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【霊告日記】第二十四回  言霊降臨2    愛の願い

2014年12月12日 10時00分00秒 | 霊告日記11以降

【霊告日記】第二十四回  言霊降臨2   愛の願い

かって「言霊降臨」という題で父と母のことを書いたことがある。もし私の文章になにがしかの力があるとしたら、それは父と母から伝授された言霊の力によるものだという内容であった。そのエッセーは好評だったので今回その続編を書いてみた。母は高齢だが故郷で健在である。父はすでに亡くなっている。父と母あって今の私がある。父と母への感謝の心を私は一日だって忘れたことはない。

父の話

2010年のトルコ映画『蜂蜜』(カプランオール監督)を観ていたら祖母の亡くなった日のことを思い出した。ぼくが小学生の四年生頃のこと。ある授業が終わって休み時間に入る直前、担任のT先生がメモのようなものを見て「Kくん、すぐに教科書など全部カバンにしまって家に帰りなさい」と仰った。

友人は「あっ、ええなあ。帰ってええんか」と声を上げた。その同級生の声や表情まで思い出せる。僕はちょっと嬉しくなって「なんで帰っていいんですか」と質問した。分からないことを質問すると褒めてくれる先生だった。僕はその先生は父親の次に好きな大人だった。先生は不意を突かれた様子だった。

先生は態勢を立て直し明るい声で「それは帰ったら分かる。脇道せずにまっすぐ帰ること」と仰った。僕も明るい声で「ハイッ」と答えた。次に思い出すシーンは家に着いて父と目があった瞬間だ。父は僕をみると、「ヒデちゃん、帰んなあったんか。おばあちゃん死んなあったで」と言って、にっこり笑った。

その父の笑顔はとても暖かくて僕もつられて笑い顔になりかかった。もちろん言葉の意味を悟って笑わなかったのだが。僕を心配させまい悲しませまいと気遣って作った父のあの日の笑顔は忘れられない。母親が死ぬという男として人生で一番悲しい日に見せた父の笑顔。最高だった。

母の話

私は幼稚園を退学(退園?)になっております。5歳の頃でした。そのころの5歳の友人の顔もよおく覚えています。その友人とつるんで幼稚園の器具、それもなるべくでかいやつ、中庭の遊具類等。たとえば滑り台をレールから外すのを手始めに、幼稚園中の設備を片っ端から壊してまわりました。


で、どうなったか。ある日のこと朝起きていつものように幼稚園へ行こうとしたら、母が「今日は幼稚園は休みやで」というではありませんか。もちろん「ワーイ」と私は大喜びです。翌日も休み、翌々日も休み、ずっと休みでした。そうとう長期間経過したある日、さすがに私も、あれ? なんかおかしいぞ、ちょっと前まで毎日幼稚園に行ってたはずだと気付いて、母に聞いてみたのです。

わたし「幼稚園行かんでええのんか」 。
母(にっこり笑って)「うん、行かんでもええんや。休みや」。母親の笑いにつられて、私もにっこり笑いました。 「ほんまか。よかった。ほな遊びに行ってくるわ」。母(ますますの笑顔で)「うん、いってきなあれ」 。ふたりで大笑い。そしてわたし、遊びに行く。その日以来、幼稚園のことは、そういうものがあること自体忘れてしまったおばかなこのわたし。

こういう経緯で、幼稚園退園になったことは当時私はまるで気付かずじまい。後に、中学生になった頃に、くだんの悪友から幼稚園を追放になっていた事情を教えてもらいました。その悪友はどうやら親から退学のことを聞いていた
みたいです。幼稚園退学事件の顛末はかくの如し。

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】 霊告 【 愛された人生は永遠に続く休日である。 ダンボール


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