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好日42 三島由紀夫と連合赤軍

2012年08月14日 13時08分28秒 | 好日21~45

三島由紀夫の自決と連合赤軍の総括。このふたつの事件は地下でつながっている。その内在する論理はどのようなものであったか。ハイデッガーの一九三四年フライブルグ講義の一節より引用する。

「前線兵士の同朋〔戦友〕意識の基は、彼らが遠く離れた異郷にあって他の人間がいないので自分達だけで集まっていなければならないという点にあるのでもなければ、〔勝利という〕共同の感激をまず初めに誓い合ったという点にあるのでもなく、その基は最も深くそして唯一次の点にある。すなわち、犠牲の死がすぐそばにあることがみんなをあらかじめ同じ虚無性の中へ置き入れており、そのためこの虚無性が絶対的な相互帰属の原因となったのであった。各々の個人がひとりで死なねばならぬ死、各々の個人をこの上なく孤独にする死、まさにこの死と、そして死の犠牲となる覚悟こそが、そこから同朋意識が生まれる共同社会という空間をあらかじめまず第一に創り出すのだ」。(木下康光/ハインリヒト・トレチアック訳『ヘルダーリンの賛歌 「ゲルマーニエン」と「ライン」』 ハイデッガー全集第39巻83頁)

犠牲の死。しかも絶対的な孤独の中の死。これが三島由紀夫の自決と連合赤軍兵士の総括による大量死をつなぐ共通項である。そして彼ら彼女らの抱いた覚悟こそ、「そこから同朋意識が生まれる共同社会という空間をあらかじめまず第一に創り出すのだ」と、ハイデッガーにならって私も断定しておく。戦中・戦前に存在した日本の信念体系は敗戦によって崩壊した。この崩壊した信念体系の再建に向けて行動を起こした最初の自覚者が三島由紀夫であり、それに続いたのが連合赤軍である。発端は三島にある。鍵は橋川文三が握っている。

『鏡子の家』は三島由紀夫の戦後の歩みにとって転機となる作品であった。この批評家たちが「酷評」した『鏡子の家』を橋川文三が、そして橋川文三だけが、ある独自の観点から「評価」した。「元来、ぼくは、三島の作品の中に、文学を読むという関心はあまりなかった。この日本ロマン派の直系だか傍系だかの作家の作品のなかに、ぼくはあの血なまぐさい「戦争」のイメージと、その変質過程に生じるさまざまな精神的発光現象のごときものを感じとり、それを戦中=戦後精神史のドキュメントとして記録することに関心をいだいてきた」。(橋川文三「若い世代と戦後精神」)。この「評価」に三島由紀夫は心打たれた。そしてその後の長く続く三島と橋川の思想的交流が始まったのである。

「御高著『日本浪曼派批判序説』及び『歴史と体験』は再読、三読、いろいろ影響を受けました。天皇制の顕教密教の問題、神風連の思想の正統性の問題など、深い示唆を受けました。いつかそんなあれこれのことについて、ご教示をいただきたいと思ってをります」(昭和四十一年五月二十九日付橋川文三宛三島由紀夫書簡)。

 三島由紀夫の自決と連合赤軍の総括。両者共に謎の多い事件である。このふたつの事件に覆蔵された真理を解き明かすことは日本の思想的再建に不可欠の課題であるだろう。

  ※参考※ ⇒ 橋川文三の文学精神  内容目次@本文リンク


【反撃のデリダ】 「問いを立てるとはどういうことか?」という問いを立てたデリダの陳述



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6 コメント

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融合とバランス(Balance)そして (渡辺敦子(dew))
2012-08-15 23:47:55
触りの部分のみを既読させて頂きました。

ブログやツイッターそして、・・・
言葉の氾濫。
その影響は、未知の世界。

一番美しいのは、「沈黙」とは、遠藤周作

生きるために文学が、有ってはならないのですね・・・
生かすための文学が、必要な時。

文学部を出た学生の就職難は、極まりないでしょう。
日本文学を芸術の域に達する為に必要なのは、糸。

今の私は、ダンボールさんの言葉に逆らって
事実を大切に生きようとしています。
今、生きている。この奇蹟。それこそが、事実なのです~。空。

追伸
人は、虐げられて初めてドストを知ることが、出来るのかもしれません。
死の家」悪霊」どれも、不思議な体験を通して体験済みなのが、事実です。

事実は、小説より、奇なり。

文学とは、一番恐ろしい芸術なのかもしれません。
何しろ、言葉を操るのですから。。。

常に、表裏一体。ニ律相反。

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日本という国家 (ofjtAI)
2012-08-18 20:40:11
大それたタイトルですが、
ダンボールさんの言葉を受けて。かきのこしておきます。

