札幌・北海道のレトロ建物大好きおぢさん日記

札幌(北海道)のレトロでモダンな建物を見たり撮影するのを趣味としています。

木造校舎・廃校 寿都町の閉校②

2024-11-23 23:02:05 | 木造校舎・廃校

※wikipediaより 赤字は今回レポート 

小学校

中学校

  • 寿都町立寿都中学校〈旧〉(1979年統合により寿都町立寿都中学校〈新〉へ)
  • 寿都町立樽岸中学校(同上)
  • 寿都町立湯別中学校(同上)
  • 寿都町立歌棄中学校(同上)
  • 寿都町立磯谷中学校(同上)

 

 

「旧寿都町立湯別小学校」

 

開校:明治16(1883)年
閉校:平成3(1991)年
校舎:昭和55(1980)年

寿都町湯別町下湯別

ナビ「寿都町農村活性化センター」

 

ここで海沿いから内陸部に向けて移動する

国道229号線は積丹半島の海沿いをぐるりと廻り岩内、寿都町の海沿いを南下して一旦内陸部に入る 
そして再び寿都湾を海沿いに行く。

寿都町で内陸部に入り、ナビに従い枝道に入る
目印はこの看板なので迷わない。


湯別の町自体はもう少し先だが、先に体育館~校舎が見えてきた

 

体育館は見た目新しく校舎もRC鉄筋コンクリート造のようだ

玄関前のイチョウの黄色が眩しい

 

 

この校舎はなんと言っても玄関右側上部にあるアーチ状のデザインだ
これがあるとないとでは随分と印象が変わる

特に面白いなと思うのはこのアーチは正面玄関の真上じゃなくて
右に一つずれている
おそらく中は階段室だと思うのでちょっとずれたのでは?と思う

 

 


表面は汚れ、金属部分のサビやカビだろうか これが閉校としていい味を出している

 

 

 

 

 

ポールの台座に「新校舎落成記念」とある 昭和55年10月

 

 


2024年11月3日撮影

 

 

 

「旧寿都町立樽岸小学校」

 

開校:明治14(1881)年
閉校:平成3(1991)年
校舎:(確認中)年

寿都町樽岸町

ナビ「北海道樽岸臨海実験所」

 

次の閉校は湯別から国道229号線に戻り、再び日本海を目指す
その手前にあるのが「北海道樽岸臨海実験所」でここが旧樽岸小学校と樽岸中学校があった場所。

 

校舎も現存しており、プレート付の校門や二宮像も残っている
この日は日曜日だったからか誰もおらず、校内の駐車場(校庭の一部)をお借りした。

 

 

 

 

 

 

 

 

体育館もあるのでほぼ学校として機能出来るように見えるが
雑草が生い茂った校庭はいたしかたないだろう
閉校からもう30年は経っているのだ。

 

 

 

なんて書いてあるかわからず


バックネット いい味出している

 

 

うんていがあった

2024年11月3日撮影

 

 

「旧寿都町立政泊小学校」


※寿都歴史写真集より 1930年ころ

 

開校:明治16(1883)年
閉校:昭和51(1976)年
校舎:(確認中)年

寿都町寿都町

ナビ「弁慶岬休憩所」

 

政泊小学校の跡地は確証がない

ネットで、ある方がここではないかと紹介していた場所へ行って見た。

確かに古い航空写真には小さな校舎状の建物が写っており
現地では平地が少ないが、そこにはまずまずのスペースがあった。

 

帰途に寿都町の図書館で閉校記念誌でも無いかと探したが無かった
ただ当時の写真は札幌の中央図書館で見つけた
それが一枚目の写真。

 

なのでこの周りに以前は民家があった漁村だとすると
海に近い場所に学校があるだろう

このような写真もあった


※寿都歴史写真集より

これは1970年代の運動会の様子
「当日が近づくと、校長と教員二人、保護者たちが総出になって、学校から道路を隔てた草原を整備した~
右手奥には弁慶岬灯台が見える 現在の赤と白の塗装になる前は真っ白の灯台であった」

とある

灯台の見える位置で道路を隔てた草原の平地であること


次の写真は閉校式の写真


※寿都歴史写真集より 1976年

 

後ろに写る山

現在の写真の右側の山と思われる
ただ角度は、わからない

 

それでも2点の写真から学校があった有力な場所と思われる。

 

一応目印は先に見える廃屋の手前

 

向かいは海が臨める

 

