9月30日の日曜日は、いわき市で伯母の葬儀があり、妻と息子と3人で出かけた。
郡山市を早朝に出発。葬儀の後は、いわき市内にある実家に寄った。母が翌10月1日から入院するので、励まし、というか、あいさつがてら。
伯母の葬儀は、母にとっては実の姉の葬儀ではあったが、前日、通夜に出て疲れて体調を崩してしまったので自宅で休んでいたのだ。
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「思ったより元気そうだ」と励ましてはみたが、やはり顔色は優れなかった。父親の墓前に、母の無事をお願いして、帰路に就いた。
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夕方郡山着。自宅で妻と息子をおろし、福島の単身パートに向かった。
できれば家族で過ごして、翌朝早く福島に向かいたかったが、大型の台風17号が本州上陸しており、月曜日朝の出勤への懸念があった。仕事もたまっているので、夜は一人で仕事をしたいとも考えていたからだ。
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前の晩、日曜日のうちに単身アパートに行ってしまうことに関して、息子にごねられた。
「お父さんと遊びたいのに、どうして日曜日に帰っちゃうの? 月曜日の朝に出かければいいじゃない!」
息子自身、日曜日のうちに私が出発しなくてはいけないことは理解している。しかし、週末の父親との時間を楽しみに5日間の母親との二人だけの生活をこなしているので、ついつい、ごねずにはいられない。
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この日は、すでにあきらめてくれていて、「いってらっしゃい」と言ってくれた。
「毎日お父さんと一緒にいたいのに」。現在、小学3年生。あと何年、こんなことを言ってくれるだろうか?
「無理をしてでも、どうしてもっと一緒に過ごさなかったのか?」。きっと、あと何年か後には、そう後悔しているだろう。
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伯母の葬儀で久しぶりに顔を合わせたいとこ達、姪っ子や甥っ子たち。あす入院する母親、母親を一人で世話してくれている姉…。
「もっと、時間を共有しておくべきだ」と思う。が、結局、現在の仕事を優先してしまう。
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自分が身を置くコミュニティと仕事。このふたつをもっと接近させることが、現代を生きるすべての人の幸福につながる、と思う。
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葬儀に参列するたび、人の「死」に接するたびに、よりよい「生」について考える。このところ、そんなことが多くなった。
キーワードは、同じ時間の共有だと感じることが多くなってきた。
「一緒にいること」
震災後、手垢まみれになった「絆」という言葉は、ぜひ避けたい。もともと押しつけっぽい。
「一緒にいること」こそ「つながり」なのだ、と思う。
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