これから、物価は、上昇します。

それが、景気を良くする為と人は信じる。
信じようとする。

日本文学は、一言で言うと「死は美学」の文学でした。
一読するのが、先日、怖かったのは、一読したら、
自殺でもしそうな自分が見えた。

世界は、広い。
まして、
宇宙こそ。
地球は、ひとつの惑星に過ぎず。
けれども、人間、ひとり、ひとりは、その惑星の重さよりも
重い命を一人一人が、担っている。

人間は、動物ではありません。

世界文学をもっと、教えてください。  Dear

若者たちは、二分化されつつある
私たちは、ひとつにならなければ、ならない時。
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難しいですね (海神)
2012-08-19 00:56:53
三島と橋川文三についてはわかるんですが、連合赤軍がどう関係するのか、わかりにくいです。
当方も勉強不足で申し訳ないんですけど。

 三島事件は個人の対社会性の問題(三島にとっては個人的な問題)、連合赤軍については社会化に失敗した集団の問題であると、私は思います。

 ただ、ダンボールさんの「先読み」については、後ではっとすることばかりなので、よーく考えてみます。
返信する
三島・連合赤軍・オウム (ダンボール)
2012-08-20 01:13:26
三島の自死と連合赤軍の総括死そしてオウムのポアの思想。これらはすべて地下で繋がっている。そしてすべての発端は三島にあった。

---こういう仮説を最初に私は立てたのでした。そして連合赤軍事件の総括こそがこの仮説の提示の要になるであろう直感がありました。さらに連合赤軍事件の総括はできるだけ距離を置いて始めて可能になるだろうという予感もありました。

そこで橋川が三島を語る語り口とハイデッガーがヘルダーリンを語る語り口に何やら共通する匂いがするのを導きの糸として、ハイデッガーのヘルダーリン講義を読み直してみたところ、これだ! これこそ連合赤軍事件の総括そのものだという断片が見つかったのでした。「犠牲の死」ーーこれがそのキーワードでした。

連合赤軍兵士の犠牲死。それはいつか人類に到来するであろう世界共和国建設のための犠牲の死であり、世界内戦における戦場死です。総括を求めた者も、総括を求められた者も、総括を求める立場から総括を求められる立場に代わって死に至った者も、すべて世界内戦の過程における犠牲の死である。これら世界共和国建設のための内戦で倒れた死者は英霊としてまた同志として追悼する立場に私は立ちます。

この私の立場からは、オウム事件を引き起こしたメンバーは、連合赤軍とは同列にはおけない決定的な違いがあります。自己の救済のために大衆に犠牲の死を求めたのがオウムであり、大衆の救済のために自己を犠牲に供したのが連合赤軍だったからです。

では三島の場合はどうか。ここでもオウムほどでもないが、果たして純度百パーセントの「犠牲の死」であったのか、疑念が湧くのです。その疑念は以前ツイッター述べたので再録します。

①1970年の三島由紀夫の割腹自殺の際に滝田修は「我々は負けた。我々の側からも第二、第三の三島を出さなければ」とのコメントを出した。命を賭した行為を無条件で讃えるべきか。もし三島の死が究極のマゾヒズムのもたらしたものであるとしたならば、滝田修はなにか勘違いを犯していたことになる。(01月14日)

②フロイトの理論によれば、攻撃衝動が他者に向けられるのがサディズムであり、自己に向けられるのがマゾヒズム。テロは一般的には他人を殺傷するのだが、自分をテロの標的に選ぶのを何と呼ぶべきか。三島の割腹自殺は文学者の自死ではあるが、三島の自意識の中では皇帝暗殺のテロだったのかもしれない。(01月14日)

さて、最終的な私の判断は、三島もまた連合赤軍同様「犠牲の死」を遂げたのであり、連合赤軍と同列に処して差し支えないというものでした。そういう決断をもって、上記エッセーを書き下ろしたのです。

ハイデッガーのフライブルグ講義の圧巻は、ヘルダーリンについての最初の講義(1934年)と、ニーチェのニヒリズムについての講義(1940年)の二本です。

橋川の「中間者の眼」という三島について論じた文章の中で、ノスタルジアの危険性を解き、ノスタルジアは狂気か死に至る、と三島の行く末を心配していたことが思い出されます。ニーチェもヘルダーリンも晩年は狂気に至っています。

橋川の三島論にはハイデッガーのヘルダーリン評価に同調しない・できない部分が内包されています。ロマン主義批判の立場に立つか立たないかのせめぎ合いが、ハイデッガーと橋川の分岐点なのでしょうが、ことはそう簡単に裁断できるほど単純ではありません。