政泊地区は寿都湾の南側のツメのような部分で
そこには「弁慶岬」がある
また上からは見えないが漁港も下にあるのだ。

 

このような場所探しは楽しいし、現地に住人がいたら聞くのも楽しいのだけどね。

2024年11月3日撮影

 


木造校舎・廃校 寿都町の閉校①

2024-11-21 23:06:56 | 木造校舎・廃校

 

※wikipediaより 赤字は今回レポート 

小学校

中学校

  • 寿都町立寿都中学校〈旧〉(1979年統合により寿都町立寿都中学校〈新〉へ)
  • 寿都町立樽岸中学校(同上)
  • 寿都町立湯別中学校(同上)
  • 寿都町立歌棄中学校(同上)
  • 寿都町立磯谷中学校(同上)

 

寿都町は積丹半島の南、寿都湾に面した町で中心地である海沿いと山岳地区がある。
古くから鰊漁で賑わい北部の海沿いには漁関連の歴史的建物が並ぶ
また風力発電が盛んな風の街でもある。

閉校の多くは海沿いにあり、山側を上り小高い場所に学校があった
やはり海沿いは土地が狭いこと、住民の避難場所でもあるので高い場所になったのだろう。

 

 

「旧寿都町立磯谷小学校」


※寿都歴史写真集より 旧校舎

 

開校:明治12(1879)年
閉校:平成3(1991)年
校舎:昭和3(1928)年(旧校舎)

寿都町磯谷町能津登15

ナビ「寿都町 海神社」

 

岩内町から南下し寿都町に入る
寿都湾を望みながら海沿いを快適に走る

やがてナビ先の「海神社」に到着
ここには「磯谷小学校」と「磯谷中学校」の校門と二宮像があった。

 

 

 

 

 

 

 

坂を登っていくと右側にぽっかりと平地がある
ここが「磯谷小学校跡地」で校舎ほかすべて解体済である

 

 

 

 

 


プレハブ以外は何も無く、正面に校舎があったのだが
知らなければ分からない。

 

登ってきた坂道のちょっとだけ上に反対側への進入路がある
ここが「磯谷中学校跡地」で、大きな電気関係の施設と記念碑以外は何もない

だがここにある百周年記念碑は「小学校」の記念碑だった。

 

 

2024年11月3日撮影

 

 

 

「旧寿都町立磯谷中学校」

 

開校:昭和22(1947)年
閉校:昭和54(1979)年
校舎:昭和25(1950)年

寿都町磯谷町能津登15

ナビ「寿都町 海神社」

 

目と鼻の先の「磯谷小学校跡地」から少し登った反対側に進入路があり、雑草に覆われた平地がある

ここが「磯谷中学校」の跡地だ

 

大きな電気施設?と記念碑があるが、これは「磯谷小学校」のもの

 

 

 

 


小学校が向かいの場所に移設した後の校舎を中学校として活用した
百周年記念碑は最初にここにあった「小学校」に対して造られたのだろう
記念碑のすぐ後ろに校舎が建っていた。

それにしては中学校も独立校舎なのに、何らの碑や痕跡が無いのも寂しいものだ

 

晴れた日は海が綺麗に見える場所だ。

 

 

 

 

 

2024年11月3日撮影

 

 

「旧寿都町立横澗小学校」


※寿都歴史写真集より

 

開校:明治15(1882)年
閉校:平成3(1991)年
校舎:(確認中)年

寿都町磯谷町横澗1128

ナビ「横澗小学校閉校記念碑」

 

横澗小学校も海沿いから山側の高台に上がった場所にあった
上記の航空写真で「ヨコマ」の人文字は校庭である。

校舎があった場所は現在は「寿都浄恩学園」になっていた

そこから1段降りた場所が校庭で
記念碑はここにある。

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

横澗の集落は現在もあり、漁港も他に比べると大きく感じた

磯谷小中学校同様に、漁師の集落だったようだが結構な高度にあるので
農業や牧畜もあったと推察する

何でも不漁とともに人が去り子供も減って閉校したとある。



ここも海が見える学校だった

 

2024年11月3日撮影

 

 

「旧寿都町立美谷小学校」

 

開校:明治15(1882)年
閉校:平成3(1991)年
校舎:(確認中)年

寿都町歌棄町

ナビ「美谷稲荷神社」

 

南下を続けるたびに山側に登り閉校を訪ねる
美谷地区は小さな漁村で漁港も横澗に比べると小さい

 

「美谷小学校」も同様に山へと登っていく

ここの入り口は狭く、ここで良いのか一瞬躊躇した
目印は下の表示がある細い小路を登る。

 

