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ここでの体感を文章作法の基準にできる

 第77期文演(21/7/10~21/10/2)アンケートからです。

  きょうは、薬剤師のMさんです

 クリエイトには、再入会です。

 一度目は大学生のとき。

 今回は、お父さんとして小5と小3のお嬢さんと一緒に片道3時間弱の他県からです
 



   Mさんの文演アンケート


Q.1 当講座をどんな目的で受講しましたか?
A.1 
自分のこみ入った考えを書いてまとめたいと思っていたが、上手くいっていなかった。テーマが大仰(「まだ見ぬ存在も含めた万人に適応する認識指針」みたいな内容)なので仕方ないが、書き出しでつまづき、書き始められたと思えば内容が散らかるという具合で、悩んでいた。

 文章を書くにあたって、拠り所になる指針を欲していた。クリエイトのブログを見て、イチからの作文でなく要約ベースであること(とはいえ、授業では書く作業をしないとは思わなかった)、それも、文章の悪い要素を特定できるようになるための訓練がメインであるらしいことがとても興味深く感じられ、参加を希望した。

 要約とは「読解ベースの記述」だと想定されたが、これだけの速読プログラムを作り、実践で磨きあげた松田さんがどのような話をしてくださるか楽しみという面も大きかった。実のところ、講義というより、ゼミ的な対話を通して受講者の非顕在意識領域から引き出す工夫がたくさんあった。以下、受講前の視点という時系列からはズレてしまうが、雰囲気や空気から読み取って参加を決めただろう要素について、後知恵込みで書いてみることにする。端的にいえば、結果として想定以上のものが得られたのだ。そもそも想定以上のものがありそうだと予感して参加したにも関わらずである。要点としてはそのように書くほかないが、いまの自分なりにもう少し噛み砕いてみたい。

 この文章演習講座、ただ単に素晴らしい情報がインストールされるというものではなく、「読解」という受講生各人に内在する要素、文章共有に由来する「校正」プロセスから掘り下げ自分の感覚に融合されていくという段階に最初二回が割り当てられており「自ら獲得した」と非顕在意識が認識するに足りるように構成されている。これにより借り物ではない「自分ごとの感覚」として刻まれるという、たいへん得難い内容になっている。

 最初から一貫して、そして松田さんの問い、語りかけは時間をかけて受講生に負荷をもたらす。三回目以降では受講生各人や場のキャラクターが徐々に共有されてくることもあり、より重い負荷が相互フィードバックして学習効果につながってくるのを実感できる。実際、場をともにする受講生とのやりとりを、まさに我が事のような臨場感で経験できるセッティング、誘導はほんとうに見事だ。たとえばトレーニングジム等で凄い人のやり方が自然とコピーされるというのは、かなりの運とセンスが必要だが、文演では松田さんが誘導してくれるので、参加者は全力で乗っかればそれで良い。少々の暴走や筋違いは、沈黙や空気感含めていなしてくれるだけでなく、後々のフォローとしてシッカリ入るので安心してサンドボックスとして遊んでしまえばよい(もっとも、こちらとしては、元々想定されていた構成なのか、追加の個別対応なのか知るよしもないけれど、そこは重要ではなくて、全体で回収してくれている、それだけ懐が深かったという事実を述べるにとどめる)

 そうした身体性を伴う古きよき稽古事的なデザイン、ポリシーを受講前からそれとなく感じていたのも受講目的のうちに入ると、わたしは考えている。非顕在意識における目的というのは、表面化されたり自覚的になされた目的と同程度以上に重要性が高いものだが、非顕在というだけあって意識が向きにくいので忘れられがちだ。もともとヒト認知は時系列を厳密に反映しないデザインであることもポイントである。ざっくりいえば、あらゆる記憶へのアクセスを含めた思考や想念なるものは、今ココで生成されるネットワーク様態だという理解だ。

