教室のこと・速読のこと・受講生のスコア・SEG講習生のスコア等々について書いています。
クリエイト速読スクールブログ
なおしのお薦め本(86)『合気道とラグビーを貫くもの』
神戸女学院教授(合気道修行者)とラグビー元日本代表の対談を本にしたものです。
二か所、引用します。まず一か所目。
平尾氏の「ノーサイドのもともと持っている意味というのは、勝敗をはっきりさせることよりも、試合をひとまず終わらせるという意味だった」という発言を受けて、内田氏が答えます。
「その強弱を論じないというのは、武道もまったく同じなんですよ。武道では強弱勝敗を論じない。強弱勝敗で、自分がだれより強いとか弱いとか、勝ったとか負けたと言っても、身体能力の開発にはぜんぜん役に立たないんです。勝って驕り、負けて落ち込む。いいことないですよ。
だって師匠との技量の差なんか、もう天地ほどあるわけですから、構造的に師匠には負けるわけで、負けることが『よくないこと』であれば、弟子として師匠について学んでいるということ自体が『よくないこと』になってしまいます。
まるで話は逆で、武道の場合は、修行が進めば進むほど、自分がどれくらい下手であるか、自分がどれくらい弱いかがより正確にわかってくる。『ああ、ここがダメなのか』ということがわかる。『俺はほんとうに下手で、弱いなあ』という認識が、それこそ喜ばしい経験でなくちゃ修行は効率よく進まないわけです。自分は『どれくらいできないのか』のチェックが緻密で正確であればあるほど、技術的には成長するわけです。
『負ける』とか『技術的に他人に劣る』ということが精神的に耐え難いというようなメンタリティーだったら、身が持ちません。同門のだれそれより自分の方が下手だ、というようなことでくよくよと膝を抱えて泣いているようなひとでは武道修行にならない。
その人間が持っている潜在的な心身の能力を最大化することが修行の目的なわけですから、その妨害をするようなことは絶対にやっちゃいけない。そして、いちばんやっちゃいけないのは、『強弱勝敗を論じること』なんです。
たしかに勝負というのは、短期的なスパンで見た場合には、モチベーションが一気に上がりますね。『よし、勝つぞ』って。その闘争心がきっかけになって、ある種のブレークスルーを経験して、『ああ、自分にはこんなこともできるのか』という自己発見があったりする。だから、ブレークスルーを経験させるために、あえて勝負とか試合とかいう期間限定・条件限定の局面に追い込んでみるという『方便』はあってもいいと思うんです。
でも、あくまでも『方便』であって、なくてすむなら、そんな迂回はない方がいいに決まっている。試合も順位も関係なく、能力が伸びていくシステムがあれば、それがいちばんいいわけです。だから、『ノーサイド』ですむなら、それがベストなんです。」
二か所目は、内田氏が“身体能力”の重要性について語っているところからです。
「たまたま身体能力が高く生まれついた子どもが、それを功利的に利用して、高校の特待生になったり、推薦枠で大学に入ったり、奨学金をもらったり、高額の年俸を得たりするということは、『どんなものでも金にする』当今の事情からすればやむを得ないことだと思うのですけれど、そのせいで『金にならない身体能力』━━どこでも寝られるとか、何でも食べられるとか、だれとでも友だちになれるとか━━の価値をだれも配慮せず、親たちも子どもたちも、そういうものにはあまり価値がないのだと思い込まされている。
でも、太古の人間集団以来、つねに子どもの身体能力を高めることが必須とされてきたのは、子どもたちを生き延びさせるためです。一人ひとりが蔵している心身の可能性を最大限に発揮させて幸福な人生を送ってもらうためです。子どもたちを査定し、序列化し、高い評価を得たものに金を与えるためではありません。
このような不幸な誤解が起きているのは、現代日本人の多くが『生き延びる能力』を『金を稼ぐ能力』と同定しているせいです。でもね、『生き延びること』が『金を稼ぐこと』と同義であるのは、例外的に平和な社会でだけですよ。そんなお気楽な社会がいつまで続くかだれにもわからない。
心身のポテンシャルを最大化しなければ生き延びることができないようなきびしい局面に、子どもたちはいずれ必ず遭遇することになります。僕はやや悲観的かもしれないけれど、そう予測しています。そのためにも、『生き延びる能力』とはどういうものか、日本人全体が再考する時期に来ている。そう思います。」
おまけとして、平尾氏のあとがきから引用します。
« 「脳のための... | 100冊読むのが... » |
こんな人に師事できれば幸せでしょうね。
1カ所目は、なんとなくクリエイトのことかなあと思いながら読んでしまいました。