札幌・北海道のレトロ建物大好きおぢさん日記

札幌(北海道)のレトロでモダンな建物を見たり撮影するのを趣味としています。

木造校舎・廃校 真狩村の閉校 ※2校を追加しました

2024-06-30 16:35:23 | 木造校舎・廃校

真狩村の閉校(小学校) 赤字はレポート済 緑字は今回レポート

  • 真狩村立川崎小学校(1987年真狩村立御保内小学校へ統合)
  • 真狩村立知来別小学校(1999年)
  • 真狩村立富里小学校(2001年)
  • 真狩村立美原小学校(2003年)
    真狩村立御保内小学校(2023年真狩村立真狩小学校へ統合)

 

 

「旧真狩村立御保内小学校」

 

開校:明治37(1904)年
閉校:令和5(2023)年
校舎:昭和53(1978)年竣工~平成17(2005)年大改修 体育館:平成22年竣工

真狩村加野46

 

旧御保内小学校は昨年閉校になったばかりの小学校だ
道内の他の学校でも来年の3月で閉校になることが決まっているところがある。

残念なことだがこの少子化や過疎化の時代なのでやむを得ないだろう
今どきの閉校とはそういうことなんだろうなぁ

昔は炭鉱の町が閉山するとたくさんの人が流失し、学校もすぐに閉校になっていたが
何せ子供がいないことには学校は成り立たない。


「オホナイ」とつく地名は道内にいくつかあり
個人的には日高耶馬渓にある滝の名前がすぐ思いつく

ここは「御保内」でこの漢字だと他にはないようだ
ちなみにアイヌ語で「オホナイ」は 深い川というらしい。

 

学校への道しるべが今でもあるが、これは残してほしい

 

校舎は正面に対し横一直線で右端に体育館がある
この体育館は新しくお洒落な体育館だ。

校舎の玄関には板が打ち付けられており、閉校後の活用が
すぐにはされないのだろう。

遊具もポールもそのまま残っている
前庭は雑草が伸びてきた

また1年を超えるとさらに草の背が伸びそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この地区は羊蹄山が見える学校が多い
ここは?と思ったら校舎向かいの農家の間から…

 

2024年6月29日撮影

 

 

 

「旧真狩村立美原小学校」

※真狩村史より

開校:昭和26(1951)年
閉校:平成15(2003)年
校舎:()

真狩村美原

 

上記の「旧御保内小学校」はまだグーグルマップに表記があったが
「旧美原小学校」の位置は表示出来ない。

目印としては真狩村美原の道道257号線を真狩から喜茂別に北上すると右側に「種苗管理センター北海道中央農場後志分場」がある

(これは通り過ぎた後で左側に分場がある)

 

そこを通り過ぎると青看板があり左折出来るが
その左側の一角が旧美原小学校の敷地だった。

 

 

またシンボルツリーだった?大きな木とやはり羊蹄山が目印である

(真狩村史にある写真と位置確認を)

 

2か所ほど内部への進入口があるが、この時期は雑草などが鬱蒼としており入る気にならないし
他の方のレポートを見ても校舎はおろか、校門も遊具も何もないようだった。

 

 

 

ここで撮影をして終わりと思い車に戻ろうとしたら
道路向かいの林になにやら白い標識が見えた

 

 

 

行って見るとそこには「美原小学校メモリアルイベント記念」とあった

平成15年は美原小学校が閉校になった年
7月に何かイベントをして廻りを囲むように1本の木を植えた
その名残だろう。

なぜこちら側に記念の標識があるかは分からないが
これが、ここに学校があったという証明にはなるだろう。

 

真狩村の中心部から見る羊蹄山はどこか片流れして見えるが
ここの羊蹄山はきれいな形なんだな

2024年6月29日撮影

 

 

 

ここから過去レポート

 

「旧真狩村立川崎小学校」

 

開校:1905(明治38)年
閉校:1987(昭和62)年
校舎:(昭和8)1933年竣工(体育館は昭和30年)

真狩村川崎

 

