札幌・北海道のレトロ建物大好きおぢさん日記

札幌(北海道)のレトロでモダンな建物を見たり撮影するのを趣味としています。

木造校舎・廃校 札幌市の閉校③

2022-05-07 23:00:14 | 木造校舎・廃校

札幌市の閉校(小学校) 赤字はレポート済

札幌市の閉校(中学校)

 

 

「旧札幌市立もみじ台小学校」

開校:1972(昭和47)年
閉校:2011(平成23)年
校舎:1972(昭和47)年竣工

厚別区北5丁目12-1

もみじ台地域は、昭和40年代から昭和50年代にかけて札幌市施行の新住宅市街地開発事業により開発された。
開発から30年以上を経た現在、この地域では、人口減少を伴う少子高齢化が進展しており、それに伴い様々な課題が生じています。(札幌市役所HPより)

以上のような理由で子供が減少し開発当時に一気に建設された学校が不要になっている
旧もみじ台小学校は2011年にみずほ小、もみじ台南小と統合し
もみじの丘小学校となり38年の歴史に幕を下ろした。

現在の校舎は星槎札幌もみじ台キャンパスとして所有が移った
校舎や体育館はそのまま利用し、校庭にはもみじ台小時代のモミュメントがある。

尚、新設のもみじの丘小学校は、みずほ小学校の校地を継承した。

 

 

 

 


2021年12月撮影

 



「旧札幌市立みずほ小学校」

開校:1975(昭和50)年
閉校:2011(平成23)年
校舎:1975(昭和50)年竣工

2011年にもみじ台小、もみじ台南小とともに
「もみじの丘小学校」に統合され35年の歴史に幕を下ろしたが
校舎はみずほ小学校を使用している

在校生や卒業生は、とりあえず安堵したことでしょう
1975年に開校してから生徒数増のため1976,1977年と増築工事が完成した

さすがに3階建ての校舎となると大きく感じる
広いグラウンドにはなんとナイター照明まであるではないか

なにか、みずほ小学校の名残りは無いかとみて廻ったら
古いスクールゾーンの立て看板をよくみると確かに「みずほ小学校 8-16」と書いてあった。

 

 

 

 

 


2021年12月撮影

 

 

 

「旧札幌市立もみじ台南小学校」

開校:1979(昭和54)年
閉校:2011(平成23)年
校舎:1978(昭和53)年竣工

厚別区もみじ台南3丁目4

もみじ台南小学校は2011年にみずほ小、もみじ台小とともに
もみじの丘小学校に統合され32年の歴史の幕を下ろす

閉校後の校舎は「光生舎ゆいま~る・もみじ台」の所有となり
その後、校舎は解体され新しい施設が建っている
横にある体育館が旧もみじ台南小学校時代のものだそうだ。

施設には喫茶や交流スペースを設け地域との交流を大切にしている
との記載があった。

 

 

 

2021年12月撮影

 

 

 

「旧札幌市立もみじ台西小学校」

開校:1979(昭和54)年
閉校:2011(平成23)年
校舎:1979(昭和54)年竣工

厚別区もみじ台西3丁目4-1

児童数減で小規模校となっていたもみじ台地区の4校
(もみじ台小、みずほ小、もみじ台南小、もみじ台西小)を
統合し、もみじの丘小学校ともみじの森小学校の2校を新設する形で
2011年の3月に4校の閉校、4月に2校の開校が挙行された。

うち、もみじの丘小学校は旧みずほ小の校舎を
「もみじの森小学校」は旧もみじ台西小の校舎を使用している。

旧西小は4階建ての大きな学校だ
側面(川側)のレリーフが印象的である。

 

 

 

 

2021年12月撮影

 

 

 

「旧札幌市立上野幌東小学校」

開校:1992(平成4)年
閉校:2019(令和元)年
校舎:1991(平成3)年竣工

厚別区上野幌2条4丁目5-1

厚別区では2011年に続き、2019、20年も小学校の再編があった
上野幌東小学校と上野幌西小学校を統合し、ノホロの丘小学校を新設
上野幌小学校と青葉小学校を統合し、新札幌わかば小学校を新設した。


上野幌東小学校の校舎を使用して「ノホロの丘小学校」を開校した
これは児童数が西小に比べて倍近くいたこと
校舎が数年だが西小より新しかったことも要因ではないか
そうして旧校名では27年の歴史に幕を下ろしたのだった。

平成3年の建物だけあってデザイン的に面白い校舎でもある
正面玄関のファサードもお洒落だし
校庭へと続く道は校舎の1階部分をトンネルにしている。

 

 

2021年12月撮影

 

 

 

「旧札幌市立上野幌西小学校」

開校:1988(平成元)年
閉校:2019(令和元)年
校舎:1988(平成元)年竣工

厚別区上野幌1条2丁目6-1


上野幌西小学校は2019年、上野幌東小学校と統合し30年の歴史に幕を下ろした
新設のノホロの丘小学校校舎は東小学校を使用したので
この校舎は再活用を待っていた。

そして現在は「カミニシヴィレッジ」としてホール、グラウンド、スクエアの3つのエリアからなる地域コミュニティの核となった
名前に親しい「カミニシ」を付けてくれたのは地域の人にとってもうれしいかと思う。

ホールはレバンガ北海道のメイン練習場にもなっている。

さらに「認定こども園新さっぽろ幼稚園・保育園」が設置された。

正面玄関の湾曲した庇の2階建てが印象的である
おそらく閉校後に塗装され綺麗になり、グラウンドも広い学校だ。

 

 

 

 

 

2021年12月撮影

 

 

 

「旧札幌市立上野幌小学校」

開校:1900(明治33)年
閉校:2020(令和2)年
校舎:1979(昭和54)年竣工

厚別区厚別南7丁目9番1号


上野幌小学校と青葉小学校は児童数の減により2019年に統合し
「新札幌わかば小学校」が開校された
それにより上野幌小学校は
120年の長い歴史にピリオドをうった。
*昭和36年に国道274号線拡張のため現在地に移転する 尚、旧校舎のあった場所(厚別南緑地)には開校100年記念碑がある*

新設学校の校舎は上野幌小学校である。
校舎の半分ほどは厚別南地区センターと図書館が新設前から入っているようだ。

先のもみじ台地区と同じように宅地化で急激に児童が増え
既存の校舎だけでは入りきらなくなり学校を新設した
だがその後は児童数の減により閉校という流れの様だ。

現在の校舎にあるライトグリーンの塗装ラインは上野幌小学校の閉校後に
されたようである。
4階建ての大きな校舎は増え続ける児童を受け入れるため
昭和54年から60年まで第6次にかけて増築に増築を重ねたものだ。

 

 

 