※ナビにした「美谷稲荷神社」が右に屋根が見える
そこまで南下して行くと行き過ぎになる

 

やがて眼の前に校舎が見えた

 

以前はここにバックネットがあった

ここは木造板張りの校舎と体育館、それと教員住宅と思われる建物が現存している

 

 

 

 

あいにく雲が多くなり暗くなった
しかし正面玄関の木枠に塗られた色などが明るくお洒落に感じる
それに懐かしさもある素敵な校舎ではないか

 

記念碑は百周年の記念碑

 

体育館は破損やガラス割れがあるのは致し方ないのか

 

 

 

 

倉庫か何かに使用していると思うが、付近には誰もおらず聞きようがなかった

 

 

校庭から高くなった場所
ここは教職員住宅だったろうか

 

「美谷小学校」は今回の閉校巡りでメインと言える素敵な閉校校舎であった。

 

 

2024年11月3日撮影

 

 

「旧寿都町立歌棄小学校」


※寿都歴史写真集より

 

開校:明治12(1879)年
閉校:平成3(1991)年
校舎:(確認中)年

寿都町歌棄町歌棄346-1

ナビ「歌棄小学校閉校記念碑」

 

これまで海沿いの町を南下しながら山側に登り閉校跡を見てきたが
「歌棄小学校」は海沿いの平地に学校があった


現在は会館があり、その奥にポツンと記念碑があるだけ

 

 

記念碑がある場所は校庭で奥の山の手前に校舎があった。

こちらも百周年の記念碑だ

 

 

 

かつては校舎が山側に近い場所にあり、海側に校庭があった
なぜここは高い場所の学校ではなかったのだろうか

単に平地があったこと、山側に平地がなかったということだろうか

 

 

歌棄は近辺では有数の鰊漁場であった
有戸漁港など港もある
寿都町は歌棄から平地が開けてゆく。

 

2024年11月3日撮影

 

 


寿都町の建築探訪

2024-11-18 17:13:59 | 共和町 岩内町 蘭越町 寿都町 島牧村 黒松内町

紹介の順番は北海道新聞社発行の「道南・道央の建築探訪」(2004年発行)のNO順で行きます。
もはや20年近い前の本なので現存していない建物もあり

寿都町で確認したところ5軒の掲載があった
うち1軒が改築済のためパスした。

すべてが日本海沿いにあり、寿都町市内に入る手前にある。

 

 

「宮澤商店」 *道南・道央の建築探訪NO74

 

改築済のため未訪問

所在地 寿都町
建築年 ()年
指定等 なし

ナビ「」

 

 

「旧岡田倉庫」 *道南・道央の建築探訪NO75

 

所在地 寿都町歌棄町種前
建築年 明治30年代
指定等 なし

ナビ「元祖かき小屋」

 

岩内町から日本海沿いに国道229号線を南下すると
突然大きなレンガ倉庫を見る。

よく見ると奥にも縦型の違うレンガ色の倉庫があり
その間に「元祖かき小屋」が営業していた。

ちょうどお昼に近かったこともあり、海側の駐車スペースには結構な数の車が停まっていた。

 

これは大きな倉庫だ

 

倉庫の中でもガスが使用できる?

年数を経ていい色合いになっていると思う

 

 

 

 

元は鰊漁を営んでいた岡田家のもので
倉庫の間(現在の元祖かき小屋)には大きな主屋があったとのこと

大きな倉庫には鰊や漁具を、小さい方には貴重品を入れていた。

 

隣と比べると小さいが、堂々としたレンガ倉庫だ

 

主屋と繋がっていたのだろうか




耐性のあるレンガ倉庫だけが左右に残っている
常に潮風にさらされる場所なので木造だと維持が難しいのだろう。

2024年11月3日撮影

 

 

「厳島神社本殿」 *道南・道央の建築探訪NO76

 

所在地 寿都町歌棄町有戸152
建築年 明治11(1878)年
指定等 なし

ナビ「寿都町 厳島神社」

 

「カクジュウ佐藤家」の隣にあるのが「厳島神社」

国道沿いに鳥居がありそこから少し山側へ登ったところに拝殿がある

実際には拝殿の奥に小さく本殿があるが、予備知識不足で裏まで廻って見てこなかった

本殿は大正12年に新築された。

 

灯篭は隣の佐藤家寄贈の物

 

 

 