三ノ原小学校のすぐ近くにある道道777号線(777とは!)を通りさらに南下する
今度はもう少しで豊浦町へ というところでスィッチバックするように97号線で北上をする。

ナビの指示を「川崎神社」にしていたのでほどなく到着。
車道の正面は羊蹄山だ。


 

広場(旧校庭)を通して川崎小学校が良く見える。

車道側にはシンボルツリーなのか高い木があり右側は何もない
徒歩で歩道から校舎に近づくと校門と表札あり

体育館は若干新しめだが校舎は歴史を感じる
屋根には順次修復した後が残る。

 


真狩村村史より

 

 

 

 


別の方の過去のレポートでは個人が住宅として使用しているらしい
確かに車があったので校門より先に入るのは止めた。



面白いのは表札のローマ字の綴りかも。

 


2022年4月撮影

 

 

 

「旧真狩村立富里小学校」

 

開校:1910(明治43)年
閉校:2002(平成14)年
校舎:()年竣工

真狩村富里


*真狩村史より


富里小学校も本当にここに学校があったのだろうかと
強く感じた場所にある
民家はあれどほんの数件でおそらく農業の方たちであろう
以前はもっと住人がいたようだ。

校門とプレートだけが学校があった証明だが
シンボルツリーらしき樹木もある。

後ろにそびえる羊蹄山のロケーションが素晴らしい
今回は雲がかかっていたが綺麗なお山と一緒に撮影したいものだ。


 

 

 

 

 


2021年11月撮影

 

 

 

「旧真狩村立知来別小学校」

 

開校:1905(明治38)年
閉校:1999(平成11)年
校舎:1933(昭和8)年竣工

真狩村桜川



*真狩村史より

知来別小学校は郷土の有名人、細川たかしが卒業生である
関係あるかはわからないがテレビのロケにも使われたことがある。

村史の写真にあるように校門から正面に玄関がある一直線の平屋だったようだ
羊蹄山は校舎の後ろにあり学校と児童を見守っている感じだ。

現存の写真がネットにあるくらい、そんなに前の解体ではない
もっと早くにこの趣味に出会えば、見ることが出来たと残念だ。


 

 

 

 

この旅の最後の羊蹄山は留寿都村の道の駅から
留寿都村や他の町の訪問残しは来年に譲ります。


2021年11月撮影

 


木造校舎・廃校 旧早来町の閉校 ※3軒を追加しました

2024-06-23 11:46:10 | 木造校舎・廃校

小学校の閉校 赤字は訪問済 緑字は今回訪問

  • 早来町立守田小学校(1980年早来小へ統合)
  • 早来町立瑞穂小学校(1990年安平小へ統合)
  • 安平町立富岡小学校(2012年早来小へ統合)
  • 安平町立早来小学校(2023年安平町立早来中学校などと統合し安平町立早来学園へ)
  • 安平町立安平小学校(同上)
  • 安平町立遠浅小学校(同上)

 

中学校

  • 安平町立早来中学校(2023年安平町立早来小学校・安平町立安平小学校・安平町立遠浅小学校と統合し安平町立早来学園へ)

 

旧早来町は元々は旧追分町と一緒に安平という町だった
その後、商業の中心であった追分と農業が中心の早来と分裂しお互い町になる
さらに時は進み、再び合併となり住民投票により2006年安平町となる。

雪だるまや、かつての五輪選手 橋本聖子氏の出身地でも有名。

 

 

「旧早来町立富岡小学校」

 

開校:明治38(1905)年
閉校:平成24(2012)年
校舎:()年竣工

安平町早来富岡224


早来の中心部から道道10号線を西進し、「富岡神社」に向かう道に右折して入ると、旧富岡小学校の校門がある

閉校後は建物は民間企業が活用しているので校門から続く道には入りづらい。

 

地図で見ると「富岡神社」が隣接しているので、神社の駐車スペースまで行き駐車する

確かに旧校舎が見える
まずは神社に帰途の安全を祈願し参拝する

撮影はズーム中心となるが、猫をかたどった壁が可愛らしい

 