 

2021年12月撮影

 



「旧札幌市立青葉小学校」

開校:1968(昭和43)年
閉校:2020(令和2)年
校舎:1968(昭和43年)年竣工

厚別区青葉町6丁目2

厚別区では2011年、19年、20年に小学校の再編がなされ
計8校あったうち4校を新設学校の校舎に活用した

残り4校のうち2校は民間の学校法人やコミュニティセンターに
1校は解体され福祉施設に
そしてこの青葉小学校だけが校舎は閉鎖されたままだ。

青葉小学校は開校時は「下野幌小学校」で昭和56年に青葉小学校に改名している
大規模な改修や耐震工事も済ませていた。

昭和48年には児童数1,760名のマンモス校になり
共栄小やひばりが丘小を新設し児童数を減らしていった。

校舎は他の校舎と比べると確かに古さは感じるが、他の地方都市ならば
何かに活用してそうだ
札幌市も民間も使用用途が無いものか? 
まだ閉校して2年 いつか転用されるニュースを見たいものだ。

 

 

 

 

2021年12月撮影

 

 


木造校舎・廃校 石狩市の閉校①

2022-05-07 22:53:59 | 木造校舎・廃校

石狩市は1996年(平成8年)に市政施行 石狩市となる
この時点での各町村を石狩市として記載します。

また2005年(平成17年)の市町村合併により、厚田村、浜益村が統合されたが
両村は別枠で記載します。

石狩市の閉校(小学校)

  • 石狩市立若葉小学校(2010年紅葉山小と統合し石狩市立双葉小学校へ)
  • 石狩市立紅葉山小学校(2010年若葉小と統合し双葉小へ)
  • 石狩市立石狩小学校(2020年八幡小と統合し石狩市石狩八幡小学校へ)
  • 石狩市立八幡小学校(2020年石狩小と統合し石狩八幡小へ)
  • 石狩町立樽川小学校(1949年石狩市立花川小学校〈当時:石狩町立〉へ統合)
  • 石狩町立若生小学校(1951年発泉小と統合し石狩東小へ)
  • 石狩町立発泉小学校(1951年若生小と統合し石狩東小へ)
  • 石狩町立参泉小学校(1953年石狩市立生振小学校〈当時:石狩町立〉へ統合)
  • 石狩町立八の沢小学校(1962年五の沢小へ統合)
  • 石狩町立志美小学校(1978年花川小へ統合)
  • 石狩町立五の沢小学校(1982年)
  • 石狩町立石狩東小学校(1989年統合により八幡小へ)
  • 石狩町立高岡小学校(同上)
  • 石狩町立美登位小学校(同上)

中学校

  • 石狩町立樽川中学校〈旧〉(1973年)
  • 石狩町立石狩中学校〈旧〉(1980年統合により石狩市立石狩中学校〈当時:石狩町立〉へ)
  • 石狩町立高岡中学校(同上)
  • 石狩町立生振中学校(同上)

 

「旧石狩市立石狩小学校」

開校:1873(明治6)年
閉校:2020(令和2)年
校舎:1956(昭和31)年竣工

石狩市横町39

 

令和2年、昨年の3月で閉校した学校で、北海道初の円形校舎は1956年に建てられた。
さすがにまだまだ現役の趣がある

校庭からは「番屋の湯」がすぐそこにあり石狩浜も目の前だ
ただやはり少子化の波には勝てなかったようです。

円の中心に螺旋階段があるとのことで機会があればぜひ撮影したい。

2021年5月撮影

 

 

 

「旧石狩市立美登位小学校」

開校:1900(明治33)年
閉校:1989(平成元)年
校舎:()年竣工

石狩市美登位694

 

石狩美登位地区の少し高台になっている場所にある
平屋の小さな校舎は転用されて頑張っている

私の通った小中高の学校はすべて坂を上るので親しみが沸いた
雪が積もっていたので碑や全景などが撮影出来なかったので再来したい

現在は「美登位創作の家」として活用されているのは喜ばしい。

 

2021年2月撮影

 

 

「旧石狩町立美登位小学校」

 

開校:1900(明治33)年
閉校:1989(平成元)年
校舎:()年竣工

石狩市美登位694

 

この学校は2度目の訪問で
前回は雪がまだ多い今年の2月だった

校舎の下にまずは碑がある
これは人物名がたくさん彫られており、関係者にはいい記念だ

スロープを登って、レンガ造りで印象深い校門にはしっかりと表札プレートがある

 

それからグラウンド側に廻ると校舎の全景が見えた
こちらにはロープの進入禁止が無いので少しだけ入らせていただいた

小さな体育館が可愛らしい
玄関には再活用先の名前もある この日は誰もいなかったようだが
管理はきちんとされているように見受けられた。

子どもが遊んだであろうコンクリのオブジェ?も数体グラウンド側にあった。

 

廻りは畑ばかりだ
ここに学校があったとは 昔は集落があったのだろうか

2021年10月撮影

 

 

 

 

「旧石狩町立石狩中学校」

 

開校:1947(昭和22)年
閉校:1980(昭和55)年
校舎:(?)年竣工

石狩市弁天町51-2


昨年に閉校した円形校舎の旧石狩小学校の隣
現在、番屋の湯があるところに かつての石狩中学校があった。

 

番屋の湯の南側の塀の外に小さく開校33周年の碑がある
学校自体が33年で幕を閉じたので実質は閉校の碑であろう

 

 

訪問時は碑の前に強烈なハマナスの群生があり
トゲのおかげで近寄れず、枝をはらうことも出来ず、満足に見れていない

また裏側も堀に近接しており何が彫ってあるのか、ないのかもわからなかった。

ここに碑があることはまったくわからない様子だ
冬くらいにならないと全貌を見ることは出来ないかも知れない
何故、この花を植えたのかなぁ

 

この学校と生振中、高岡中の3校が統合し閉校した新しい石狩中学校は
石狩市志美にあり開校してすでに40年を超えている。

2021年10月撮影

 

 

 

「旧石狩町立南線小学校」

 

開校:1900(明治33)年
閉校:現在に至る
校舎:1956(昭和31)年竣工

紅葉山了恵寺 石狩市花川南2条5丁目16-5

南線小学校は現存する現役小学校で
ここでは了恵寺に移設された泰安殿と門柱を載せます。

泰安殿とは戦前に天皇・皇后の写真と教育勅語を祀り全国の学校に置かれた建物です
戦後にGHQにより取り壊されたが、北海道でもいくつか現存している。

ここの泰安殿は昭和20年に当時校舎のあった花川南3条西2丁目から移設したもので
この泰安殿は他と比べると質素であると言えよう。

 

 

門柱は昭和31年に花川南3条1丁目の現校舎が新築され
その後の改装を経て平成15年プール建設にあたり了恵寺に移設した

何故、了恵寺かというと「移設先に困っていたから」の住職の証言があったようです
元々、泰安殿がすでにあったので、では門柱も となったのかも知れない。

 

 

紅葉山了恵寺には広い庭とたくさんの碑がある
南線小学校の泰安殿と碑は、本堂の向かって右手に住職の住宅があるので
その裏手にあり。

お寺の敷地内なのでくれぐれも失礼のないように手を合わせて廻りたい。

 

2021年10月撮影

 

 

 

「旧石狩町立参泉小学校、生振中学校」

 

<参泉小学校>

開校:1902(明治35)年
閉校:1953(昭和28)年 生振小学校に統合
校舎:(?)年竣工

石狩市 ?