ヘルダーリンには「神々の逃散」というテーマがあり、ニーチェには「神の死」という主張がある。マルクスの共産主義の理論も「神の不在」が前提的認識となっています。

ハイデッガーのヘルダーリン講義の中から再度引用してみます。

ーーー神々の雷電に撃たれぬ限りは祭司は生まれない。そして故郷なる大地とその民族全体が雷雨の中に立つのでない限り、雷電に打たれることはない。だが、民族が全体として民族の歴史的現有そのものにおいて、神々の死という最も深い困窮を本質から経験し、そしてそれを永く耐え抜くのでない限り、決して雷雨の中に立つことはできぬであろう。

マルクスもヘルダーリンもニーチェも、そして三島も連合赤軍も、このような意味において、本質的な「虚無性」を共有していた。そういう見取り図が描けるのではないか。

マルクスや連合赤軍にロマン的イロニーはないが、神の不在・神々の逃散・神の死といったある絶対的なものの欠如といった自体を耐え抜く覚悟は、マルクスや連合赤軍も共有を余儀なくされたのではないかという考え方もできるのではないか。

まだ練れていない考えで稚拙な内容ですが、コメントへのお礼の意味でお答えしました。
返信する
Thank Yours (渡辺敦子(ofjtAI))
2012-08-21 01:24:11
ダンボールさんへ Res

作家とは、文字通り、日本語では、家を作る。
きっと・・・
ある類の作家の目的は、ただひとつ。既存で無い
「国家を創る」

それを行動で行うのが、革命家。教え唱えて歩くのが宗教家。文筆家は、文字通り、筆? 音楽、絵画などは、そういう意味では、人に優しい。
緩やかなる革命。

ニーチェなどが、晩年、狂気に走ったのであれば、それもまた、運命。私もニーチェにはまった時期があります。彼の存在意義は、あった。
彼を救えなかったのは、時代。
人は皆、それぞれが、それぞれの場所に確実に正確に配置されている。と最近、私は確信を持つ。

「自慰からの脱却」は、ひとつの壁で。。。
創作活動が、楽しいからこそ、人(自身を含め)は、
それに一生を費やして満足を覚える。

PS
my Love
where?
Hello!!!! I cried for
everytime anywhere anyone.
and so
I'm only but Lonly.
Because
I believe
we See the Sun All Over the World.


和製英語でごめんなさいね。(^^


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雪野健作氏への手紙 (ダンボール)
2014-05-08 12:57:40
本日付で「連合赤軍の全体像を残す会」の雪野健作氏宛に、私の『来たるべきアジア主義』の告知ハガキ(下に添付)を送り、次のようなメッセージを書き加えました。

 ~~~~~~~メッセージ~~~~~~

 自らの尊い命を捧げた連合赤軍兵士の犠牲の死は、最終的には、その祈念するところは、アジアの維新革命にあった、というのが、私が事件発生以来42年後に到達した、私なりの<総括>です。 
 ご批判、ご感想をお待ち致しております。
                    川端秀夫拝
 雪野健作様

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 続いて告知ハガキの文面です。(住所・電話番号は略してあります。

 【告知ハガキ文面】

万人に開かれた書物 『来たるべきアジア主義』
電子ネットワーク時代の文学と思想の新機軸を創出
長谷川如是閑賞作家川端秀夫@ダンボールの著書
2014年5月1日よりブログ「ダンボールの部屋」にて連載

『来たるべきアジア主義』  ー 内容目次 ー
序 文  2014年5月1日正午  ブログに公開
第一篇  「断トツに面白いダンスポ」(書下し140枚)
      2014年5月2日~6月13日(43回分載)
第二篇  「橋川文三の文学精神」(書下し70枚) 
     2014年6月14日~6月28日(15回分載)
第三篇  「好日」(全50編・175枚)
     2001年~2013年 連句同人誌『れぎおん』連載を再掲
第四篇  長谷川如是閑賞受賞作「歴史における保守と進歩」(40枚)
     1986年中央大学よりリーフレットにて少部数刊行を再掲 

著者:川端 秀夫  ハンドルネーム:ダンボール
住所:(略)
Eメール:dan4006kawabata@shikon.meiji.ac.jp 携帯:(略)  
ブログ:ダンボールの部屋  アドレス:http://blog.goo.ne.jp/dan5dan5
『来たるべきアジア主義』掲示板 http://9307.teacup.com/shikon/bbs
掲示板は読者の交流の場として設けました。お気軽にお立ち寄り下さい

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