 

 

 

ここはこれで終了かと思ったが、よく見ると通学路方向に何かが見える

行ってみて人がいたら聞けばいいやと、草が生い茂る方向に進むと
記念碑があった


百年記念碑だ

 

 

 

 

二宮像も現存

 

 

さらに…

立派な閉校記念碑もちゃんとあったんだ

 

ほかにも

 

 

通学路の一角はこのようなスペースになっていた
一部は草ぼうぼうだったが仕方がない

再活用地でもこれらが残されていることは所有は町なのかと推察する

尚、校舎のある地域にはさすがに入らなかった

学校は平成24(2012)年に早来小学校に統合し閉校した。

 

 

 

 

※2024年5月31日撮影

 

 

 

「旧(元)早来町立早来小学校」現:安平町 早来研修センター(休止中)

 

開校:明治29(1896)年
閉校:令和5(2023)年
校舎:()年竣工

安平町早来大町41

 

旧早来町の中心部で「早来研修センター」と「社会福祉協議会」がある場所に、かつての「早来小学校があった」

現在の建物はその名残として現存している
旧校門も北西側に残されており以前はここから石段を登って登校していたようだ。

石段を登り終わると校庭と体育館~教室の並びに見える
当時の写真が無いのでわからないがおそらく移転前の施設であろう。

建物の前に跡地の記念石碑があった

また体育館と教室棟の間に立つ樹木は「早来のドングリ記念保護樹林」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、昭和50(1975)年、現在の「早来学園」の西側空き地に移転新築し、
令和5(2023)年に「安平小」「遠浅小」「早来中学」とともに統合し「早来学園」となって閉校している。

 

 

 

「旧早来町立早来中学校」

 

開校:昭和22(1947)年
閉校:令和5(2023)年
校舎:昭和47(1972)年竣工

安平町早来北進92-9

 

2018年の胆振東部地震により校舎も被害を受けて使えなくなる
校舎に亀裂が入ったり鉄筋が曲がったりして危険な状態になった

その後に旧早来小学校と道路を挟んだ向かいに急遽プレハブ校舎を建築し2023年3月まで使用した。

2018年の3学期から入ることが出来たプレハブ校舎には生徒111人で全4学級があったそうだ
ただ校庭や体育館は早来小学校のを使用しており
子供たちには不憫な思いをさせたと当時の校長先生がコメントしている。


※グーグルストリートビューより

プレハブ校舎が学び舎となり卒業までを過ごした生徒がたくさんいたことだろう
その校舎はすでに解体されて空き地になっていた。

 

その後、令和5(2023)年に
「安平小」「遠浅小」「早来小」とともに統合し1年から9年生がともに学ぶ義務教育学校として「早来学園」が創立し閉校した。

旧校舎は残っているが立入禁止である

 

 

 

 

 

 


※2024年5月31日撮影

 

 

ここから過去画像

 

「旧早来町立守田小学校」

 

開校:昭和22(1947)年
閉校:昭和55(1980)年
校舎:昭和22(1947)年竣工

安平町早来守田140

 

守田小学校はすでに先に校舎が解体され
しばらく現存していた体育館も解体された。

学校を表すものは何も無いと思っていたら
トーテムポール状の木片には「守田小学校」と読めた。

トーテムポールはよく見るが校名が入っているものは初めて見た
これが校門代わりだったのかは不明だが、なんともユニークである。

 

敷地には花が植えられ、隣は牧場である
早来町は道内でも有数の競走馬生産が盛んな土地だ。

 

 

 

 

 


2023年7月撮影

 


※早来町史より

 

 

 

「旧早来町立瑞穂小中学校」

 

開校:明治31(1898)年
閉校:平成2(1990)年
校舎:昭和35(1960)年 体育館竣工

安平町早来瑞穂1211-1

 