木の曲線の美しさ、細かな造りが確認できる
少し山側にあるとはいえ長年の潮風に耐えてきた。

大きくはないが見事な拝殿だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

戸をこじあけて賽銭を入れ、この後無事に帰宅出来るように祈願した。

2024年11月3日撮影

 

 

 

「漁場建築佐藤家」 *道南・道央の建築探訪NO77

 

所在地 寿都町歌棄町有戸163
建築年 明治20年代
指定等 北海道有形文化財

ナビ「カクジュウ佐藤家」

 

この地区(歌棄、磯谷)は有数の鰊千石場所であった
その両場所、最後の請負人であったのが「角十佐藤家」。

最盛期には道内有数の大漁家と言われた。

この建物は2階建てで全17室、744㎡の大規模な鰊漁場建築であり網元の住宅である
漁夫たちの住まいは浜側に網元住宅と向かい合うように番屋が建っていたがとうに解体されている。

寄棟屋根の四方はわずかな反りを見せており
その上に六角形の洋風高窓がのっているのが特徴。

2階は洋風下見板張りに上げ下げ窓を連続している
1階は格子窓や下見板張りの戸袋などがうかがえる。

また玄関右手の部屋は明治34年まで歌棄郵便局だったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

洋風窓や望楼など見どころありだった

 

 

現在はこの通りで見学などは出来ない

建物は「北海道有形文化財」
付近は「国指定史跡 旧歌棄佐藤家漁場」とされている

 

2024年11月3日撮影

 

 

「橋本旅館」 *道南・道央の建築探訪NO78

 

所在地 寿都町歌棄町有戸14
建築年 明治12(1879)年
指定等 なし

ナビ「そば処昌の家」

 

寿都町の現存する歴史的建物ではすべてが市内手前北部の日本海沿いにある

この旧橋本旅館は元々は鰊漁の番屋や網元の住宅ではなく
「仕込屋」と呼ばれた漁家に物資や資金を貸与する資本家、橋本家が造らせた商家である。

その後、旅館として活用された。

以前は主屋前に5つ、後ろに2つの蔵があった
現在は「そば処昌」が営業しているがどこからどの建物が以前からのものかというと下記の写真が古い建物と思われる

主屋と蔵

 

 

 

 

 


二つあるのは見たことが無い?

 

 

それ以外の建物は古い建物に併せて増築などしたのだろうか?

 

 

 


右側が主屋

これらも古い建物に見えたが・・・

 

隣接した展望台 他に広い駐車場があった

 

道路向かいの海に向かって「恵比須神社」
江差追分の歌詞にある「”忍路高島およびもないが せめて歌棄、磯谷まで”」の石碑がある

 

 

これは諸説あるが、一つは神威岬以北和人の女人禁制だった元禄から安政の165年間、忍路、高島に出稼ぎに出る男衆を、せめて禁制ではない歌棄、磯谷までは見送りたいという女心を歌ったものというのと、
二つ目は鰊網元の忍路、高島ほどの石高はなくとも、せめて歌棄、磯谷くらいは稼ぎたい、という二つの説が有力と言われている。

2024年11月3日撮影


木造校舎・廃校 岩内町の閉校

2024-11-14 18:21:32 | 木造校舎・廃校

 

※wikipediaより 赤字は今回レポート 


岩内町は積丹半島西部の基部にある 広い岩内平野はほとんどが共和町で
岩内町は西の一部だけになる
南部は雷電海岸のような断崖絶壁がありニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されている。
他の町に比べて閉校が少ないことに気づく。

 

「旧岩内町立高台小学校」


※小樽後志の昭和より

 

開校:昭和26(1951)年
閉校:昭和52(1977)年
校舎:(確認中)年

岩内町高台

ナビ「日本のアスパラガス発祥の地」


岩内町高台にある協会病院はとても大きな病院で
この病院の敷地に学校があった。

校舎は解体しており学校の名残りは記念碑がある
同じ場所に「日本のアスパラガス発祥の地」の碑があり
こちらのほうが有名かも知れない。


高台小学校は旧岩内高等女子学校が移転して、その校舎を使用した。
新設の学校でも校舎はすでに年期が入っていたことだろう
だが昭和26年の開校ではまだ戦後6年しか経っていないので大きな校舎があるだけ良いほうだったろうか?

