが在日世代の子供たちなのだ。
やはり私は猪飼野へ選ばれてきたようである。
本国でさえ廃れてしまった習俗がいまだ金科玉条のように受け継がれている、
地方弁まるだしの猪飼野だったからこそ、故郷を失った私であっても猪飼野の頑なな伝承からつきない生気を得てもきたのだ。
その猪飼野で多くの忘れ得ない人たちと出会ってきたし、その猪飼野でまた多くの別れを交わしてもきた。
その人たちの多くが“地上の楽園”とやらに先頭切って引き取られていった“帰国者”たちであり、
一等早く独特の方法で、北の楽園での塗炭の呻きを洩らしてきた人たちもその人たちであった。
何事につけ猪飼野は、在日同胞の動向がまっ先に兆して現れるところである。
かようにも『猪飼野詩集』は集落を成して暮らしていながら、
日本という巨大な経済機構が振り回す遠心分離器に散らされてしまっている、
在日朝鮮人の実存を刻もうとした詩集である。
この詩集が私の人生の後半を画したものであるというのは、
私が日本での定住者となって初めて、
組織や祖国とやらの規範や規制のしがらみから離れて
「在日を生きる」ことの意味と視野を見つめ直すことができた作品だからである。
この年が過ぎまた春ともなれば、イカイノ一帯は法事に忙殺される。
済州島四・三事件や、朝鮮戦争時の死者がいっときにやってくるからである。
犠牲者の縁族から殺した側の縁類まで、軒を連ねて祀りが続き、
供物の料理が隣りどうしで配られる。いかな分断対立の軋轢も、
猪飼野でなら根で絡み合っている暮らしでしかないのだ。
それだけの下地が担保となって、猪飼野は在日民族祭の発祥の地ともなった。
「朝鮮市場通り」も今では「コリアンタウン」だ。私の猪飼野は遠くもあり、
すぐそこでまだ火照っている、同族融和へのつきない私の思いのようでもある。
(金時鐘『猪飼野詩集』あとがき)
#猪飼野
六十数年もまえ奇蹟のように日本に流れ着いた私が、這うようにして行き着いた在日同胞の一大集落地だ。
生まれて初めて労賃を手にしたのも猪飼野であり、飢えて日暮れの路地をたちこめてくるニシンの焼き匂いに、
しょっぱい泪を人知れず呑んでいたのもその猪飼野だ。
苦難の故郷を見棄てきた者のうしろめたさから在日民族団体の常任活動家となって、
いっぱしの組織活動家になっていったのもまた在日朝鮮人運動の拠点地域だった猪飼野であった。
「猪飼野」の民族慣習はまさしく、世代風化の気づかいをよそにより民俗的でさえある。
押しあいへしあい、寄ってたかって慣習の中の「朝鮮」を引きずり出し、
その時代がかった伝承を思い思いもぎとっていくのだ。
「朝鮮市場通り」の賑わいときたら、もはや売り買いといったどころの騒ぎではないのである。
朝鮮固有のありとあらゆる食材、二つ身に縦に割ってある生肉の豚から、
とさかのまま観念させられている鶏、色とりどりの薬味、鮫類までが口をあけている海鮮物等々。
ここにはもはや、日本的心情の異国情緒は探すべくもない。
土着さそのままの得体の知れない食品や、大時代的な儒教異物の祭器までもが平然と雑居していて
ここが日本であることがおかしいくらい、「猪飼野」は在日世代の生理になじんだ慣習の地としてそこにある。
「イカイノ」はやはり在日同胞にとってはイカイノなのである。
大阪府下十八万弱の在日朝鮮人のうち、約四万人が猪飼野が属する生野区に在住しており、
その大半がイカイノ一円で本国さながらの暮らしをしている。
一条通りという猪飼野の目抜き通りにある大阪市立御幸森小学校に見るように、
なにしろ全校生徒の三分の二がわが在日世代の子供たちなのだ。
やはり私は猪飼野へ選ばれてきたようである。
本国でさえ廃れてしまった習俗がいまだ金科玉条のように受け継がれている、
地方弁まるだしの猪飼野だったからこそ、故郷を失った私であっても猪飼野の頑なな伝承からつきない生気を得てもきたのだ。
その猪飼野で多くの忘れ得ない人たちと出会ってきたし、その猪飼野でまた多くの別れを交わしてもきた。
その人たちの多くが“地上の楽園”とやらに先頭切って引き取られていった“帰国者”たちであり、
一等早く独特の方法で、北の楽園での塗炭の呻きを洩らしてきた人たちもその人たちであった。
何事につけ猪飼野は、在日同胞の動向がまっ先に兆して現れるところである。
かようにも『猪飼野詩集』は集落を成して暮らしていながら、
日本という巨大な経済機構が振り回す遠心分離器に散らされてしまっている、
在日朝鮮人の実存を刻もうとした詩集である。
この詩集が私の人生の後半を画したものであるというのは、
私が日本での定住者となって初めて、
組織や祖国とやらの規範や規制のしがらみから離れて
「在日を生きる」ことの意味と視野を見つめ直すことができた作品だからである。
この年が過ぎまた春ともなれば、イカイノ一帯は法事に忙殺される。
済州島四・三事件や、朝鮮戦争時の死者がいっときにやってくるからである。
犠牲者の縁族から殺した側の縁類まで、軒を連ねて祀りが続き、
供物の料理が隣りどうしで配られる。いかな分断対立の軋轢も、
猪飼野でなら根で絡み合っている暮らしでしかないのだ。
それだけの下地が担保となって、猪飼野は在日民族祭の発祥の地ともなった。
「朝鮮市場通り」も今では「コリアンタウン」だ。私の猪飼野は遠くもあり、
すぐそこでまだ火照っている、同族融和へのつきない私の思いのようでもある。
(金時鐘『猪飼野詩集』あとがき)
#猪飼野