<生振中学校>

開校:1947(昭和22)年
閉校:1980(昭和55)年 石狩中学校に統合
校舎:1947(昭和22)年竣工

石狩市 ?


両学校とも以前の校舎跡地は現在わからない
ただ門柱、表札は現在の生振小学校に残されている

参泉小学校は生振小学校に統合され閉校に
生振中学校は生振小学校に併置して開校したのちに石狩中学校に統合されて閉校した

 

現在の生振小学校校舎は、昭和56年(生振中学校が統合の翌年)に火災で全焼し
現在の場所に同年新築されたものである

その際に古い門柱や表札を一同にまとめたのではないかと思う

体育館の横に整然と並んで立っていた







 

 

 

 

 

 

 

現在の生振小学校は体育館の窓、校舎右端の半円箇所など意匠的に見どころありであった。

 

 

 

 

2021年10月撮影

 

 

 

「旧石狩町立志美小学校」

 

開校:1899(明治32)年
閉校:1978(平成53)年
校舎:(?)年竣工

石狩市志美65-48

 

志美小学校の碑は、以前は現在地から国道225線に出たところにある
海鮮品 丹野商店の敷地の端に置かれていた。

その後に現在の「防災ひろば」の一角に移設されたが校舎がどちらにあったのか
何故、移設されたのかは現在調査中で詳しいことはわからない

ストリートビューでは2011年まではそこにあったが2018年時ではなくなっていた。

 


 

 

 

 

2021年10月撮影

 

 

 

「旧石狩町立若生小学校」

 

開校:1886(明治19)年
閉校:1951(昭和26)年
校舎:(?)年竣工

石狩市八幡1丁目1-24

若生小学校は跡地でグーグルマップに記載されているが
マークの位置は民家になっている

閉校は昭和26年に新設された石狩東小学校に統合されたため。

目印としては下の写真の建物で、右の道を直進し道なりに右に曲がるとマークの家にあたる


左の住宅がマークの位置にあたる 車は河川敷をここまで入れる

右側に真新しい立札があった 草ぼうぼうの中を歩いて近寄る。

 

 

 

 


この図により小学校は、ほぼこの立札の場所にあったと判明。


当時は河川と船が重要な交通機関だったので川べりに役場も構えたのだろうか
今は自然いっぱいの遊歩道のようだ。

2021年10月撮影

 

 

 

「旧石狩町立石狩東小学校」

 

開校:1951(昭和26)年
閉校:1989(平成元)年
校舎:1951(昭和26)年竣工

石狩市八幡1丁目459-58

若生小学校と発泉小学校を統合し、新設された石狩東小学校は38年という比較的早い年で
八幡小学校に統合されて閉校となった。

すでに校舎もなく宅地に変わったとの情報があり

若生小学校跡地へ向かう目印の建物 これの逆側へ行く

逆側はこんな道 ここを直進


途中から左折して住宅街に入り、目指すは「八幡めぐみ公園」

なんということはない小さな公園だがその奥に

 

 

 

跡地となっているのでこの公園を含む一帯に校舎があったのだろう
廻りは新しい住宅が多いので宅地になった。

2021年10月撮影

 

 

 

 

「旧石狩市立高岡小学校」

開校:1899(明治32)年
閉校:1989(平成元)年
校舎:()年竣工

石狩市八幡町高岡28-5

 

高岡地区は石狩から当別にかけての高台地区で当別町にも高岡小学校があり廃校になっている
高岡中学も隣接していたらしく廃校の碑がある

パッとみて体育館を再生活用したのかと思ったら取り壊し新築したそうだ
ただ基礎に残る金属蓋はかなり古そうなので基礎だけ再利用したかな?

校舎があったと思われる場所には「ふれあい研修センター」が出来ており地域の集会場となっている。

 

 

2021年4月撮影

 

 

 

「旧石狩町立八の沢小学校」

 

開校:1927(昭和2)年
閉校:1962(昭和37)年
校舎:()年竣工

石狩市八幡町


一つ前の五の沢小学校と同じく、かつては油田があった。
その採油のため職員用の住宅が建てられ、集落が出来あがる

そして職員の子供たちのために学校が建てられた


グーグマップで「石狩市八の沢小学校跡」で場所を知らせてくれる
実際はポイントよりさらに進んだ場所にあった。

 

五の沢小学校跡地から先に進むとすぐに「五の沢線」の標示とのぼりがあったので目印に右折し山中を走る

1車線の道でときおり退避場はあるが対向車が来たら面倒である
それにしても建物一つない山中の林道を学校を探しに行くのは
よくまぁこんなところにと不安にもなる。

 

建物か何かあったような平地もあるが、およそ人工的なものは見当たらず
綺麗に撤去したと思われる

結局学校は少し下り坂の右の山側がぽっかりと開けており
碑と地図板、校門門柱があった。

 

車はその前だけきちんと駐車スペースが整備されてあった
校舎があったと思われる場所は鬱蒼とした笹薮と樹木が生い茂り
その跡を見つけるのは困難だった。

 

 

熊の心配をしながら撮影だけ急ぎ、そのまま直進して里に下りた

2021年10月撮影

 

 

 

「旧石狩町立五の沢小学校」

 

開校:1910(明治43)年
閉校:1982(昭和57)年
校舎:()年竣工

石狩市八幡町高岡


五の沢小学校は近くの八の沢小学校と同様に、石油採油のために出来た職員の集落に住む
子供たちのために建てられた学校です。

ゆえに石油の採掘が終われば離職、閉校は避けられない運命にある
校舎の解体は2009年(平成21)と比較的最近なので旧校舎の写真は多く存在するが
木造校舎に緑のトタン屋根が美しく映えていた
現存していたらどれだけ素敵だったろうか

碑はあくまでも開校65周年の碑で、校舎が現存中に建立されたものだ
この碑の裏手に体育館が縦にあり、L字型で校舎が正面を向く

敷地内は残念ながら遊具やバックネット等が見当たらず
完全に撤去されたようだ

この地に石油が出ていたということは史実としてずっと残るだろう

 