 

 

 

昭和29年の岩内大火からは免れたようだ。

そして閉校時に解体し病院が建設された
開校から26年での閉校は短いほうだろう。

 

2024年11月3日撮影

 

「旧北海道庁立岩内高等女子学校」


※岩内町史より

 

開校:大正8(1919)年
閉校:昭和23(1948)年
校舎:大正8(1919)年

岩内町高台

ナビ「日本のアスパラガス発祥の地」


上記の「高台小学校の記念碑」と「日本のアスパラガス発祥の地」の碑とともに「旧岩内高等女子学校の碑」が並んでいる。

女子学校は統合のため移転し
その後、校舎は高台小学校として使用され閉校時に解体された。

 

旧岩内高等女子学校は元は岩内女子職業学校として大正8年に創立
その後、道立となり昭和24年に「北海道岩内高等学校」と統合して現在に至る。

 

晴れていれば岩内岳が綺麗に見えるはずだ

2024年11月3日撮影

 

「旧岩内町立中央小学校」

 

開校:昭和52(1977)年
閉校:平成26(2014)年
校舎:(確認中)年

岩内町高台

ナビ「岩内町民体育館」

 

岩内中央小学校は旧高台小学校と旧岩内西小学校が統合し
旧高台小学校があった場所の道路1本挟んだ西側に新築で開校した。

なので上記「高台小学校の碑」とは目と鼻の先に校舎がある
だが校舎は改修工事が進んでおり、リノベーション後は小中一貫義務教育学校の「岩内学園」として生まれ変わる。

今夏最後の見学会が行われ卒業生を中心に思い出に浸れただろう。

 

旧体育館は町の体育館として利用されていた
広いグラウンドも整備されているので町が管理し使用出来たのだろう。

 

ここからも岩内岳が真正面だ

後志の山間部では羊蹄山が見える学校が多かったが
岩内町でのシンボルであり、その名を冠した「岩内岳」はどこからでも見えるのだろう。

2024年11月3日撮影

 

 

「旧岩内町立西小学校」


※岩内町史より

 

開校:明治34(1901)年
閉校:昭和52(1977)年
校舎:(確認中)年

岩内町高台6

ナビ「岩内町 働く婦人の家」

 

旧岩内西小学校は岩内町高台での校舎を閉鎖し、より町の西部地区に移って現在の「岩内町立西小学校」となっている。

 

高台の校舎跡地には「岩内町 働く婦人の家」があり
小学校の記念碑もそこにあった。

完全な敷地内ゆえ、撮影許可をもらおうと思ったが誰もいなかったなのでサッと撮影しここを後にした。

 

 

左右に警察署と消防署、裏手に町民プールがあるので
この一角は町の土地なのであろう。

以前の校舎は大きく、働く婦人の家、消防署、町民プールあたりも学校敷地だった 裏の駐車場あたりが校庭だ。

2024年11月3日撮影

 

 

「旧岩内町立島野小学校」

※小樽後志の昭和より

 

開校:明治11(1879)年
閉校:昭和52(1977)年
校舎:(確認中)年

岩内町野束3-1

ナビ「島野地区集会所」

 

今回の岩内町閉校巡りでは唯一の地方学校となった
とはいえ他の町ではこんな場所に学校があったのかと思うことがいくどもあったが岩内町は別のようだ。


それに岩内町島野は町外れであり、地方という表現は誤りかも知れない
それだけ市内に近い閉校が多かった。


現地で驚くのはやはり木造板張りの旧体育館が現存していること
一部でモルタルではあるが校舎、玄関が現存していたことだ。

 

 

他に玄関の向かいには教職員住宅?のような木造建物も残っている

 

旧体育館は倉庫などに活用されているようだが
どうも寿命が近いように見えた。

実際の校舎はもっと大きいのだが一部が解体されている
校舎の一部と旧体育館は連絡通路で結ばれており、これも現存する木造校舎では珍しいほうだ。

 

 

玄関側の道路沿いに3基の記念碑があった
トゲのある雑草が生い茂り満足な撮影にならなかった

 

①島野小学校跡地

 

②島野尋常小学校記念碑

 

③不明

 

 

同校は近隣住民にも親しまれ、ラジオ体操や盆踊りの会場としても活用された
閉校後も自治会や婦人会が校内を利用していたとのことだ

ここはより岩内岳が近くに見えるロケーションだった

2024年11月3日撮影

 


岩内町の建築探訪

2024-11-09 09:51:30 | 共和町 岩内町 蘭越町 寿都町 島牧村 黒松内町

紹介の順番は北海道新聞社発行の「道南・道央の建築探訪」(2004年発行)のNO順で行きます。
もはや20年近い前の本なので現存していない建物もあり

岩内町で確認したところ6軒の掲載があった
うち4軒が神社仏閣で今回はパスした。

ほかに、探索中に見つけた気になる建物を追っていきます。

 

