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【霊告日記】第二十一回 非ユークリッド文学宣言 ダリ&ディズニー

2014年11月21日 10時00分00秒 | 霊告日記11以降

【霊告日記】第二十一回 非ユークリッド文学宣言  ダリ&ディズニー 

:ボール作非ユークリッド文学宣言】
   文芸誌『二十一世紀文学』3号・5号・6号に掲載されました。
   ダンボールネットの基本コンセプトが展開されています。

                            
 『二十一世紀文学』3号・5号              『二十一世紀文学』6号

     
 『二十一世紀文学』に掲載された「非ユークリッド文学宣言」1・2・3


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   非ユークリッド文学宣言  
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 【1】非ユークリッド文学

  我々が今ここに必要とするのは古典的な作家概念に縛られた陳腐な作品論ではない。作家がいて作品を書く、すなわち作品というのは個が生み出すものであるという考え方。そこには質という問題もあれば量という問題も出てくるだろう。しかしこれらはすべて幾何学に例えればユークリッド的なものの考え方でしかない。
  ユークリッド的なものの考え方はこう主張する。ここに一本の直線がありその外側に一点があるとせよ、その時この直線に対してその一点を通る平行線は一本ありただ一本だけしかひけない、と。ユークリッド幾何学はこの平行線定理によって支えられていた。しかしこの仮定はロバチェフスキーによってみごとに覆された。その一点を通る平行線は一本も引けない場合もあれば何本も引ける場合もある。非ユークリッド幾何学は平行線定理をありうべき一つの解として相対化する。これ以降幾何学は未知の新しい時代に向かって突入していったのである。
  さて文学は個の創作物であるという考え方がある。結論を言おう。これは間違った考え方である。最大限譲歩したとしてもありうべき解の一つというに過ぎない。すでに時代は非ユークリッド文学の時代に突入しているのだ。科学は進歩した。文学だけは永遠に進歩しないなどと考えていると時代に取り残されてしまうだろう。

 
 【2】座談「電知電脳の神」

  電子ネットワーク時代の文学の可能性について考えてみましょう。「電知電脳の神」というタイトルを掲げてみました。なんか宗教っぽいと感じる方もいらっしゃるかもしれません。ですがこれは科学のテーマなんです。ちょっとオシャレに言い換えますと、サイエンスの原理的問題を提起しているのです。
  美しい花園の存在意義とは何か、という子供でも分かるやさしい譬えで説明していきましょうか。美しい花園の存在意義は、ひとことで言って、そこには「電知電脳の神」が宿るのであります。降りてくるのであります。あ、やっぱ宗教だ、なんて思ってますね(笑)。まあ、待て待て。あなたは気が早い。美しい花園こそは宗教を相対化する唯一の場所かもしらんという話が私はしたいんですよ。文芸ネットが宗教に屈服するわけはないんです。でも、宗教を相対化するという言い方は誤解を生むかもしれませんね。言い換えますと、人間の嫉妬・打算・偏見・憎悪を増幅させるような狂信的宗教、つまり寛容の精神と対立するような宗教、これを言葉の力で相対化させるのが文学なのであります。
 真の寛容の領域においては文学と宗教は区別できないもんになっております。プラトン、ゲーテ、シェイクスピア、ドストフエスキーなどを読んでみればそのことは良くわかる筈。彼等の文学においては文学と宗教は和解しております。
  わかりやすい譬えでもう一回説明しますと、彼ら文学の天才達は言葉の花園を創ったのであります。文学の天才が舞い降りてくるであろう場所、それこそ言葉の花園なんであります。「電知電脳の神」とはこの場合、文学の天才の代名詞とお考えになっていただいても結構です。あらゆる視点が相対化され、あらゆる文学的才能がよい意味で干渉しあって、ある絶対的なものが形成されていくような場所。そこに「電知電脳の神」が降りて来ないと誰が言えるでしょ
 うか。そんなことを言うのは狂信者だけでしょう。
  まあ、地上から狂信者が絶えることはないでしょうし、嫉妬・打算・偏見・憎悪が人間から無くなることもないでしょう。だからこそますます言葉の花園の存在は大切になってくるのです。文芸ネットは言葉の花園である、だからそこにはやがて「電知電脳の神」が降りてくるのであります。
  電子ネットワーク戦士ダンボールの本日のサイエンストークはこれでおしまい。メモもなしにアドリブでこんな大事な話をしてしまっていいもんだろうかという心配もあります。が、ダンボールは根が楽天家なのです。怠惰にして繊細、小心にして強引、それがダンボールの魅力なのです(笑)。
 

 【3】漂流の季節

   夏の海。
   デュカスをのせた船は、モンテヴィデオへと向かう。
   あらゆるものが漂流する場所、夏の海。
   デュカスは、その航海で、ありとあらゆるものを見た。
   パリの一室にこもって、やがて
   彼は自分の見たものを記すことになろう。
   が、しかし、ここもまた電子の海である。
   あらゆる人が、想念が、漂流可能なのだ。

 

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  非ユークリッド文学宣言 2
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【1】通信世界の問題