2021年10月撮影

 

 


木造校舎・廃校 当別町の閉校①

2022-05-07 22:48:23 | 木造校舎・廃校

当別町の閉校(小学校) 赤字はレポート済

  • 当別町立獅子内小学校(1951年8月1日太美小と統合し当別町立西当別小学校へ)
  • 当別町立太美小学校(1951年獅子内小と統合し西当別小へ)
  • 当別町立材木沢小学校(1965年当別町立当別小学校へ統合)
  • 当別町立三番川小学校(1971年青山中央小へ統合)
  • 当別町立四番川小学校(1973年青山中央小へ統合)
  • 当別町立青山小学校(1975年弁華別小へ統合)
  • 当別町立二股小学校(1975年青山中央小へ統合)
  • 当別町立金沢小学校(1989年当別小へ統合)
  • 当別町立高岡小学校(1991年西当別小へ統合)
  • 当別町立青山中央小学校(2000年弁華別小へ統合)
  • 当別町立川下小学校(2004年当別小へ統合)
  • 当別町立中小屋小学校(2006年当別小へ統合)
  • 当別町立蕨袋小学校(2007年当別小へ統合)
  • 当別町立東裏小学校(2008年当別小へ統合)
  • 当別町立弁華別小学校(2016年当別小へ統合)
  • 当別町立当別小学校(2022年当別中へ統合し、当別町立とうべつ学園(義務教育学校)へ)

※wikipediaより

 

「旧当別町立弁華別小学校」

開校:1892(明治25)年
閉校:2016(平成28)年
校舎:1937(昭和12)年竣工

当別町弁華別242

 

当時ダムカードを求めて当別ダムへ向かう途中でした
すごく素敵な学校を見て帰りに撮影しようと寄ったのが始まりで
まだレトロ建物に凝ってはいなかった。

 

その後にもう一度行き、細部まで撮影をしてきた
ぐるっと一周廻ることが出来る。

イチョウの黄色がやけに綺麗だった

 

 

2019年7月
2020年10月撮影

 

 

 

 

「旧当別町立蕨岱小学校」

開校:1911(明治44)年
閉校:2007(平成19)年
校舎:1958(昭和33)年

当別町蕨岱2315

 

当別町の農業地帯にあり廻りは畑が多い
前庭には柵があり近くには寄れないが、芝生を見るときちんと管理されているので活用しているのだろう

白ペンキの玄関はとても綺麗だ。

 

2020年10月撮影

 

 

 

 

「旧当別町立川下小学校」

開校:1905(明治38)年
閉校:2004(平成16)年
校舎:1956(昭和31)年

当別町川下755-10

 

ここも畑の中の学校だった
校舎は以前は転用していたようだが現在は?少し痛みが目立ってきており今後どうなるか

前庭は雑草が伸びてきている
玄関前まで行けるが、もちろん中には入れない。

 

2020年10月撮影

 

 

 

「旧当別町市立高岡小学校」


開校:1900(明治33)年

閉校:1990(平成2)年
校舎:()年竣工

当別町高岡1813-1

石狩市八幡にも旧高岡小学校があり、両校は近い位置にある
この高台一帯を高岡と呼んでいたのだろう

さて久しぶりの現存校舎である
しかも木造だ
隣に神社がありそこの境内からグラウンドを通して正面に校舎を見ることが出来る

 

開校から100年以上経っているので現校舎は何代目かの校舎であろう
体育館への連絡通路はすでに改修されており、体育館の窓も同様だ
ただ壁は木造のままだった

現施設の名前がある標識の裏を覗くと旧小学校の門と学校の表札プレートがあった!

 

木造部分の造りがいいなぁ


裏側から校舎を遠望すると体育館が正面にあり高台にある校舎が絵になった

 

現在は札幌の福祉施設が運営をしており、訪問時は建物の工事中であった
果たして木造校舎はどうなるのか?今後が気になります。

2021年10月撮影

 

 

 

「旧当別町立東裏小学校」

開校:1901(明治34)年
閉校:2008(平成20)年
校舎:1959(昭和34)年竣工

当別町東裏2796-1

 

当別町は廃校が多いが、現存している校舎も多い
中には放置せざるを得ない学校もあるが東裏小学校は家具関係の製作所に転用しているようだ

校舎は平屋で長く、廊下を見てみたい
平屋造りは敷地が広くないと出来ないだろう。

 

 

2020年10月撮影

 

 

 

「旧当別町立材木澤小学校」

 

開校:1915(大正4)年
閉校:1964(昭和39)年
校舎:()年竣工

当別町東裏2796-1

 

当別市街から外れ石狩方面へ向かう途中の枝道へ入る
本当にここに学校があったのだろうかと半信半疑で行ったら真新しい木造の建物があり
そこが小学校跡だった。
焼き物の工房のようだが、旧校舎の活用ではなく新築に見える
校庭のスペースは狭いので旧校舎もそんなに大きくは無かったのでは。

 

2021年4月撮影

 

 

 

 

「旧当別町立青山中央小中学校」

 

開校:1901(明治34)年
閉校:2000(平成12)年
校舎:1978(昭和53)年竣工

当別町青山奥

青山中央小学校の開校当初は「青山奥小学校(簡易教育所)」として始まり
同年にやはり同じ簡易教育所として「青山小学校」も開校している。

「青山小学校」

*当別町史より

当別ダムが完成し「青山小学校」は水中に没した。

 


中央小学校はダムのさらに奥地になる

この日は水没した旧道が顔を出していた

 

だいたい渇水季節にはこうなるらしい。

さてダム湖を過ぎると左手に学校校舎が見えてくる
少し高台に建てられており間近になると木々で見えなくなる。

校舎を見るのは3経路
まず手前の広場奥から ご覧の通り車は通れない

少し歩くとバックネット裏手に グラウンド側に出るらしい

 

そしてグラウンド超しに校舎が見えた

 

 

 

グラウンド隅に材木、校舎の前に砂利と建築資材置き場に使っているのだろうか
バックネット横にあった建物は潰れている(用具か更衣室か)

 

道路に戻り少し進むと登校路らしい ここはロープと立て看板が見えたのでストップ

 

 

さらに道路を少し進み藪が覆いかぶさる道を進むと体育館の裏に出た

 

 

 

 


2021年10月撮影

体育館のドアが開いていた もちろん進入しない
校舎側にも回れるが止める
さらに体育館の上部に行く道が続いているがここで引き返す。

小中学校だけに、この場所にしては大きな校舎である
ただ典型的な?機能とコストを重視した造りのようで魅力には欠ける。

 

