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写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、
【on_Flickr】DANCER_07
フロイトが描くユダヤ教において、
徹底的な欲動断念が偶像崇拝を禁じる一神教として現れざるを得なかった理由は何なのか。
この問に答えるためにわれわれが見出した手がかりは、それが「死の欲動」の内面化という機制に関わるということであった。
ところで、フロイトは罪責感の源泉を成す「不安」の感情について、二つの源泉を措定している。
すなわち、「優位に立つ他者に対する不安」と「超自我(=良心)に対する不安」とである。
前者はその起源を、幼児の親に対する感情、つまり親からの保護を失うことに対して幼児が感じる「寄る辺のなさ」に持っているとされる。
そして後者は、前者から促された「欲動断念」がなし終えられる
(つまり、幼児の成長によって他者への依存が軽減され「寄る辺のなさ」が解消される)ことによって
一旦は解消された前者の感情を受け継ぐものである。
だがなぜ、本来外発的なものとされる前者が解消された後に、罪責感は「超自我」という形で内面化されうるのか。
この問に対してはフロイトはかなり思弁的な回答を試みているが、その要点は
「超自我の峻厳さは本来、(中略)超自我に対する自我自身の攻撃欲動の代理」であるということだ。
つまり、後者の「不安」感情の厳選には「死の欲動」が横たわっているということになる。
そして、フロイトの「不安」の二つの源泉についての論理を敷衍して「神的なるもの」の起源を措定するとすれば、
前者の「不安」は多神教的心性へとつながり、後者のそれはユダヤ教的なそれにつながっているに違いない。
それはなぜか。
まず、前者の「不安」は「(人が生きていくうえで依存せざるをえない他者からの)愛を失うコトへの不安、
つまり一種の『社会的』不安」を背景にしている。このような罪の意識は真正のものではない。というのも、
この「不安」の背景にあるのは超越的な善悪の基準ではなく、
自分が生きていく上で必要不可欠な他者からの「愛を失う」わけにはいかないという功利計算にほかならないからだ。
ゆえに先に引用したフロイトの「未開人」の行動は次のように解釈できる。
すなわち、彼らの呪物が役に立たなかったとき、呪物の方は彼らを愛していなかったことが明らかになったのであり、
それゆえにもはやその呪物は無用の長物であり、むしろ空しい期待を抱かせた憎むべきものとして打ち毀されるのだ、と。
先述したように、これらの呪物は、それがいかに高い敬意を払われていようとも、
いわゆる「御利益」をもたらしてくれるものとして崇拝・強制されているにすぎない。
そして、このような世界においては、さまざまな呪物が立ち代わり崇められ、そして貶められるだろう。
言うまでもなく、これは先に述べた多神教的、偶像崇拝的世界の姿にほかならない。
してみれば、偶像崇拝の禁止が呪物を持つことに対する禁止であるならば、それが意味するところは、
功利を超えた善悪の基準を持つべしという当為であるはずだ。
そして、功利計算というものがおこなわれる目的が自己の生命・身体などの維持にあり、
したがってそれが自己愛の命ずるものだとすれば、功利計算を棄てることとはその逆を思考すること、
すなわち「死」を志向すること、そして『文化への不満』における主要テーマのひとつであった
「隣人愛」の実現への志向を意味することになるだろう。
偶像崇拝の禁止という教えが「死の欲動」に基づく、もっと言えば、それのみにも基づくものだというのは、このような意味においてである。
偶像化しえない神、それは内面化された「死の欲動」が外に投射されたものだ。
してみれば、フロイトの主張する「精神性における進歩」とは、「死の欲動」を内面化することをやり遂げることにほかなるまい。
【on_Flickr】DANCER_07
フロイトが描くユダヤ教において、
徹底的な欲動断念が偶像崇拝を禁じる一神教として現れざるを得なかった理由は何なのか。
この問に答えるためにわれわれが見出した手がかりは、それが「死の欲動」の内面化という機制に関わるということであった。
ところで、フロイトは罪責感の源泉を成す「不安」の感情について、二つの源泉を措定している。
すなわち、「優位に立つ他者に対する不安」と「超自我(=良心)に対する不安」とである。
前者はその起源を、幼児の親に対する感情、つまり親からの保護を失うことに対して幼児が感じる「寄る辺のなさ」に持っているとされる。
そして後者は、前者から促された「欲動断念」がなし終えられる
(つまり、幼児の成長によって他者への依存が軽減され「寄る辺のなさ」が解消される)ことによって
一旦は解消された前者の感情を受け継ぐものである。
だがなぜ、本来外発的なものとされる前者が解消された後に、罪責感は「超自我」という形で内面化されうるのか。
この問に対してはフロイトはかなり思弁的な回答を試みているが、その要点は
「超自我の峻厳さは本来、(中略)超自我に対する自我自身の攻撃欲動の代理」であるということだ。
つまり、後者の「不安」感情の厳選には「死の欲動」が横たわっているということになる。
そして、フロイトの「不安」の二つの源泉についての論理を敷衍して「神的なるもの」の起源を措定するとすれば、
前者の「不安」は多神教的心性へとつながり、後者のそれはユダヤ教的なそれにつながっているに違いない。
それはなぜか。
まず、前者の「不安」は「(人が生きていくうえで依存せざるをえない他者からの)愛を失うコトへの不安、
つまり一種の『社会的』不安」を背景にしている。このような罪の意識は真正のものではない。というのも、
この「不安」の背景にあるのは超越的な善悪の基準ではなく、
自分が生きていく上で必要不可欠な他者からの「愛を失う」わけにはいかないという功利計算にほかならないからだ。
ゆえに先に引用したフロイトの「未開人」の行動は次のように解釈できる。
すなわち、彼らの呪物が役に立たなかったとき、呪物の方は彼らを愛していなかったことが明らかになったのであり、
それゆえにもはやその呪物は無用の長物であり、むしろ空しい期待を抱かせた憎むべきものとして打ち毀されるのだ、と。
先述したように、これらの呪物は、それがいかに高い敬意を払われていようとも、
いわゆる「御利益」をもたらしてくれるものとして崇拝・強制されているにすぎない。
そして、このような世界においては、さまざまな呪物が立ち代わり崇められ、そして貶められるだろう。
言うまでもなく、これは先に述べた多神教的、偶像崇拝的世界の姿にほかならない。
してみれば、偶像崇拝の禁止が呪物を持つことに対する禁止であるならば、それが意味するところは、
功利を超えた善悪の基準を持つべしという当為であるはずだ。
そして、功利計算というものがおこなわれる目的が自己の生命・身体などの維持にあり、
したがってそれが自己愛の命ずるものだとすれば、功利計算を棄てることとはその逆を思考すること、
すなわち「死」を志向すること、そして『文化への不満』における主要テーマのひとつであった
「隣人愛」の実現への志向を意味することになるだろう。
偶像崇拝の禁止という教えが「死の欲動」に基づく、もっと言えば、それのみにも基づくものだというのは、このような意味においてである。
偶像化しえない神、それは内面化された「死の欲動」が外に投射されたものだ。
してみれば、フロイトの主張する「精神性における進歩」とは、「死の欲動」を内面化することをやり遂げることにほかなるまい。