2006年発行の「北海道わが心の木造校舎」に於いて、白く枠取りされた窓が多くある
素敵な校舎の姿がある。

小中学校が並置の瑞穂小中学校は、体育館を中央に向かって左に中学校
右手に小学校が連なっていた。

残念ながら両翼の校舎はすでに解体されているが、体育館が現存しているの情報を以て訪問した。


現在は「みずほ館」としてNPO法人が運営している貸施設である
入り口には学校の校門、プレートが残っており気分を上げてくれる。

車で進入すると新しい施設がある ここは旧中学校があった左翼になる
車が1台停まっていたのでチャンスと思い玄関から入る
声をかけて出てきた方に事情を話し、敷地内撮影の許可をいただいた。

まずは旧体育館を目指し裏側へ
しかし現れたのはすっかり様変わりしていた旧体育館だった。

これは残念だが想定内だ 
小学校があった右翼側は雑草が多い その中で碑があるので行ってみた。

倒れていた石碑には「昭和十四年八月十六日 鳥取小学校同窓会建立」
「同窓会〇之碑」とあった。

大元は「鳥取小学校」だったのである
早来町付近は鳥取県人が多く入植した とある。

明治31年に「苫小牧尋常高等小学校鳥取分校」として創立
明治33年 「鳥取尋常小学校」に改名
昭和32年 「瑞穂小学校」に改名
平成  2年 「安平小学校」と統合し閉校。

中学校は
昭和46年 「早来中学校」と統合し閉校。

 

他に「開校八十周年」の記念碑もあった
他の空き地はパークゴルフ場に転用されたようだ。

撮影後にお礼に行き、少し話をさせてもらうと「体育館は外は直したが内部は昔のまま」
と聞いたのでダメ元で内部撮影をお願いしたら許可していただいた。

やはり地元の方から話を聞くのが一番説得力がある
この方には感謝感謝だ。

 

果たして体育館の天井は綺麗なトラス構造だった
また壁には歴代の校長先生の写真、また一部だが想い出の写真も貼ってあった。

学校としての想い出と私個人としても想い出深くなる訪問だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2023年7月撮影

 

 


※早来町史より

 

 

 

 

「旧早来町立早来小学校」

 

開校:明治29(1896)年
閉校:令和5(2023)年
校舎:昭和50(1975)年竣工

安平町早来大町159

 

早来小学校は明治29年に私立早来小学校として開校
昭和13年に現在の「安平町 早来研修センター」のあるところに校舎を新築した。
そこには今も校門、石段が残る。

その後、現在の「早来学園」の西側空き地に移転新築し
「安平小」「遠浅小」「早来中学」とともに統合し「早来学園」となって閉校した。

過去のストリートビューではかつての校舎を見ることが出来る
現地では校門、サッカーゴール、バックネット、石像と「いこいの庭」の一角が
旧校舎を連想させる。

””令和5年に完成した「早来学園」は胆振東部地震で校舎が被災した早来中の再建と震災からの”復興の象徴(シンボル)”として誕生した新しい学校。
校舎は旧早来小の隣接地に整備され、2階までの吹き抜け、広々とした造り、被災木を使った柱など、こだわりを詰め込んで昨年秋に完成した。””

※北海道ニュースリンク苫小牧民報より

 

 

 

 

 

 

 

 


2023年7月撮影

 

 

 

「旧安平町立安平小学校」

 

開校:明治39(1906)年
閉校:令和5(2023)年
校舎:()年竣工

安平町安平165

 

安平小学校の建設年は調査中だが、2階建て広めの玄関でどっしりした印象を与える
加えて2方向に門柱があり、敷地内にはすでに閉校記念碑がしつらえてある
隣は開校百年碑だ。

校門から中を見るとモニュメントに他ではあまり見ない百葉箱まであった
現役としても閉校としても十分な設備である
特に閉校記念碑は十分に準備をした結果だろう。

新学園の校庭・グラウンドを作るために即解体された早来小学校は気の毒だったかもしれない。


安平町は新たに「早来学園」を令和5年に開校し、4つの小中学校を閉校した
町の名前を持つ安平小学校も、在校生は16人となっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2023年7月撮影

 

 

 

「旧早来町立遠浅小学校」

 