現校舎の前に建てられた旧校舎は実に立派な木造校舎であったようだ。

段差が無くなり? 右側が解体された跡がある

 


素敵だなぁ
*閉校記念誌より

 

*当別町史より

 

 

 

 

「旧当別町立金澤小学校」

 

開校:1899(明治32)年
閉校:1989(平成元)年
校舎:()年竣工

当別町金沢


金澤小学校は明治期は初め分教所であった

国道275号線と平行に走りやがて合流する鉄北線沿いに学校がある
この鉄北線は医療大学やパンのノルトエッセン、またお洒落な住宅やギャラリーなどがある。

校舎は2002(平成14)年に取り壊されてすでに無かった
現在は個人の敷地であるが住宅なのか商用なのかは確認できなかったので奥の撮影は止めた。


レンガの門柱にはまだ校名のプレートがあった。

 

 

また裏手にはバックネットだけが残っていた
植物が絡みまくるこれもいつまで持つものか

 

付近には神社と消防施設がある




こういうのは初めて見た


2021年10月撮影

 

旧校舎

*当別町史より

 

 


木造校舎・廃校 旧浜益村の閉校①

2022-05-07 22:39:28 | 木造校舎・廃校

旧浜益村の閉校(小学校) 赤字はレポート済

  • 浜益村立浜益小学校〈初代〉(1963年群別小と統合し浜益中央小へ)
  • 浜益村立群別小学校(1963年浜益小〈初代〉と統合し浜益中央小へ)
  • 浜益村立幌小学校(1966年床丹小と統合し浜益北部小へ)
  • 浜益村立床丹小学校(1966年幌小と統合し浜益北部小へ)
  • 浜益村立浜東小学校(1972年黄金小へ統合)
  • 浜益村立実田小学校(1977年黄金小へ統合)
  • 浜益村立千代志別小学校(1979年浜益北部小へ統合)
  • 浜益村立尻苗小学校(1983年黄金小へ統合)
  • 浜益村立濃昼小学校(1992年黄金小へ統合)
  • 浜益村立浜益北部小学校(1999年統合により石狩市立浜益小学校〈当時:浜益村立〉へ)
  • 浜益村立浜益中央小学校(同上)
  • 浜益村立黄金小学校(同上)

中学校

  • 浜益村立黄金中学校(1951年石狩市立浜益中学校〈当時:浜益村立〉へ統合)
  • 浜益村立浜東中学校(1951年浜益中浜東分校となり、1954年再独立、1966年浜益中へ統合)
  • 浜益村立実田中学校(1951年浜益中実田分校となり、1954年再独立、1968年浜益中へ統合)
  • 浜益村立千代志別中学校(1966年幌中へ統合)
  • 浜益村立尻苗中学校(1951年浜益中尻苗分校となり、1954年再独立、1983年浜益中へ統合)
  • 浜益村立濃昼中学校(1951年浜益中濃昼分校となり、1954年再独立、1992年廃校)
  • 浜益村立幌中学校(1951年浜益中幌分校となり、1954年再独立、1999年浜益中へ統合)

※wikipediaより

 

 

増毛町から日本海オロロンラインを南下しながら
周辺の廃校をカバーして行きました。

 

「旧浜益村立千代志別小学校」

 

開校:1903(明治36)年
閉校:1978(昭和53)年
校舎:()年竣工

石狩市浜益区千代志別

 

千代志別は4月に大きな古民家を撮影してきた
残念ながらその建物はすでに跡形もなく、建物があったこと自体がすでにわからなかった。

千代志別小学校はそんな千代志別の一番山側の奥にあった
集落自体は日本海に面しているとはいえ両側がトンネルであり100メートルも面してはいないだろう。

川沿いに民家の間を縫って上流へ行くと行き止まりで左に橋を渡ると
正面に学校の敷地があった。

 


校門のプレートは無し

 


学校関係の建物のようだ 左手に記念碑があった
ただし草ボウボウだ

 

 

 

 


千代志別小学校閉校記念碑 とある

 


もしかして教員宿舎かも


校舎・校庭から海が見えたようだ。

2021年11月撮影

 

 

 

「旧浜益村立床丹小学校」



開校:1907(明治40)年
閉校:1966(昭和41)年
校舎:()年竣工

石狩市浜益区床丹


床丹小学校のある床丹の集落は千代志別と似ていて同規模に思えた
学校はやはり一番奥にあり緊急避難場所になっているのも千代志別と一緒。

ただこれくらいしか、ここに学校があったと思えるものはなかった
笹薮が侵出しているようでやがては全面が覆われそうだ。

ちょっと残念な思いで引き返す。



 

 

 

しかし、すぐ下の橋から通学路的な小道が石垣の端に見える


奥を見てみると ブランコの支柱のようなものがあった!
廻りは笹が深くて行く気になれないが
これは学校があった時に一緒にあったものだろうね。

2021年11月撮影

 

 

 

「旧浜益村立群別小学校」

 

開校:1880(明治13)年
閉校:1963(昭和38)年
校舎:()年竣工

石狩市浜益区群別


群別(くんべつ)は先の2集落に比べると大きいほうになる
その学校は国道からすぐ見える、おそらく町で一番大きな建物「石狩市浜益スポーツセンター」にあった。

その新しさから校舎はいったん全部解体して新築したものだろう
このように浜益地区は空知の炭鉱地区とは違い
海沿いのわずかな土地に漁港を作りニシンを獲ってきた。

ニシンがいなくなるのと炭鉱が閉山するのと人が居なくなるのは同じかも知れないが。

 


建物の左下に碑がある

 

 

 

 


*浜益村史より

 


センター隣の自治会館が趣のある建物だった。

2021年11月撮影

 

 

 

「旧浜益村立浜益中央小学校」

 

開校:1964(昭和39)年
閉校:1999(平成11)年
校舎:1964(昭和39)年竣工

石狩市浜益区浜益


学校は先の群別から石狩方向へすぐ近くにあり
国道を下ると海 という下りの途中にあるのでつい通り過ぎてしまった。

車は校門の下か、前庭まで乗り入れることが出来るようだが
ここは一度校門への石段を登ってみることだ。

門柱と左手にトーテムポール 左側に碑が並び、右手に体育館と雑草の校庭がある
その体育館が実に味のある意匠じゃあないか
あの小窓と外壁の質感が好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


*浜益村史より

 

2021年11月撮影

 

 

 

「旧浜益村立浜益尋常高等小学校」

 

開校:1878(明治11)年
閉校:1963(昭和38)年
校舎:()年竣工

石狩市浜益区浜益50-22

 