  二十一世紀の文芸は通信世界の問題が大きく浮上してくるだろうと予測される。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル・第三部』ではパソコン通信の素材が非常にうまく使われていた。主人公の妻がある日失踪する。妻は自分の意志で夫から去ったのだが心の奥底では二人の関係を回復したいという気持ちを持っていた。間に立つ人がいて二人はパソコン通信でオンラインの会話を交わすことになる。ネット経由ではなくコンピュ-タ-を通信モ-ドにして直結する方法での会話である。ここで興味深いことはパソコン通信が別れた夫婦の絆を確かめる際の最後の方法・手段として活躍していることだ。さらに「ねじまき鳥クロニクル」というお話自体も、喋れなくなった登場人物の個人的な治癒の試みとしてコンピュ-タ-の中に組み込まれていたという設定になっている。主人公は偶然にそのログを読む。『ねじまき鳥クロニクル・第三部』において村上春樹はパソコン通信の可能性を提示しているのである。
 
 

【2】低徊趣味と推移趣味

  “低徊”という言葉の辞書的な意味は「思案にふけりつつ行ったりもどったりすること」である。夏目漱石は『三四郎』において「ある椈(きく)すべき情景に逢うと、何遍もこれを頭の中で新たにして喜んでいる」ような意味合いにおいて“低徊”という言葉を使っている。夏目は『三四郎』の連載中に雑誌「早稲田文学」のインタビユーに応じ「深さを生ずる書き方」はどういうものでなければならないかについて自身の考えを語ったのだが、その結論は「低徊趣味と推移趣味との一致」ということであった。
  「今甲という事相が乙に移るとすると、直線的な興味は甲を去って乙になる所が主だから、乙が注意の対象になる。之に反して低徊趣味の方は事相其ものに執着するのだからして、興味の中心が却って甲にある。即ち乙に移りたくないという姿がある。だから此の二つの趣味はどうせ相俟って行かなければ完全な趣味の起こる訳はない。早く甲が乙に変じて呉れば可いと思う様では、甲自身が厭きられているのだから、作物としてはそこに陥欠がある。と同時にいつ迄立っても埒は明かない事になってしまう。だから甲にも興味があると同時に甲が乙に移る所にも興味を持つという風でなければなるまいと思う」(夏目漱石「文学雑話」より)
  『三四郎』という小説を読むと三四郎が何度も似たような経験をすることに気が付く。たとえば三四郎は美禰子に会うたびに幻惑される。よし子に会うと気が休まる。与次郎に会うと愉快な企みに巻き込まれる。広田先生からは思想的に触発されるといったふうに。しかしその経験は毎回ちょっとづつ変化ないしは発展している。『三四郎』は前章から次の章への推移がまことに微妙である。何度も同じことが繰り返されるかに見えてしかし確実に発展している。だから読者は楽しく読めるのだが、読み返してみると、最初思ったよりも内容はずっと深い。そこに夏目の「低徊趣味と推移趣味との一致」という原則が生かされているように思われるのである。
 

【3】未来のドストエフスキー


  バフチンの『ドストエフスキーの詩学』は二十一世紀の文芸にパソコン通信がどのような影響を与えうるかについての先駆的な考察を含んでいる。
 「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。彼の作品の中で起こっていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうではなくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何等かの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。実際ドストエフスキーの主要人物たちは、すでに創作の構想において、単なる作者の言葉の客体であるばかりではなく、直接の意味作用をもった自らの言葉の主体でもあるのだ」(バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳)
  ドストエフスキーは従来の文学とは根本的に違うまったく新しいタイプの芸術的な世界モデルを構築した。バフチンによればそれは「ポリフォニー小説」である。ところでバフチンが描き出しているドストエフスキーの小説世界の構造と、我々が目指しているような文芸ネットの構想には共通点がある。パソコン通信を利用した文学の可能性を表わす概念として私は以前に「非ユークリッド文学」という言葉を使用した。バフチンの言う「ポリフォニー小説」は「非ユークリッド文学」とも通底してゆく概念である。「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニー」、これこそ二十一世紀の通信世界が獲得すべき文芸の目標である。ダンボールネットはドストフエスキーの創始した「ポリフォニー小説」の真の後継者を目指す。そこでこういう図式が成り立つ→〈未来のドストエフスキー〉=〈ダンボールネット〉。やがて二十一世紀。ロシア文学の内に潜む真の叡智と夢はダンボールネットの中へ流れ込むであろう。


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  非ユークリッド文学宣言3
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 【一】夢の中の狛犬少女