 二十年前は、文演講座はあくまでも司法試験受験者向けで、自分は対象外だろうと勝手に思い込んでいたのだと思う。もともとクリエイトへの再来訪は子どもを通わせることが目的だったが、結局のところ自分が一番楽しみ、恩恵を受けている。文章として外部化された思考想念はある種の自己完結性を持ちひとり歩きする。言葉というカタチを得ることに伴う、リスクにもメリットにもなる特性だ。

 自らの手を離れた文章は、読解スキルで吟味、フィードバックして手を加えることで磨き上げることができる。その臨場感レベルを実践を通じて高めていけるのが、クリエイト松田さんの文章演習講座だ。書くことと読むことの根幹を詰めるという得難い探究を、安心なサンドボックスで腰を据えて取り組むことができる。考えてみれば、もとより読解と記述は両輪であり、どちらかだけでは思考の向上は限定される。ならば本講座は「より良い思考を求めるすべての人が対象」なのだと、今ではハッキリ断言することができる。


Q.2 「文演」を受講して文章への印象で変わったことがありますか?
A.2 
今回の課題提出を通して「パラダイム採択」の観点が得られた。これは要約の機能と目的から逆算的に得られた体感覚だ。もとより読書は、要約を目的としてのみなされるものではない。誤読含めて、手前勝手に解釈する自由というか、余地がある。しかし、超オーソドックスな理解という担保なしに、真に有益な読解は難しい。実力に直結する超オーソドックスな読解とは、要約ベースのスキルである。まずは校正的な要素から導入し、悪い文章がどのように悪いのか理解して、段階を踏んで、一見整った文章やさらにその上の文章への批判的吟味の力を養っていくという構成は、凄まじいものがある。

 凄まじいといっても、授業風景そのものは地味に見えるが、終わってみれば皆実力が向上している。各人の到達レベルが、課題の要約を共有するという文演講座のデザイン上、あらわになる。それがきわめて高い再現性があるというのは凄まじいというより他にない。大抵の文章講座では、非顕在意識にここまでのフレームは作りあげられないだろう。思えば、整合的な最小構成を目指す「要約」だからこそ、さまざまな試行錯誤や工夫が生じる。

 そして、意識せずやってしまいがちな失敗を具体的に識別していく訓練は、文章感覚の更新に効果抜群だった。文章感覚や作法の更新とは、雲をつかむような課題に思える。しかし講座ではフワフワした説明が全くなく、自らの文章作法セオリーを書き換るという臨場感が強烈に形成される。とはいえすぐにひとりで完璧にできるというものでもない。将棋の手筋や戦略を見て、すぐには独力で再現できないことが多いようなものだ。しかし、確実に基準参照点の感覚値は上がっており「なにか違う」と違和感を覚られることが確実に増えてきている。また、基本的なマインドセットの部分でも大きく変わった。改めてほんとうに色々考えることができた。断片的だった文章観が統合されはじめてきた感じがする。

 「書く前の事前準備が大切」というのも、所作のポイントとしてならば得心がいく。そもそもいかなる場合にも完璧な知識などあり得ない。だから所作は大切だ。内発的な真摯さ、制約の中で本質を貫き続ける意図は所作に反映される。それが常に誤解なく読み解かれるとは限らないが、手を抜かず丁寧によりよく生きるとはそのようなものなのだろう。個人の信念、幸福感に関わる重要ごとといえる。そうなると、「根幹的な常識」であるところの、人間性とか価値観はおさえる必要が出てくる。おそらくここを突き詰めると真にグローバルな礼節や配慮になる。これは書くことだけでなく、生きること全般に通じるグランドセオリーにつながると思われる。

 Mは常識がない。と何度目上から言われたかわからないが、いまは心からそう思う。以下、現時点でわたしが抱いている文章の印象を書いてみる。

 ・文章はシステムであり、言葉はその構成要素。さまざまなレイヤーから読解されることを踏まえ、パラダイムに関して自らの責任をもって採択する。

 ・文章は、自己完結的に機能するシステムとしてひとり歩きする。とくに「活字」として世に放つにあたっては、影響性とフィードバックは出るものと心して生み出す。

 文章の機能としては主に

 ・他者の説得のため

 ・自らに内在する概念を脱構築するため
 
 であるが、「今ココの自分自身」も、「将来の自分」にとっては他者であることを踏まえ、文章をのこすようにしたい。再現性を意識した文章であれ、ということだと考えている。文章については、機能から逆算された品質管理をすることが肝要だ。