下の写真の通り門柱とプレートは道路を見下ろす形で
ネットにへばりつくように建っている
以前は階段があり校門の位置はここだったのかも知れない。

尋常小学校のあと、1951年から高校として使用され
2011年に浜益高校が閉校となった。

校舎は浜益中学校が移転して使用している。

 

 

 


*浜益村史より

 

 

 


*浜益村史より

 

 

 

 

2021年11月撮影

 

 

 

「旧浜益村立浜益中学校」

 

開校:1947(昭和22)年
閉校:2011(平成23)年
校舎:1973(昭和48)年竣工

石狩市浜益区川下141


浜益中学は昭和26年から、この川下の地にあり幾多の学校を統合している
やがて浜益高校が閉校になり2011年にそちらに移転した。

イメージでは浜益中学と言ってもここは川下
住民にしてみれば川下中学校にして欲しかったのではないか?
そんな意識が窓に貼られた文言に表れているとおもった。

校門は残るがプレートは無い
超えてすぐの住宅はかつての教員住宅かも知れない
校舎は一直線に伸びスマートな造りが遠くからでも見える
前庭、グラウンドと校舎の間を通りぐるっと1周が出来るように道がある

果たして一番遠い対面から見る校舎は
一見個性のないように見えるが奥に山を抱き、とても趣がある校舎ではないか
何か別の活用があればいいが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


*浜益村史より

 

2021年11月撮影

 

 

 

「旧浜益村立幌中学校」

開校:1947(昭和22)年
閉校:1999(平成11)年
校舎:()年竣工

石狩市浜益区幌

 

幌中学校も他の地域と同じように海の街だが学校は山側にある
学校は地域にとって重要な避難場所だからかな
平屋であるが他に高い建物がないのですぐに目に入る。

木造校舎が立派に残っていた
しかし、よく見ると玄関上にあったであろう庇が無い
ガラスが数枚割れていた
そして校舎から用具倉庫?へ続く連絡通路が崩壊している
倉庫側へは中に入れそうだがもちろん止める。

続く体育館だけはちょっとだけ新しいので改築したのだろう
1束の桜の木が見事に咲いており癒された。

隣の小学校と共同の碑があり閉校も同じだったようだ
珍しいが地方では過疎化により当然のことかも知れない
付近には教員住宅と思われる空家が数棟あった。

この木造校舎は朽ちるのを待つだけかもしれない。

 

2021年4月撮影

 

 

 

「旧浜益村立北部小学校」

開校:1965(昭和40)年
閉校:1999(平成11)年
校舎:(1965)年竣工

石狩市浜益区幌

 

北部小学校は幌中学校の道路を挟んだ東側にある
卒業生は必然的に古い校舎の幌中学へ進学をしたのだろう。

校舎は2階建てで昭和40年の竣工であり、廃校の中では新しいほうだ
元は「幌小学校」であったが床丹の学校と合併し北部小学校となった。

カマボコ型の体育館は健在であるが、ここも校舎との連絡通路が一部破損しており
ここから校内に入れるかもしれない(もちろん入らないし入ってはいけない)

建築物で目を惹いたのはお洒落な校門だ
幌中学と同様に教員住宅らしき空家があった
生徒はもちろんだが教師も廃校によって生活が変わるものだろう。

 

2021年4月撮影

 

 

 

「旧浜益村立濃昼小中学校」

開校:1897(明治30)年
閉校:1992(平成4)年
校舎:(昭和)年竣工

石狩市浜益区濃昼22-6

 

濃昼(ごきびる)は、近年は古山道が再び拓かれ登山ファンやハイカーなどで終末などは賑わっています。
さらに北上し、学校へは国道から標識に従い一旦左折し海へ向かって行きます
濃昼山道の入口のところで右に川を渡り、今度は山側へ走ると最奥に平屋の建物が見えてくる

これが濃昼小中学校で現在は個人の住宅として管理されているので門内には入らないほうが良いだろう

正面玄関の庇部分は残念ながら無くなったが校舎はほぼ現存しており、
季節柄、桜の花が綺麗だった。

 

2021年4月撮影

 

 

 

「旧浜益村立尻苗小学校」

開校:1894(明治27)年
閉校:1983(昭和58)年
校舎:(昭和)年竣工

石狩市浜益区送毛37

 

国道231号をさらに北上を続け、送毛の街を目指し国道を左に分けて海側に下る
送毛川の対岸に校舎らしき建物を見る

坂を上り学校敷地に入ったところで閉校の碑があった。
また手前の施設は改築されたようで外壁がきれいだ
隣に校舎棟、奥に体育館と思われる建物と教員住宅と思われる家がある

現在は宗教法人の道場として活用されており、敷地奥に入るのは止めた
尻苗地区があるのに尻苗小学校があるのは送毛地区です。

 

2021年4月撮影

 

 

 


木造校舎・廃校 小樽市の閉校①

2022-05-07 22:30:10 | 木造校舎・廃校

小樽市の閉校(小学校)

  • 小樽市立富岡小学校(1969年小樽市立稲穂小学校と緑小へ分割統合)
  • 小樽市立桃内小学校(1990年小樽市立忍路中央小学校へ統合)
  • 小樽市立堺小学校(2006年稲穂小と小樽市立花園小学校へ分割統合)
  • 小樽市立量徳小学校(2012年花園小と小樽市立潮見台小学校へ分割統合)
  • 小樽市立祝津小学校(2013年小樽市立高島小学校へ統合)
  • 小樽市立若竹小学校(2013年潮見台小と小樽市立桜小学校へ分割統合)
  • 小樽市立色内小学校(2016年北手宮小、手宮西小、手宮小と統合し小樽市立手宮中央小学校、小樽市立長橋小学校、稲穂小へ分割統合)
  • 小樽市立北手宮小学校(2016年色内小の一部、手宮西小、手宮小と統合し手宮中央小へ)
  • 小樽市立手宮西小学校(2016年色内小の一部、北手宮小、手宮小と統合し手宮中央小へ)
  • 小樽市立手宮小学校(2016年色内小の一部、北手宮小、手宮西小と統合し手宮中央小へ)
  • 小樽市立天神小学校(2018年小樽市立奥沢小学校へ統合)
  • 小樽市立最上小学校(2018年)
  • 小樽市立緑小学校(2018年入船小の一部、最上小と統合し山の手小へ)
  • 小樽市立入船小学校(2018年奥沢小、花園小、山の手小へ分割統合)
  • 小樽市立豊倉小学校(2020年小樽市立朝里小学校へ統合)

 

小樽市も古い都市で、人口の減少が止まらず学校の統合による閉校が増えている

今後もその可能性が高い町だ。

 

 

「旧小樽市立豊倉小学校」跡

 