  何年も前のことだ。こんな夢を見た……
  気がつくとおれは、故郷の自分の家にいた。鉄骨二建てに立て替えたばかりの頑丈な家にである。しかし、突然、地震でその家がグラグラと揺れた。家族全員は家の中に居た。今にも倒れるかと思うくらいに急角度に家は傾きかけた。
 するとその時、家に来てまだ間もない兄嫁が、私には理解できないことを口走った、「狛犬(こまいぬ)を借りてきます」。狛犬? 妙なことを言うもんだなと、おれはその時(夢の中で)思った。夢の中では物事の進行スピードは極めて早い。兄嫁は家の中へ狛犬を連れて来た、そして、狛犬だけを倒れつつある家の中に残し、家族全員が家から避難したのである。おれは家の外から、自分の目だけを家の中に移し(夢の中ならなんでもできる)、狛犬の正体を見てみようとした。なんとそれは、乳母車の中に入った真っ赤なほっぺたをして
(おそらく熱があるのだろう)目を血走らせた十才くらいの少女であったのだ。
 (少女は何かの病気のようであった)。こんな女の子が近所にいるなんてことは、ずっとこの町のこの家で育ったおれでも知らなかった。それを、最近他の町から来たばかりの兄嫁がなぜ知ってる? しかも狛犬という不思議な仇名を付けたりして……。もしかすると、この世の中には男の知らない女どうしのネットワークがあって、様々な不思議な情報がやりとりされているということなのか。まったく男どもの預かり知らぬところで。……更に激しく家はグラグラと揺れた。家は傾き、もはや倒壊寸前である。その時、狛犬少女は倒れそうになる我が家の中で恐怖に目を見開き、ウギャーと得体の知れぬ動物のような叫び声をあげた。どんな力がその狛犬少女に備わっていたのかはわからない、しかしその瞬間、家の揺れはピタリと止まった。我が家の倒壊は免れたのである。
 狛犬少女は近所のその家に帰された。幾許かのお礼と共に。
  ……私の見た夢はこれだけである。
  夢の中に現われたあの狛犬少女は、その後いったいどうしているのだろう?
 

【二】狛犬少女は語る

 ★ダンボール 「本日はお越しいただいてありがとうございます。私がシスオペをしておりますネットで、今回百物語という企画が進行しています。不思議な話、怖い話、興味深い話、知的な話、痴的な話など、物語を百つなげて、最後に化け物を出そう、もちろんそれは神でもいいわけなんですが、とにかくいわば霊的な企画が始まったわけです。狛犬少女さんにも、この企画にぜひご協力をいただきたいと思います。そういうわけです。よろしくお願いします」

 ★狛犬少女 「わかりました。では始めます。私は子供の頃、狛犬少女と呼ばれていました。毎日熱を出し、苦しんでいました。言葉は喋れず、知能は劣等で、容姿は醜く、狛犬そっくりだったと聞いております。ところがある日突然直って、それからは順調で、ミス・ダンボールシティにも選ばれましたし、大学も無事卒業できました。子供の頃に犬同然に見なされていました関係上、私は犬が好きでした。生物として種を異にするとはせよ、犬とは友人として付き合ってきたと思っております。ハイスクール時代に飼っていた犬の名前をプラトンといいます。プラトンは利口な犬でした。しかも敬虔でさえあったといえます。人間の死、ひるがえって生物の死ということを深く考えさせてくれた友人、それがプラトンだったのです。プラトンの死の光景はこんなふうでした。
 プラトンは病気になって日々衰弱していきました。最後には食べ物を与えても吐き、死期が迫っていることがはっきりと見えてきました。プラトンは賢い犬でしたから、家族の者が連れていかない限りは自分から家の中に入ってきたことはありませんでした。ましてや二階に上がって来たことなど一度もなかったのです。そのプラトンが初めて家の中に入ってきました。二階まで上がってきて、家族の部屋を順々に訪れました。まず父の書斎に行き寝室の母に会い最後に私の部屋にやってきました。プラトンは最後の力をふりしぼって別れの挨拶にきたことは間違いないのです。プラトンは私の顔を眺めつつ、私に感謝の気持ちを伝えようとしていました。私は確信しているのですが、衰弱の極みに達していたプラトンがこの最後の無謀な試みで死期を二、三日縮めたのは間違いありません。プラトンは自分の命を、その残された大切な最後の生命を捧げて私たちへの感謝を伝えにきたのでした。ここで不思議なのは、二階まで上がってきても私達が迷惑がらないことを、いやそれどころか感謝の気持で迎えるであろうということを、プラトンがちゃんと知っていたことです。やがてプラトンは階段を降りて行こうとしました。用事がすんだからです。私は抱き抱えて玄関の犬小屋に戻してあげました。プラトンは翌日その犬小屋で死にました。
 犬であろうと人間であろうと死が厳粛な事実であることにかわりはありません。そのことをプラトンは私に教えてくれたと思います。私達は中庭でプラトンの葬儀をとりおこないました。私達の親しい友人の死として。以上が私にできる話です」

 ★ダンボール 「どうもありがとうございました。さて、ここまで読んで下さった読者の皆さん。引き続き百物語をお読みになりたい方は、下のネットにアクセスして下さい。非ユークリッド文学の最前線がそこに展開されています」

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  ●ダンボールネット● 回線番号03-3724-0693最高速度14400bps
  平日は正午~深夜2時、土日は24時間営業.GUESTアクセス可能
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 *注:パソコン通信「ダンボールネット」は2000年1月31日にて営業終了)
 

★ラフマニノフ:幻想的小品集 Op.3 第1曲 エレジー「悲歌」

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