開校:明治32(1899)年
閉校:令和5(2023)年
校舎:()年竣工

安平町遠浅580

 

遠浅小学校も新設する「早来学園」に統合され令和5年に閉校したばかり
当然だが校舎も校門も校名プレートも現役のようだ。

それでも校庭には雑草が伸びてきた 秋には、また来年にはと年々自然に戻るだろう
地域の何かに使用されれば寿命は延びる 
歴史のある学校だけに卒業生は多いだろうが、近辺には子供が減っており
残っている遊具で遊ぶ姿が見れるだろうか。

赤い屋根が印象的な地域の学校である
「遠浅」とは「とあさ」と読み、海岸の遠浅のことではなくアイヌ語に由来している(諸説あり)
酪農地帯が広がるのどかな地区だそうだ。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 


2023年7月撮影

 

 


木造校舎・廃校 厚真町の閉校 

2024-06-20 20:25:13 | 木造校舎・廃校

小学校の閉校 赤字は今回レポート

 

厚真町

  • 厚真町立上幌内小学校(1972年閉校)
  • 厚真町立高丘小学校(1972年厚真町立楢山小学校へ統合)
  • 厚真町立浜厚真小学校(1981年厚真町立上厚真小学校へ統合)
  • 厚真町立幌里小学校(1990年厚真町立厚真中央小学校へ統合)[
  • 厚真町立幌内小学校(1991年厚真中央小へ統合)
  • 厚真町立楢山小学校(同上)
  • 厚真町立鹿沼小学校(2004年上厚真小へ統合)
  • 厚真町立富野小学校(2011年厚真中央小へ統合)
  • 厚真町立軽舞小学校(2011年上厚真小へ統合)

 

厚真町は、むかわ町、安平町とともに平成30(2018)年の胆振東部地震で大きな被害を受けた
中には地震の被害で閉校になった学校もある
厚真町ではたくさんの住民が亡くなった

現在も復興へ向けての工事が見受けられる。

 

 

「旧厚真町立鹿沼小学校」

 

開校:明治34(1901)年
閉校:平成16(2004)年
校舎:()年竣工 

厚真町鹿沼217-4

 

数年前まで旧鹿沼小学校校舎は再活用されていて
旧校舎ならではの佇まいを見せていたが

厚真町鹿沼は胆振東部地震で最も震度が大きい「7」であった
閉校後に再活用されていた旧校舎も甚大な被害を受けて
解体せざるを得なかったようだ。

 

「鹿沼(しかぬま)収蔵庫(町内の鹿沼地区にある出土遺物の収蔵庫、今回は実見せず) 
・やはり小学校の廃校舎(木造モルタル校舎)を利用した収蔵庫 
・115万点の出土遺物(コンテナ2,000~3,000箱分)を収蔵 
・建物にクラックが入り、天井も落ち気味であり、体育館は床が抜けた 
・内部に入るのも困難な状況 
・建物を解体しながら救い出せる物を出していくしかない、という感じ」

※厚真町軽舞遺跡調査整理事務所の被災状況(速報) より

 

場所の目印は手前に建っている「鹿沼マナビイハウス」

すぐ先に校名プレート付の校門が残っていた
本来ならこの正面に横一列で旧校舎があったのだ

校門を抜けると右側に碑が並んでいた。

 

 

 

 

 

 

 


鉄棒が残っていた


 


学校までの間に沼があったが、沼名があったと思われる鉄枠には
何も嵌ってはいなかった 果たしてこれが鹿沼なのだろうか

※2024年5月31日撮影


※厚真町史より

 

 

「旧厚真町立軽舞小学校」現:厚真町軽舞遺跡調査整理事務所

 

開校:明治34(1901)年
閉校:平成23(2011)年
校舎:()年竣工 

厚真町軽舞205-2

 

厚真町の内陸部を走る道道10号線が、道道924号線に交わる手前に旧軽舞小学校がある

現在は再活用されており「厚真町軽舞遺跡調査整理事務所」

校名プレート付の校門が残っており、そこからなだらかなスロープを上がっていくと校庭と奥に旧校舎、その隣に記念碑がある。

 