 
Q.3 宿題の「要約」はどうでしたか?
A.3-1「授業前」
要約というからには、論の骨格部分に関して主題をもとに再構築するのが大前提である。よって要約というものを単純に、少ない文字数で文章全体の内容が再現できれば良いと考えていた。これは暗号の延長線上であり、いわば漢文に近いものにすることで圧縮率が高まり、それこそ要約であろうと単純に考えていた。つまるところ、情報量の高い漢語の最適配置のスキルが最終的に問われる要素なのだという印象だった。この際、読み手にとっての良し悪しという観点が欠落していた。暗号として圧縮されエントロピーが小さくなる分、復号に要するリソースが大きくなるのは当然のトレードオフだと思っていた。

 一度目の提出直後、原文より固いのは望ましくないこと、改善の余地があることを松田さんに具体的に示唆され、そこから要約のスタートラインにはじめて立てた。記述すること、伝えることに関するわたし自身の基準参照点が大きく変更された。また、課題文の内容も自分にとってピッタリだった。まさに芸術家ぶっていた自分を見つめ直すことができたのは、それだけでもとても大きな成果だった。最終回が楽しみ。

 自分なりの考えだが、課題文を要約することと、頭のもやもやした想念を言語化することは抽象概念操作という大枠で共通する要素が少なくないと思われる。たぶん頭の使い方として対応する部分が多くあるのだろう。そう考えると、思考というのは、いわば「想念の要約」なのだ。言葉や文章という形式によってカタチを得ること、モヤモヤしたカタチにしきれない要素を含んだ意味解釈、このふたつを往復するという点で、文章の要約と思考の整理は一致する。ゆえに、文章のテクニックというのは、まずは土台となる意識状態の働きを妨げず整理を助けるだけの制約たる「形式的指針」をキッチリ押さえるところに立脚すべきなのだ。

 現行国語教育でありがちな、ただ単に「自由闊達に書け」と突き放すだけで世間の評価に投げ出すのは虐待に等しいことがわかる。多くは文章や表現を自由に行うことに対する不安感を助長させ、そして必要な恐怖心を麻痺させる。この弊害は、昨今の情報化社会においてリスクをきわめて大きなものとさせる。「世に出る活字と、日常における身内のやりとり」この境界が曖昧になるだけでなく、もはや透明なガラス張りに近くなってきているのは、昨今のSNS炎上や昔の言動の掘り起こしによるトラブル事例を見れば明らかだからだ。また、要約には受講生各人の価値観が表れていて、とても面白い。まさしく「どう読んだのか」を反映した、個性の写像というべき文章だからであろう。それは、文字数の制約、守るべきセオリーという外部要因があってこそ際立つものなのだと納得できた。

A.3-2「授業後」
文演最終回は、点数化のない講評共有の時間だった。いわゆる小論文教室とはかなり違うという印象。もちろん、要約という言葉の意味にも幅がある。基本的な定義は第一回で松田さんが示してくれている。しかしたとえば試験としての要約と、日常コミュニケーションにおける要約とでは、共通点だけでなく違いもありそうに思われる。形式と意味の調和、そのバランス配分の取り方にはTPOがあるからだ。

 最終回の授業は、試験に耐えるだけの基準にもとづく採点はする。しかしただの試験対策では勿体ない。そんな本音が見えるようだ。

 わたしの最終提出分は、各要素の重みづけの取捨選択は回避し、かつ独自解釈のエゴを通そうとしたものだった。それは実に楽しかったが、スタンダードな要約から外れたものであったことも確かだ(あからさまに紙面が黒くなり過ぎた)。そして何より、想定したTPOは後づけだった。つまりは言い訳である。

