『戦火のかなた』 Paisan (伊)
1946年制作、1949年公開 配給:イタリーフィルム=東宝 モノクロ
監督 ロベルト・ロセリーニ
脚本 ロベルト・ロセリーニ フェデリコ・フェリーニ セルジオ・アミデイ他
撮影 オテロ・マルテッリ
音楽 レンツォ・ロッセリーニ
主演 フランチェスカ … マリア・ミキ
フレッド … ガイ・ムーア
アメリカンMP … ドッツ・M・ジョンソン
カルメラ … カルメラ・サツィオ
この映画は第二次大戦で連合軍に降伏後したものの、ドイツ軍に占領されたイタリアの戦火の記録となっていて六つの挿話
によって描かれています。
〔第一挿話・シチリア〕
連合軍のシチリア上陸の際、海岸近くの村へアメリカ軍の斥候兵が現われて村落の娘カルメラと親しくなる。斥候兵はカルメラの
案内でドイツ軍の潜む城砦に出向いたが、斥候兵がカルメラに故郷の写真を見せようとして暗闇の中でライターに火をつけた
ために居場所を知られて二人はドイツ軍に射殺されてしまう。
〔第二挿話・ナポリ〕
連合軍が北上しナポリが解放された。ごった返す人々の中でナポリの少年がアメリカ黒人兵の靴を盗む。数日後に黒人兵が
靴泥棒の少年を発見し、少年の住家に案内させた。黒人兵はそこで戦禍のために家を失って惨めな生活をしている人々を見て、
少年の罪を許すことにする。
〔第三挿話・ローマ〕
連合軍がローマを開放した時に、アメリカの戦闘兵たちを自宅で歓待してくれた良家の清純な娘のフランチェスカは今では
生活のために娼婦になっていた。アメリカの兵士の一人はフランチェスカに再び会いたいと思っていたのだが、夜の町で
フランチェスカに声をかけられてその想いは儚くも失せてしまった。
〔第四挿話・フィレンツェ〕
連合軍は更に北上するが、フィレンツェではイタリアのバルチザンとドイツ軍との間に市街戦が繰り広げられている最中である。
野戦病院の看護婦とのアメリカ婦人ハリエットは戦前恋人であったギイドという画家の行方を捜していたが、ギイドは今では
パルチザンの頭となっていたものの重傷を負っていた。ハリエットは銃撃戦の中で適弾に倒れ、ギイドも亡くなってしまった。
〔第五挿話・フランシスコ派僧院〕
フランシスコ派僧院に三人のアメリカ従軍牧師が現れて宿を求める。牧師たちはカトリックとプロテスタントとユダヤ教で、
それぞれ宗派を異にしていた。教義上頑固な僧侶たちは、二人の異教徒がいるのを知ってもてなしに困惑する。
〔第六挿話・ポオ河〕
1944年の冬、ポオ河の沼沢地帯ではバルチザンとイギリス特務機関がドイツ軍に対して激しい戦闘を繰り広げていた。
しかし、バルチザンの一隊はドイツ軍艇の捕虜になってしまった。翌朝、捕虜たちは手足を縛られ次々とポオ河へと突落される。
イタリアが連合軍によってドイツから解放されたのはその数週後であった。
戦後まもなく、歴史的なネオ・リアリズモが登場しました。ハリウッドが華麗で夢物語的な完全娯楽作品を量産する一方で、
戦禍にまみれ廃墟と化した祖国の恥部ともいえる現実を冷淡に直視したイタリア作品が制作されます。
単純なペシミズムとは一線を画する悲劇の実録であり、映像が時代の証人となり、ここにイタリアン・リアリズムの誕生です。
これは世界映画史上最大の衝撃となり、真の映画作家たちが映画の使命を再認識して、さらなるリアリズム芸術の追求が
加速するきっかけになりました。
その先鋒となったのがロベルト・ロセリーニの『無防備都市』、そしてこの『戦火のかなた』でした。(註・日本では公開順が逆)
ロセリーニは、映画は夢物語に終わってはならないし型にはまった偶像話はありえない、映画は生きる時代の現実の社会や
人生の目撃者・報告者・証人でなくてはならない、という信念のもとに、モンタージュによる現実の歪曲を極力避け、あえて
荒れた画調で祖国の生々しい傷あとを直視しながら戦いの再現を求めてイタリアを縦断していきました。
六つの挿話は連合軍の北上という時間的契機で結ばれていますが、その内容としては個人的な問題から集団的問題にと
進められており、即興的な演出であるがゆえに戦争による悲壮感を巧みに導き出しています。
また出演者が素人であるために劇以上の真のドラマとなり、物語の映像化ではなく一つの事実を表すことによってさらなる
感動を呼ぶ作品に仕上がり、廃墟の中から輝きだした偉大な啓示となりました。
ちなみに原題の"Paisan"は「仲間」や「同胞」という意味です。