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クリエイト速読スクールブログ
なおしのお薦め本(98)『自分と向き合う心理学 意志心理学入門』
さっそくですが、170頁と171頁を引用します。
《……私たちは人間関係で、嫌なことを言われて腹を立てたりします。そんなとき、「嫌なことを言われたのだから、私がこうして腹を立てるのは当然だろう」と思うことがあります。
すると、その思いはさらに進み、「相手のせいで腹を立てているのだから、相手は何らかの制裁を受けても当然だろう」と思います。すると、その思いは雰囲気を通して相手に伝わり、相手も腹を立てます。そして互いの心で戦いが始まり、無視や当てこすりの応酬となって「戦いの泥沼」にはまり、抜けられなくなります。
私たちが最も苦しみを感じるのが、この「戦いの泥沼」ではないでしょうか。だから、この泥沼にはまって消耗してしまわないように、八方美人や完璧主義を選び、嫌なことを言われないよう、うしろ指をさされないようにしています。しかし、これらのパターンが、やがて煮詰まって、人嫌いやアパシーを産み出し、チャレンジ精神を失わせてしまうのは、すでに見てきた通りです。
ところで、ここで振り返って考えてみて、「嫌なことを言われたら、腹を立てて当然だ」と思っているから腹が立ってしまうのだ、と考えることができたらどうでしょうか。そして「嫌なことを言われた」と「腹を立てる」の間にワンクッション置けるとしたらどうでしょうか。
つまり「相手から嫌なことを言われた」としても「腹を立てて当然だ」ということにはならない。どんな嫌なことを言われても、その言われたことに影響され、連動して腹を立ててしまうのではなく、腹を立てるのか、立てないのかは、自分が自分の意志で自由に選ぶことができる、としたらどうでしょうか。自分が相手に言いたいことは、腹を立てなくても工夫次第で言えるはずですから。
相手が嫌なことを言ったとすれば、それは相手の問題です。自分の問題は、相手が言った嫌なことに巻き込まれて、腹を立てるか、立てないか、そして自分が言いたいことをどのように言うか、です。
嫌なことを言う相手とは、よく観察してみれば、昨日もやはり嫌なことを言ったでしょうし、今日も予定どおり嫌なことを言う、おそらく明日も嫌なことを言う人かもしれません。その人がそんなふうに嫌なことを言うのには、きっと何か深いわけがあるのでしょう。相手をじっくり研究してみるチャンスかもしれませんね。
こんな立場に立てたとき、私たちは「戦いの泥沼」から少し解放されるのではないでしょうか。》
これは、この本の後ろ三分の一を占める講演「楽になるためのメンタルヘルスセミナー」からの引用です。前半の理論の部分は少しむずかしいです。でも、この講演部分を読むだけで著者の言いたいことはわかると思います。引用部分を読んで納得した人は、本全体を読むと、もっと楽しめるはずです。 なおし
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倍速読書の訓練用にその手の本を読み漁ってしまったので、最近は少し遠のいてしまっていました。
「相手をじっくり観察してみるチャンス」
と前向きに考えられるのはいいことですよね。
私は比較的楽天家ですので、よくそのような考え方をするのですが、ぐるぐる考え悩んだあとで、「結局こういうことを考えていること自体が、その人の言ったことの呪縛なんじゃないだろうか。こんなこともうやめて、気分転換でもした方が今後のためだったのでは?(しかもなんだかイライラして子供にあたっちゃったし)」…とか考えることがほとんどです。
…そこまで書いてあるのかな(笑)
また読み漁ってみようかと思います。
空猫さんに参考になりそうなところを引用してみます。ちょっと極端な例かもしれませんけど。
《ところで、「アウシュビッツ」は、遠いヨーロッパの、遠い昔の過ぎ去った出来事ではありません。今もなお身近な組織や人間関係の中に、威圧や強制を伴った息苦しい状況として顔を覗かせ、私たちをアパシーへといざなっているように見えます。
「アウシュビッツ」に比べれば遥かに恵まれた境遇にいる現在の私たちですが、思い通りでなかったりすると、とかく腹を立て、傷つき、自己嫌悪になり、アパシーになる、という一連のあり方(フラストレーション徴候)に陥りやすいのです。
しかも、その中でつい自分に都合のよい思い込み、「私は間違っていない」「あいつが悪い」に逃げ込んでしまい、その結果、ますます思い通りでなくなる、という悪循環に陥りやすいのです。
この悪循環は私たちにとって対処せずにはいられないフラストレーション問題です。
そこで『夜と霧』の記録を手がかりにして、怒り、傷つき、自己嫌悪、アパシーなど一連のあり方を、都合のよさ(自己正当化できる、思い通りでない現実から逃避日できる、心の装甲になる)のゆえに、私たちが選び取っていること、しかしその代償として、都合の悪さ(消耗する、心が凍りつく、生ける屍になる)をも取り入れてしまっていることに、私たちが気づけたとすると、ゆとりが生まれ、はじめて別のあり方を選ぶ余地が開けることでしょう。
それら一連のあり方を自分が選び取っていると気づくことが、自分のあり方を見直すことを可能にするのです。》
ではまた。
こちらは例の「少し難しい理論の部分」ですね。ここを引用として持ってこられるということは、内容を理解したということですよね。
…すごいです!
つまりは、私がグルグル考え悩んだ末に「もうやめよっと」と思う行程が、《しかしその代償として、都合の悪さをも取り入れてしまっていることに、私たちが気づけたとすると、ゆとりが生まれ、はじめて別のあり方を選ぶ余地が開ける》ということなんでしょうね。(自信ありませんが…)
そして結果的には、この経験を重ねるうちに、のっけから「これは気にすべきことではない」というような、前向き反応が身に付くのではないかという楽観的観測をも肯定できてしまいそうな予感(?)。なるほどなるほど。
これは本全体を読むと、もっと楽しめそうですね~。
早速図書館で探してみようと思います。
ありがとうございました!