 最終回でいただいた、(凝って盛り込み過ぎて)かえって難関試験に合格しない感じ、という松田さんの言葉はきちんと捉えられないと損だ。試験という前提なら、わたしはどのように要約したか、そしてどのように採点されたのか。また、試験官の印象や扱いは自身の中でどうなるか。そのように考えると、やはり尊大さ、くだらないプライドを捨てきれてないと感じる。この取り組みではやはり中途半端だったのだ。そこまで卑下する出来でもないが、道半ばなのは間違いない。この点、課題提出には時間切れだが、最終回で深く納得することができた。制約の中で「読解」の程度を「記述」から判別するという試みが「要約」なのだ。そして制約の解釈、そのパラダイム採用は自己責任である。

 最終回で一番印象的だったのは、法曹用語と思われる語句が多用され、突き抜けていた要約に対する松田さんのコメントだ。たしかにあの場では、ほかの要約と比べて浮いていた感覚が書いた人自身にもあったと思うし、それを自覚していた様子だった。しかし松田さんからは、要点さえ取れていれば全く問題ない、と力強いコメントだった。要約全体における統一がなされていれば、それは自由ということだ。文章作法というのは何より各人の必要性に準拠する。だから、得点化や比較に本質はない。それはあくまでも便宜的な目安の表現に過ぎない。いまのわたしに必要なのは、スタンダードな要約に準拠してエゴを薄めるということだ。要約で言葉を置き換えることに伴う自己主張を抜くことによって、他の人のようにサラッとした文章が書けるようになるだろう。これはわたしにとって、一生の課題なのかもしれない。

 そして最終回授業の最終段階で、読みと書きに関して基準が更新された。文演最終回は、読みや書きに対する好き嫌いなど、こだわりがある人ほど、得難い機会になりそうだ。こうした経験をできるのは、ほんとうに希少だ。また、こだわりのないタイプの人にとっては、最高に心強い御守りになると思われる。ここでの体感を文章作法の基準にできるのだから。



Q.4 全体的な感想をお聞かせください。
A. 
ぜひ継続企画が欲しい(再挑戦したいところだが、リピーター前提の講座じゃないのは明らかなので)そもそも知らないテキストが多かった(それどころか絶版に近いもの多数と思われる)。わたしも色々読んでいる方だとは思うのだが、決定的な取りこぼしと思えるものだった。講座で使われたものに匹敵するレベルのテキストは、ほかにも沢山ありそう。そして松田さんも大概だが、文演受講生もものすごい。とはいえ別に特別な選抜があるわけではないから、クリエイト受講生の全体的な雰囲気としても、同じような感じがする。リファレンスとして分野別にインデックス化できるだけの質と量を備えて、皆の読み書きの拠点になるような場を構築することも可能ではないか、などと思わされてしまう。

 文章コンテンツは、ただ消費されるだけでは勿体ない(それはそれで楽しいのだが)。アウトプット、もっといえば創作まで込みで楽しめる人間の基本的な所作だと考えれば、現代の出版不況はオカシな話だと感じられるのだ。また、ブログやSNSにおけるある種の歪さに思うところも出てきた。少なくとも、読むこと、書くことについて真摯に向き合おうとする人たちがこれだけ継続的におられるという事実は大きいと考える。

 改めて、これからもよろしくお願いします。


 Mさんは文演終了後の幹事さんです。

 オンラインでよく皆さんと話し合っているという話が伝わってきますが、最近はどうなんでしょうか。

 77期生のお父さんとして、若い人たちをリードしていってほしいです。

 Mさんたちなら、長く勉強会を続けられる気がします。



 11年ぶりに腰痛が再発しています。

 一仕事を終えてホッとしていたら、猫ごはんでグキッとやらかしてしまいました。

 第78期文演第3回を開催できるよう、おとなしくしています。  






             ※クリエイト速読スクールHP 

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