碑は5つ並んでいる


こちらは中学校(校舎は小学校と同じ併置校であったようだ)


こちらは周年記念碑

 

小さな球形のモニュメントもあり

 

立派な石碑もあり

 

これが小学校の閉校記念碑

 

少し離れた場所に開校100周年記念碑もある

 

校舎

 

むかわ町で見たようなデザイン性のある校舎
これは素敵だ

 

ここはいわゆる「博物館」や「郷土資料館」で無料で見学が出来る

時間(利用時間)9:00~17:00
料金無料
定休日土曜・日曜・祝日、12月31日~1月5日


中に入ると係の方がいるので、入り口で記帳をし簡単な説明を受ける
案内はすぐ終わるので、あとは自由に見て廻れる
質問があれば事務所に行くこと。


校章入りの演台で記帳する

 

最大の特徴はなんと資料に直に手を触れていいのです!

土器も

石器も

持っていいんです
こんなの持つの初めてだから落とさないように慎重にした…

石器の矢じりは見た目よりも重く、何より先が鋭いことにも驚く

 

教室も再活用

 

メインの展示は体育館

 

レコードもかけていいのです

 

 

古民家も移築

 

展示物はこんなものじゃなく棚にぎっしりいろんなものがある
触れるものは触っていいのがすごいね

 

ギャラリースペースは卒業記念作品や使用していたものなど



学校関係の資料や、校名プレート
それと同じく収蔵庫として使われていた「旧鹿沼小学校」のものも
こちらに移設されている


閉校を訪ねてより、触れる博物館として非常に楽しい
思わぬ素晴らしい場所に来れて嬉しくなったよ

 

このステンドグラスは誇れるものだね

 


校庭にはバックネット、遊具もたくさん残してある

まだ使えるじゃないか

※2024年5月31日撮影

 

 


木造校舎・廃校 旧鵡川町の閉校 

2024-06-18 21:05:24 | 木造校舎・廃校

小学校  赤字は今回レポート

鵡川町(2006年・むかわ町を新設)

  • 鵡川町立鵡川小学校(2004年新設の鵡川中央小へ統合)
  • 鵡川町立春日小学校(同上)
  • 鵡川町立田浦小学校(同上)
  • 鵡川町立二宮小学校(同上)
  • 鵡川町立花岡小学校(同上)

むかわ町

 

旧鵡川町は胆振地区にあり平取町の西隣で南北に長い町である
2006年に旧穂別町と合併し「むかわ町」になったので縦長になった。

鵡川は「ししゃも」の産地として有名である

閉校は旧鵡川町時代とむかわ町になってからも閉校になっている
今回は平取から札幌へ帰るルート沿い、もしくは近くにある閉校だけ訪問したので、再度の訪問が必要だ。

 

 

 

「旧むかわ町立宮戸小学校」

 

開校:明治40(1907)年
閉校:令和5(2023)年
校舎:昭和63(1988)年竣工 体育館は平成2年竣工

むかわ町宮戸280-2


旧宮戸小学校は宮戸地区の国道225号線と道道74号線に挟まれた場所にあった。

国道側から来ると大きな校名の表示、新一年生の表示があり
校名プレート付の校門がある

そこは立入禁止になっており、現在の未活用が伺える。

 

創立から115年で閉校になったのが令和5年、昨年のことだ
昭和63年に新築された校舎はデザイン性があり、当時の子供たちは喜んだことだろう。


閉校からわずか1年でもグラウンドには雑草が見える
数年後には草ぼうぼうになるのは必然だ。

5月には校内に「サクラソウ」が咲くとのこと
敷地内には入れないが、機会があればぜひ見てみたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

覗くとグラウンドやバックネット、遊具も見えた

 

 


向かいに建っていた 教職員住宅であろうか


裏側には入れた


体育館がまたお洒落だねぇ これは平成2年に竣工


学校の向かいに水田が広がっていた これも宮戸地区の魅力だね

※2024年5月31日撮影

 

 

 