開校:1912(大正元)年
閉校:2020(令和2)年
校舎:1972(昭和47)年竣工

小樽市朝里川温泉1丁目23-1

 

豊倉小学校は地理的には札幌寄りの朝里川温泉地区になる
南北に長い温泉地区の手前側になるだろうか
ちょっと先の頭上には開通した高速道路がある。

一応住宅街の一番奥にあたるが廻りは森でヒグマが出る場所だ
よくここに毎日生徒も先生も通ったものだ
私なんぞはビビッて体育館の奥まで行けなかった…


小樽市は北海道でも古くから栄えた町なので学校も歴史ある学校が多い
豊倉小学校は朝里地区で創立から100年を超えて閉校した
この辺の土地名が以前は豊倉だったために付いた校名だ。

校舎は可愛らしいが体育館は堂々としている
後から改築したのかも知れない

校庭には遊具が残り、校門のところに手作りのような校名表記がある
「とよくら」の横に描かれているのは学校の略地図かな
なんとも微笑ましい学校です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年9月撮影

 

 

 

「旧小樽市立若竹小学校」跡

 

開校:1926(昭和元)年
閉校:2013(平成25)年
校舎:1972(昭和47)年竣工

小樽市若竹町22


若竹小学校は札幌寄りにあり、高台と坂が多い街の中に建っている
校舎は何代目かわからないが、閉校年から8年しか建っていないのに劣化が目立つ気がする。

在校生は潮見台小学校と桜小学校に通うことになった。

正門はすでに草木に覆われ入口にはがっしりと立入禁止
工事現場で使用するような柵なのでもしかしたら解体の可能性もあるかも…

地形により学校を望めるのはこの角度だけのようだ。

戦後、米駐留軍による同校の使用などあったそうで
何故、若竹小学校が選ばれたのか興味深い。

 

旧東山中学が「教育委員会庁舎」となり3階に閉校記念室として
「東山」「石山」「住吉」の3中学校と「量徳」「若竹」の2小学校の思い出の品々を展示している。

無料で閲覧できるが職員の業務の都合があるので電話をしてから行くべきかな。

 

 

 

 

 

 

 

2021年9月撮影

 

 

 

「旧小樽市立天神小学校」跡

 

開校:1934(昭和9)年
閉校:2018(平成30)年
校舎:1979(昭和54)年竣工

小樽市奥沢5丁目3-1

 

天神小学校は80年続いた古くからある学校で
奥沢や松ヶ枝から合流し、坂を登って行けば望洋台や赤井川村へと繋がる道にある

また海方面に向かえば小樽潮陵高校や龍徳寺に出て国道5号線にも繋がる。

校舎の正門にはしっかりと立入禁止処置がなされている
だが写真の通り進入は容易だが止めよう。

正門側をちょっと離れて見ると木々の間から校章が見えた
葉があるうちは綺麗に撮れないが仕方がない。

坂側からは体育館と校舎が見える
こちらも立入禁止処置である

1階の窓にはベニヤが打ち付けており対策が講じてある
4階建ての校舎は堂々としておりいかに以前は生徒が多かったかを物語る。


閉校年の2018(平成30)年は「最上小」「緑小」「入船小」とともに閉校になった
いずれも歴史があり多くの卒業生を輩出した学校である。

このうち、「最上小」は松ヶ枝中学の新校舎として活用され
「緑小」は解体された 
「入船小」も土地転用のため、この10月から解体が始まった。


果たして「天神小」は?
小樽の地元有名ブロガーさんの情報で

「小樽市は旧天神小学校の建物に、市の清掃事業所と事業内職業訓練センターを移転させる方針を示したということで、移転は2023年度を予定しているとのことです。」

これから説明会を経てから正式決定だが
OBもまずは一安心でしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年9月撮影

 

 

 

「旧小樽市立松ヶ枝中学校」跡

開校:1957(昭和32)年
閉校:2020(令和2)年
校舎:1992(平成4)年竣工

小樽市松ヶ枝2丁目4-1


松ヶ枝中学校は昭和32年開校でやはり小樽にしては新しいほうだろう
現在の校舎は2代目であり、当初は木造の校舎だったと聞いた。

坂の町小樽でも最も高い場所にある中学校のようで、なるほど下町からの通学は疲れたろうなぁ
その替わり下校は楽しいね

 

この日は実は2回目のチャレンジで
実は数か月前に行ったときは坂の下でロープが張っており立ち入り禁止だった

旧最上小学校に行ったので何気なくついでに坂を上って行くとロープがなく
グランドで少年サッカーの練習をやっていた。
校舎前の駐車スペースは父母の車がたくさんいたが一角に停めさせていただき
父母とは反対の校舎の撮影をした。

市中心部へ向けての全面ガラス張り校舎は見事であった
体育館が見えなかったのは砂利があるので奥まで行けなかったからだろう

重機が1台と積まれた砂利を見て、解体が近いのかなぁ?
いや、何かの整備だろう

 

スキー授業のときは履いたまま滑って帰ったという坂道から小樽の港が見えた
今日はツイていたなぁ

 

校舎は旧最上小に遷ったのに、これはこのままだった

 

2021年9月撮影

 

 

 

「旧小樽市立最上小学校」跡

開校:1952(昭和27)年
閉校:2018(平成30)年
校舎:1986(昭和61)年竣工

小樽市最上1丁目31-1

 

最上小学校は天狗山に向かう坂道の道路沿いにあった。
最上町といえば山の方で天狗山、最上公園、そして小樽市の火葬場などがある町

学校は1952年の開校と歴史ある町、小樽にしては新しいほうだ
開校当時の校舎は現在のグラウンドのある場所で、建て替えを機に校舎とグラウンドの場所を取り換えた。

現在残った校舎は、より古く近くの高台にあった「松ヶ枝中学校」に代わった。
在校生は新築された「山の手小学校」へ、同じく閉校した「入船小学校」「緑小学校」の生徒たちと通うことになった。

 

まだ新しくどっしりした外観の立派な校舎
正面にあった校章の跡だけが、以前は別の学校だったのだなと思い出されることだろう。

 

2021年9月撮影

 

 

 

「旧小樽市立富岡小学校」跡

 

開校:1901(明治34)年
閉校:1969(昭和44)年
校舎:1901(明治34)年竣工??