 

「簗瀬家住宅」 *道南・道央の建築探訪NO79

 

所在地 岩内町清住103-10
建築年 明治39(1906)年
指定等 なし

ナビ「住所」

 

「簗瀬家住宅」は住宅街にあり、一般住宅なので近寄って敷地内の撮影は辞めた。

簗瀬氏はもと会津藩家臣で、維新後に北海道開拓使に出仕、岩内町行政の基礎を作り上げた町の偉人であり、その後の生涯を岩内町で遂げた。

昭和29年の岩内大火は町の8割を焼失したといわれ、多くの古建築物が焼け落ちた
その中で焼け残った貴重な住宅であり岩内町最古の住宅である。

内部は非公開となっており外観しか見れないが、玄関を中央に両側が同じようにせり出している
屋根は桟瓦でこれは岩内町の別所でも見た

 

 

 

 

 

 

尚、お向かいも同じような感じの和風邸宅があり、最初は間違って撮影までしてしまった。

2024年11月3日撮影



「知恵光院本堂」 *道南・道央の建築探訪NO80

所在地 岩内町清住229
建築年 明治27(1894)年
指定等 なし

ナビ「」


未訪問

 

 

「全修寺本堂」 *道南・道央の建築探訪NO81

所在地 岩内町高台
建築年 明治27(1894)年
指定等 なし

ナビ「」


未訪問

 

 

「帰厚院本堂」 *道南・道央の建築探訪NO82

所在地 岩内町高台143
建築年 明治37(1904)年
指定等 なし

ナビ「」


未訪問

「同、庫裏

建築年 明治37(1904)年

未訪問

「同、鐘楼

建築年 明治37(1904)年

未訪問

 

「光照寺本堂」 *道南・道央の建築探訪NO83

所在地 岩内町高台131
建築年 明治31(1898)年
指定等 なし

ナビ「」


未訪問

 

 

「岩内町役場ポーチ」 *道南・道央の建築探訪NO83

 
所在地 岩内町高台町
建築年 明治36(1903)年
指定等 なし

ナビ「㈲太田製麺」

 

太田製麺さんの真向かいにあるのでナビで使用させてもらった

「岩内町役場ポーチ」とは旧岩内町役場の玄関ポーチ屋根のことで
有名な昭和29年の岩内大火で焼け残ったもの。

これだけを見ると確かにアンバランスなドーム型だが
旧役場ではお洒落で近代的なものだったようだ
まだ当時の写真を見ていないので探してみたい。

 

 

 

 

 

 

現在は万代三角広場(旧岩内場所本陣跡地)に移築保存されている

身近な歴史的建造物の一部として町民には親しまれているものだろう。

2024年11月3日撮影

 

 

 

「浮世湯

 

所在地 岩内町山和6
建築年 (不明)年
指定等 なし

ナビ「」

 

「浮世湯」は詳しくは調べていないが「うきよ公園」「うきよ通り」などの名前があるが現在の地名では無かった?
以前の地名から銭湯名を付けたのだろうと推察。

ネットで検索しているとあるブログに他の銭湯さんの情報があった

「岩内町内で最後の銭湯だった小松湯が、平成24年3月31日をもって営業を終了しました 新聞によると、小松湯ができたのは、1939年(昭和14年)。50年~60年台は、岩内町には10軒以上の銭湯が存在していたようです」

とあるので小松湯の前、平成24年3月までには閉業していたと思う。

 

 

 

 


とりわけ古い建物ではないが、ファサードがやはり歴史を感じたので撮影した
詳細は不明です

銭湯は今はどこも無くなり、閉業した建物を見て往時をしのぶことしか出来なくなったか。

 

2024年11月3日撮影

 

 

 

「敷島内の煉瓦倉庫

 

所在地 岩内町字敷島内
建築年 明治40年台頃?
指定等 なし

ナビ「なし」

 

岩内町の海沿いを寿都町に向けて車を走らす
そろそろ民家も少なくなったころ、潰れかけた住宅と倉庫を見る

岩内町はここから先が断崖絶壁が続く難所である。

この倉庫の特徴は煉瓦造りの出隅に軟石を使用していることだ
また住宅の山側も煉瓦造りで屋根に桟瓦が使用されている。

残念ながら空き家で管理をする人もいないらしく、住宅の一部は崩壊している

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年11月3日撮影