「旧鵡川町立田浦小学校」現:高齢者生活交流センター「ひだまりの里」

 

開校:昭和23(1948)年
閉校:平成16(2004)年
校舎:()年竣工

むかわ町田浦251-6

 

旧田浦小学校の校舎も旧宮戸小学校に負けていない素敵な校舎だった。

鉄筋コンクリート造りの建物に見えるが
木造、一部鉄筋コンクリート造りの平屋である。

 

現在は高齢者生活交流センター「ひだまりの里」として再活用された。

すでに再活用をされているので、現地に着いたら真っ先に事務所に行き撮影許可を貰った。

誰もいない場所で後からクレームされるより、誰かがいてくれたほうがいい
許可が下りなければ遠くから撮影するしかないしね。


それにしても素敵すぎる

 

 


体育館は旧宮戸小学校と窓ガラスのデザインが似ている


門から入るとすぐにある記念碑

 

 

 

 


よく見ると学校だった名残りがあるよ

 

 

門の裏側に落ちていたプレート 旧校門にあったものだろう

※2024年5月31日撮影

 

 

 

「旧鵡川町立二宮小学校」現:生涯学習センター報徳館

 

開校:大正6(1917)年
閉校:平成16(2004)年
校舎:昭和60(1985)年竣工

むかわ町二宮315-2

 

二宮地区は旧鵡川町の北にあり、山を挟み穂別町が北隣にある
旧鵡川町でいえば町の外れにある集落だ。

それにしては閉校は平成16年であり、続いた方ではないか


学校は少し高くなった場所にあるので坂道を登って行く
校門は残念ながら見当たらなかったが、校名のある表示(防火漕?)が残っていた。

 

 


二宮小学校の校舎もデザイン性がある
鉄筋コンクリート2階建て鉄骨造りである

 


この感じ いいですねぇ

 

 


体育館は奥に続く道があるが、熊を気にして行かず

 


このポール土台の向こう側には田浦小学校のように校章があったかも…

以前は教職員住宅?


坂道右手の木々の方に二宮像と石碑が二つあった

 

 

 

 

 

 

 

※2024年5月31日撮影

 

板張りの木造校舎は存在自体が貴重であるが、外観にデザイン性のある現存校舎は少ない

鵡川町の3校はどこも素敵な校舎であった
昭和の後半から平成前半に建てられた校舎は、機能重視の面白みのない学校とは違う

それは自治体に余裕があった時代だからなのかも知れない

 

旧鵡川町は終了です。

 

 


平取町の建築探訪 2件を追加しました

2024-06-16 10:42:46 | 平取町 むかわ町 厚真町 旧早来町 旧追分町

※追加です

「二風谷小学校」の敷地にある「碑」は、北海道の建築の父と言われた
「田上義也氏」の設計によるもの

田上氏のカテゴリーにしても良かったが、やはり地区に合わせた方が良いかと思い
こちらに記載しました。

 

 

二つの碑は学校敷地内の国道寄りに並んであり
※違星氏の歌碑は移設

 

校舎は遠く、国道からすぐなので事務所に声をかけなくても良かったか

 

「違星 北斗」の歌碑

(いぼし ほくと、男性、1901(明治34年) - 1929(昭和4年)はアイヌの歌人・社会運動家。
平取には大正15年~昭和2年に滞在

 

 

所在地:平取町字二風谷小学校
建設年:昭和31(1956)年 
指定等:なし

 

歌碑の文字は「金田一京助氏」、製作が「田上義也氏」である

  • 沙流川ハ 昨日の雨で 水濁り コタンの昔 囁きつヽ行く
  • 平取に 浴場一つ ほしいもの 金があったら たてたいものを


製作の経緯は、田上氏が来道した時にお世話になったバチェラー氏の養女、八重子氏と違星氏が交友があったほか
交友が深かった木呂子敏彦氏からの依頼であったからのようだ。

※木呂子敏彦氏
元北海道教育委員会委員長、アイヌ史研究家  田上氏とは住宅の設計依頼や、北海道ユースホステルに共に尽力をした。

 