小樽市富岡1丁目5-12


富岡小学校は、あまり例のない学校のようだ
学校があったのは現在の保健所、医師会館、福祉センターの場所です

医師会館




福祉センター

 

現地に行けばわかるが、グラウンドを挟んで隣に稲穂小学校がある
つまり小学校が2校並んで建っていたのだ。


左が富岡小学校側の福祉センター 中央・右が稲穂小学校のグランドから校舎へ続く

 

元々は稲穂小学校が先に竣工し、その後に富岡小学校が出来た
もっとも最初から富岡小学校ではなく「女学校」として建てられた
男女一緒の学校で勉強が出来ない時代が確実にあったのですね。


福祉センターも中々味のあるファサード
小学生のころ、ここに卓球をしに来たのです 懐かしいなぁ




戦後に、女学校は「富岡中学校」になる。

しかしそのわずか10年後の1957(昭和32)年に児童が増えたため「富岡小学校」となった
閉校する1969(昭和44)年まで富岡、稲穂と二つの小学校が隣合わせだった

グラウンドのない富岡小学校の運動会は小樽公園のグラウンドを使用したらしい
(体育の授業はわからぬが)

 

まぁそういう奇妙な?形はよろしくなく閉校したようだが
住所は富岡なのだから富岡小学校を残してもと思うかな。

在校生は稲穂小学校と緑小学校に転校したが稲穂への転校は場所がほぼ同じな転校であった。

現地に閉校の碑等は見ることは無かったが保健所の中とかに
その痕跡でもあればいいな

 

*当時の写真は同窓会様のFBよりお借りしました

2021年9月撮影

 

 

 

 

「旧小樽市立緑小学校」跡

開校:1920(大正9)年
閉校:2018(平成30)年
校舎:1971(昭和46)年竣工

小樽市花園5丁目2-4

 

改めて知ったのは緑小学校の住所が緑町ではなく、花園町なこと
確かに真上には小樽公園があるので花園なんだなと納得。

さて緑小学校は大正9年尋常小学校から始まる歴史のある学校であった
多くの卒業生を出し、閉校時の校舎も鉄筋コンクリート3階建てである
残念ながら解体年は昨年であり興味を持つ前であったのが悔しい。

すっかり更地になった奥の真ん中に植え込みの島があり
それを囲うように入口からL字型の校舎だった
私が覚えている緑小学校はまだ木造校舎だから何十年前のことだろう

門柱には校舎のプレートも外され学校があった証が無いと思ったら
そばに石碑があり、その裏に緑小学校父母と教師の會と刻んであった。

在校生は新築された「山の手小学校」で同じく閉校になった最上小学校と入船小学校の生徒と
クラスメートになっている。

 

 


*2015google ストリートビューより

 

2021年8月撮影

 

 

 

「旧小樽市立堺小学校」

開校:1902(明治35)年
閉校:2006(平成18)年
校舎:1992~(平成4~7)年竣工

小樽市東雲町9-12


旧堺小学校に最初に訪れたのは昨年で
旧寿原邸の内部見学に訪れたときの駐車場が堺小学校の校庭であった。

門柱にプレートこそないが立派な校舎と石碑がある
校舎は3方向に延びる形で三笠市役所と少し似ている
玄関は校庭側と裏側にもありそちらが正面玄関のようで校章もそのままなのが嬉しい

大変歴史のある学校で途中に中学校に一時なったので小学校としては98年の歴史であったが
学校としては100年を超えた歴史だ

石碑には「北の学習院」と彫られている
小樽は当時北海道の商業の中心地であり全道はもとより本州からも経済界などの住宅が出来
その子弟が多く通ったことで名門学習院と称された。

場所も港を見下ろす高台にあり、上部に水天宮、旧寿原邸、近くに旧板谷邸などの旧家も多い

現在は小樽市のいくつかの団体が活用しており当分は校舎も安泰であろう。

2021年8月撮影

 

 

 

「旧小樽市立東山中学校」

開校:1947(昭和22)年
閉校:2002(平成14)年
校舎:1981(昭和56)年竣工

札幌市花園5丁目10-1

 

東山中学は、比較的近くに別の中学があり廃校になっても他よりは生徒もましだったかも知れない
幸いにも市の教育委員会の庁舎として活用されており、取り壊しをされずに済んだ。

正面玄関には校章と校名の跡が残り寂しさを感じる
中は古さはあまり感じず、やはり木造校舎とは違う
体育館も新しくスポーツ施設として使われているようだ。

前庭はあまり広くなく現在は駐車場に活用
すぐ上に小樽公園と桜が丘球場があり、校舎へ向かっての斜面は冬のスキー授業として使われた。

ちなみに田上義也設計の「坂牛邸」も校門横の細い坂を登り切ったところにある。

 

 

閉校記念室は「東山中学」のほか、「石山中学」「住吉中学」「量徳小」「若竹小」の
校旗、卒業アルバム、周年記念誌、記録写真など、思い出の品々を展示しています。

この日は突然行って見学させていただいたが、職員の方がずっと立ち会っているので業務の邪魔をして申し訳なかった
電話してから行くべきですね。

 

残念ながら現在はコロナのため4月から、しばらくお休みとのこと

まだまだ色んな展示があった
他の学校分は随時紹介します。

 

大きな学校であった 体育館は校舎と山に囲まれている
もっと古い写真では校舎は写真の左、草のない箇所にあったらしいが火事で焼失したとのこと。

 

角を挟んで同じ意匠です アーチ型が実にお洒落に見える素敵な外観だった
生徒玄関が左側に見える。

2019年5月、2020年6月撮影

 

 

 

「旧北海道小樽商業高等学校」

開校:1913(大正2)年
閉校:2020(令和2)年
校舎:2002(平成14)年竣工

小樽市緑3丁目4-1

 

北海道小樽商業高等学校は大正2年創立の伝統ある学校で、何度か名前が変わったり「科」が増えたり減ったりであった
特に商業科は当然として、いち早くコンピューターの勉強をする情報処理科は当時としては珍しいかと思う。

校舎は木造2階建ての校舎から順次鉄筋コンクリートに改築され現在に至る
過去の写真を見ると、非常に複雑な校舎に見えた。
またプールも作った時は珍しかったのではと推測する。

令和2年に、小樽工業高等学校と合併し「北海道小樽未来創造高等学校」となった。
校舎は小樽工業高校を使用し、この校舎は国立小樽海上技術短期大学校が使用して廃校を免れた

まだ充分に使える校舎なので大事に使ってほしい。

 

*撮影は統合による廃校が決まり、閉鎖される前に急いで行った。
「小樽商業」を表示するものはもうない。

 

 

坂の途中にあるため、このような独立した施設もあり 何の施設かは分からず。道場?

 

以前はここに生徒用のスロープがあった。

以前の生徒玄関はもっと海側にあり、写真のようなスロープが長い間利用されたが
新校舎になり玄関が変わるとスロープは無くなり入口は最奥になった。

 

 

昭和53~54年当時の生徒玄関
右に旧校舎、奥に新校舎、その右隣に新校舎の二期工事中の珍しい写真。

 

2019年5月撮影