国立新美術館は、コレクションを持たず、
広大な展示スペースを貸し出し、多彩な企画展の開催をすることで、
広く美術に関する情報提供、教育・普及につなげる
新しいスタイルのアートセンターである。
佐藤可士和氏のロゴデザインにも
そのような意味合いが込められてあった。
企画展はあいにく「異邦人たちのパリ1900-2005」しかやってなかったが、
それだけでも相当な量の展示を堪能できたわけで、
この美術館がフル回転するときには、3日ほど通い詰めなきゃ収まらないんじゃないか…
とにかくバカでかい展示空間が出来たモノだと、感心してしまう。
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そんな国立新美術館の企画展ではじめて、
レオナール・フジタ、モディリアーニなど
「エコール・ド・パリ」のボヘミアンたちが一堂に介した空間を体験。
また、実際に当時の空気を伝えるムービーも確認することができた。
渡欧する行為自体が珍しい1913年に単身パリへ渡り、
第一次大戦の最中、モンパルナスで貧窮の生活を強いられ、
それでも日本人としての誇りを捨てず、
「乳白色の肌」で一躍スターダムにのし上がったフジタ。
帰国後は第二次大戦の「戦争画」に力を注ぎ、
祖国への貢献を果たそうとしたが、
日本社会には最後まで受け入れてもらえず、
晩年はカトリックに入信し、教会の装飾画を描く孤独の生涯を閉じた。
人生の半分以上をフランスの地で暮らし、
最終的にはフランス国籍を取得、日本国籍を抹消までしている。
そんな身の細る思いを貫き、
82歳まで生きたレオナール・フジタの孤独を、
「乳白色」の下地に感じた。
その繊細なタッチ、細かすぎるほどのディテール、
なによりもモノを見つめるやさしい眼差しに、心が打たれた。
この繊細な心の襞を持った人間を、
表面的な奇抜さやスキャンダラスなゴシップだけで酷評した
当時の日本美術界の狭量さに、深い哀しみを覚える。
彼はある意味、日本史上はじめて世界に認められた日本人だった。
フランシスコ・ザビエルが日本に来たのが1549年だったことを考えると、
どれだけ日本人が国際化からほど遠いか、わかると思う。
野茂やイチローの先駆者が、レオナール・フジタなのである。
異邦人たちのパリ1900ー2005