アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

学童保育

2010-06-10 | Weblog
 月曜日(7日)、仕事が早く済んだので、午後6時に息子を小学校に迎えにいった。


 いつもは、学童保育の締め切り時刻である午後6時30分ぎりぎりまで息子を預かってもらい、これまた時間ぎりぎりに、妻が迎えに行っている。


 この日は、いつもより30分も早いお迎えである。息子は大喜びするはず、と思っていた。保育園時代などは、予想外の早いお迎えのときには満面の笑みを爆発させて私めがけてダイビングしたものだ。



 特段の反応を見せなかった。


 学童保育の指導者が私が来たことを伝えると、息子は淡々と帰り支度をし、淡々と指導者にあいさつをし、淡々と教室を出ようとした。


 帰り際、息子が教室を出る前のタイミングを見計らって、指導者が私を呼び止めた。

 「友達とふざけて困ります。けんかをするときもありますし、家で言い聞かせてください」


 ?


 少し間を置いて「はい」と答えた。

 が、釈然としない。


 授業中にふざけたり、けんかをしちゃ、もちろん、いかん。だが、放課後である。友達とふざけたり、ふざけたり遊んだりしているうちにけんかになって、何か不都合だろうか?


 むしろ、させておくべきではなかろうか? 私が変なのかなぁ?


 息子の無反応ぶりは、どうやら、学童の指導者の前では、淡々として行動することが求められていると学習したためらしい。


 きょう(10日)、「学童保育」をキーワードにネットでいろいろと見てみた。


 なるほど、さまざまな事情があるらしい。


 まず、学童保育には、行政の支援を受けている場合とそうでない場合があるらしい。行政の補助のある場合であっても、おおむね運営資金に苦労しているらしい。

 正規の教育機関ではないので、指導者の報酬は低く、どうちらかというとボランティア的な要素が強いようだ。だから、指導者が何がしかの課程を経て資格を得る必要もないらしい。


 子どもを預けている側としては、教育の場であってほしい。

 が、預かっている側としては、教育の場という認識は希薄で、あくまでも、「親がいない間、面倒を見てあげている」ーという認識のようだ。


 ヒトの成長には、経験は不可欠である。生まれて間もない頃は、経験によって刺激を受けて脳を発達させ、さらには身体の能力までも高めていく。言葉を聞くという経験からスタートして話す能力を獲得し、やがては、相手の表情を見ることで相手の心理状態をも読み取れるような心までをも研ぎ澄ませる。対立しあうことで妥協点を見出す能力を得ることもできる。


 子どもの生活の中で、遊び、ふざけ、けんかなどは、成長のために不可欠な栄養ではないかと思う。けんかは、他者との交渉、交流、共存のために経験しなくてはいけないことだ。ふざけたり、けんかさせることを封じるのは、教育の放棄とさえ言えるのではないだろうか。

     ◇


 「子ども手当」の支給が始まった。

 子育て環境の劣化を原因の一つとする少子化は、大きな社会的課題だ。だが、選挙対策としてひねり出された「子ども手当」などという実効性のない策に巨費を浪費するような余裕が、いまのこの国にあるのか! 

 教育の現場、子育ての現場を見てほしい。母子家庭への支援、待機児童対策の施設の増設、学童保育への補助拡充など、選挙とは切り離した、実効性のある策を考えてほしいものである。巨費を回すべき策は、もっと優先すべきことがたくさんあるはず。「子ども手当」のような国民の一時的なご機嫌取り政策は、民主党は依怙地に強行すべきではない。

 ゲンバせんせい、いろいろ期待されているようですけど、まずはゲンバを見てネ。
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