 

特異な形状から「歌碑」というよりは「墓碑銘」と思った
製作に関しては田上氏の専門研究家ならご存知でしょう。

 

 

 

「黒田彦三氏」の記念碑

(二風谷小学校初代校長 明治27年~昭和2年まで32年間学校長として在職、村会議員)

 

所在地:平取町字二風谷小学校
建設年:昭和45(1970)年 
指定等:なし

 

題字は「穂坂徹氏」
製作は「田上義也氏」

こちらも上記の木呂子氏からの依頼と推測する
昭和45年の製作なので、すでに違星氏の歌碑があった隣に建てられた。

黒田氏は独学で教員になり、二風谷小学校が開設するときに初代校長として
奮励努力した人である

32年もの長きに渡り教育界に貢献があった
二風谷小学校に碑が出来るのは必然であったろう。

 

 

 

※2024年5月30日撮影

 

 

 

ここから過去掲載

 

平取町には「道東の建築探訪」(2007年発行、北海道新聞社)において
1軒の掲載があります

 

「旧マンロー邸」 道東の建築探訪 NO122

 

所在地:平取町字二風谷
建設年:昭和8(1933)年 
指定等:登録有形文化財

 

現在は「北大文学部二風谷研究室」

「英国人考古学者・人類学者のニ-ル・ゴードン・マンロー博士は、アイヌの生活風俗研究のためにニ風谷に移住し、研究の傍ら医者としての奉仕活動に生涯を捧げた人です。
昭和17年の永眠後、住宅兼病院であったここは記念館として保存され、現在は北海道大学へ寄贈され、北方文化の研究に活用されています」

※北海道日高観光ナビ より

 


旧マンロー邸は「二風谷ダム」すぐそばの静かな林間にある

邸の前にスペースがあるので車を停めて見学をする
現在、邸内は10名以上で事前申請により見ることが出来るようだ。

ぐるっと一周出来るので歩いてみた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お隣は一般の民家なので迷惑がかからないように見学をする。

 

白地の板張り壁に赤い屋根が林の中で映える
よくぞ残してくれたものだ


 

マンロー氏のことはよく知らなかった

大きく豪華な洋館ではないが建物としてみて素敵だ。

 

※2024年5月30日撮影



平取町では他に、「二風谷小学校」の敷地内にて4件の撮影をした
ここではうち2件について

 

 

「旧校舎の時計台」「旧二風谷青年会図書館」

 

所在地:平取町字二風谷28-1
建設年:旧校舎、昭和29(1954)年 旧図書館、明治44(1911)年 
指定等:なし

 

「二風谷小学校」は「二風谷ダム」や「旧マンロー邸」の近くにあり、今回の旅行では1日目のラストに訪問をした。

撮影したいものが現役の学校敷地内にあるので
生徒玄関前に車を停め、事務所内の職員に撮影の許可をいただく
(土日なら誰もいないかもだが)


全部が国道側にあるので、前庭をぐるりと廻って行く
すでに目的の建造物は見えていた。

 

「旧図書館」は明治期に造られた木造の古い建物だ
破風板に装飾がされており、一瞬なんの建物だろうと思った。

明治44(1911)年の二風谷尋常小学校新築に伴って建てられた図書館で、北海道でも2番目に建てられた図書館といわれている

 

 

 

 

 

「旧時計台」はそこにあるのが異質に感じる

校舎から突き出た尖がり部分だけを切り離し、校内の敷地に移設している。

ドアがあるので中に入れるようだが、今回はそこまで事務所には聞かなかった

記録によると昭和29(1954)年に新築した二風谷小学校の校舎とある
北海道を代表する建築家である「田上義也氏」の設計記録では
昭和31(1956)年、二風谷小学校と記載されていた。

数年のズレがあるので、果たしてこの時計台校舎は田上氏が設計をしたのか、または数年後に増築か何かで関わったのか
未確認だが、調べてみることが面白いことだ。

 

 

 

 


※平取町史より

 

 

※2024年5月30日撮影